寄稿

ヒロシマ、神学者が綴った悲歌と愛

『園子追憶』復刻に寄せて

同志社大学大学院教授 小黒 純

『園子追憶』

 『園子追憶』は神学者、小黒薫が遺した手記である。

広島に投下された原爆で、妻と2歳の女児を失った。底知れぬ絶望から5年後の1950年、2人への切ない思いを綴った。戦争や原爆への怒りや恨みは一切ない。臆面もなく、妻子への純愛が語られる。キノコ雲の下には、このような幸せな家族が無数にあったという証だ。

薫は戦後、15歳年下の睦惠と出会い、再婚した。生まれてきた2児が、姉と3歳半下の私である。高校卒業間際のある日、静かな喫茶店で母から、こう聞かされた。

「パパには昔ね、家族があったんよ。原爆で、パパの奥さんと小さい赤ちゃんが死んじゃったんよ」

どう反応したのか覚えていない。想像が及ばない。「パパがママと結婚する前に…? 赤ん坊も? どういうこと?」と思ったはずだが、聞けなかった。父と結婚する際、母が提示した条件は「前の家族のことは一切持ち込まないこと」だったと、後に知った。確かに父の書斎にも、写真も何もなかった。受験勉強漬けで幼稚だった私が「父の秘密」に勘づくはずもなかった。

「びっくりせんでよ。死んだ子どもの名前は、あんたと同じ〈純〉なんよ。でも女の子。女の子で〈純〉」

なぜ、わざわざ同じ名前にしたのか不思議だった。でも、理由を聞く余裕はなかった。

ただ、符合する出来事を思い出した。毎年8月6日が近づくと、父は何とも不機嫌になった。平和祈念式に足を運んだことは一度もなかった。今で言うならPTSDの症状だったのだろう。理由を知っていた母は、胸中複雑だったかもしれない。暮夏の候、母はきまっておはぎを作った。前妻の園子さんや純さんの好物だったらしい。母は確かに祈っていた。

父が熱愛した園子さんはいったいどういう人だったのだろうか。園子さんと父の両方を知る人物に、核兵器反対の運動家、サーロー節子さんがいる。サーローさんは戦前、広島女学院で園子さんの授業を直接受けている。カナダのトロントで2018年にお会いした際、本稿をお読みいただいた。「実にさっそうとした先生でした。教室では世界のいろんな都市の話を語ってくれた。私が世界に飛び出したのはそのせいかもしれないですね」。

このたびの掲載にあたって、関係地を訪ねてみると、いくつかの足跡が明らかになった。プール学院中学・高校(大阪市)には戦前の「教務日誌」などの原本が多数保管されていた。記録によると、園子さんは1938(昭和13)年から4年間、国語科の教諭を務めていた。着任早々、修学旅行の一行を引率して九州へ。翌年4月には京都・上賀茂神社の葵祭見学へ出張したという記録があった。これには驚愕した。界隈に2021年から移り住んでいるからだ。

1940(昭和15)年8月には長野県・野尻湖で開かれたキャンプに同行するなど、園子さんが若い教師として奔走していた様子がうかがえる。同年7月に撮影された教職員34人の集合写真も見つかった。うち女性は21人。その中に園子さんが含まれる可能性が高い。しかし、1人ひとりを判別する手だてがなく、残念ながら園子さんを特定できなかった。

その頃、園子さんは兵庫県・芦屋の実家の近くにあった芦屋組合教会に出入りしていた。

この教会の流れをくむ芦屋キリスト教会にも、戦前の資料が残されていた。教会はこの夏、創設100周年で礼拝堂を新築する予定だ。そのため、田淵結牧師(元関西学院院長)らが段ボールに収められた資料の原本を整理しているタイミングだった。

当時の教会の週報には、2人の婚約式の日付や場所、参列した方々の氏名まで記録されていた。園子さんは子どもたちを相手に教会の日曜学校でも教えていた。教会の方々が今でも敬愛する、創設者の長谷川初音牧師は、園子さんが卒業した師範学校の先輩であり、信仰面の指導を受けていたこともわかった。芦屋には住んだことがない父も、週報に何度かメッセージを寄せていた。

そして、本稿の脱稿間際、プール学院から新たな知らせが飛び込んで来た。尾崎園子さんの顔写真が載った、1941(昭和16)年3月の卒業アルバムが見つかった。とうとう会えた。初めての対面は、万感胸に迫るものがあった。

爆心地に近い広島女学院では20人の教職員が犠牲になった。そのうち1人が園子さんで構内の慰霊碑に名前がある。父は8月6日当日、都心にいた。約2週間後に廃墟に足を踏み入れるが、2人の行方はわからなかった。同院の歴史資料館に残る記録を今回、初めて閲覧した。教職員や生徒の行方を尋ね聞いた教員の日記によると、園子さんは純ちゃんと、近所の上流川町(旧地名)の同僚教員宅を訪ねていた時にいたらしい。最期の居場所については、本稿の記述と若干異なるが、いずれにしても、爆心地からは至近距離だった。

父は本稿を残して渡米し、帰国後は広島女学院大学で長年、聖書学やギリシア語を教えていた。被爆から30年後の1976(昭和51)年、地元の中国新聞に「泣くということ」と題する短いエッセイを寄せている。当時を振り返ってこう書いている。

「ひどいひどいことだ。とりわけ小さい子供たちのこと。大人たちはそれぞれに人生があったし、楽しいこともあったろう。だけど年の小さい子供たちはどんな悪いことをしたというのか。おもちゃらしいもの一つなく、甘いものの味を知らずに死んでいった。この子たちのことを語る度に、私は声をつまらせて、取り戻すのに苦労する」(1976年3月1日付夕刊)

愛娘とのひとときが繰り返し頭をよぎったに違いない。1978(昭和53)年から10年あまり、平和記念公園の原爆慰霊碑前で核実験に抗議する座り込みに参加し、200回を超えた。1990年頃になって墓を建て、「園子」の隣りに「純」、2人の名前を刻んだ。

母も宇品にあった実家で被爆している。当日は自分1人が勤労奉仕を休んだ。当時16歳。「もんぺを着てた。おしゃれができなかった」と、戦争で青春を奪われた悔しい思いをよく口にした。勤労奉仕先で多くの学友が原爆の直撃を受け犠牲になった。が、当時の惨状を語ることはほとんどなかった。

原爆手帳を持っていたのに、両親とも90歳を超えてかくしゃくとしていた。父は2004年、母は2022年に亡くなるまで広島で暮らした。父を慕っていた母が存命中は、父の前妻に触れる本稿を公開できないと、私は考えていた。

壊滅したヒロシマの街で、神学者は主イエスを恨んだのだろうか。園子さんとの劇的な出会いから8年余。純ちゃんが生まれて2年余。打ちのめされてなお、2人への思いを秘め、懸命に生きた。本稿は悲哀と愛の物語だ。

原本はB6判の大きさで28ページ。タテ書き。畏友の野澤繁二氏(山川出版社初代社長、1994年没)が校正と製本を手掛け、限られた部数を知人や友人に配布したらしい。三四半世紀を経て、ここに復刻する。

おぐろ・じゅん

同志社大学大学院教授。同志社大学ジャーナリズム・メディア・アーカイブス研究センター長。上智大学と米オハイオ州立大学で修士課程修了。毎日新聞と共同通信で調査報道に当たる。調査報道とファクトチェックのサイト「InFact」代表理事。日本メディア学会理事。1961年、広島生まれ。

 

園 子 追 憶

  小黒 薫

園子と純が死んでから満五年がめぐり来ようとしている。園子が書いたものは友人にあてた手紙一通と、小版の大学ノートに記した純に関する日記二冊と、友人がもつていてくれたので焼けのこつた数冊の本の終りに書いた数行宛とが、いま私の手元にあるすべてである。これを手掛りにかく書き綴るのも、んのない繰言くりごとではなく、私共三人をこの世にあつて結び合せ給うたクリストへの献歌である。

園子は大正三年四月十七日、山口けんで生れ、昭和十二年東京女高師注1を終つた。十七年六月十三日、蘆屋あしやの組合教会注2で私と結婚した時お互に二十九歳注3であつた。そして直ぐ広島に来たのだが、十ヶ月後に、私は中支注4に出征した。私の留守の間生きるために苦労し拔いて、二十年八月六日、原爆で行方不明となり、地上の生涯を終つた。泉邸せんてい注5附近のアスファルトの道が園子が歩んだ最後の地であつたろう。純は十八年五月二十二日の朝七時半頃、私の出征の間に、広島日赤注6の産室で生れた。生れた時は二、八五〇グラムあつたとか。そして園子と一緒に行方不明となるまで、二年二ヶ月余の短い生涯であつた。生きて居れば、今年は小学校に入つているはずと、死んだ我がの齢を算える親心を、今は少しくわかる齢に、私もなつて来た。

  渡米を数日後にして、親しい一人の友人の厚情により、この小冊子を書きのこして行く。一九五〇年八月六日  

 

「・・・・・・広島は勿論徳島より先にやけるつもりでゐましたのに、今だに焼けずに居ます。毎日毎日、今夜が危い、今夜こそ来さうだ、で、いささか疲れてしまひました。早晩焼け出されるのでせうけど。市内には老幼病者の居住が許されないことになり、母と純とを大竹注7の妹の家に預けました。お百姓さんの家の一間も借りて、私達もあちらから通勤するようにしたいと思ひながら、事ここに到つては、お荷物を動かせないまゝに妹と二人広島に残り住んで、家具一切の焼けるのを待つて居ります。・・・・・・」

「小黒がひょつこり帰つてきましたの。山口けんの小串注8から三日注9朝無事に着いた、これから東京に向ふ、との葉書が来て、何が何だか分らないまゝにぼんやりして居りましたら、十三日の夜、暗くなつてからひょつこり入つて来て、今日の午後の汽車で東京に帰つて行きました。何も彼もが何だか夢の様です。純が仲々懐かなくて、今日辺りから漸く抱かれるやうになりましたが、それでも、これ誰れ?と聞くとヘイタイチヤン、後で小さく、オトーチャンと言ひなほすのです。地上で相逢あいあ注10ことを、純を一目見せることを許されようとは思つて居りませんでしたので、これで思ひ残すことなく、目を瞑れます。貴女のことをお噂さして厚情を謝して居りました。」

「お互に何時果てるかわからない身、最後の一日までも最善に、そして最も美しくあらしめたいものです。・・・・・・」

「お大切に、美しい故郷でごゆつくり休養なさいますように。七月十七日 園子」

×      ×      ×

昭和十二年四月十二日の朝、東京の神樂坂注11を登りつめたところにあつた牛込福音教会注12で始めて会つてから、相別れるまで八年余の間に、一緒にいた十ヶ月を除いてお互に書いた手紙は石油箱に一つ位は溜つたろう。それも皆な焼けて、徳島の友人にあてた上記の手紙だけが一通偶然に残り、先日私の手元に戻つてきた。朝鮮で買つたらしい木版刷の和紙の便箋に六枚したゝめたもので、死ぬ三週間前、おそらく最後の手紙であろう。園子は実によく手紙を、細い、綺麗な字で書いたが、文は美しく、整い、完璧であつた。結婚前に在満注13の私によこした手紙には、時折香水など滲ませてあつて、戰友たちを悩ませたものだつたが、二十六歳に婚約し三年間またねばならなかつた彼女のせめてもの女らしい感情であつたのだろう。

私共が始めて会つた時のお互に息を飲んだ様な、しかも心が閃き交す様な、周辺の一切が消えて二人だけがのこつた様な一瞬を今でも生々しく思ひ出せる。二人とも二十四歳。前の世から決められていた二個の生命がめぐりあつたのか。園子はこの年の春女高師を出て、浅草にあつたどこかの女子商業注14で教えていた。受洗したのもこの年の三月一日、丁度二・二六事件注15がまだ解決せず、銃剣をつけた歩哨ほしょう注16誰何すいかされながら、珍しくふつた雪の中を教会に辿つて来たのだつた。しばらくして、当時の私が非常に影響を受けていたグループ運動注17の話をある晩、教会の青年会でした事があつて、それについての感想めいた手紙が、園子から始めて来た。何か終りに短歌が二首ほど記してあつた。私はこの手紙に返事を書いたら、何か大変な事になるとよく知つていた。

その後、教会の夕の集会が済むと、神樂坂の人群れの中をぬけて、靖國神社近くの園子の下宿先まで送つて行つたりする様になつた。若き日のとりとめもない語らいであつた。

この年、私は神学部の卒業級であつたので、六月末、東北・北海道に伝道旅行に出かけたが、上野を発つ時、園子が袴のまゝ学校からぬけて、送りに来ていた。これは思いがけぬ事であつた。途中の五色温泉ごしきおんせん注18から私の書いた手紙は決定的な内容をもつたものだつたが、宛書の不備で、結局園子の手に入らなかつた。私は北海道から帰ると直ぐ北支ほくし注19北戴河ほくたいが注20であつたグループ運動の極東大会にでかける事になり、七月七日の夜、蒼白あおじろむまでに緊張した顔をした和服の園子を飯田橋の駅で迎えて、神樂坂を歩いた。園子の家の前で別れる時、この七夕の夜は雨になつていた。この雨に追われる様にして飯田橋の駅にとび込んだ私の後に、帰つた筈の園子がついて来ている。いぶかつてく私に何か答えたが、園子のもつて来た一つの雨傘を頼りに、肩を抱く様にしてまた歩きもどつた舗道の園子はフエルト草履注21のまゝであつた。

私が北支から八月に入つて帰京すると、園子は長い間胃を患つていた父が死んで、急遽蘆屋あしやに帰つて既に東京にはいなかつた。その後、園子は大阪のプール高女注22蘆屋あしやの家から通ふ様になつた。

神宮外苑注23の芝生、十三年七月の夜の事、これは二人だけの事にしよう、園子。

いろいろのためらい、反省等があつたのち、松本先生注24や長谷川初音さん注25に来てもらつて、十四年二月十三日、東京で婚約した。お互いに二十六歳。この月末、私は第一回の出征のため、満洲に発つたのであつた。在満三年余の間、私共の事は部隊中知らないものがなかつた。お前には園子さんと云う女がいるから、危い所には俺れが出てやる、と彼らはよく言つていたし、園子さんによろしく、が離隊する時の私への、彼らの別れの言葉であつた。十七年五月、私は帰つて来たが、園子は松本先生を追つて京城けいじょう注26梨花高女りかこうじょ注27につとめていたので、連れ帰るため渡鮮した。京城けいじょうの街、私のコートを足に巻いて、汽車を待つた黄海黄州こうかいこうしゅうの冷えた暁方あかつきがた兼二浦けんじほ注28の山頂から眺めた漢江ハンガン注29の河水、帆船、風にとぶアカシアの花吹雪、山鳩のしみる様な声、海雲台ヘウンソン注30の浜、連絡船。

この年六月十三日注31、私共は結婚して、十五日の夕方、広島に来た。そして翌年三月二十二日、二度目の召集の電報で、二人で上京するまで、ともにいたのは十ヶ月に満たなかつた。四月三日、私が部隊から出て来るのを、一目でもと強い風の中を立ちつくしてまつていた園子の姿を名残りに心に彫つて、私は中支に二年余を過ごさねばならなかつた。この間、純が同じ年の五月二十二日に生れた。

二十年七月の始め、沖縄戦の最中私は内地に来たが、山口けん小串注32の土を踏んだ時、三十年の生涯はたゞこの一瞬にこもつている様な気がした。広島を訪れたのが十三日の夕方。再び訪れたのは、最後に園子と純が住んでいたと云う女学院の一隅に、本の焼けた白い灰の堆積を手でかき分けて、純のために半かけらの黒パンと園子のために一本の唐黍子とうきび注33と一枚のスルメを埋めて合掌した八月の末であつた。軍曹の階級章も、襟から外して埋めてやつた。男泣きの涙が白い灰にしたゝり落ちた。

この時から五年経とうとしている。君と歩いた神樂坂も焼けたゞれ、牛込の教会も門柱が残るだけに焼け落ちていて、その前に私は暗然と立ちつくしたのだつたが、今は何か復興したであろうし、私たちの初めて住んだ幟町のぼりちょう注34の家の無花果いちじく焼杭やけぐい注35そのまゝであつたが、今は若枝が萌えて、実を付けている。たゞ霊魂ありしものだけが、一度逝けばとり返す由とてないのだ。

×      ×      ×

園子の読書は広ろかつた。そして巻末には必ず何か読後の所感と日付をしるした。焼けのこつた一冊である「アミエルの日記」注36の巻末に鉛筆でしるしている、

四・二五、大阪日赤病院待合室で読了。ことごとくの行に傍線を附したい思ひに堪へながら読んだ。深みから湧き出ずる泉は美しい。そして事毎に思ふのは、カール注37よ、あなたは今も心楽しい兵隊でゐて下さるのだらうかと云ふ事だつた。

この年は恐らく十九年であろう、純を連れて診療に行つた時か。私が訳出したブルンナーの「クリストの教会とグループ運動」注38が出版された時、その一冊を贈つたが、その巻尾にかきのこしている。

主よ見そなはし給へ、わが心の目なんぢの前にあり、これを開きてわが魂に「われは汝の救なり」と言ひたまへ。われこの声を追ひ、馳せ行き汝を捉へん。我れに汝の聖顔を隠し給ふなかれ。聖顔を見んため我は死なん、これ死なざらんためなり。

聖アウグスチヌス懺悔録注39五章五からである。日付は一九三七、八・九。二十四歳の時。

日記。園子は私と結婚すると同時に日記をやめた。もう私には個人として記録するものは何もありませんと云うのだつた。そして私が二度目に出征する事になつた時からまた記し出している。最後に私が帰つて会つた時、読みかけていた私からそれを本気に奪い取つてよませなかつた。乳哺ちのをかゝえて、よその土地に、働きながら、あの時代に生きて行く事は辛い事だつたのだ。が君はその辛さを私にさえ知らせようとはしなかつた。そしてもう一冊、日記をつけていたが、それは純に関したもので純がみごもつた事を知らされた日から始り、二十年五月二日で終つている。思へば私共がともに初めて住んだ、あの「限りなき夢を描きてここに住みにき」の幟町のぼりちょうの家を追はれた頃であつたろうか。私をもう一遍この机に坐らせると、七十円の収入の中から二十二円の家賃をはらつてまで留ろうとしたのだつた。机の中には、鉛筆の削り屑までそのまゝであつたのに、憐れ。大学ノート二冊に純の写真を点綴てんてい注40させて、純の成長を刻銘に記して余すところがない。私が最後に会つた時、この日記を持たされて帰つて来たのだつたが、今もこれを読めば、君のつきつめた生き方が惻々そくそくと迫つて来て、私はどうにも斯うにも心の身動きがとれなくなつてしまうのだ。黒いヴェイルがさつと垂れて来るのだ。

この家に智恵子の息吹きみちてのこりひとりめづぶる吾をいねしめず (智恵子抄)注41

この日記の間に、出征の直後、東京の私の両親の家にまだいた園子は便箋二枚に横書きして挿んで置いた。

純ちやん  貴方のお父様は兵隊さんにいつちやつたのよ。明日は入隊すると云ふ日、あなたの爲にクマを買つて、純 とお名前をつけて。
お父様のない生活、お母様はどうして生きて行つたらいゝのか解らない。あなたに障るから泣くな、と云はれるけど溢れて来る涙をどうしようもない。
純ちゃん、ごめんなさいね。いつかお母様のこの悲しみを知つて許してくれる日があるでせう。
 本当の事を言つたら、お母様はあなたと一緒に死んでしまひたいのよ。御無事で帰つていたゞけると解ってさへ居たら、どんなにしてでも生きておかうけれど、我慢して我慢して生きて行つたその果てに、あなたをお父様の無い寂しい子にする運命が待つてゐるのだつたら、今死んだ方がどれだけ幸なことか。でもどんなに辛くてもやつぱり生きて行かねばならない人生らしい。
 いゝ子を産みなさい。それがお父様の最後のお言葉だつた。純な、素直ないゝ子になる様にと、つけていらしたお名前。いゝ子に生れていらつしやい。お母様はこんなに泣いていけないお母様だけど、あなたは泣虫の弱虫になつちや駄目。今お国は厳しい運命の下に立つてゐる、そのきびしさをつきぬけてて行くに足る逞しい気魄と体をもつて生れていらつしやい。
今、日本にはあなたと同じく寂しく生れて来る赤ちゃんが何十萬とある。我慢しようね。純ちゃん、お母様と二人でこの寂しさに耐えて行きませう。
 あなたが幼稚園に行く様になる迄には帰つて来て下さるだらうことにのぞみをつないでお留守居をしていませう。あなたはいゝ子に生れていらつしやい。お父様がお帰りになつて吃驚びっくりなさる様ないゝ子になつておきませう。あなたが悪い子だと、お父様、帰らないとおつしやるかもしれませんもの。

私が二度目の出征にもつて行つた日記帖の第一頁に、鉛筆で次の様に横書きしてあるのを後になつて発見した。「この一○ヶ月世界中の誰れよりも幸福であつた事を思へば、園子はどんな苦労にも堪へていける。元気でいらつしやい。どんな時にでも。あなたが元気でない時は、園子も赤ちゃんもしよげてよ。」たゞ君に見せるつもりで明日知れぬ生命を綴つて来たこの日記も今は空しい。鉛筆がきの君の文字も、今はうすれて、辛うじてしかよめぬ様になつて了つている。

私たちが東京で婚約した時、園子から貰つた聖書のフライ・ペイヂ注42には、「神の栄光を望みて喜ぶなり」とロマ書五章の句注43が記してある。これが君の結婚だつたのだ。この下旬、出征前の数日を蘆屋の園子の家で過ごしたが、二人で訪れた須磨注44の丘、明石の浜、海に翳つてゐた雲の影、神戸に寄つて買つたカーネイションの花束を長く忘れないであらう。

園子は私と二人の時は、車にのる時も、お茶のみに入る時も、絶対に扉を自分では開けなかつた。私が開けてやるまで、平気で大威張りで待つてゐた。

園子は御飯が焚けなかつた。焚けないと云うものの始めはご謙遜であろうと思つていたが、本当に焚けなかつた。で益井さんや平本さんが屡々しばしば援兵に来ねばならなかつた。しかし私たちは如何にも楽しさうだつたのだらう、隣りの本田牧師夫人が感嘆した位であつたから。

園子は音痴であつた。私はこの事を結婚してから気づいた。園子は純に遺伝しはしないかとひどく案じていたが、無事だつた様である。園子は血液型がBであつた、而も典型的なBであつた。純が私のO型をひかないで、B型だつた事がまた大変な御自慢であつた。

また園子は忘れものの名人であつた。傘、バッグ、ハーフ・コート、その他何んでもどこえでも忘れて来た。私が文句を云ふと、けちん坊呼ばわりをした。また瀬戸物をよくこわした。自分でも呆れるのであろう、台所の隅に腰をおろして、嘆いている園子が目に浮かんで来る。

園子の頭は小さく、一寸歪んでゐた。がこの中に秘めた頭脳はくまでも冴えて明晰であつた。園子は決して姿や顔付の美しい女ではなく、特に鼻がいけなかつた。洋服も恰好がわるかつたのだろう。松本先生が「園子さんは和服の方がいゝよ」と言つて、「勿論、洋服でもお綺麗ですけど」とあわててつけ加えた事もあつた位だから。併しあんなに魂の美しい女を知らない。よく人にだまされ、実の母にも妹にもだまされたが、その仕返しの出來ない女であつた。「一生、苦労し拔いたね」と、女高師の先輩でもあり、信仰の面にも指導を受けた長谷川初音さんが園子の死を聞いて泪ぐんだ。疲れると緑色の汗が出るのよ、と下衣の襟などを私に見せた事もあつたが、私のいなかつた間、緑色の汗の秘密を誰れが知つていたろうか。

園子ほど一人一人の生徒を愛した教師を知らない。また園子ほど生徒に愛された教師もあるまい。生徒たちは、小さい彼らの出来る限りをつくして、園子を守つた。園子と純が生きて行けたのは、たゞ彼らの純情の故であつた。

園子は私のいない間ほんとうに困つた。ようやう様になつた純を独り家に置いて行く事も出来ず、赤ん坊をつれて授業にゆく事も如何にも不都合であり、女学院注45にも迷惑であつたに相違なく、またあの烈しい時世に、隣組の連中にも園子と純とは厄介極まる存在であつたろう。女学院は純を連れて来ぬ様にと申渡して来た。その時であろう、「主は我らに先立ちてガリラヤに行き給ふと言ふ。然し私と純とはどうしたらよいのか。ラスコリニコフ注46は泣いて地に伏して、光明に到つたとか。私も地にふしまろんで慟哭したい」と走り書きの葉書を寄せたのは。その時の私の日記にはかく記されている。

五・三、昨夜から「パスカル伝」注47をよむ。大地にふしまろび慟哭すると云ふその子よ、君のなき声をきかざらむために、自分でしよつ中何かしやべつてゐる。目を瞑ると伏しまろびする注48君が見えるから、目をあけて、いつも何かを見てゐる。ルカ伝七章注49まで。……暗い気持ちで壕を掘る。

 天地をてらす月日の極みなくあるべきものを何か思はん (大炊王)注50
 愚かなる男の極てを見給へと書けばおのづと眼うるほふ (勇)注51

園子に私は済まない事を沢山したが、そのうちにこんな事がある。十八年の快く晴れた秋の午後だつた。大学からの私と日赤から診察を終へてくる園子とおちあつた。園子は「やつぱりさうだつて」とにつこり笑いかけて来た。嬉しかつたのだ。が私には召集の予感が迫つていたし、私の召集後に園子をどんな生活がまつているかをよく知る故に、私はこの秋の陽ざしも成せぬかの如くに、たゞ歩いていつた。側を走つていた筈の電車の響きを私は思い出せない。園子は日記の中にこの時の事を記録している。

下で待合わせてゐたカールに黙って妊婦届を差出す。さつと眉が曇つたのには淋しくなつて了つた。……ひとが歩けないのを知つてゐて、自分一人さつさと歩く姿に……悲しくなつて了ふ。……可哀さうな赤ちやん、世界中の誰からもお父様にさへも喜ばれないで、祝福されないで生れて来なきやいけない赤ちやん……泪を滲ませながら旬日じゅんじつ注52を送る。

お芝居でもいゝ、有頂天になつたふりをして、君を喜ばせてやるべきだつた。このつぽけな男を君も今は許してくれるであろう。

園子は平安朝文学を専門にもう少しつゝこんでやりたがつていた。それを知つていたので、結婚してからは如何どうすると聞いた事があつたが、私はたゞ伝道者の妻になるつもりと言つてうなづかなかつた。私が広島に来る事になつた時、私は伝道者の妻になるつもりで、ドイツ語もギリシャ語もオルガンさえやつていたのに、と私をきびしく責めてゆるさなかつた。私の説教には、必ずききに来た。そして時には批判を加え、その批判は痛烈であつた。いかにも情ない風に、あなたを見損なつたとでも云ふ風に。私が億劫がつてS・S注53を手伝わぬと、自分が子供の時、山口縣の長府のS・Sで世話になつた先生の思い出が二十年後に蘇つて来て、受洗するに到つた事をきかせて、私をS・Sに駆り出したものだつた。時間さへあつたら、S・Sを、しかも幼稚科を教えると言つていた。

園子は私が満州にいるうちに、ロケットをかけていたが、結婚してからは机の上に無造作に放り出してあつた。二回目の召集の来た夜、大粒のなみだをボトボトおとして、あわてる様にして、ひろいあげてまたかけた。そして最後の日まで、このロケットが君の胸間にさがつていたのだつた。

園子は私と机を並べてよく勉強した。気がついて、止めようとどちらかゞ声をかけると、十二時をすぎている事がよくあつた。寢乍ら、私の方の関係の事をしやべつていると、フンフンと返事をしてくる、で益々調子にのつてしやべついるうちに、返事がないのでひよつと見ると、首を私の方にかしげたまゝ既にねむつているのだつた。何の不安もなげに。二度目の召集の電報が来た夜、園子は京都に二人でいつてまた勉強するつもりだつたのに、もう皆だめね、と言つて、私にとりすがつて泣いた。

わが爲事しごといのちかたむけて或るきはを智恵子は知りき知りていたみき (智恵子抄)注54

私が満洲から、万葉集かドストエフスキーかイエス伝がやりたいなどと言つてやつた事があつたが、帰つて見ると、集めうる限りの文献が集められていた。二人とも貧乏で、映画を見にゆく金の工面に頭をひねつた程であつたが、私が買い入れる本に苦情一つ言わなかつた。そして自分の関係の本が少し減つていつていた。出征の前夜、告白する事があると言つて私に話したのは、私の知らぬ様にして万葉集の註解を売つたと云う事であつた。思えば五円にも足らぬ金であつたろうが。

結婚した後のある夜、カール、翻訳はもう止めてね、どんなにつまらないものでもいゝから、自分の書いたものを出して、と言つた事がある。

園子は紅茶が好きで、またその淹れ方がやかましかつた。私の机にお茶をもつて来てくれるついでには、椅子の私の膝に横座りにこしかけたものだつたが、これを、よぢのぼる、と称していた。私がうるさがると、赤ちやんが出来るともうだめだから、と駄々をこねる様にして、小半時もいろいろな話をして行くのだつた。

ミグレニン注55を昔からよく飲んでいた。

園子と私の両親とは仲よしだつた。彼らの前で、園子はかくさずに泣いた。母は婚約後の園子に、「あんたは何かうちの薫さんを考えちがいしているのぢやないでしょうか。あのはとんだ喰わせものですよ、今からでもおそくないから、考え直してごらん」とも言はれた。また、「どうしても一緒になるんでしたら、あれは私の手に負へないだから、貴女が一ついゝ人間にしてやつて下さい」と手をついて頼まれたりした。これを後で聞いて、で君は何んて返事したと訊いたが、園子は確かにひきうけましたと言つたわ、と例の癖のある深い翳のある含み笑いをして、答えるのだつた。

言葉は生粋の江戸つ弁であつたが、タ行がどうしてもTHの音に近いので、君の舌長いんだろうと言つた事もあつた。
 私の爪を噛む癖を嫌悪して、怒つて止めた。
 園子の英語を八十点にすれば、ドイツ語は三十点位だつたろう。園子の使つていたギリシャ語の聖書にはヨハネ第一書注56とロマ書注57八章迄に書き込みがある。
 私共は銭湯にまで一緒だつたが、女の癖に早い風呂で、出て来る私を外で、不平一杯でまつているのが常だつた。私の知っている数少い星座の名を教えてやるのも、この帰り途であつた。

園子は旅が好きだつた。私が一年牧会した町注58の近くの九十九里ヶ浜にもわざわざ行つて見て来た。阿蘇を絶賛していた。三段峡注59にも、長門峡注60にも行こうなどと、広島に来てから語り合つた事もあつたが、勿論はたよしとてなかつた。

純は園子に似て、小柄な、おませなであつた。初音さんに言わせると、ハイカラなであつた。聖書絵本からエッチャマと純ちやんとをすぐみつけた。独りで留守番させられる癖がついたのであろう。独りで置いても何かブツブツ呟き乍らあそんでいた。私が帰って来て、このが純かとばかりに、ひよいと抱くと、びつくりして泣いた。私の写真には、ちやんと花やら食べ物やらを供えてくれていたのだそうだが私は不可解にもなれなれしいストレインヂャー注61でしかなく、一緒にいた三日間も最後まで気兼ねしていた。外を抱いて歩いた事もあつたが、なれない私に、太陽がまともにあたる様な変な抱きかたをされて、困つた様に眉を寄せていた。それに気づいて抱きなほしてやると、ほつとした様な顔をして、始めて手をバタバタと嬉しそうにした。園子に頼れて、安全カミソリで純の襟をすつてやらねばならなかつたが、私が不器用に剃りかゝると、やつと我慢すると言つた様な、滑稽な位に紳妙な様子でじつとしていた。これが死の化粧となつて、三週後、純は二年二ヶ月余の短い生命を終えたのだつた。私が再び東京に帰つた後、誰からも彼れからも、お父ちやんはときかれるので、ついにはきかれぬ先に、「お父ちやん、汽車ポッポ、ハイチャイ、ハイチャイ」と手を振つて別れるまねをするのだつた。

誕生満一ヶ年目に君は谷本さんから受洗した。松本先生も学生たちも来てくれて、賑やかにしてくれた。そしてたつた一回だけ聖餐式に出た事があつたが、その時君は葡萄汁をもう一つ欲しがつてオチャ、オチャとわめき立てて、お母ちやまは大いそぎで逃げ出さねばならなかつた事をおぼえているかね。お母ちやまは君に二十年の幼兒ようじ保險をかけていた。貨幣価値が落ちるから止めなさいと私が言つたが、お母ちやまは、君が大きくなつてお嫁に行くとき、せめてもの幸いを祈つた私たちの気持ちを分つてくれるだろうとつゞけていた。お母ちやまも君に済まないといつも思つていた。数時間後に出征すると云ふ時、生れて来る君がせめて日当りのよいところに居れる様に、僕の大きな机を動してやつたのが、君への殆ど全部であつた。机を動した後を掃く心の余裕さえもなかつたあの日にも、君の幸せだけが僕たちの願ひであつた。

×      ×      ×

さて、私は終戦の年の七月十三日、原爆の三週前に、広島に来て、三泊したが、既に黄昏の濃くなつていた玄関で軍靴を解き乍ら、「苦労かけたね、ごめんよ」と言う私の頸に、園子の腕がうしろから巻きついて来た。「いゝのよ、会えたから。」そして私は、疲れ切つている園子の肉体をいとほしんだのであつた。私たちはお互に死に就いて語り、こんな会話が淡々と行われた。「日本は負けるよ、僕の生命も今年一杯と思つていていゝね」「ぢや本は?」「二度と開ける事ないから、もう要らないよ」「私が先に死ぬかも知れないけど、その時は純もつれていつていゝ?」「あゝいゝとも。その方がお互いにいゝだろう。」

十六日、駅まで細雨の中を送って来た園子は微笑んで、今度は泣かなかった。松本先生のママちやんが傍にいた故かも知れない。純は園子の腕の中で派手に手を振つていた。私はまた一回もどつて来て、純の頬をつゝいた。そして地下道の際迄いつて振返ってみとめた彼らが、地上の最後の面影となつた。死は美しき魂を更に美しくする。死は呼びかけるものであり、生はそれに対する答えでしかない。イニシエティーフ注62は死の側にある。その後園子はひたすら死の準備をした。欲しいと云う人には何んでもやつた。私の母からもらつたものは最後の一品まで疎開した。そして毎日が如何にも楽しげであり、歩むべき路程を歩み終えんとする者の安らかさが身辺に漂い出しにじみ出て来ていた。

八月五日、死の前日、園子と純とは更に女学院の一角に移つた。園子は荷を整理し乍ら、もう疲れたから、ここで私は死にましよう、と隣りに住む島津さんに語つた。そして銅製の大きな花瓶に、バラを活けて飾つた。翌六日、朝の空気の中で、雀の純ちやんのあだ名の様に、純はお喋りを御機嫌で始めて、松本先生のママちやんが、今朝は純ちやんの声が聞こえて楽しい、と声をかけた。園子は朝食を終つて乳母車に純を乗せ、麥藁帽子を被り、運動靴を穿き、ズボンに、私の上海の戦友が園子にと言つて贈つた淡紺のワイシャツを腕まで捲くつて着て、少し前に強制疎開になつた平岡の白島の家を訪ねると言つて出かけた。八時、八時五分、八時十分、……今日も暑い日になるらしい。園子はアスファルトの路を、泉邸前の松の木蔭を拾つて、白島へ出ようとしてゐた。園子の脳裏を最後によぎつていたものは何んであつたか。純の眼の最後の映像は何んであつたか。八時十五分、宿業の鬼があやしくあざわらつて、大空に死の鎌を烈しく振つた。園子と純とは、一切の消息を絶つた。

×      ×      ×

園子は私のために生れて来た様な女であつた。園子は此のきずだらけの、とげだらけの私のことごとくを知つて、その故に、そのかげにあるものをも知る故に、そのまゝに私を愛していた。園子がいなくなつてから、私の生活に大きな穴があいた。それがつらくてもがき、狂い、さまよい、様々な事をした。園子はその私を黙つて立つて見ている。そして結局、昔の様に君とだけの世界が私のたつた一つの、最後の安住の世界である事を今さらに知るのだ。

君が何かでくさつている時、「ちよのべえ、下を見ちやだめだ、上を見て、肩を張つて歩るくんだ」と僕はよく言つた。君は「うん」とすがりつく様な眼で私を見たものだが、今は同じ事を僕に言いかけてくる。「いやね、カール、上を見るのよ。」

君が守つて、死闘した純と一緒に、さあ、今こそ永遠の「美しい故郷」で休らい給え。そこには君をいじめる人も、だます人もいない。平岡も木原も、松本先生のママちやんもゐる。私はつらいけどもう少し仕事をする、もう少し事を見究めよう。そして時が来れば、「またせたね、やつと来たよ」と君のところに行くつもりだが、「いゝのよ、会つたから」と君は昔の様に頸に腕をまきつけてくるだろうか。

さようなら、園子。

造本にあたつて

中華民国安徽省あんきしょう郎渓ろうけいは、揚子江ようすこうの支流の支流の、又その支流に沿った寂寞たる小村である。昭和十八年十二月、私達の部隊はその城外に駐屯してゐた。鼠色に暮れる対岸の城壁を眺めながら、毎夕寒い河原にすわつて、私は小黒君から軍隊における生き方を教えられた。それは軍隊といふ鉄柵内に限るものではなく、そのまゝ人生の哲学に通じるものであり、私達お互いの心の底に巣喰うニヒル注63を僅かに凌ぐよすがともなつた。しかし、小黒君にはニヒルから救われる強い一つの拠り所があつた。それは園子さんと純ちやんの話である。その年の三月、日本を立つ時に面会に来た園子さんの面影を偲び乍ら、唯一無二の女に巡り会つた男の美しさと幸福とを私は泌々しみじみと感じた。

その後、中支の各地を転戦しながら、私達の友情はますます厚きを加へ、園子物語もまた綿綿めんめんと尽きなかつた。

昭和二十年六月末、小黒君は内地勤務となつて帰還した。私は今生の別離と考へられるその寂しさを悲しむよりも、彼が園子さんや純ちやんに会へる幸せに心から祝福を捧げた。

終戦後再び小黒君に会つて、その災厄を聞いた私はむしろ園子さんに相應ふさわしい終焉だとも思つた。いよいよ絶望的なニヒルにおちこんだかと思われた小黒君は、しかも以前にも増して立派に生きて行つた。人間が美しく磨かれて行くには、不幸といふ嵐に見舞われなければならないであろうか。それを絶えず避けよう逃れようとしているというのに……。

今、私はこの「園子追憶」を校正し乍ら、ひたすじに清浄な生涯を終つた小さき魂達と悲しみに堪えて生きていく小黒君の姿とに打たれて、時に涙を止めることが出来ず思わず校正の筆を置くことが屡々しばしばである。畏友小黒君のこの小文を造本する役目を私が引受けたのは、近くアメリカへ旅立つ小黒君への何よりの餞別だと考えたからであるが、こゝに蛇足までつけ加えたことは、小黒君の「追憶」と園子さんの霊とに不躾ではなかつたかと唯々それのみをおそれる次第である。(野澤繁二注64

 

 

(注1) 東京女高師 : 東京女子高等師範学校の略。お茶の水大学の前身。女子教員の養成が目的の学校。

(注2) 蘆屋の組合教会 : 1926(大正15)年に設立された、キリスト教プロテスタントの芦屋組合教会のこと。現在は(単立)芦屋キリスト教会(兵庫県芦屋市)に引き継がれている。

(注3) 二十九歳 : 数え年での表記。満年齢では28歳。以下、本文中の年齢はすべて数え年になっている。満年齢ではマイナス1歳。

(注4) 中支 : 中国大陸の中部地方。

(注5) 泉邸 : 江戸時代初めに浅野藩が造った庭園。現在の縮景園(広島市中区上幟町)。

(注6) 広島日赤 : 広島赤十字病院。昭和14年5月開設。

(注7) 大竹 : 広島県佐伯郡大竹町。現在の大竹市。広島市からは約40キロ。

(注8) 小串 : 山口県豊浦郡小串町。現在の下関市豊浦町大字小串。漁港と山陰本線の駅がある。

(注9) 三日 : 後の記述から、1945(昭和20)年7月3日。

(注10) 相逢ふ : 出会う。

(注11) 神樂坂 : 東京都新宿区の神楽坂。

(注12) 牛込福音教会 : 園子が在籍した教会。現在は日本基督教団ロゴス教会(東京都八王子市)に引き継がれている。

(注13) 在満 : 在満州。満州にいた、の意。

(注14) 女子商業 : 東京市立浅草高等実践女学校(後の東京都立隅田女子商業学校)か。

(注15) 二・二六事件 : 1936年、陸軍の青年将校に率いられた約1500人の部隊が、天皇の側近や大臣を次々と殺害し、首相官邸や警視庁などを占拠した事件。2月26日に発生。

(注16) 歩哨 : 軍隊で、警戒・監視などの任務につく兵士。哨兵。

(注17) グループ運動 : 1920‐30年代のキリスト教的宗教運動。別名は〈ブックマニズム〉。米国ルター派教会の牧師ブックマンFrank Buchman(1878‐1961)が創設者。人間および社会の改革のために、グループにおける罪の相互告白と決意表明が必要であると訴えた。英米の大学で伝導し、支持者を集めた。

(注18) 五色温泉 : 北海道の蘭越町とニセコ町にまたがる温泉。ニセコ温泉郷のひとつ。ニセコ五色温泉とも呼ばれる。標高750㍍にある。

(注19) 北支 : 中国北部。

(注20) 北戴河 : 現在の河北省秦皇島市。北京の東約280キロに位置し、当時は富裕層や外国人の別荘地として人気を集めていた。

(注21) フェルト草履 : フェルトで作られた草履。濡れても乾きにくく、足元が冷たくなるので雨の日には適さない。

(注22) 大阪のプール高女 : 現在のプール学院中学校・高等学校(大阪市生野区)。1879年に英国聖公会の宣教師によって創立されたキリスト教系の女子校。

(注23) 神宮外苑 : 東京都新宿区にある公園、明治神宮外苑。当時、既に東京のスポーツ・文化の拠点となっていた。昭和初期のモダンな都市景観の中に、西洋風の公園施設と日本的な精神性が融合した空間として、多くの市民に親しまれていた。

(注24) 松本先生 : 松本卓夫(1888−1986)。広島女学院大学初代学長。

(注25) 長谷川初音さん : 日本組合基督教会の初の女性牧師(1980-1979)。薫と園子が結婚した芦屋組合教会の設立者。

(注26) 京城 : 現在の韓国の首都ソウルの日本統治時代の呼称。

(注27) 梨花高女 : 梨花女子高等普通学校の略で、現在の梨花女子大学校の前身。

(注28) 兼二浦 : 朝鮮半島西岸、大同江の河口付近に位置する港湾都市。日本統治時代は日本製鉄の製鉄所があった。現在の北朝鮮松林市。地理上、当時の京城(現在のソウル)市内とは170km以上離れているため、誤記の可能性が高い。

(注29) 漢江 : 韓国最大の流域面積の河川。当時の京城(現在のソウル)市内を流れる。

(注30) 海雲台 : 現在の韓国・釜山の有名な海水浴場「ヘウンデ」の旧称。

(注31) この年の六月十三日 : 1942(昭和17)年6月13日。

(注32) 欠番

(注33) 唐黍子 : とうもろこしの古い呼び方。

(注34) 幟町 : 現在の広島市中区幟町。戦前から商業や教育の拠点として栄えていた。

(注35) 焼杭 : 焼けた木の切り株。

(注36) 「アミエルの日記」 : スイスの哲学者・詩人であるアンリ・フレデリック・アミエル(1821–1881)の日記。約30年以上にわたって綴った内省的な個人日記で、彼の死後に発見され、1882年に『Fragments d’un journal intime(ひそかな日記の断章)』として出版された。1.7万ページにも及ぶ膨大な記録で、アミエルの哲学的思索、孤独、信仰、芸術、人生観などが綴られている。自身の弱さや葛藤を隠さず、誠実に書き続けられており、「魂の鏡」とも呼ばれるほどの精神的な透明さを持つ作品として評価されている。特に有名な一節に、「心が変われば行動が変わる/行動が変われば習慣が変わる/習慣が変われば人格が変わる/人格が変われば運命が変わる/運命が変われば人生が変わる」という言葉がある。

(注37) カール : 薫(かおる)の呼び名、Karl。

(注38) ブルンナーの『クリストの教会とグループ運動』 : 1937年(昭和12年)に日本で出版された小著で、エミール・ブルンナーが教会の本質と信仰共同体のあり方を問う神学的考察。制度としての教会ではなく、キリストを中心とした「生きた交わり」、つまりグループ運動にこそ、真の教会の姿があると主張した。

(注39) 聖アウグスチヌス懺悔録 : カトリック教会の司祭で神学者のアウグスティヌス(354-430)が書いた信仰の告白と神学の議論。

(注40) 点綴 : ひとつひとつ綴り合わせること。

(注41) この家に智恵子の息吹きみちてのこりひとりめづぶる吾をいねしめず (智恵子抄) : 高村光太郎の詩集『智恵子抄』に収められた詩の一部で、亡き妻・智恵子の存在がなおも家に満ちていて、残された自分はその気配に包まれ、まどろむことすらできないという深い喪失感と愛情が込められている。

(注42) フライ・ペイヂ : 聖書や書籍の製本において使われる印刷・製本用語で、通常は扉ページ(title page)の前にある無地または簡単な情報が記されたページ。

(注43) 「神の栄光を望みて喜ぶなり」 : 新約聖書『ローマの信徒への手紙』第5章2節「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」(新共同訳)。

(注44) 須磨 : 現在の神戸市須磨区。

(注45) 女学院 : 園子が教師として勤務していた広島女学院専門学校のこと。

(注46) ラスコリニコフ : フョードル・ドストエフスキーの長編小説『罪と罰』(1866年)の主人公。極度の貧困と孤独の中に生きる知的な青年だが「非凡人には道徳を超える権利がある」という独自の理論を抱き、社会の不正義を正すために高利貸しの老婆を殺害。犯行後は罪の意識と苦悩に苛まれ、精神的に追い詰められていく姿が描かれる。

(注47) パスカル伝 : 17世紀フランスの思想家・数学者・神学者であるブレーズ・パスカルの生涯と思想を描いた伝記作品。パスカルの幼少期から晩年までをたどりながら、パスカルの多面的な才能と内面の葛藤を描写。「神なき人間の悲惨」と「信仰による救済」という二極のテーマが丁寧に描かれている。

(注48) 伏しまろびする : 古語で「臥し転ぶ」とは、喜びや悲しみなど激しい感情のあまり、身を投げ出してあちこちに転げ回る様。

(注49) ルカ伝七章 : 新約聖書「ルカによる福音書」第7章。

(注50) 天地をてらす月日の極みなくあるべきものを何か思はん (大炊王) : 『万葉集』巻20・第4486番に収められた、大炊王(おおいのおおきみ)による一首。

(注51) 愚かなる男の極てを見給へと書けばおのづと眼うるほふ (勇) : 出典不詳。

(注52) 旬日 : 10日間。

(注53) S・S : 「日曜学校(Sunday School)」のこと。キリスト教の教会で、主に子どもたちを対象に聖書の教えやキリスト教の信仰について学ぶ場。

(注54) わが爲事いのちかたむけて或るきはを智恵子は知りき知りていたみき (智恵子抄) : 高村光太郎の詩集『智恵子抄』の巻末に収められた短歌のひとつ。現代語訳は、「私の仕事に命をかけて取り組み、その極みに至ろうとする姿を、智恵子は理解していた。理解したうえで、心を痛めていた」。

(注55) ミグレニン : 頭痛薬。2017年ごろに販売中止。

(注56) ヨハネ第一書 : 新約聖書「ヨハネの手紙一」。

(注57) ロマ書 : 新約聖書「ローマの信徒への手紙」。

(注58) 一年牧会した町 : 千葉県東金市のこと。東金教会で牧師を務めたことがあった。

(注59) 三段峡 : 広島県山県郡安芸太田町にある全長約16kmの大峡谷で、国の特別名勝にも指定されている景勝地。

(注60) 長門峡 : 山口県山口市阿東から萩市川上にかけて広がる全長約12kmの渓谷で、国の名勝に指定。中生代白亜紀の火山岩によって形成された断崖や渓谷が続き、変化に富んだ地形。

(注61) ストレインヂャー : ストレンジャー(stranger)のこと。見知らぬ人、よそ者、の意。

(注62) イニシエティーフ : イニシアティブ(initiative)のこと。主導権、の意。

(注63) ニヒル : 虚無。ニヒリズム(虚無主義)から。

(注64) 野澤繁二 : 山川出版社初代社長(1914−1994)。薫と親交が深かった。

 

    (注釈:上森 五葉・小黒 純 )

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