特集 ●歴史は逆流するのか

<復帰考>:復帰50年――県民大会に参加して

沖縄の人々が望んだ「復帰」を実現するために、一人ひとりができる
ことをやっていこう

「辺野古」県民投票の会元代表・一橋大学大学院生 元山 仁士郎

本稿は、2022年4月30日に、八汐荘・屋良ホール(那覇)で行われた「復帰50年・基地のない平和で誇りある豊かな沖縄をめざすオンライン県民大会:屋良建議書は実現されたのか」で用意していた、未発表のスピーチ原稿をもとに、加筆・修正したものである。

この県民大会は、沖縄県政与党を中心に企画され、奥武山陸上競技場で1万人規模の集会になる予定だった。しかし、沖縄県内での新型コロナの感染拡大のため、オンラインで実施された。

大会の共同代表は、平良亀之助さん(元琉球政府・復帰対策室調査官)と石川元平さん(元沖縄県教職員組合委員長)、新川秀清さん(第4次嘉手納爆音訴訟原告団長)、大城貴代子さん(おきなわ女性財団理事長)、オーガニックゆうきさん(作家)と私の6人だった。

プログラムは、大会決議やスローガンの採択のほか、当日の本番開始直前までは、共同代表である6人それぞれによるスピーチが予定されていた。しかしながら、オンラインで、6人のスピーチを1時間超も聞くのは、視聴者にとって酷なのではないか、ということや、復帰後の世代から「復帰世代」に質問をしてみたいという思いから、主催側と調整し、私とオーガニックゆうきさんの発言時間(計20分)を、スピーチではなく、トークセッション形式で行うこととした。

そのため、事前に用意していたこのスピーチ原稿すべてを読まなかった。ただ、このスピーチは、復帰50年に際し、いま、私が考えていることや言いたいことを凝縮していると思い、掲載することとした。

以下、スピーチ原稿である。

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うちなーんかいとぅてぃ、復帰やぬーあいびーがやー。

沖縄にとって日本とは何なのか。

50年前の1972年5月15日、沖縄復帰記念式典が行われた那覇市民会館で、屋良朝苗沖縄県知事はこのように演説しました。

「沖縄県民のこれまでの要望と信条に照らして復帰の内容をみますと、必ずしも私どもの切なる願望が入れられたこととは言えないことは事実であります。

そこには米軍基地の態様の問題をはじめ、内蔵するいろいろの問題があり、これらを持ち込んで復帰したわけであります」。

当時の沖縄の人々は、日本「復帰」に何を望んだのでしょうか。

今回の県民大会のサブタイトルになっている、1971年11月に沖縄の本土復帰にあたり琉球政府が作成した「復帰措置に関する建議書」を読んでみますと、さまざまな要求が書かれています。

「生活が良くなるようにしてほしい」

「教育水準が高くなってほしい」

「自然を保護した観光を行えるようになってほしい」

「基地のない、平和な沖縄になってほしい」

「復帰」から50年が経ったいま、それぞれどの程度かなったのでしょうか。

生活については、「復帰」前に比べ、たしかに良くなったのかもしれません。生活の向上をどのように測るのかは難しいと思うが、県民所得は1972年の約4倍になり、道路や電気、上下水道などの整備も「復帰」時とは比べ物にならないでしょう。しかしながら、無条件に得られるはずのものが、何かと引き換えにされていないでしょうか。なぜ新しい公共施設ができたり、何かが無償化されたりしているのか。それは本当に、その予算からでないと賄えないものなのか。生活するのにお金がかからないことは良いのかもしれませんが、今一度、考えてみる機会があっても良いのではないかと思います。

また、教育水準にはさまざまな測り方はあるものの、沖縄県の高校進学率で言えば、72年度の71%から増加傾向になり、現在は97.5%になっています。ただ、大学進学率は増加傾向にはあるものの、全国平均の55.8%に比べ40.8%で最下位となっており、依然として格差を感じざるを得ません。また、近年関心が高まる「子どもの貧困」も、全国平均が6人に一人なのに比べ3人に一人と、貧困状態にある子どもたちの数はトップレベルです。産業構造や最低賃金の低さなどさまざまな要因があるものの、教育や貧困についても、長期的に取り組んでいく必要があると考えます。

さらに、現在の観光は自然を保護したものになっているのでしょうか。昨年2021年に沖縄島北部及び西表島が世界自然遺産に登録されました。しかしながら、やんばるの森に隣接する米軍北部訓練場跡地には、空砲やドラム缶のほか、放射性廃棄物がいまだに放置されているという問題があります。また沿岸の埋め立てによって本来の姿である自然護岸は少なくなり、乱開発も問題になっています。現在、沖縄、日本のみならず世界中で推進されているSDGsの観点からも、観光産業や開発の見直しが必要なのではないでしょうか。

そして、何よりも基地問題です。「復帰」やそれ以降、米軍が要らなくなった基地は徐々に返還されているとは言え、多くの沖縄の人々が望んだものになっているのでしょうか。

県民投票のみならず、悲惨な事件や事故が起きるたびに追悼式や県民大会が繰り返し行われていますが、日米両政府に沖縄の思いは届かず、結局は「現状維持」がなされています。そのような状況をいつまで続けていけばいいのでしょうか。

米軍基地建設をやめて欲しい、基地を返還して欲しいというのは、「普通の生活」を送りたい、ということなのです。

夜、ランニングができること。

ただいま、おかえり、と心配せずに子どもの帰りを待てること。

爆音で中断することなく、学校の授業が受けられること。

避難をせずに、体育の授業が受けられること。

上からものが落ちてくることを心配しないで遊べること。

道の側で湧き出る水が飲めること。

フェンスの向こう側にボールがいくことなく、思い切り遊べること。

日本の多くの場所では「当たり前」の生活が、ここ、とくに沖縄島ではできないのです。「普通に暮らしたい」ということが適わないのです。

このような状況を変えるために、私たちは何をすべきなのでしょうか。基地問題に関して、この差別的な状況を変えたいという沖縄の人は、政党や立場を問わず、多くいるのではないでしょうか。みんなで知恵を出し合って、この構造やしくみを変えていく必要があると私は思います。

冒頭引用した屋良のスピーチには続きがあります。

「私どもにとって、これからもなおきびしさは続き、新しい困難に直面するかもしれません」。

「復帰」から50年―。

現に、沖縄の厳しさは続き、新たな困難に直面し続けている日々です。

当時の屋良主席や沖縄の人々に、なんで復帰したば、と問いたくなります。

いつまでこの厳しさは続き、困難を乗り越えられるのでしょうか。

基地が返還されない限り、沖縄の「復帰」、そして戦後も終わらないのです。

私たちが帰るべき場所は正しかったのか。良かったと言えるのか。

私たちは、世界人権宣言や日本国憲法などが訴える共通の価値や理念を共有しながら、

自らの帰るところを、自らの手でつくっていかなければいけないのではないでしょうか。

This a short note for the people of the United States: I personally believe that neither staying under the US control nor the reversion to Japan was right. For human rights, for freedom, for the normal life without the base, we need to take control over our land and people. I will keep working hard to make it happen.

わったーぬ帰る所や、わったーでぃ作ゆん。まじゅん、とむどぅむにちばてぃいちゃびらなやーさい。

1日でも早く、沖縄の人々が望んだ「復帰」を実現するために、一人ひとりができることをやっていきましょう。

いっぺーにふぇーでーびたん。

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以上が、復帰50年の県民大会において、私の持ち時間で訴えたかったことだ。

無論、解釈の余地のある言葉を用いていることは否めないが、自分自身も考え続けたいという意図も含め、細かい説明は省かせていただきたい。ただ、一言で言えば、「復帰」時も現在もさまざまな事情はあるものの、ここで私は、沖縄の「日本復帰」への疑問と、沖縄の人々のより主体的な取り組みの必要性を訴えたかった。

当日、会場で参加していた議員やマスコミ関係者からも、「若者と先輩方とのトークが新鮮で良かった」という感想をもらい、スピーチからトークに切り替えたのは、結果として良かったと思う。

また、一緒に登壇した方々は、次の”節目”である復帰60年でもお話を伺い、質疑応答ができるのだろうかを考えると、もちろん先輩方には長生きしてほしいが、沖縄戦体験者や「復帰」に奔走した方々が、徐々に少なくなりゆくなかで、私たちが彼/彼女らと話ができたのは、有意義だったと思う。

「県民大会」を終えての感想としては、まず、「復帰」に奔走した方々の話を改めて聞けて良かった。特に、先輩方に、「(復帰の際)なぜ日本政府に期待したのか」という質問をさせていただいた。なかでも平良亀之助さんは、「私をして復帰運動に傾倒させたのは、異民族統治で、人権が野ざらし状態になっていること」だ、とその理由を語った。続けて、「僕らをそのような状態に陥れた日本は、世界に冠たる平和憲法のもとで基本的人権がしっかり守られ、すべてにおいて保障されていた」と述べた。

言い換えると、米統治下で沖縄の人々の人権が全く保障されていなかったということが、それを保障している日本に「帰りたい」という気運を高めた、ということなのだろう。米統治よりも、日本統治の方がきっと良くなる。そう思っていたということだろう。

それでは、現在も在日米軍基地の多くが集中し、米軍による事件・事故が相次ぎ、ときに沖縄の人々の人権が保障されているか疑わしい状況において、果たして沖縄は日本のままでいるべきなのだろうか。かつて、平良さんが「復帰」を望んだときのロジックからすると、日本から脱却する、ということにもなりうるが、どうすべきなのだろうか。

平良さんにそこまでお聞きすることはかなわなかったが、別の機会で聞いてみたいと思う。ただ、私としては、やはり「帰る場所」は、自分たちの手でつくっていかなければいけない、ということなのではないか、と思う。その際、重要なのは、「沖縄とは何か」、ということであり、かつ日本国憲法や世界人権宣言などの理念や価値にもしっかり基づいているものでなければならない、ということだと考える。突拍子もない話のように見えるかもしれないが、私自身はそのようなことを考え続けていきたい。この内容は、また別の機会に書きたいと思う。

私は、私たちは、「復帰」60年をどのような形で、または気持ちで迎えるのか。

米軍や自衛隊による局所戦争が起きる場所として沖縄周辺が想定されるなか、奇しくも「辺野古」県民投票と同日の2月24日に起きたロシアによるウクライナへの侵略後、政治家やテレビのコメンテーターらによって、隣国の脅威がさらに煽られている。4月27日には、自民党の安全保障調査会が、国家安保戦略の改定に向けた政府への提言案で、5年以内に防衛費を国内総生産(GDP)比2%にすることや、日本を攻撃する他国のミサイル発射拠点に打撃を加える「敵基地攻撃能力(反撃能力)」の保有を求める提言を提出した。

より戦争へと向かおうとしているようにみえるこの国、そして「捨て石」とされているこの島々で、二度と「沖縄戦」を起こさないように、いつの日か、基地のない平和で誇りある豊かな沖縄を創っていけるように、いま、私にできることをやり続けていきたい。

「復帰50年・基地のない平和で誇りある豊かな沖縄をめざすオンライン県民大会~屋良建議書は実現されたのか~」は こちら から視聴できます。

もとやま・じんしろう

1991年、沖縄・宜野湾市生まれ。「辺野古」県民投票の会元代表。国際基督教大学教養学部卒業、一橋大学大学院社会学研究科修了、現在、一橋大学大学院法学研究科博士課程。米作戦計画における在日・沖米軍基地の位置付けと東アジア冷戦に関する研究を行う。
SASPL(特定秘密保護法に反対する学生有志の会)、SEALDs、SEALDs RYUKYUの立ち上げ/中心メンバー。19年1月には、「辺野古」県民投票への不参加を表明した5つの市の市長に対してハンガーストライキを行い、全県実施を実現するために尽力した。

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