「現代の理論」(デジタル)論文アーカイブ(再録)   デジタル6号(2015.11.1)より

沖縄は平和と共存のアジアをめざす

もう一つの「戦後レジームからの脱却」

神奈川大学准教授 後田多 敦

沖縄での「独立」機運の高まりに対し、ここ数年ヤマト(沖縄以外の日本をこのように呼んでおく)でも関心が集まっているようだ。東京メディアや文化人、市民運動家、ネトウヨなど多様な人々や団体がそれぞれの思いや幻想を混ぜこみながら支持し、または話題のネタづくりとして煽り、あるいは批判や攻撃の対象にしている。さらに、名護市辺野古への新基地建設を強行する日本政府やそれに加担するマスメディアの情報操作などが加わって、沖縄「独立」の話題が米軍基地や日米安保問題と結び付けられて報じられたりしている。誤解の多いその沖縄「独立」を軸に沖縄と日本を考えてみたい。

「独立」機運を後押しするもの

沖縄「独立」の機運が高まっている背景には、名護市辺野古新基地建設の強行や安全保障関連法強行採決などに象徴されるような日本政府の在り方があるのは確かだろう。日本政府はなんども選挙で示される沖縄の民意を無視し、そして沖縄の政治リーダーを「アメとムチ」で懐柔する。沖縄内部からも、何らかの思惑や利権に動かされ日本政府にすりよることで、民意とは異なる政策を推し進めることに加担する者が現れる。政治だけでなく、経済や文化、日々の暮らしの場で、民意を組み替え修正しようとする動きが続く。そして、皮肉なことにその動き自体が沖縄の人々の意識に強く働き、逆に沖縄「独立」の機運を後押する力となっている。

しかし、沖縄「独立」と辺野古への新基地建設問題は、本来直接的に結びついているわけではない。沖縄「独立」の起点は、明治の日本政府による19世紀末の琉球国併合と植民地支配にとたどり着く。そして、その問題は大日本帝国が侵略し植民地とした台湾や朝鮮半島の分断された国家などとも同根である。

第2次世界大戦後のヤマトは、負担を沖縄に押しつけた。日本国憲法の平和主義やサンフランシスコ講和条約によるヤマトの主権回復も、沖縄の犠牲を前提として成立・維持されてきた。そして、ヤマトが犠牲にした沖縄は、近代日本がアジア侵略と植民地支配の端緒として行った19世紀末の「琉球処分」によって併合・支配された地であり、つまり「固有の領土」「本土」ではなかった。

沖縄とヤマトの関係では、侵略・植民地の戦前と制度化された犠牲の戦後という二つの軸が存在している。そして、辺野古新基地建設は犠牲を前提とした戦後体制の問題であり、沖縄「独立」は近代日本のアジア侵略や植民地支配の未清算に起因する問題である。

揶揄された「居酒屋独立論談義」

「自立・独立論争誌」と銘打った『うるまネシア』という雑誌が2000年、21世紀同人会というグループによって創刊された。創刊のメンバーは新川明、川満信一、平良修、喜納昌吉、大城冝武、浦崎成子、高良勉、安里英子、真久田正(故人)ら沖縄を代表する文化人たちだった。2000年というと、先進国首脳会議(サミット)が沖縄で開催された年である。そして、雑誌創刊の母体となった21世紀同人会のベースは1997年に企画された「沖縄独立の可能性をめぐる激論会」だが、これらの動きは「独立」に否定的な人たちから「居酒屋独立論」と揶揄された。<居酒屋で酔って独立を叫んでいても、翌日酔いがさめると忘れてしまう。現状への不満や、憂さ晴らし、思いつきや一過性で持続性がなく、本気でない>というような否定的要素が入った批判だった。

ただ、その批判はその意図はともかく、結果的にプラスの役割を果たしたのかもしれない。「独立」の主張は、それ以前の沖縄でも時代錯誤とされ、あるいは無視、冷笑され、変人扱いされていた。特に公式な場での言及はタブーに近かった。その背景には、沖縄近現代の歩みがある。かつての琉球国は19世紀末、ヤマトに武力をもって併合された。明治政府が「琉球処分」と呼んだ事件だ。そして、琉球国は滅亡した。琉球人の抵抗(琉球救国運動と呼ばれている)は多くの亡命者を生み出しながら半世紀以上も続き、そしてその抵抗も日本政府によって弾圧された。

併合後の日本統治下の沖縄では、日本への同化が推進される一方で琉球人の主権回復や抗日運動への弾圧、植民地支配を前提とした差別が続いた。同化するか、差別されるか。この体験は沖縄社会のトラウマとなった。第二次世界大戦後も、琉球人として生きることは時には差別されることへと結びつき、琉球主権を喚起することは弾圧や抑圧の記憶を呼び起こした。沖縄「独立」の主張は、緊張関係や抑圧、差別という記憶を呼び覚ますものだったのである。そのため、それらを封印する力が働き続けた。「独立」に対して最近まで続いた揶揄や嘲笑は、その延長線上にあったといっていいだろう。

この辺りの時代の空気は、歴史家・比嘉春潮の文章を読むと理解できると思う。以下は大日本帝国による韓国併合のニュースに触れた1910年の比嘉の日記の記述だ。

〈去月二十九日、日韓併合。万感交々至り、筆にする能はず。知りたきは吾が琉球史の真相也。人は曰く、琉球は長男、台湾は次男、朝鮮は三男と。嗚呼、他府県人より琉球人と軽侮せらるる、又故なきに非ざる也。

琉球人か。琉球なればとて軽侮せらるるの理なし。されど理なければとて、他人の感情は理屈に左右せらるるもにあらず。矢張吾等は何処までも〈リギ人〉なり。ああ琉球人か。されど吾等の所謂先輩は何故に他府県にありて己れの琉球人たるを知らるるを恐るるか。誰か起ちて〈吾は琉球人なり〉と呼号するものなきか。かかる人あらば、吾は走り行きて其靴のひもを解くべし。

吾は、意気地なき吾等の祖先を悲しみ、意気地なき吾等の先輩を呪ひ、意気地なき吾身自身を恥づる也〉 (『比嘉春潮全集第五巻』(沖縄タイムス社、1973年)192頁、明治43年9月7日付の記述

「琉球は長男、台湾は次男、朝鮮は三男」という位置づけは、日本に併合された順番でもある。比嘉は、韓国の問題や琉球の苦難の歴史を自らにひきつけ、「吾は、意気地なき吾等の祖先を悲しみ、意気地なき吾等の先輩を呪ひ、意気地なき吾身自身を恥づる也」と記している。石川啄木のよく知られた「地図の上 朝鮮国に黒々と墨を塗りつつ 秋風を聞く」という短歌との対比で読むと、琉球人としての比嘉の姿をさらに明確に想起できるだろう。

新しい沖縄と歴史修正への新たな動き

最近、仲井真弘多沖縄県知事時代に副知事を務めた歴史家の高良倉吉琉球大学名誉教授が、沖縄の差別や植民地に関して踏み込んだ発言をしている。

(前略)私は1年8カ月間、県の副知事をしている間、沖縄に対する「構造的差別」を思い知る場面はありませんでした。沖縄の歴史を見ても、差別という言葉を使わなくてはならない問題があると感じたことはありません。

明治維新により国民国家が立ち上がった際、日本各地の人々を「日本人」として統合するなかで、独自の歴史と文化を持つ琉球は確かに特殊な立場にありました。しかし、沖縄は「ヤマトに侵略され、制度上の植民地になった」わけではありません。(後略)(『AERA』28号、朝日新聞出版、2015年6月29日)

比嘉春潮の日記と比較すると、高良倉吉のコメントの位置がよく分かる(このコメントについては『月刊琉球』27号、琉球館、2015年を参照)。沖縄近現代史のなかで、「差別」「植民地」と沖縄をどう理解するかという課題は、沖縄自体やヤマトとの関係を考える根幹テーマである。特に「差別」の歴史的事実は存在し、その記憶は多くの沖縄人に共有されてきただけでなく、米軍基地の押しつけという形で現在でも存在している。それを否定するためには現実から目を背けるか、その意味を読み替えるしかない。

日本軍による中国での南京大虐殺事件を巡って、犠牲者数への異議や事件そのものの否定、また従軍慰安婦をめぐる強制の否定から存在そのものへの否定という動きや米国の原爆投下に対する評価をめぐる問題提起などが、だいぶ以前からヤマト社会では起きていた。「差別」や「植民地」をめぐる高良のコメントも、これと類似した歴史の修正という点で理解すれば、沖縄社会がさらに次の局面に入ったということだろう。沖縄内部から沖縄人の歴史体験や記憶自体を否定・修正する動きが活発化し、しかも琉球史研究を牽引してきた歴史家が積極的にその「歴史の否定・修正」を担うという局面である。

最近の若い沖縄人は、これまでの沖縄人が抱えてきたコンプレックスなどから解消されているようにも見える。当たり前のように米軍基地が存在するなかで生まれ育ち、さらに自らの直接的な差別体験を持たないだけでなく、過去の沖縄人が味わった歴史的な記憶を受け継いでいない若い世代の沖縄人なら、高良のコメントを読み流すかもしれない。

沖縄人の意識変化の背景には、1990年以降のヤマトや沖縄自体の変化もある。「日本復帰」後の沖縄にとっての画期の一つは1995年だった。その年に米兵暴行事件があり、「復帰」後最大だといわれた大規模な抗議の県民大会が開かれ、県民世論が基地撤去へ声を強く上げ始めて、そのうねりは不可逆的なものとなった。これに対し、日本政府は沖縄の民意をなだめ、懐柔するための対策を行った。その一つが先進国首脳会議(サミット)の沖縄開催であり、文化の賞賛や沖縄ブームの火付けのためのさまざまな仕掛けであった。これらの懐柔政策は一定の効果をあげながら、沖縄社会や若い沖縄人に自信やコンプレックスの解消などと、新しい意識を生み出すという逆の役割も果たした。

その1990年には、冷戦構造が崩壊するという世界的な激動があった。ベルリンを東西に分断していた壁の崩壊(1989年)は、社会や時代は変わるものだということを具体的な形で示した。1995年には、当時の村山富市首相が「50年の首相談話」を発表し、アジアへの侵略や植民地支配などを謝罪している。世界の枠組みが変わり、日本政府もアジアへ歩み寄り、近隣との友好な関係が始まった。

『うるまネシア』は、そのような時代のなかで創刊されたのである。「居酒屋独立論」と揶揄されながら始まった動きだったが、90年代以降の変化を読み取った真久田正(故人、詩人・小説家)が、そのなかで発想の転換をもたらすユニークなことを言い出した。

「居酒屋独立論、おおいに結構。泡盛を飲んでそれぞれが独立を論じようじゃないか。翌日は忘れてもいい。将来独立をめぐる選挙が行われるとき、投票所にいって独立に一票を入れてくれればいいのだ。世界の独立の多くは飲み屋から始まった」

運動家や政治家による独立運動ではなく、日常生活の中での「独立」の動きや結果としての「独立」、手続きとしての投票行動の重要性なども網羅しながらの優れて柔軟な思考だった。真久田は「相手に反対するのではなく、作り上げていく運動、『賛成運動』をしよう」ということも提唱していた。大きな力を持つアメリカや日本政府に対し、それまで抵抗で対峙してきた沖縄社会にとって新しいスタイルの提示だった。環境が変化し、沖縄人の意識が転換するなかで、真久田のユニークな視点が「独立」機運を先に進める力となったのは確かだろう。

先に紹介した高良倉吉は、琉球国の王城だった首里城復元事業に歴史家として中心的にかかわってきた。その意義や影響力を考えると、首里城復元事業は沖縄社会にとって重要な仕事である。そして、その首里城復元に真久田も、一時かかわっていたという。1990年代以降の世界的な変化の波を受け沖縄の状況も変化すると、この2人に象徴されるように沖縄社会でも二つの軸が明確になっていく。沖縄「独立」に即していえば、一方が「自立・独立」への志向であり、他方がヤマトへの「接近・従属」とで表現できるような方向である。そして、一つの極にある沖縄「独立」の機運は、真久田正の存在によって、新しい世界へと踏み出したといっていい。

「独立」へのさまざまな動き

沖縄「独立」への動きにはいろいろなグループがあり、その主張には多様な広がりがある。独立をカッコに入れているのもそのためだ。「自立」「自己決定権」なども「独立」の動きに含めると、その広がりはさらに大きくなる。そしてその源流を、ヤマトと異なる政治社会を求める動きを「独立」という用語でくくるなら、19世紀末の明治政府による琉球国併合に対する抵抗運動に遡ることになる。

現在では「琉球救国運動」と呼ばれるこの抵抗運動は、明治政府によって簒奪された主権(王権)を取り返えす運動、日本政府の統治を拒もうとする運動であり、主権回復運動であった。東アジアでの抗日運動の先駆けである。明治政府による「琉球処分」に対して始まったこの運動は、多くの政治亡命者を生み出しながら、昭和期まで続いた。

現在、政治運動レベルで「独立」を政策として掲げ活動しているのが、「日本復帰」直前に結成された琉球独立党につながる「かりゆしクラブ」だ。琉球独立党結党以前の1969年には、「復帰尚早論」を唱える政界・経済人らによって「沖縄人の沖縄をつくる会」が結成された。会長は元行政主席の当間重剛で、山里永吉、真栄田義見、崎間敏勝らが参加している。その会を母体に崎間敏勝、野底武彦らによって、1971年に組織されたのが琉球独立党である。同党からは同年の参議院議員選挙に崎間敏勝が立候補した。結党メンバーの野底武彦はアメリカ統治下で行われた1969年の行政主席選挙に立候補している。

選挙 立候補者 得票
1968行政主席選挙野底武彦 279
1971参議院議員選挙崎間敏勝琉球独立党2,637
2006沖縄県知事選挙屋良朝助琉球独立党 6,220
2008那覇市長選挙屋良朝助かりゆしクラブ1,797
2009那覇市議会議員選挙屋良朝助かりゆしクラブ*465
2013那覇市議会議員選挙屋良朝助かりゆしクラブ*705
2014那覇市議会議員補欠選挙屋良朝助かりゆしクラブ10,093
2014沖縄県知事選挙大城浩詩出馬表明するが最終的に出馬断念
*印は小数点以下の数値は切り捨て
県、那覇市選挙委員会参照

琉球独立党はその後活動を停止していたが、党員だった屋良朝助の呼びかけで2005年に活動を再開した。2008年には党名を「かりゆしクラブ」と変更している。屋良は県知事選挙や那覇市長選挙、那覇市会議員選挙に立候補し、直近の那覇市会議員補欠選挙(2014年)での得票は1万票を超えた。

一方で、文化運動として「自立」「独立」などの議論の場を提供しているのが、先に紹介した21世紀同人会だ。2000年から『うるまネシア』という雑誌を発行し続け、19号まで発行されている。雑誌編集の中核を担っていた真久田正が2013年に急逝したため、その後は21世紀同人会が「琉球館」(代表・本村紀夫)と連携することで、雑誌発行を継続している。現在は同人誌としてだけでなく、商業雑誌としても成立している。

さらに2013年5月には、琉球民族独立総合研究学会が松島泰勝、照屋みどり、友知政樹、桃原一彦、親川志奈子らの若手研究者らによって設立された。この学会は会員を琉球人に限定しながら、研究会や公開のシンポジウムなどを一年に2回程度のペースで催し、精力的に活動している。これまで「独立」と距離のあった政治家や文化人、市民も、学会に加わるようになっているという。2014年の那覇市会議員補欠選挙で52,740票を獲得してトップ当選した宮城恵美子は、学会のメンバーでもある。

ほかにも「独立」とは一線を画しながらも、日本の枠内での「自立」などを主張するグループもある。行政研究者の島袋純琉球大学教授や行政関係者らが2002年に始めた沖縄自治研究会は、行政の専門家らが研究会やシンポジウムを通して、条例や基本法などの具体的な側面から自治をめぐる課題に正面から取り組んだ。本格的な専門研究の先駆けである。また、全国的な道州制議論と関連して、学識経験者、経済同友会等経済三団体の役職者、自治体の首長、県議会の議員連盟の会長・副会長、連合沖縄会長などでつくる沖縄道州制懇話会は2007年には沖縄単独特例州の提言を行っている。

「自己決定権」を主張する人々の裾野も広い。『琉球新報』が2014年5月から始めたキャンペーン報道「道標求めて―琉米条約160年 主権を問う」は、話題となり多くの読者を獲得した。沖縄の報道の一角を担う琉球新報社による社を挙げた取り組みで、「自己決定権」は県民に広く浸透するようになった。

2014年の沖縄県知事選挙では、大城浩詩が独立を掲げながら立候補を表明した。大城は最終的には出馬を断念したものの、かりゆしクラブとも異なった背景を持つ新しい政治活動の動きだった。

幾つかの事例を取り上げたが、他にもいろいろな視点や形で「独立」「自立」を模索する動きがある。それらの原動力や背景は、琉球の歴史や文化などにもとづく歴史意識だといっていい。そして、そのために草の根の支持を得ている。

ヤマトの侵略の記憶を呼び覚ます中国脅威論

近代日本は19世紀末から、周辺地域諸国に対し侵略と占領、植民地支配を行ってきた。支配と被支配という力の関係を仕掛けたのである。しかも、戦後の日本政府はそれと真摯に向き合ってこなかった。ヤマト社会の深層にはその未清算に対する怖れがくすぶり続け、必要以上に「影」を作り出し、恐怖心を増幅させている。そして、自ら生み出し増幅させる影に沖縄「独立」への動きを重ねながら、背後に「侵略者」の幻影を見て怯え、「沖縄が侵略される」「沖縄が奪われる」と、中国脅威論を唱える。しかし、歴史のなかでみれば、それは倒錯でしかない。沖縄の「独立」機運は、抑圧からの解放、豊かな沖縄への渇望の結果なのである。いわば、沖縄の自己証明である。中国とは直接的な関係はない。

歴史のなかで琉球・沖縄へ軍隊を派遣し侵略したのは、17世紀初頭の島津氏であり、19世紀末の明治日本である。そして、1945年の沖縄戦で破壊と殺戮を行ったのは、大日本帝国でありアメリカだった。中国の脅威が叫ばれるとき、皮肉なことに沖縄社会に真っ先によみがえるのは、70年前の日本軍と米軍が行った戦闘に巻き込まれた恐怖心である。

島津軍は1609年、琉球国の幾つかのグスクを攻撃し、首里城下の最高神官・聞得大君の屋敷などを焼き払っている。そして、国王・尚寧をヤマトへ連行した。日米両軍が1945、沖縄島を中心に激しい戦闘を繰り広げた沖縄戦では、多くの沖縄人の命が奪われ、文化遺産や自然そのものも破壊された。沖縄戦では「友軍」と呼ばれた日本軍が、沖縄人をスパイ視して殺害した事例も多く報告されている。「(敵であるはずの)米兵よりも『友軍』が怖かった」などとささやかれたりもした。日本軍は沖縄人に銃口を向け、殺戮を行ったのである。それが激しい地上戦だった沖縄戦の記憶である。そして、その記憶は今も語り伝えられている。

一方で、沖縄で激しい戦闘を展開した日本軍や米軍と比べると、中国社会への恐怖心を持つ機会はなかったといっていいだろう。それが史実である。沖縄への侵略や戦争への恐怖を煽ることは、侵略・殺戮者だった日本兵や米兵に対する恐怖心を呼び覚まし、増幅させることでしかない。これは経験にもとづく現象である。

沖縄に対する日本政府やアメリカの「アメとムチ」という政策は、単に米軍基地などの負担を押しつけるため以上の目的をもっていた。アメリカにとって、沖縄人との親和的な関係を構築するためにも「アメ」は必要であり、日本政府の「アメ」は日本兵への恐怖の記憶を薄めさせる役割をも果たす。3・11の際の救援活動が、自衛隊員らへの評価を高め、米軍の「オトモダチ作戦」が米兵に対する日本人の感情に変化を与えたことを思い出せば分かりやすいだろう。

これらを踏まえれば、中国脅威論の主張と沖縄での新しい「歴史修正」の動きは表裏の関係であることに気づくだろう。沖縄人の一般的な記憶や歴史意識には、中国への親和感があり沖縄戦での日本軍や米軍への恐怖がある。そこで、近現代の沖縄に対する「差別」や「植民地支配」の歴史を修正することで、恐怖の前提を覆い隠していく。そして、一方で尖閣諸島などの境界をめぐるトラブルを強調し、中国脅威の刷り込みを試みる。

日本政府は侵略や植民地支配という近代沖縄との関係を清算しないまま、戦後もさらに新たな問題を積み重ねてきた。大日本帝国における天皇は、東京裁判や日本国憲法の平和主義を受け入れることで責任を問われず、装いを新たに象徴天皇として生き延びてきた。そして、日本国憲法やサンフランシスコ講和条約や安保条約は、沖縄の犠牲を前提として成立・維持された。それは、古関彰一・豊下楢彦『集団的自衛権と安全保障』(岩波書店、2014年)などの分析に詳しい。そこにあるのは、沖縄の犠牲を前提とした戦後日本や平和憲法、象徴天皇制である。

「戦後レジームからの脱却」と沖縄

沖縄とヤマトの現在の関係は、戦前と戦後のそれぞれの問題が重層的に重なっている。日本国憲法9条の戦争放棄などの平和主義、サンフランシスコ講和条約によるヤマトの主権回復、安保条約による日米同盟など、戦後体制は沖縄の犠牲で成立している。そして、安倍首相は「戦後レジームからの脱却」を掲げる。

橘川俊忠神奈川大学名誉教授は八木秀次麗澤大学教授の説明を引きながら、安倍首相が脱却しようとする「戦後レジーム」はポツダム宣言に基づく「ポツダム体制」であり、「脱却」は冷戦状況で形成された「サンフランシスコ体制」の原則(反共軍事対米従属の原則)に基づいて現憲法改正をすることだという。(『現代の理論』デジタル版5号)

安倍首相がいうその「戦後レジームからの脱却」に、沖縄の犠牲解消はない。しかし、ヤマトが清算する必要のある戦後体制には、本来ならその基礎となった沖縄の犠牲も含まれていなければならない。制度化された沖縄の犠牲はまさに日本の戦後体制そのものの一つなのである。

しかし、安倍首相の「戦後レジームからの脱却」には、沖縄の犠牲解消は含まれていない。沖縄に押しつけた犠牲を清算するつもりはないのだろう。それは強行される辺野古への新基地建設をみれば明白だ。それでは、戦前の侵略や植民地支配の清算はどうか。戦後70年の節目にだされた「安倍談話」では、アジアでの侵略や植民地支配を直視することも、謝罪なども行っていない。こちらの清算も視野に入っていないようだ。

それなら日本政府はどこへ向かっているのか。沖縄の犠牲を清算しない、「戦後レジームからの脱却」で何をしようとしているのか。沖縄に犠牲をさらに強いるということ、「脱亜の道」再びということだろうか。そして、戦前戦中の日本が行った行動は「悪」であり、大日本帝国が中国大陸を侵略し太平洋戦争に突入したというような歴史理解を東京裁判史観と呼ぶなら、それは東京裁判史観の修正でもある。

『集団的自衛権と安全保障』(古関彰一・豊下楢彦)が指摘するように、敗戦後のヤマトは東京裁判を受け入れることで天皇制を維持することができたのである。その意味で、東京裁判史観の全面否定は、天皇制との軋轢を生じさせる。そこで考えたのが「修正」、つまり読み替えだろう。アジアへの侵略や植民地支配を封印する一方で、日露戦争の評価に西洋諸国によるアジアやアフリカの植民地からの解放という視点を入れ込み、反省すべき範囲を欧米との戦争に限定しようとした「安倍談話」の意図はこの辺にあると見ていい。西洋やアメリカとの戦争は反省し謝罪しても、アジアへの侵略と植民地支配への清算は行わないという姿勢である。現代における「脱亜」の再宣言である。

日本政府は沖縄との関係で、清算すべき二つの課題を封印した。それは今後、さらなる犠牲を沖縄に強い、新たに制度化することを意味している。そして、それを支える仕事の一つが、「差別」や「植民地」に対する高良倉吉の言説となる。それは歴史の修正であり、さらなる同化を推進する仕掛けだ。

平和と共存のアジアへ

さて、それでは沖縄はどこへ向かうのか。まずは、犠牲や抑圧からの解放である。第二次世界大戦の未清算問題の処理という意味での本来の戦後レジームからの脱却である。そして、もう一つは近代日本の侵略や植民地支配という負の遺産の清算だ。戦後のヤマトが封印したのは沖縄だけではない。これらの二つの清算と解放の問題は、現代の日本政府が目を閉ざそうとする近代日本の踏み荒らした韓国や台湾など近隣諸国地域でも同じことでもあり、沖縄の進む道には先行者や多くの同伴者がいることになる。それは平和や共存という新しいアジアへと到る道である。沖縄社会は多くの犠牲を強いられてきたことで、そのことに気づき確実に新しい道を歩み始めている。

しかし、日本政府が誘導している「脱亜」の道は、アジア世界での孤立へ向かう。日本政府は武器をもって仲間とし、武力を使って仲間を得ようとしているようだ。しかし、たとえそれで仲間を得ることがあったとしても、その先にあるのは破滅でしかない。そして、今度破滅するのは日本「本土」である可能性は高い。他者を抑圧し続ける社会が豊かであり続けることはないだろう。

ヤマト社会に対して言えることは、アジアに生きる人々は敵ではなく、手をとるべき隣人であり友人だということだろう。ヤマトにとっても、アジアは「脱」するところではなく、生きていく場なのである。沖縄「独立」への動きは、犠牲を強いた戦後レジームや近代以降の植民地支配からの解放とアジアの平和や共存への模索である。ヤマト社会が耳を澄まし沖縄の人々の力強い声を聞くことができるなら、その先に手を取るべき多くの隣人がいることに気づくだろう。まだ、遅くはない。ヤマトは本来アジアの有力な一員であること、しかも西欧とアジアを結ぶことのできる貴重な存在であることを思い起こすことから始めればいい。

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執筆中に豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本――〈憲法・安保体制〉にいたる道』(岩波書店、2015年)を読んだ。ヤマトの立場から実証的な研究を踏まえて、沖縄を含んだまさに戦後レジームからの脱却に言及している。沖縄の視点から主張とあわせてぜひ読んでいただきたい。

しいただ・あつし

1962年石垣島生まれ。神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科前期課程修了。沖縄タイムス記者、琉球文化研究所研究員などを経て、2015年4月より神奈川大学外国語学部准教授。著書に『琉球救国運動―抗日の思想と行動―』(出版舎Mugen、2010年)、『琉球の国家祭祀制度―その変容・解体過程―』(出版舎Mugen、2009年)。

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