論壇

「國体の本義」はなぜ手ごわいのか(下)

研究ノート――人々のどんな精神構造に訴えかけようとしていたのか

高等学校元教員 稲浜 昇

思想局が着目した人々の精神構造「 思想統制」から「 全国民の思想動員」へ現在では「過去の遺物」なのか精神主義と貼り合わせやはり警戒が必要だ終わりに

(以下は前々号掲載)本稿の要旨/なぜ今「國体の本義」なのか/「國体の本義」の肝は「ニッポンすごい!」本/
「日本すごい!」本の元祖/どういう点が「日本すごい!」なのか/すべてを「皇国主義」へと回収する仕組み
(以下は前号掲載)「エモ文体」/二種類の人間/文部省思想局が着目した精神構造/「國体の本義」が企画された
当時の状況/思想犯の転向と更生/文部省思想局

思想局が着目した人々の精神構造

そうした数々の活動を通して得て見出したのが、感覚的・情緒的・非論理的にものごとを見たり考えたりする(そしてそれがなんだかほっとするような、心地よいような感じがする)人々の存在であった。ヒムラーと会談した内務省高官は先述した会話に続けて「一時は共産黨運動に狂奔しても、反省の機會が與へられると、かれらの胸奥に再び油然として國體観念が沸き上がって来る。これは我が国の身に存する尊貴なる特殊性のしからしむところでなければならぬ。数年来、思想犯人が續々転向するに至った根本要因を此處に求めずして何處に求むることが出来やう」(前掲書)と書いている。

また「日本精神講習会」受講生の一人は「私を転向せしめたものは、生活そのものでもなく、経済関係でもなく、三千年来流れて止むことを知らない一貫した歴史の流れである。それは民を育み、國を発展成長せしめている日本精神である」と書いている(「日本精神講習会受講生感想文集」昭和10年12月)。

《家族の暖かさ》から入り、《日本という大きな家族に生まれ、父である天皇陛下の仁愛に育まれながら、万邦無比の素晴らしい日本という国で陛下の赤子として生きていける素晴らしさ》へと導き、さらには《この恩を陛下への忠義でお返しする》という所まで持っていくのが、転向者だけではなく一般国民に対しても一番効果のあるやりかただということに、上記のような活動を通して気づいたのであった。

国立国会図書館のデジタル・コレクションで多くの人々の感想文・手記などを読んで私が感じることは、それらを書いた人々が(書かされているからそう書いたというより)「自分は日本という天皇陛下を家長とする大きな、素晴らしい家の一員として生まれ、父・天皇陛下の仁愛に包まれて暮らしているのだ、こんな国はほかにはないんだ」と思うと、「難しいことは分からないが(理屈はともかくとして、等)なんだかほっとする(晴れ晴れした気分になる、等)」のような気持になっているらしい、という点だった。

ここで重要なのは、上記のプロパガンダは、理性的・論理的に考えれば、突っ込みどころ満載の無茶苦茶としか言いようがないが、これが意味を持つのは論理的に説得しよう、納得させようとしているのではなく、感覚的・情緒的に訴えかけようとしている点──というよりも、(繰り返しになるが)その方がなんだかほっとする、心地よいような感じがする人々の精神構造に訴えかけようとしている点──である。これが一番成功するやり方だと気付いたのである。

「國体の本義」は論理的に読むと分かったような、分からないような情緒的・感覚的な内容に、一見知的・学問的な粉飾を施して、「ニッポンすごい!」本に仕立て上げた力作になっている。そのため、読んだ人が「分かったような分からないような文だけど、まあ、いいか。難しいことはともかくとして、日本てのはいい国なんだなぁ。すごい国なんだなぁ」と思ってくれることを期待している文章のオンパレードになっていることは前稿で長々と引用した。

論理的・理性的に考える人には「さっぱり分からん」「ばかばかしい」としか思えないようなこうした文章の、雰囲気というか、感じというかを受け入れる素地が国民の間にあるので、やさしい言葉で解説しさえすれば浸透すると多くの経験から見抜いたのである。

「思想統制」から「全国民の思想動員」へ

次に手短に、この『国体の本義』が出版後どのように扱われたのかを述べる。思想局は拡大改組され「教学局」となった。このあと、すべての教育活動は「國体の本義」の内容と精神を学生・生徒に体得させるために編成しなおされた(尋常小学校が「国民学校」になったのもそのためである)。それを効果的に行うため、全教員の講習を行った。また、『国体の本義』やそれに関連のある事項は、全国の高等学校 、専門学校、大学予科、士官学校・兵学校、各府県の師範学校の入学試験、文部省中等教員試験検定、各府県小学校教員試験検定の試験問題として出題されるようになった。

また、生徒・学生以外の一般国民にも普及させるため、引き続き青年団、修養団、学校教員などへの講習を行うだけでなく、文字通り全国民に向けてこの本の趣旨の解説・普及・宣伝に努めた。

そのころ、日本国籍を持つすべての民衆は国家の指導する何らかの組織の構成員であった。軍隊、疑似軍隊化した学校、各業種の産業報国会、青年団、壮年団、修養団、警防団、在郷軍人会、国防婦人会、愛国婦人会、町内会、隣組、部落会等々。いわゆる自由業の人たちでさえ「文学報国会」のような組織の構成員となっていた。町内会、部落会、婦人会、マスコミ、労働組合、商工会などの幹部や構成員に対する講習・解説がしばしば行われ、日本中「ニッポンすごい!」の雰囲気に飲まれていった。特に「エモ文体」の記事によるマスコミの果たした役割は非常に大きかった(例えば、早川タダノリ『「日本スゴイ」のディストピア ―戦時下自画自賛の系譜―』青弓社、 同『神国日本のトンデモ決戦生活 ―広告チラシや雑誌は戦争にどれだけ奉仕したか―』ちくま文庫などを参照せよ)。後は雪崩を打って破局に向かってまっしぐらに進んでいった。

現在では「過去の遺物」なのか

この本は今や「過去の遺物」でしかなく、安倍元首相の周辺の人々や日本会議に参加している人たちが努力をしたとしても、現在の国民──特に若者──にはほとんど影響力を持つことはないのだろうか?

ものごとを理性的・論理的・科学的に見たり、考えたりすることにあまり抵抗を感じない人々(本誌の読者は多分全員そうであろう。私もそうだ)がこの本を読んだとき、真っ先にこの本の非論理性・非科学性・ご都合主義──自分に都合の悪い事実には一切触れない──などにまず目が行くはずだ。つまり、論理的・科学的・学問的にはめちゃくちゃで、狂信的な本だと感じる。この本を批判的に紹介する論文や書籍はどれも、論理的な要約をして論評している。それに対して、この本を普及しようとしている人たちは皆、全文を(小分けして)掲載し、注釈をつけ、解説を詳しくしている。彼らは、この本が論理的・学問的な本ではなく、「エモ文体」で書かれた情緒的な「ニッポンすごい!」本だとよく承知しているのだ。そうした解説の例を挙げたいが、長くなるので省略する。

私が、彼らのその努力が成功するかもしれないと危惧するのは、現在も変わりなく、ほとんどの人の中に、感覚的・情緒的・非論理的にものごとを見たり考えたりする(そしてそれがなんだかほっとするような、心地よいような感じがする)精神構造が温存されているからである。

上で、オリンピック招致委員会のアッピールを例としてあげたが、いくつか他の例を挙げよう。安倍元首相は2013年に二度目の安倍内閣を出発させるに当たって次のように書いた。

日本という国は古来から、朝早く起きて、汗を流して田畑を耕し、水を分かち合いながら、秋になれば天皇家を中心に五穀豊穣を祈ってきた、「瑞穂の国」であります。

自立自助を基本とし、不幸にして誰かが病に倒れれば、村人は皆でこれを助ける。これが日本古来の社会保障であり、日本人のDNAに組み込まれているものです。

私は瑞穂の国には瑞穂の国にふさわしい資本主義があるのだろうと思っています。自由な競争と開かれた経済を重視しつつ、しかし、ウォール街から世界を席巻した、強欲を原動力とするような資本主義ではなく、道義を重んじ、真の豊かさを知る、瑞穂の国には瑞穂の国にふさわしい市場主義の形があります。

安倍家のルーツは長門市、かつての油谷町です。そこには棚田があります。日本海に面していて、水を張っている時には、一つ一つの棚田に月が映り、遠くの漁火が映り、それは息をのむほど美しい。

棚田は労働生産性も低く、経済合理性からすればナンセンスかもしれません。しかしこの美しい棚田があってこそ、私の故郷なのです。そしてその田園風景があってこそ、麗しい日本ではないかと思います。市場主義の中で、伝統、文化、地域が重んじられる、瑞穂の国にふさわしい経済のあり方を考えていきたいと思います。―以下略―(『新しい国へ──美しい国へ 完全版』文春新書、2013年)

この文は、この部分だけで「國体の本義」を内容的にだけでなく、名調子っぽい雰囲気も併せての、立派な要約となっている。多分、「國体の本義」を意識して書いたのであろう。もちろん自分で書いたのではなく、電通のようなところに「このような内容、雰囲気で」と注文を付けて書かせたのだろう。

内閣府の東日本大震災復興構想会議の「復興への提言」は次のように言う。

われわれは誰に支えられて生きてきたのかを自覚化することによって、今度は誰を支えるべきかを、震災体験は問うている筈だ。その内なる声に耳をすませてみよう。 おそらくそれは、自らを何かに「つなぐ」行為によって見えてくる。人と人とをつなぐ、地域と地域をつなぐ、企業と企業をつなぐ、市町村と国や県をつなぐ、地域のコミュ ニティの内外をつなぐ、東日本と西日本をつなぐ、国と国をつなぐ。大なり小なり「つなぐ」ことで「支える」ことの実態が発見され、そこに復興への光がさしてくる。 被災地の人たちは、「つなぐ」行為を重ねあうことによって、まずは人と自然の「共生」 をはかりながらも、「減災2」を進めていく。次いで自らの地域コミュニティと地域産業 の再生をはたす。「希望」はそこから生じ、やがて「希望」を生き抜くことが復興の証しとなるのだ。

ここでも分かったような、分からないような内容を名調子っぽく述べるこの感じや雰囲気にご注目いただきたい。

ネット社会のインフルエンサーでもある、ベンチャービジネスのある経営者は次のように言う。

・物事は成功するか、失敗するかじゃねぇ、成功するまでやるかだ。

・ごちゃごちゃ言うな、やればわかる。

・夢を追うのは、ギャンブルじゃない。あきらめなければ、必ず勝てるゲームだ。

・BELIEVE YOUR トリハダ。鳥肌は、嘘をつかない。

この手の企業経営者(特にベンチャー企業の)の「名言」は、ユニクロ社長から街のラーメン屋の大将まで、日本中にいたるところに見られる。

居酒屋の便所などで色紙をよく見かける、「人間だから」の文句で有名な書道家は次のように言う。

・花には人間のような/ かけひきが/ ないからいい/ ただ咲いて/ 散ってゆく/ からいい/ ただになれない/ 人間のわたし

・毎日 毎日の足跡が/ おのずから人生の答を出す/ きれいな足跡には/ きれいな水がたまる

・雨の日には雨の中を/ 風の日には風の中を

・感動がいっぱい/ 感激がいっぱいの/ いのちをいきたい

よく分からないけど、ありがたい言葉のような気もする。この人がどれほど人気があるかは、この書家の個人美術館の年間入場者数400万人を誇ることを見ればわかる。

J―popの歌詞や、携帯小説・スマホ小説(これらを書籍化した本はこの出版不況の中で驚異的な部数を誇る)の文章も引用したいが長くなるので割愛する。

精神主義と貼り合わせ  

重要なのは、日本中いたるところに見られるこのような空疎な言葉を連ねた、分かったような、分からないような内容の情緒的・感覚的な言説は、「『気合とアゲアゲのノリ』(これは戦前の『大和魂』の戦後版である)がぴったり貼り合わせになっている点である。「いかなる困難な状況も、冷静に考えたり、分析したりするよりも、『気合とアゲアゲのノリ』で切り抜けられる」という信念は、ほとんどすべての日本人に多かれ少なかれ共有されている。部活や運動部(特に高校野球や大学ラグビー)の指導者、青年会議所で活動する若手経営者、ブラック企業の経営者、各地の祭りでの主催者などの言動を見よ。いや、それらの人々の指導を受けたり、指示を受けたりする人たちも、それを当然のものとして受け入れている。「アゲとノリの気合主義」は、就職の時の最大のアピールの一つとなっている(私は高校の教員をしていたので、「運動会の応援団」――全生徒が団員である――なるものが、今述べた「空疎の言葉と気合とアゲアゲのノリ」で統率されて一糸乱れぬ動きをしているのを、吐き気を覚えながら見ていた)。

やはり警戒が必要だ

では、内容的にはどうだろうか。最近の総選挙で日本維新の会と国民民主党が伸長したことで、両党は「憲法改正へ向けて議論を加速する」と公式に表明した。自民党はもちろん大歓迎だ。憲法改正が現実のものとなる可能性が高まってきている。改憲と言えば第9条や緊急事態条項が注目の的となるが、「國体の本義」を読んだ目で、改憲の最大勢力である自民党の改憲案を読んでみると、この改正案は巧妙に「國体の本義」の精髄を要所要所に練りこんだものであることが分かる。自民党自身が現憲法との各条ごとの対照表を作ってくれているので、丁寧に読んでみてほしい。

例えば、その前文は次のように言う。これこそ「國体の本義」の精髄である。

前文 日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する

また、例えば、第24条は現行の「婚姻は、両性の合意に基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」を第2項とし、その前に新設第1項として「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」をさりげなく入れる。このさりげなさで「國体の本義」が強調してやまない「大きな家族としての日本」のイデオロギーをそっと入れる(秋篠宮の長女の結婚にほぼ全マスコミを挙げて熱中していることからも、「天皇を家長とする大きな家である日本」というイデオロギーが現代においても、人々に訴えかける大きな潜在力を持っていることは明らかである)。

また、第97条 「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて 、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」は、この項そのものが削除されている。

第102条 「国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う」の前に、新設第1項として「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」がさりげなく入れられている。当たり前のことを言っているように見えるので、論理的説明や学問的・科学的説明を聞いたら生理的嫌悪感を覚えるような人に対しては、これが挿入されたことの重要性を説明するのは難しいだろう。

本稿は自民党改憲草案を検討するためのものではないので、これ以上は差し控えなければならないが、この改憲草案と、「國体の本義」の「ニッポンすごい!」解説がタッグを組んだら大きな力を発揮することは必定のように思われる。改憲の国民投票でコマーシャルを制限することに自民党などが消極的なのは、電通などによる「エモ文体」攻勢が日本の民衆に大きな効果を発揮することをよく承知しているからだ。

今後日本のみならず、全世界が不安定化していくと私は考えている。そうした中で、電通のようなプロによる(「國体の本義」のような学者風の「エモ文体」ではなく、現代風の)「エモ文体」のPRによって、安倍元首相が主導するような方向に社会が変わってしまうことは十分あり得ると私は考えている。

終わりに

世界中で起こっていることを見ると、哲学、心理学、倫理学、学際的な人間研究等をはじめとする人文・社会科学系の学問の中で、暗黙の前提としてきたことを見直さなければならないのだろう。

私も理性的・論理的あるいは科学的にものを見たり考えたりすることが苦痛ではなく、むしろ当然と感じるタイプの人間なので、それが苦手だったり、生理的に嫌悪感さえ覚えるというような人たちにどう接していけばいいのか分からない。ただ、そういう人たちが「教育程度が低かったり、教養がなかったり、知識が少なかったりするためにそうなっているのだから、しっかり事実を伝え、冷静に理を説けば分かってくれるはずだ」とは、今では考えていない。そうした人々を内在的に理解したいが、正直言って、どうしたらいいのか見当もつかない。今回はそうした内在的(であると同時に批判的な)理解への準備の第一歩である。なにしろそうした人たち(の後継者たち)も、資本主義後の新しい社会を作っていく上での重要な人たちなのだから。そうした人たちと完全に共感しあうことはなかなか難しいことではあろうが、何とか分かり合う方向を探っていきたい。

私の考察の次の段階は、ジョシュア・グリーン「モラル・トライブズ」、ポール・ブルーム「反共感論」、アントニオ・ダマシオ「デカルトの誤り」、戸田山和久「恐怖の哲学」、永井陽介「共感にあらがえ」などを出発点として考えていきたいと思っている。

いなはま・のぼる

1943年生まれ。東京教育大学文学部卒業、元高等学校教員。

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