追悼 ―小畑精和さん

日本の戦後文学からカナダ文化まで

文芸評論家 小林 孝吉

25年間にもおよぶ文学の友・小畑精和さん(明治大学教授、本誌編集委員)は、2013年11月22日、下咽頭がんのため、61歳でこの世を去った。

小畑さんと私は同年齢で、私が文芸評論を書きはじめた30代半ば、高良留美子さん責任編集の『新日本文学』(1988年春号)の小特集「戦後文学は無効か」に、私たちは評論を書くことで出会った。小畑さんは、「リアリズムと反リアリズム――戦後文学への一視点」、私は「存在の裸形――戦後文学の出発点」を執筆し、同時に二人は新日本文学会の会員、幹事、編集委員になり、戦後半世紀以上つづいた『新日本文学』が終刊となる2004年まで、さまざまな文学活動をともにした。

私たちが入会した当時、ポスト・モダン、高度消費社会といわれ、戦後文学は「大きな物語」として、文学や思想の前景から消え去っていた。そんななかで、小畑さんは西欧的リアリズムや小説論から、日本におけるリアリズムの歪みと天皇制の関係についても論じ、その評論をこう締めくくっている。「日本の現代社会の歪みを正し、それを乗り越えることがわれわれの課題であろう。そのためには、輸入物のポスト・モダンの思想が有効でないことは確かであろう。また天皇制がもたらした歪みを天皇制でもって正すことはまったく不可能であることもあきらかであろう」と。

この評論には、近代文学からヌーヴォー・ロマンまでを対象としたフランス文学からカナダのケベックのフランス語文学、カナダ文化まで、「キッチュ」や「レアリスム」をキーワードに研究の領域を広げていく、その出発点が凝縮されていたのではなかったか。それは絶対的なものを相対化し、マルチカルチャリズムの可能性に光をあて、新たなハイブリッドな文化や社会をめざす、そのひとすじの源流のようにも見えてくる。

小畑さんの遺著ともいえる『カナダ文化万華鏡――「赤毛のアン」からシルク・ドゥ・ソレイユへ』(明治大学出版会、2013年3月)の第8章では、『赤毛のアン』とキッチュについてふれ、最後にこう書いている。――キッチュは悪趣味で借り物かもしれないが、それが滑稽に見えるとき、既成の価値観を揺るがす可能性がある、と。おそらく、単一な国家や文化、価値や社会、それを相対化する視点、それが小畑さんの文化研究の底を地下水脈のように流れていたのであろう。

『新日本文学』の他にも、私たちは1996年創刊の『千年紀文学』、シンポジウム、講座、研究会など、いっしょに活動することが多かった。なかでも忘れがたいのは、1999年8月、韓国文学評論家協会と千年紀文学の会、中国延辺大学とで共催した「東アジア文学における満洲体験」をテーマとした第3回東アジア文学シンポジウムである。私たち千年紀文学の会員10名と、韓国の文学者たちは、この延辺でのシンポジウムをはさんで、一週間ほど中国の朝鮮民族自治州の州都延吉、朝鮮民族の聖地白頭山、北朝鮮との国境の図們江、詩人尹東柱の生家、かつてパルチザンが抗日運動をたたかった深い山々、延々とつづく玉蜀黍畑などをバスでめぐった。

そのころは、日本では日の丸・君が代が法制化されるなど、右傾化への時代の転機にあった。さらに、それから15年過ぎ、東アジアではそれぞれナショナリズムが高まり、日本は集団的自衛権の閣議決定へと向かっている。いまであれば、韓国、日本、中国によるあのようなシンポジウムも、日韓の文学者同士の交流の旅もしにくいであろう。

小畑さんは、延辺のシンポジウムでは、国民国家、ナショナリズムについて発表し、その記録を「ナショナリズムについての反響」(『千年紀文学』第22号)というエッセイに残している。発表のあと、韓国ではまだナショナリズムが必要であるという韓国の参加者の意見に対して、国民国家の形成を絶対的な価値として認めることはできないと答えたという。

このバスの旅のなかで、些細なことではあるが印象に残っていることがある。ある夕方、バスが宿泊するホテルへ向って進んでいたとき、おそらく韓国側の何かの事情でバスが逆戻りをはじめたとき、薄暗い車内で一人小畑さんが立ち上がって、大きな声でどうして戻るのか説明してほしいといった。私は仕方ないと思っていたが、そういう何気ないことでもはっきりとさせたいという姿勢に心うたれた。

最後の別れとなったのは、2013年9月27日夜のカナダ大使館での講演のときであった。講演のパワーポイントでは、カナダ生まれで、スコットランド・アイルランド系の母、ノルウェー系の父を両親にもつ音楽家ジョニ・ミッチェルの悲しげな曲とともに、『赤毛のアン』の舞台プリンス・エドワード島の景色、冬凍った川でスケートをする人たちの映像とともに、多文化主義カナダの万華鏡のような文化を、声をふりしぼるように紹介した。会場の出口で別れぎわに交わした握手の冷たい手と細い声は、あの延辺でのたくましい姿や声と大きく変わっていた。そのとき、私は小畑さんとはこれが最後になるような気がしてならなかった。

私自身も還暦前後、これまでにない心身の不調を感じ『方丈記』の「知らず、生まれ死ぬ人、何方より来たりて、何方へか去る……」などの言葉が心に響き、25年前『新日本文学』に書いた戦後文学のまとめとなる新著『椎名麟三の文学と希望――キリスト教文学の誕生』(菁柿堂、2014年)に自筆年譜を載せたりもした。一方、贖罪による回心から再臨信仰へと至った一キリスト者・内村鑑三論にも本格的に取り組みはじめた。

日本社会と東アジアの現在を想うとき、あらためて小畑さんの多文化主義・ハイブリッドな視点と、その研究書『ケベック文学研究――フランス系カナダ文学の変容』(御茶の水書房)『「ヌーヴォ・ロマン」とレアリストの幻想』(明石書店)やジャック・ゴドブー『やぁ、ガルノー』(彩流社)などケベック文学の訳書は、かならずやナショナリズムからの自由への未来的道標となるであろう。

『赤毛のアン』の訳者・村岡花子の生涯を扱ったNHK朝の連続ドラマ「花子とアン」のテーマソング「にじいろ」を聴くとき、それとは対照的なジョニ・ミッチェルの曲と、カナダ大使館の講演のスライドで見たどこかさみしいプリンス・エドワード島の風景が重なり、文学の友・小畑さんのことが想いだされてならない。

小畑精和(おばた・よしかず)さん

―2013年11月22日、下咽頭がんのため死去。61歳。1952年東京生まれ、大阪育ち。京都大学文学部大学院博士課程満期退学(フランス文学)。明治大学政経学部専任講師、助教授を経て95年教授。2004年明治大学国際交流センター副所長、08年所長。2006年2月明治大学カナダ研究所を設立、初代所長。2008年10月に日本ケベック学会を設立、初代会長。2011年より明治大学体育会ラグビー部長。04年廃刊の『新日本文学』の最後の編集委員の一人。千年紀文学の会・設立同人。日本カナダ学会理事。04年第3次『現代の理論』編集委員。「北米フランス語の普及功労賞」(1998年)をアジア人としてはじめて受賞。主な著書は本文参照。

小畑さんの遺作となった
「カナダ文化万華鏡―『赤毛のアン』からシルク・ドゥ・ソレイユへ」
(明治大学出版会 3564円 2013.3)

こばやし・たかよし

文芸評論家。1953年生まれ。『千年紀文学』編集人。『新日本文学』では小畑精和氏とともに編集員委員を務める。主な著書『記憶と文学――「グラウンド・ゼロ」から未来へ』(御茶の水書房、2003年)、『埴谷雄高『死霊』論――夢と虹』(御茶の水書房、2012年)、『椎名麟三の文学と希望――キリスト教文学の誕生』(菁柿堂、2014年)、他。

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