特集 ●歴史は逆流するのか
それでも反戦平和への道は探らねばならない
陳腐な、使い古した、常套的な、聞き飽きた理屈とあまりにも悲惨な
現実の狭間で
神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長 橘川 俊忠
突き付けられた過酷な現実
それはあまりにも悲惨な光景であった。現代の情報・通信技術は、戦争の実状を映像・音声共にほぼリアルタイムで伝達することを可能にした。情報産業に関わる専門家のみならず、市井に暮らす普通の市民もスマホという記録・伝達が可能な手段を手に入れ、全世界に向けて発信できるようになった。
テレビ局によって放映される映像だけでも、破壊された建物・住居、踏みにじられた畑、鉄屑と化した戦車・装甲車の残骸、そして道端に横たわる死体、急ごしらえのベッドに横たわる血まみれの負傷者、地下鉄や防空壕に身をすくませ恐怖に震える子供たち、さらに鳴り響く空襲警報、緊急車両のサイレン、爆裂音や銃声、思わず目をつぶり、耳を覆いたくなるような状況が伝えられる。テレビ報道ですらそうであるが、インターネット上では、もっともっと生々しく残酷な実状が発信されているという。
予兆はなかったわけではないが、そこまでとは誰も予想していなかったロシア軍のウクライナ侵攻の砲声が、青天の霹靂のように全世界に響き渡った。それは、それだけで十分に衝撃的事実であったが、それに続く戦場の実態を伝える情報の洪水が、驚愕に痺れた神経に耐え難いまでの負荷を押し付けてくる。
戦争を回避する道はなかったのか、直ちに戦闘を停止させなければ、これ以上の犠牲を増やしてはいけない、特に民間人を対象にした攻撃を止めさせろ、この戦争犯罪というべき悲惨な現状を何とかしなければという思いがつのることを抑えることができない。自分の無力さに打ちのめされ、早く何とかしなければという焦りすら生じてくる。しかし、その焦りが、時に判断を誤らせる。
もちろん、伝えられる情報のすべてが正しいわけではない。意図的に操作され、流された情報が紛れ込んでいることもある。推測に基づいた善意の誤情報もあるに違いない。現代の戦争は、情報の戦争と言われるくらい様々な技術を駆使した情報操作戦略が展開されている。その戦略にのせられないためにはそれだけの専門知識が必要であろうが、それは誰にでもすぐに身につけられるものではない。われわれ情報の素人に可能なのは、情報から常に距離を置く冷静さを保つことである。情報から距離を置くとは、情報に接してから判断を下す前に時間を置くということである。
そういう意味で、状況が厳しければ厳しいほど、情報を正確に受け止める冷静さを維持しなければならないことも分かっているが、そういう冷静さを保てるのは、筆者の経験では、事態の進行が読める、あるいは良いか悪いかの判断ではなく、事態が、とにかく「理解」可能である場合に限る。善悪・敵味方の判断や何をなすべきかの結論を下す前に、とにかく状況を「理解」することにつとめてみたい。
不可解なプーチンの侵略意図
2月24日ロシア軍のウクライナ侵攻から始まり、早くも2か月が経過したこの戦争が、何よりもロシア大統領プーチンの意志で開始され、今のところプーチンの決断以外に終わらせられる可能性がないとみられているように、プーチンの戦争と名付けてもよいような様相を呈してきた。したがって、この戦争の意図・目的は、まずプーチンの声明・演説によって示されていると見るのが妥当であろう。
プーチンは、侵攻を開始するにあたって、国内向外にむかって演説を行い、その軍事行動の意図について縷々説明を行った。その要点は、二点に絞られる。第一に「ロシアに隣接する地域、つまり私たちの歴史的な土地(ウクライナ)で、敵対的な『反ロシア』が形成されつつあ」り、そのことがロシアの国家としての存在そのもの、その主権に対する脅威になっていること、第二に「そこ(ドンバス)に住み、私たちすべてに希望を託している何百万人もの人々に対する残虐行為、大量虐殺を止めなければならない」こと、この二つの脅威を取り除くために「私たちはウクライナの非軍事化と非ナチ化を目指す」というのがその主張である。そして、プーチンはその軍事行動を「特別軍事作戦」とよび、自衛のためのやむを得ざる行動だという。
このようなプーチンの主張に、大規模な軍事力を行使し、多くの人命を奪い、生活を破壊し、悲惨極まる現実を作り出すに足るだけの差し迫った脅威の存在を証明し得る具体的証拠は何も示されてはいない。たとえ脅威があるとしても、その脅威を取り除くための軍事力行使以外の手段が残されていなかったわけではない。ウクライナとの関係においても、クリミヤ併合、親露派支援など、ウクライナを「西側」に追いやる政策ばかりが目立った。善悪を抜きにして効果だけに限定して考えても、ウクライナのNATO加盟阻止のための軍事行動は、極めて危険性の高い賭けであり、他のロシア周辺諸国のロシアへの警戒感を高めることにしかならない可能性がある。そして、それは戦争が長引くほど現実性を増し、すでにその方向への動きは始まっている。
また、「非ナチ化」という目標は、ロシア国内向けのシンボル操作として有効かもしれないが、ウクライナ人に対しては逆効果しかもたらさない。東ヨーロッパの複雑な歴史を検討する余裕はないが、「非ナチ化」という標語は、「非スターリン化」という標語を呼び覚まし、問題を複雑化させ、混乱させることにしかならない。このロシアの仕掛けた戦争がウクライナ人という自覚を強めることになったとすら指摘されている。
そもそも、国民としての自覚を基礎に成立した他国を軍事力によって長期に安定的に支配できると考えること自体が、歴史に学ばない愚かさの証明である。アメリカ合州国が圧倒的な軍事力によって支えようとしたベトナム傀儡政権の崩壊、混乱を残して撤退に追い込まれたイラク、アフガニスタンの現状を見よ。大軍を派遣し、首都を陥落させてなお点と線の支配しか確保しえず、泥沼化した戦争から世界大戦への道に突き進み、決定的な敗戦に追い込まれた大日本帝国、そして、なによりもスターリン的軍事支配に陥ったソビエト連邦の解体というプーチンが身をもって経験した歴史を見よ。少し、長期的展望に立って考えれば、軍事力の行使によって一時の「勝利」を得ても、結局、損失の方が上回る。利害勘定を基礎にした現実主義の立場から見ても、プーチンの選択には合理性がないといわざるを得ない。
そこで、持ち出されてくるのが、プーチンの選択の背後にかれの思想・イデオロギーを見出そうという試みである。プーチンは、政治家には珍しいといっても過言ではないほど多くの「論文」を書いているが、その一つに「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性」と題された論文がある。その論文でプーチンは、「ロシア人とウクライナ人は一つの民族であり、全体として一つだ」とし、「これは私の確信なのです」と述べ、その確信を歴史的に論証することを試みる。
プーチンによれば、「ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人は皆、かつてヨーロッパ最大の国家であったルーシの子孫です。[中略]一つの言語と経済活動でつながり、リューリク朝の大公の下に統一されていました。ルーシの洗礼後は、皆正教を信仰するようになり」、それが「今日もなお、多くの点で私たちの同族性の源となっています」という。千年以上前の「神話的」世界から説き起すこの論文は、「ウクライナの真の主権は、ロシアとのパートナーシップにおいてこそ実現可能であると、私は確信しています」とし、「精神的、人間的、文化的つながり」のみならず、「親族としての私たちの関係」や「数百万もの家族をひとつにする血のつながり」を強調して結ばれる。
たしかに、この神話や血や信仰という非合理的な観念を直接現実の中に持ち込もうとすれば、そこには政治的判断や現実的妥協の入る余地はなくなる。さらに、ロシア正教会の一部にある宗教原理主義やロシア民族の優越性や世界史的使命を説くユーラシアニズムなど、プーチンの周辺を取り巻いている怪しげな宗教家や思想家の影響も考慮に入れなければならないかもしれない。そうなると、プーチンのこの戦争は、神と悪魔の果てしない宗教戦争、勝者なき絶滅戦争の様相を帯びてくる。
しかし、プーチンは、確固たる思想や原理を唯一の行動規範として政治的決断を下すタイプの政治家であろうか。かれの政治的経歴や政治家としての振る舞いを見る限り、そういう印象は薄い。プーチンの思想に対する態度は、極めてプラグマティックである。自己の権力と権威の増大に役立つと思えば利用するが、原理主義的に凝り固まって暴走しようとすれば躊躇なく排除する。別の言い方をすれば、かれにとって最も重要なものは、権力それ自体であって、権力行使の仕方を制約する如何なる権威も認めようとしない、徹底した権力主義者たることをプーチンの本質と見るべきであろう。
そう見ると、ウクライナ侵攻の是非を問う閣僚会議の場で見られたように、プーチンが圧倒的な独裁者であるにもかかわらず、定期的に世論調査を実施し、その結果を案外気にしているように見えることも理解できる。思想や論理に依拠できなければ、依拠し得るものは数しかないからである。そうだとすると、プーチンの政治判断の根拠となる論理をいくら探しても徒労におわるだけである。不可解さは一向に解消されない。ただ、分かったのは、変わる可能性があるとすれば、世論調査で示される数字だということだけかもしれない。
「衝撃的」なものの中身を掘り下げる
戦争が始まって、その具体的様相が伝えられるようになって世界中に衝撃が走ったが、その衝撃の大きさは、どういう事が起こったのか理解しがたさによって一層増幅された。専門家ですら予想できなかった事態だったから、当然であったともいえるが、戦争の長期化すら言われるようになった現在、事態に対応する基本的足場を構築するためには、その衝撃の中身を掘り下げることが必要になってきた。主観に流されず、客観的視点を確保しなければ、問題の重要性を評価できないからである。
歴史を研究対象としている筆者にとって、衝撃的だったのは戦争の具体相もあるが、歴史が逆転したような「錯覚」にとらわれたことであった。戦争を開始した者の言い分、それを解説する専門家の言葉、そういうものが現代にまだ通用するのかという感覚が最初であった。そのキーワードは、地域・地政学であり、主権・国家の存在である。
プーチンは、先にも引いた侵攻開始宣言とでもいうべき演説で、米国とその同盟国は、ロシアに隣接する地域にNATOを拡大し、「反ロシア」を形成し、地政学的配当を変更し、そのことによってロシア国家の存在そのもの、その主権に対する重大な脅威にさらしたので、その地域からNATOを完全に排除するために特別軍事作戦を実施したと主張した。ロシアにとって、ウクライナは単なる地域であって国家ではないかのような言い分である。大日本帝国が中国東北部を自国の生命線と主張し、傀儡国家を作った理屈にそっくりである。さらに、ナチスドイツのオーストリア侵攻の過去もよみがえってくる。戦争ということさえ禁止し、「特別軍事作戦」と呼ばせるのは、邦人保護を名目にした中国への侵攻を「事変」と呼び、その軍事行動を「膺懲」(懲らしめる)とした大日本帝国の論理を思い起こさせる。
第二次世界大戦後、少なくとも学問の世界では、地政学という学問分野は厳しい批判にさらされ、学術用語としてはほとんど姿を消していた。地理的位置そのものが、戦争を引き起こす原因になることはないし、戦争をする意志が、地理的位置に軍事的意味を与えるにすぎないにもかかわらず、あたかも地理的位置が戦争を誘発するかのように語ることは明らかに間違っている。主権の排他的絶対性と国家存在の至高性の主張が、地理的要因の政治化・軍事化を通じて肥大化していったことが、二度の世界大戦の原因の一つになったことは否定できない。そういう過去の歴史をふまえれば、陳腐な用語の安易な使用は避けなければならないと思うはずである。
さらに、安易な用語や論理の復活は、第二次大戦後の国際関係に決定的な変更、それも後戻りにしか見えない変更を加えたことを象徴しているのかもしれない。主権国家の排他的絶対性は、内政干渉の禁止として具体的に主張されるが、第二次世界大戦後の世界は、その原則に、非常に慎重に制約を課す努力を積み上げてきた。国際連合をはじめとする様々な国際連携のための組織、世界人権宣言・国際人権規約などの普遍的理念の提示、個別的具体的レベルでの人権にかかわる数々の条約等々、何千万人もの犠牲者を出した戦争への人類規模の反省がそれらの努力には込められていた。
たしかに、国際社会では、民主主義や人権を掲げる国家のダブルスタンダードの問題や独善的押し付けによるさらなる混乱の惹起など、力の論理を排除できない弱点があった。自国第一主義や自民族優越主義、さらには「帝国」の再現を狙うかのような時代錯誤の動きもないわけではない。今回のロシアのウクライナ侵攻は、そういう脆弱性を抱えている国際社会に痛烈な打撃を与えた。どんなに問題を抱えていようとも、絶対的排他的主権国家群の無法な闘争の場、ホッブス的自然状態に国際社会を押し戻してよいはずはない。
戦争を喧嘩両成敗的に論じることは、本質的問題を発見する上では、ほとんど役に立たない。せいぜい妥協点を探る場合に、有効かもしれない程度の問題である。国際社会の枠組みをどうするかという基本的問題への見通し持たなければ、その議論は非難の応酬の繰り返しになるばかりであろう。
求められる発想の転換
一般に、戦いが起こると、対立する当事者は周囲の者に対してどっちの側に立つのかと二者択一を迫ってくる。ましてや戦争ともなれば、両当事者の切迫感は曖昧な態度を許容しない厳しさを持つ。しかし、当事者にならなかった者には、どちらかの当事者に完全に同調するか、傍観者を決め込むか以外の選択肢がないわけではない。対立する原因・根拠を排除する視点を見出し、それを実現する方策を提示する立場もありうる。
現在の戦争についていえば、対立する相手の「悪魔化戦略」をとらないこと、安易な二項対立的対立図式を描かないことが、そうした第三の立場に立つための前提になる。
対立する相手を非難し、批判する場合、もっとも安易なのは相手をできる限り邪悪な存在として描き、それへの反感をかきたてることであろう。味方の戦意を高め、局外者からの同情を調達する役にはたつかもしれないが、敵の戦意をくじき、喪失させるためにはほとんど役には立たない。それどころか、対立感情を高め、戦闘を激化させ、残虐行為の引き金にすらなりかねない。プーチンは、ウクライナ人を「ナチ」呼ばわりすることによって、ウクライナ人の団結心と戦意を高め、ロシア軍の倫理的堕落をもたらしたかもしれないのである。ましてや、局外者の「悪魔化戦略」は事態を複雑化させるだけであろう。
さらに、安易な二項対立図式を描くことも、事態の客観的認識を誤らせる可能性を大きくする恐れがある。新しい冷戦というような枠組みを提示する評論家の中には、現在の世界を「自由と民主主義を尊重する西側世界」と「帝国幻想にとらわれた独裁者が支配する権威主義的国家群」の対立というような枠組みを提起している者もいる。しかし、事態はそんなに簡単ではない。第二次世界大戦後の国際社会が慎重に作り上げてきた組織や条約の体系に、大きく揺さぶりをかけてきたのは他ならぬアメリカ合州国ではなかったか。トランプ元大統領の時代、経済・貿易関係、環境問題、核軍縮などの重要な国際的枠組みからの離脱を宣言し、アメリカ第一主義を唱え、ヨーロッパの極右勢力との連携すら模索した。そして、政権が交替したとはいえ、いまだに固い支持層を維持し、共和党を事実上コントロールし続けている。グレートアメリカアゲインこそ、帝国幻想の発信源といってもよい。
国内にそういう勢力を、無視できない規模で抱えている国家は、けっして少なくはない。プーチンが、戦争という手段に踏み切ったのは、そういう国家内部に問題を抱え込んでいる「西側」の弱体化を見てのことだった可能性もある。今のところ、予測は外れているといってよいが。
ひるがえって、日本はどうか。予想通り、防衛費の増額どころか「核共有論」まで飛び出してきた。憲法改正、核武装にすら道を拓きかねない状況である。しかし、日本がいまなすべきことは、そんなことではない。戦争を如何にして停止させるか、そのためにどんな役割を果たせるのかを真剣に考えなければならない。かつて、ナショナリズムをウルトラ化し暴走した挙句、敗戦の憂き目を見た国家として、また、戦後主権国家として事実上多くの制約を受けてきたことを逆手にとって、「主権国家の暴走を止める」ことが不可能ではないこと、敗戦による反省がそこまで徹底していることをしめすことによって、国際社会に一定の倫理性を復活させようという発想の転換が必要なのである。
第二次世界大戦後、絶えず戦争を引き起こし、今また核戦争の危険すら感じさせる深刻な事態を招いているのは他ならぬ戦勝国であることを指摘するぐらいの気概をしめしたいものである。
今日もまた、テレビは、ウクライナの厳しい状況を伝えている。見るのも辛い気持ちを抑え、今考えられるだけのことを書いても、その辛さを消すことはできない。しかし、自らの非力をなげいてばかりはいられない。せめて、既成の思考枠組みを外して、冷静かつ自立的に考えることの重要性だけでも指摘しておきたい。
新型コロナウィルス感染症のパンデミックも収束せず、六百万を越える死者(実際はこの数倍にのぼるとみる専門家もいる)が出ている中で、さらに人間同士が殺し合う姿を見せつけられる不条理。思想史という人間の思考の結果を対象とする研究者として、この事態をどうとらえるのか、課題の重さ、大きさに戦慄さえ覚えるが、さらに思考を重ねてゆくつもりであることを付記しておく。
きつかわ・としただ
1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任。現在名誉教授。本誌前編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)、『丸山真男「日本政治思想史研究」を読む』(日本評論社)など。
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