コラム/ある視角

とどのつまりはホモ・エコノミクス

社会を理解する文法を変えよう

市民セクター政策機構理事 宮崎 徹

資本主義は自然で普遍的なもの?

新自由主義の綻びはめだっているが、それにとってかわる統治方式が登場する気配はない。それどころか、その根幹である資本主義システムに関しては、「システムと個人の目的が一致している」とか、人間の基本的な「心的傾向」に基づくシステムだからといって、むしろ資本主義を何か自然なもの、普遍的なものとみなす思潮がこのところ目につく。

例えば、前に筆者が本誌で紹介したミラノビッチの『資本主義だけ残った』(みすず書房、2021年)がある。この本は、経済活動のグローバル化の中でアジアの経済発展が顕著になり、その結果大きくみれば世界経済の均衡化というポジティブな成果が出ていることへの着目、そして2つのタイプの資本主義(中国風の政治的資本主義とリベラル能力資本主義)の析出など射程が長く刺激に富んだ良い本ではある。

その彼によれば、「資本主義は支配的であるどころか、この世界で唯一の社会経済的システムになった」。というのも「資本主義はそのシステムが拡大していくために必要なものと、人々の発想・願望・価値観とを類のないほど一致させることに成功した」からである。もちろん、「私たちのありとあらゆる行動の動機がことごとく金儲けにあるといっているとは解釈しないでほしい」と留保をつけている。しかし、その一方で「確かに金儲けを忌み嫌う小規模の共同体もあるし、金もうけを軽蔑する人間もいるが、そうした共同体や個人は世界の様相や歴史の流れにさほど影響を与えることはない」と断言している。

もう一つ紹介したいのは、文化人類学をマーケティングに活用している大川内直子氏の『アイデア資本主義』(実業の日本社、2021年)という本である。みずから「脱資本主義論に対するアンチテーゼ」と位置付けている。いわく、資本主義にいろいろ問題があるのはその通りだが、「闇雲に否定する前に資本主義の本質と正・負の両面について冷静な目を向ける必要がある」という。

その本質というのがふるっている。いわく「資本主義は容易に適用したり変更したりできるシステムのようなものではなく、個々人の『将来のより多い富のために現在の消費を抑制し投資しようとする心的傾向』から生じる経済行為の総合的な表出である」。つまり、資本主義は人間の心的傾向に根差すものであるから、たとえばパソコンのシステムを変えるようには簡単には切り替えられないというのである。

この本全体は、資本主義の空間的、時間的なフロンティア消滅の歴史を簡潔にたどりながら、これからは「インボリューション」という内に向かってのフロンティアの開拓、つまり「アイデア資本主義の時代」(なにやら脳内革命?めくが)だという興味深いものである。

だが、このような見方はあまりに現状追認的ではないだろうか。古い物言いをすれば、「存在が意識を規定する」というたぐいの認識だということになろう。ミラノビッチの場合は自分なりの歴史観に基づく議論となっているが、広く世間では大川内氏のような非歴史的な見方が大手を振るっているようにみえる。あるいは、うがった見方では、これは一つの進歩史観なのかもしれない。その心はこうである。人間が豊かさへの欲望を持つのは至極当然で、かつてはそれが不合理な慣習や古い道徳などで抑圧されてきた。ようやく近代になって自由化と民主化が進んで本来の欲望が解放されたのだ。いったんこうした発展段階に至れば、より多くの富を求める心的傾向はゆるぎないものになるという次第。

ホモ・エコノミクスとは?

しかし、経済的な自己利益の追求を第一とするような社会はむしろ近代に特有なのだということは、歴史家や経済人類学者たちがつとに明らかにしてきた。たしかに、人間には自己利益というものはあるだろう。ただ、それは経済的利益に限定されるものではなく、それが最大のものであるわけでもない。文化や宗教的な満足(あえていえば利益かもしれない)など多様なものである。

とはいえ、いまの世の中では経済的価値観だけが異常に肥大化している。合理的だとかリーズナブルというのは経済的に無駄がないことだとされる。平たくいえば、損か得かだけが判断基準になっているかのようだ。人のふるまいへの理解も経済的動機がもっぱら重視される。政治や社会的行為もそのような文脈で読み解かれる。「最後は金目でしょ」と公言する政治家も出てきた。なぜそのような人間観や社会観が広がってきたのか。

それには経済学が大きな役割を果たしている。経済学といってもいろいろだが、いわゆる主流派経済学(モダン・エコノミクス)のキーワードは「ホモ・エコノミクス」(合理的経済人)である。たしかに、各個人が経済的自己利益のためにだけ行動すると想定するなら、その帰結である社会的態様の予測や理論化がやりやすくなる。

つまり、ホモ・エコノミクスは経済理論を展開するための抽象度の高い人間モデル、極端な想定なのである。もちろん、その抽象性については昔から批判があり、それに対して経済学の側からは極端な想定を緩くする(限定合理性や情報の不完全性など)などの改良が試みられた。しかし何といっても近代に入って社会の中で経済活動の比重が急速に高まるにつれて経済政策と理論の構築が急がれるあまり、その前提であるホモ・エコノミクスは、その抽象性や想定の極端さ、あえていえば、ある種のいかがわしさも忘却され、人間観や社会観へ密輸入され、しだいに広く浸透していった。

ことほどさようにホモ・エコノミクスをめぐる議論は繰り返されてきたが、経済主義的思考への偏りが一段と深まっているいま、改めて根本的な検討が必須であろう。そうしたタイミングで折よくこの3月に重田園江氏の『ホモ・エコノミクス——「利己的人間の思想史」』(ちくま新書)が刊行された。氏は気鋭のフーコー研究者として知られている。この本では政治思想史専攻の立場でありながら経済学にも踏み込んで、経済に偏った人間観、社会観をトータルに問題化している。以下、本書のさわりのいくつかを紹介しながら、考えてみたい。

歴史を振り返れば、近代に至るまでには「徳と富」をめぐる長い論争の歴史があった。「贅沢や金儲け、そして富そのものが蔑視され、危険視された」社会もあったのだ。しかし、端折っていえば、20世紀は富と道徳の関係を真剣に問うことがなくなった時代だった。実際、経済成長は生活の豊かさをもたらし、それが多くの課題を解決するという考えが広がるばかりだった。しかし、重田氏によれば、そこで先送りされていた問題が21世紀に一挙に噴出してきたのである。

環境問題はいうまでもなく、富を得ることは生き方、価値観、生活スタイルにどのような影響を与えるのか。「それは何を掘り崩し、見失わせるのか。それは果たして道徳的に許される生き方なのか」。こうした資本主義の黎明期に交わされた論争は、「いまの時代に再発見されるべき問いかけを含んでいる」という。

ホモ・エコノミクスの由来

それはともかく、17,18世紀になると、商業はますます活発になり、経済中心の社会を道徳的にも擁護するヒュームやスミスの議論が登場してきた。ただ、当時は「神の見えざる手」「自由放任」だけではなく、スミスが『道徳感情論』を著しているようにモラルの問題を主題から外すことはできなかった。しかしその後、こうした議論はイギリスで展開されたように功利主義的な人間モデルに単純化され、その抽象化を出発点として経済学が発展していく。

ここでその過程を追うことはできないが、19世紀末には有名な「限界革命」が起き、現代経済学に直結する経済学の精緻化、数学化が始まる。時代は科学主義であったから、当時の経済社会を説明し正当化する経済学の科学化が物理学や天文学をまねて遂行される。しかし、それには最初から無理と問題点が生じた。重田氏の整理では、まず第1に、純粋理論の経済学は、最初には慎重に付されたはずの限定が忘却されることで、現実世界で「自由市場」「自由貿易」などを擁護する論拠として規範性を伴って使われていく。

つまり、「人間の経済行動は、ホモ・エコノミクスを前提することによって純粋理論として定立できる」という前提的命題は、だから「人間の経済行動は・ホモ・エコノミクスの原則に従うのが当然である」といった具合に。いいかえれば、「科学はしばしば、その適用範囲を地滑り的に拡大させる。その過程でいつの間にか、前提とされた事実に規範性が入り込む」のだ。 限界革命の創始者たちが慎重に付した限定条件は「いつの間にか忘れられ、あるいはわざとなかったことにされて、政治的に利用されてきた」のだという。

時代が少し飛んでしまうが、その典型例がアメリカのシカゴ学派に見られる。シカゴ大学は自由主義経済学の牙城といわれてきたが、特にその第2世代はホモ・エコノミクスを前提とした経済学の拡大利用でめだつ。とくに有名なのはゲイリー・ベッカーである。彼は社会の多方面にこの分析手法を適用するのに最も熱心だった。彼の博士論文は「差別の経済学」である。経済合理性では最も説明しにくい行為の象徴をあえて選んだのを皮切りに、犯罪と刑罰、政治的利益集団、人的資本、家計や家族(そういえば結婚の経済学というのもあった)、さらには臓器売買に市場システムを導入すべしという提言にまで及んでいるという。この人はノーベル経済学賞をもらっている。ノーベル賞、推して知るべし。

そのうち人的資本論について一言触れておこう。いうまでもなく、企業にとってはモノと同じくヒトにも投資すればリターンがある。人的資本論では個人もまた一つの企業体とみなされる。その人が経営者であろうとなかろうと、自分が持つ時間の最適配分をする主体なのである。その所得は労働に対する賃金ではなく、人的資本を用いた活動に対する「収益」としてとらえられる。労働者という概念や範疇は消失してしまう。経営にとって不都合な労働者や組合は視界から消えていく。実際、最近では「一人親方」として、たとえばウーバーの運転手のように請負契約の主体とされるなど目の前の現実となっている。

さらに人的資本論は教育分野に悪影響を及ぼしている。すなわち、教育を投資と収益の観点からのみ捉え、その観点を基準とした教育論が広がっていると大学教員でもある重田氏は懸念している。市場の論理にはなじまない教育の領域を疑似市場と想定したうえでの上からの学校経営の改革なるものが進められているのだ。

ホモ・エコノミクスの拡大適用と越境

政治の世界でも経済学の悪影響は広がっている。政治学の動向をみると、経済学の分析道具やアイデアを流用しようとする潮流がめだつ。これが政治学の科学化なのだろうか。その典型例が「公共選択の理論」であろう。本書の引用によると、それは「政治アクターや公僕(官僚)が合理的であり、効用関数が最大化され、目の前の選択肢を費用対効果から計算しているかのように想定する」。

ここで合理的であるとか、効用の最大化ということは、自己利益を追求するということである。政治が利益の分配に還元され、政治主体がホモ・エコノミクスを前提とするなら、現代の圧力団体を通じたバラマキ政治は財政赤字から逃れられない。なぜなら人間や集団の強欲は所与であるのだから。したがって、これを解決するためには政府が担ってきた領域を、費用対効果で効率化を迫る市場に任せるしかないことになる。この文脈では、政治不信と公共選択論の背後にあるのは新自由主義である。

付け加えれば、官僚不信も新自由主義の追い風だった。官僚は縄張り意識が強く、自分の官庁の権限最大化を最優先する。公共選択論もこのことを裏付けている。かくて、素朴なお役所の非能率への反感も背景にはあるだろうが、公社・公団の民営化が一挙に進むことになった。新自由主義論の勝利である。

 この本で紹介されているコリン・ヘイという政治学者がいうように、ホモ・エコノミクスの人間像が政治にもたらす影響は、新自由主義が生み出す脱政治化のプロセスと重なる。この脱政治化、すなわち本来政治がかかわるべきだったはずの事柄を「市場に任せる」政策を推奨したのは政治家や官僚自身だったのだ。これは皮肉というべきか、本当の狙いだったのか。正面からの公共的議論を避ける、あるいは政治的争点化より利益の分配のほうが御しやすいという魂胆によるものなのだろう。

政治が経済主義的に理解されることが広がれば、政党による票の獲得競争は「市場シェアを奪い合う企業」の競争に見立てられる。政党や政治家はマーケティングの技術を使って有権者にアピールする主体となる。政治に広告代理店が介入してくるのは必定だ。こうなると、有権者は政策の中身ではなく政党やリーダーへの「信頼感」といったあいまいな何かを重視するようになるという。これが常態化すると、人気商品をつられて買うように政治家を選ぶことにばかばかしさを感じる人が増えて、投票に行かなくなる。

先のヘイによれば、「選挙を市場に見立てることは、有権者を合理的な消費者へと矮小化することを意味し、そして原子論的な合理的消費者にとっては棄権こそが合理的な行動となる」。政治不信と脱政治化は進行するばかりだ。

経済学の自己抑制と世界理解の新しい文法

こう見てくると、「経済学はさまざまな領域へとその世界像や価値観を押し付け、他の学問的流儀や政治的立場を追い立てるような」仕儀に陥ったといわざるをえない。繰り返しになるが、経済学にとってホモ・エコノミクスという前提は、新しい科学理論を作り上げていくための単純化された「仮構的人間像」として取り入れられたにすぎない。ウェーバーの理念型ではないが、ある傾向性の一面的高昇によって事柄の特質が析出されるのは本当だ。

重田氏が批判的に検討している経済学の数学化も、私にいわせれば、厳格な限定条件の中で抽象度の高い経済的思考を深めていくためには必要であろう。しかし、最初はつつましく、厳格であった前提条件はしだいに忘れられる。そして、虎の威を借りる狐のように「科学としての経済学」という幟を振り立てたお囃子組が、さまざまな分野に経済学的思考の拡大適用を広めてきたのが現実だ。俗流経済学とか経済学帝国主義という古い言葉が思い浮かぶ。

本書の最後で重田氏は改めて確認する。「ホモ・エコノミクスとしての人間が、人の一部として存在しないわけではない。だが自己利益そのものも、社会的・文化的な条件のもとで、様々なやり方で表現されるものだ。なかでも自己利益が経済的利得の最大化に限られないことは重要だ」。そして警告する。「経済学の前提と知見を拡張するのは危険であることを、いつも心に留めなければならない」「今後は、経済学の自己抑制と社会的価値観の転換が同時に起こらなければ」人類の未来はない、と。

まったくその通りだ。いまこそ世界の見方、 「社会を理解する文法」 を変えなければならない。

みやざき・とおる

1947年生まれ。日本評論社『経済評論』編集長、(財)国民経済研究協会研究部長を経て日本女子大、法政大、早稲田大などで講師。2009年から2年間内閣府参与。現在、本誌編集委員、生活クラブ生協のシンクタンク「市民セクター政策機構」理事。

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