この一冊
高良留美子著『世紀を超えるいのちの旅――循環し再生する文明へ』(彩流社 2014.6)
月と海―息する文明への原イメージ
本誌編集委員 米田 祐介
息するものは生きている、生きるとは息をすることだ。〈息する〉が縮まって〈生きる〉になったのかもしれない、と著者はいう。人間も、動物も、そして植物も息をする。息することをやめるとき、生きものはもはや生きていない。また〈息〉のなかには、〈気〉という言葉がはいっている。息をするとは、内と外を〈気〉が流通し、循環することだ。ぼくらは、死にそうな人をこの世に引きとめたいとき、その人に息を吹き込みたいと思う。その人の身体に気を送りこみ、息を吹きこもうとするのだ。著者はいう。息は“生き”であり、生命そのものなのだから、と。
だが、ぼくらはいま、息もきれぎれに文明社会を生きてはいないだろうか。原子力発電所は、息をするということ、生きるということからもっとも遠くにある。プルトニウムの半減期は、2万4000年以上という半永久的な長さである。これが完全に無害化されるには、人類がアフリカを出てから今日までの7万年をさらに越える、10万年という歳月が必要だ。ここには循環する時間性という思想のかけらもない。一本の木のなかには、まだない一本の木があるということ、未来へのいのちがあるという想像力のひとかけらもない。このような循環なき文明に対し、対抗イメージを創出することはできないであろうか。言い換えれば、循環し再生する、〈息する〉文明へとぼくらは生きていけないだろうか。
本書は、詩人・評論家の高良留美子さんがここ33年間に書いた自然と文明、原発と原爆、女性/母性と部落問題、そしてアジア・アフリカに関する評論・エッセイ63篇と、詩7篇を収録する。いや例外的に早い「無限なものとアジア」の1970年12月を勘案するならば、執筆時期は約41年間にもおよぶ。Ⅰ いのちを生きる、Ⅱ 循環するいのちの文明へ、Ⅲ 原爆を意識的契機として、Ⅳ 循環を断ち切った日本文化、Ⅴ 母・家族・女と男、Ⅵ アジア・アフリカ、戦争、植民地――世紀を超える旅、Ⅶ 未来の文明への架橋、という構成のうちに珠玉のような作品群が配置され、やわらかくもやさしい文章が静かな筆致で綴られているが、通底するものは硬質だ。
通読するに、約41年間にわたり綴られた言葉たちは、あたかもカナリアのようにフクシマ以後の世界において問われるべきものを問うと同時に、ぼくらが女から、母から産まれ、息をするということ、生きているということ、このあまりにも単純な事実がどれほど多くのことを語っているかを開示してくれる。それはとりもなおさず、現代文明への対抗イメージを喚起するものとなっているが、しかしここで少し注意しよう。もとより批判のまなざしが向けられる文明とは男性主導の父権的文明であるが、たんにこのような文明・社会構造を批判した書ならば数多あるだろう。だが、本書の魅力は、神話のもつ循環する時間性に着目し、戦争や植民地、原爆や原発など、循環を破壊する事象の異様さを際立たせている点にある。そして文明の転換期にあるいま、その価値軸の原イメージを“月と海”に高良さんは求めているようにぼくには読める。それは同時に、副題が示す“循環と再生”にそれぞれ呼応し〈息する〉文明へとぼくらを誘うものとなっている。ほんの少しページをめくってみよう。
「神話的言語とは、私見〔高良〕によれば、イメージによって考える言語であり、類似や類推や対応を手がかりとして考える、感性や直感と結びついた言語である。月の三つの相〔新月、満月、旧月〕を女性の三つの相〔処女、ニンフ(年ごろの女)、老女〕と重ね合わせたり、動植物の出生・成長・老化と重ねあわせたりするのは、まさにそれに当たる」(「女神の分割」、補足米田)。かつて月は太陽よりも優位にたつ存在だった。日本にも縄文時代に月の大母神があり、月の神話があり、月の時代があったのである。そしてこの時代、身分差も戦争もなかった。「その満ち欠けは海や生きものたちに働きかけて動植物の生誕に関与している。女性たちは三つの相を生き、人間も動植物も生誕と成熟と死を繰り返している。しかもその死は、何らかの形で再生につながっていたのである」(同)。循環(し再生)するイメージとしての“月”。
そして、(循環し)再生するイメージとしての“海”。海という漢字のなかに母という字がはいっていることは、よく知られている。フランス語では反対に母という単語に海がはいっている。海は母を宿し、母は海を宿す。海と“産み”との関係については、神話や伝説が多くを語ってきた。生命の起源は海ともいわれ、羊水と海水との成分の類似は科学的にも実証されている。「出産は水の流れとも関わりが深いが、水は遠く近く海と呼応し、海に流れこんでいる」(「海への賛歌」)。また「海はその青さと平らさと深さと、そしてなによりその繰り返しのリズムによって、わたしたちの身体の深いところに染みついた苛立ちや傷をいやしてくれる。その治癒する力は、音楽のそれにも似ている」(同)。その海の繰り返しのリズムとは、まさに母の心音であり、収縮であり、鼓動であり、それによってはじめて、ぼくらは有音節を語りだすことができる(「日本語と〈母の言語〉」)。いのちの語りに耳をすませ、いのちをリズムや音節のうちに語ることができるのだ。
いま改めて、ぼくらは“月と海”へと想像の翼をひろげねばならないと思う。循環し再生する文明――〈息する〉文明を生きるために。
まいた・ゆうすけ
1980年青森県生まれ。本誌編集委員。関東学院大学・東京電機大学非常勤講師。著書に『歴史知と近代の光景』(共著、社会評論社、2014年)、『日本海沿いの町 直江津往還――文学と近代からみた頸城野』(共著、同、2013年)、『現代文明の哲学的考察』(共著、同、2010年)、『マルクスの構想力――疎外論の射程』(共著、同、2010年)がある。
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