特集●次の時代 次の思考 Ⅱ

3・11後にポスト資本主義論を構想する

マルクスの視点から

一橋大学名誉教授 岩佐 茂

はじめに

大飯原発運転差し止めを求めた訴訟で、大飯原発の3、4号機の再稼働を認めない判決が、さる5月21日に福井地裁で出された。判決は、原発訴訟で、3・11後に初めて出されたものである。

判決文は、原発は人格権の中核をなす「個人の生命、身体、精神及び生活に関する利益」よりも「劣位に置かれるべきもの」であると指摘している。「国民の安全が何よりも優先されるべき」であって、「極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等とを並べて論じるような議論」は「法的には許されない」とまで言い切っている。

判決は、国民のいのちと安全を最優先にして原発の再稼働問題を考えている。まっとうな判断である。それにもかかわらず、財界や安倍政権は、判決に背を向けて、再稼働を急ごうとしている。

ここには、国民のいのちと安全を最優先するか、コストや利益を優先するかという対立がある。判決の言葉で語れば、「豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富」であるとみなすか、「原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出る」ことが「国富の流出や喪失」とみなすかの対立である。

私の言葉で語れば、「生活の論理」と「資本の論理」の対立ということになる。

1 生活の論理 vs 資本の論理

生活の論理は、生活するもの、生活者のいのちと健康、安全を守ろうとするものである。それは、安全で快適な生活環境のなかでよく生きることを目指して、自らの生活を他者とともに大切にし、他者の生活を自らの生活と同じように尊重しながら、労働生活を含め生活を享受する価値的態度である。

他方、資本の論理は、利潤を最大化し、資本を蓄積しようとする。資本の論理を特徴づけているのは、「わが亡きあとに洪水は来たれ!」という態度である。これは『資本論』の言葉である。自己本位、刹那主義の代名詞みたいなこの言葉は、もともとルイ16世の王妃、マリー・アントワネットが語ったといわれているが、マルクスは、利潤を最大化することに血眼になり、社会や人類、将来世代のことには無関心・無責任にふるまう資本の論理(マルクスの言葉では、「資本の本性」)を特徴づけて、この言葉を用いた。

だが、マルクスは、この言葉に続けて、「だから、資本は、労働者の健康や寿命には、社会によって顧慮を強制されないかぎり、顧慮を払わないのである」と記している。公害問題もそうであるが、社会的な「顧慮」によって資本は制約をうけざるをえない。強欲な資本の論理は、そういった社会的な「顧慮」も踏みにじろうとする。3・11後に、福島の陥った苦境や被ばくの現実に直面しながらも、まだ原発の再稼働に固執している姿は、「わが亡きあとに洪水は来たれ!」といったふるまいそのものではないのか。

2 マルクスのポスト資本主義論の基本的視点

福島の原発事故は、「文明史的」災害であるといわれる。わたくしも、そう思う。だが、福島原発事故を「文明史的」災害ととらえる論者の多くが近現代の科学・技術批判や物質文明批判にとどまり、資本主義批判の視点を欠いている。近現代の工業文明は科学・技術の巨大な発展によって支えられたが、工業化を主導したのは資本主義だからである。

資本主義をラジカルに批判したのは、マルクスであった。彼は、資本の論理による人間の収奪(労働者の搾取)と自然の収奪を批判した。彼がポスト資本主義論として提起したのはコミュニズム(共産主義)であった。コミュニズムは共産主義と訳されて定着したが、共同主義といわれるべき方がより適切であるかもしれない。

だが、マルクスの理念の実現を目指したはずの東欧の社会主義国は、マルクスの掲げた理念を色あせたものにして崩壊した。ここでは、その理由は問わない。マルクス後のマルクス主義、既存の社会主義国に彩られた社会主義のイメージではなく、マルクスその人の思想に即したポスト資本主義論を問うことにする。

若きマルクスや『資本論』も含めて、かれの共産主義を特徴づけている基本的な視点を3点ほど指摘しておきたい。

第1は、生活者の視点である。生活者とは、たんに消費者としての生活者を意味するのではなく、自然と社会的な交わりのなかで、労働し、飲食し、談笑し、余暇を楽しみながら、喜び、悲しみ、ときには怒りをあらわにして生きている人々のことである。生活者は、自らの生活をとおして、自己を表現し、生活を享受する。この生活者の視点は、若きマルクスより『資本論』にいたるまで貫かれている。

生活者にとって、もっとも基本となるのは衣食住の欲求である。人間の衣食住の充足の仕方は、労働によって生産物をつくり、それを消費することによっておこなわれる。飲食し、呼吸し、排せつする外的自然との物質代謝と、衣服をまとい住まうことによる安全・安心や健康の確保が、その中心となる。

第2は、疎外の視点である。『パリ手稿』では、「第一手稿」で「疎外された労働」が、「ミル評注」で「疎外された交通」が、そして「第三手稿」で「疎外された生活」が分析された。「第一手稿」では、疎外された労働に疎外されざる労働が対置されているだけであるが、「第三手稿」では、疎外の揚棄が論じられている。この疎外論の視点は、若きマルクスより『資本論』にいたるまで貫かれている。

その特徴のひとつは、「私的所有の積極的揚棄としての共産主義」のテーゼにおいて語られている。マルクスは、現実の「私的所有」による疎外された否定的現実(「疎外された労働」と「疎外された交通」という「経済的疎外」とそこから派生する二次的疎外を含む「疎外された生活」全体)を具体的に、徹底して批判しつつ、そのうちに潜在的に含まれている肯定的契機を対自化・理念化することを通して、その対極に共産主義を構想したのである。

もうひとつの特徴は、「人格の物象化と資本の人格化」という『資本論』で提起された物象化論にある。資本家が資本家であるためには、資本という物象に纏わりつかれて、人格が物象化され資本という物象を体現した経済活動を強いられるからである。物象化は、疎外の一形態である。

第3は、アソシエーションとしての共産主義の視点である。アソシエーションは、「協同団体」あるいは「連合」「結合」といった意味である。マルクスは、共産主義を自立した「自由な諸個人のアソシエーション」としてとらえた。アソシエーションは、将来社会において突如として形成されるものではなく、疎外され、物象化された現実のなかでも、協同組合やNGO、社会的企業などのように、資本の論理にかならずしもとらわれていない組織や運動のうちに萌芽的にみることができる。

マルクスの共産主義は、疎外され、物象化された現実の批判をとおして、自立した「自由な諸個人のアソシエーション」が実現される社会として構想されている。このアソシエーションの視点は、若きマルクスより『資本論』にいたるまで貫かれている。

それゆえ、マルクスのポスト資本主義論は、資本主義の全面否定ではない。資本主義の否定的現実を疎外として批判しつつ、そのうちに潜在的に含まれる肯定的契機を共産主義として構想し、制度化しようとするものである。

ここでは、3・11を踏まえて、資本の論理による疎外された工業化、疎外された産業技術のあり方を考えてみたい。

3 資本の論理による疎外された工業化

資本の論理は、労働者を経済的に収奪(搾取)するだけではない。自然をも収奪する。工業化は、自然をつくり変えて、生活と社会にとって有用な工業製品を産出することであるが、自然の収奪にもとづく工業化は、疎外された工業化と特徴づけることができる。

その第1の特徴は、工業化を推進している産業技術の一面的な発展にある。産業技術は、その目的の実現に特化した効果的・効率的な開発が主眼になるために、環境への影響や負荷を考慮することなく技術開発がおこなわれ、実用化されるからである。この点について、B・コモナーは、「環境破壊は主として、新しい工業技術や農業技術を導入したことによって起こっている。こういう技術は、単一の独立した問題の解決だけを目的としており、天然ではすべての部分が生態学の網目でつながっているために、必然的に起こる“副作用”について考慮していないので、生態学的には不完全なものである」(『なにが環境の危機を招いたのか』阿部喜也・半谷高久訳、講談社ブルーバックス、1972年)と、指摘している。

第2の特徴は、生産過程における環境の汚染、破壊を不可避に伴っていることである。生産過程で生じる煤煙や廃液、汚染水、生産過程で生じる産業廃棄物などは、再利用した方が利益のあがる場合を除いて自然にそのまま廃棄され、それが環境を汚染し、破壊するからである。日本の高度経済成長期の産業公害は、このようにしてひき起こされた。大量生産‐大量消費の生産の仕組みは、それに拍車をかけることになった。廃棄物が衛生上の問題であるだけではなく、環境問題として自覚されるようになったのは、1980年代後半以降のことである。

第3の特徴は、大量生産‐大量消費‐大量廃棄(最近では、大量リサイクル)によって自然を収奪していることである。とりわけ広告宣伝を活用した過度の過剰消費は、自然の収奪をいっそう促進している。また、農薬や食品添加物、建材など、商品化された大量の人工化学物質は、人間の健康に陰に陽に影響を与てきたが、事後的に規制されるまで野坊主に放置されてきたし、少々の有害性は見過ごされてきた(発がん物質の規制はなされても、発がん誘発物質の規制はきわめて不十分である)。

第4の特徴は、重化学工業を中心とした大量生産の仕組みが大量のエネルギーの消費や浪費になっていることである。巨大ダム建設は生態系を破壊する。化石燃料は、SO2やNO2による環境汚染だけではなく、CO2による温暖化をもたらす。原子力発電は、解決できない放射性廃棄物の問題だけではなく、過酷事故のリスクを抱え込んでいる。それが現実になったのがスリーマイル、チェルノブイリであり、福島であった。

疎外された工業化に対して、環境の汚染や破壊が深刻になり、人間の健康も損なわれるようなことになれば、生活の論理にもとづいて、環境保護運動や住民運動、消費者運動などの市民運動や世論におされて、法的な規制がおこなわれるようにならざるをえない。マルクスの言う、社会によって強いられる「顧慮」である。

4 20世紀型の工業化を担った化石燃料と原発

自然の大規模な乱開発や重化学工業中心、大量生産、エネルギーの大量消費による疎外された工業化は、20世紀型の工業化として特徴づけることができよう。それを支えたエネルギー源である化石燃料は地球温暖化をもたらし、原発はスリーマイル、チェルノブイリ、そして福島と、過酷事故をひき起こした。

温暖化も原発も、地球や人類の存続をも危うくする深刻なリスクを抱えている。

温暖化の進捗状況は深刻である。今年の梅雨では、局地的なゲリラ豪雨による異常気象が続いた。温暖化のせいといわれている。

実際、温暖化の原因である温室効果ガスの濃度は、日本の観測地点である綾里、南烏島、与那国島やハワイのマウナ・ロアで、2013年春に400ppm(産業革命前は、CO2は280 ppm)を超えたことが報告されている。気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の第4次評価報告書(2007年)では、温暖化が人為的起源によってひき起こされる「可能性が非常に高い(very likely)」(90%を超える発生確率)と指摘されたが、第1作業部会の新しい第5次評価報告書では、その「可能性がきわめて高い(extremely likely)」(95%を超える発生確率)と報告されている。

このまま推移すれば、今世紀末には、地球の平均気温は3.7~4.8℃上昇することになる。気温2℃の上昇が、急激な変化をひき起こすティッピング・ポイント(限界点)であるといわれている。それを防ぐには、温室効果ガスの濃度を450ppm以内に抑えなければならない。必要なのは、大幅なCO2の削減、というより脱化石燃料の方向である。

福島の原発事故もいまだ深刻な予断を許さない事態が続いている。廃炉までに30~40年かかるといわれているが、原子炉建屋などの高濃度の放射能汚染水が地下に漏えいしている問題を含め、事故を起こした原発は制御できていない状況にある。故郷に帰れない、帰らない原発被災者はいまだに14万人近くいて、「故郷の喪失」という事態が生じている。

放射能汚染による被ばくの問題も解決されていない。甲状腺がんは、通常100万人に1人の割合で発症するといわれている(2008年の福島県の小児甲状腺がんの発症はゼロ)。それが、福島県・第13回「県民健康調査」検討委員会(2013年11月12日)では疑いがある人を含めて58人、第14回検討委員会(2014年2月7日)では75人、第15回検討委員会(2014年5月19日)では、90人(1人は良性)と増え続けている。検討委員会は、「放射線との関係は考えにくい」というが、疫学的にみて、被ばくとの関係を疑わせる有意味な数字であることはまちがいない。確率的影響であるとしても、低線量被ばくのリスクを軽視することはできない。

事故の問題だけではない。「トイレのないマンション」といわれるように、10万年の長きにわたって、地震国の日本では、放射線廃棄物を保管できるような地下空間はないというべきであろう。必要なのは、現時点での経済的コスト(稼働していなくても、膨大な維持費がかかる)の面から原発の再稼働を推進するのではなく、脱原発へと舵を切ることである。

21世紀の工業化は、20世紀型の疎外された工業化を揚棄する方向で展望される必要がある。そのなかでも、脱化石燃料と脱原発は喫緊の課題となるであろう。代替エネルギーとして世界的に注目されているのは、自然エネルギーである。

オイルショックのときは、それほど遠くない将来化石燃料が枯渇するという危機感から、日本でも「サンシャイン計画」(新エネルギー技術開発計画)や「ムーンライト計画」(省エネルギー技術開発計画)が立てられ、自然エネルギーが脚光を浴びるようになった。だが、その実用化はまだ技術的には難しかった。

だが、今日では、事情が異なる。技術的レベルでは、自然エネルギーを十分活用することができるまでになっている。問われているのは、自然エネルギーへ促進の政治的イニシアチブとシステムづくりである。

温暖化対策も含め、トップランナーであるドイツは、脱原発の方向性を決めた「倫理委員会報告」(2011年6月)を受けて、脱原発にあらためて舵を切った。もう後戻りすることはないであろう。「倫理委員会報告」では、自然エネルギーへの転換は「難しい決断と負担」を伴うものではあるが、「ひとつの大きなチャンス」「挑戦」であると指摘されている。「未来のための共同事業」として、英知を結集すれば実現可能な課題なのである。

日本の場合は、過去も、現在も、ドイツと対照的である。

温暖化問題が浮上してきたときに、「原子力ムラ」を中心に、発電時にCO2を出さないクリーンなエネルギーということで、原発を強力に推進し、さまざまな理由をつけて、自然エネルギーを抑え込んだ。そのために、日本は、太陽光発電など自然エネルギーの技術的開発ではトップレベルでありながら、自然エネルギーの普及では、先進国のなかで後塵を拝することになった。

現在も、福島の過酷事故を経験したにもかかわらず、脱原発へ舵を切れない状況が続いている。「原子力ムラ」を中心とした原発固執派が息を吹き返しているからである。だが、脱原発を求める運動や世論の社会的「顧慮」が強まっており、せめぎ合いの状況にある。

5 疎外された工業化を揚棄するもう一つの工業化

21世紀の工業化は、20世紀型の疎外された工業化をのり超えることが課題となっている。どのように揚棄し、もう一つの(alternative)工業化を実現していくべきなのか。そのためには、エネルギーと産業構造の両面から考える必要がある。

エネルギーの面では、大規模発電・大量輸送型のエネルギーを、必要なところで必要なだけ供給する小規模・分散型のエネルギーへ転換を図ることである。そのためには、蓄電池やスマートグリッド、インターネット・IT(情報技術)の活用など、自然エネルギーの活用・普及に適したインフラ整備をすることが急務である。

日本は、エネルギー資源に乏しいのではなく、風力、太陽光、太陽熱、バイオマス、小規模水力、地熱、潮力などの自然エネルギーにかんしては、「エネルギー大国」なのである。省エネを進める余地はまだまだあるし、過度のエネルギー使用に頼らない生活スタイルを確立する必要もある。

加えて、「次世代エネルギー」といわれる水素エネルギーが、自然エネルギーに加えて、現実のエネルギーとして利用されるのも遠い将来のことではない。エネルギー政策とインフラ整備によっては、近い将来に水素社会を実現させる可能性があるからである。

水素と大気中の酸素を反応させる燃料電池は、電力と熱を取り出すことができる。住宅用の燃料電池は電気と熱を供給することができ、まだコストは割高だが、すでに市販されている。次世代の究極のエコカーとして注目される燃料電池車は、今世紀に入るあたりから自動車業界が競い合っていたが、トヨタが2014年度中に発売すると発表した(今は、数少ないリースだけ)。水素スタンドのインフラ整備もまだお粗末であるし、コストも高い。コストが高い理由の一つは、希少金属である白金を触媒に使っているからである。だが、最近、九州大学の研究グループが、白金に代えて水素酸化反応を触媒する酵素、ヒドロゲナーゼを電極に使った燃料電池の開発に成功した。ヒドロゲナーゼは、微生物がつくる金属酵素である。21世紀は、燃料電池を含めて、水素エネルギー時代の到来が射程に入ってきている。

産業構造の面では、重化学工業中心の、大量生産の産業構造からそれとは異なるもう一つの工業化への転換を図ることが必要になる。

第1に、環境の視点を経済活動に徹底することである。これは、「環境産業革命」と呼ばれてよい。環境の汚染や破壊を不可避に伴ってきた資本の論理に対して、生活の論理や社会的「顧慮」から、経済活動をおこなうさいの環境を保護する諸原則が確立されてきた。

(1)発生源防止の原則。これは、汚染物質を発生源から絶つという原則である。

(2)未然防止の原則。これは、環境汚染がひき起こされることが事前に分かっている場合、被害が生じる前に環境汚染を防止するという考え方である。

(3)汚染者負担の原則(PPP)。これは、汚染をひき起こしたものが汚染された環境を修復する義務を負うという考え方であり、日本では被害者救済も含まれる。「日本型PPP」(宮本憲一)ともいわれる。

(4)予防原則。これは、不可逆的リスクがある場合には、細部にわたって科学的データに不確かさがあるとしても予防的対策をとるべきであるという考え方である。フロンガスの削減や温暖化防止のためのCO2削減の国際条約のなかにとり入れられている。

これらの原則はいずれも、欧州連合(EU)の創立を決めたマーストリヒト条約(1992年)に盛り込まれている。

1990年代に、廃棄物の増加が環境問題でもあることが自覚されるなかで確立された原則として、(5)拡大生産者責任がある。これは、消費のあとに排出される廃棄物にたいしても生産者が責任を負うという考え方である(日本では、生産者の責任はあいまいにされている)。

これらの原則を環境保全のための経済活動のルール(法的システムや規範)として徹底していくことが環境産業革命にとっては不可欠である。

第2に、産業技術の開発・実用化においても、人間と自然の調和、人間と自然の正常な物質代謝を損なわないような産業技術の開発・実用化を促進する必要がある。

近現代の工業化は、自然科学の発展に支えられて、自然を技術的に支配することができるという観念をもって、人間に都合よく功利的に自然を改造してきた。資本の論理がそれに拍車をかけた。技術万能主義の考え方である。原発の技術は、このような考え方の最先端にある。

だが、「自然の支配」という観念をもつことと、実際に自然を支配したり制御することができるようになることとは別である。人間は、「神」ではない。人間の自然認識がつねに限られたものである以上、自然にたいする人間の制御は、一時的に、限られた範囲で、ごく部分的でしかないからである。

エンゲルスは『自然の弁証法』で、「自然の復讐」について語った。人間が自然にたいして「勝利」したとしても、「二次的、三次的には」、その「勝利」をも「帳消し」にしてしまうほどの「まったく予想もしなかった作用」をひき起こすからである。「自然の復讐」である。資本の論理が推進した近現代の工業化は、エンゲルスが指摘した道を歩んできた。

それゆえ、21世紀の工業化を支える産業技術は、自然の支配という観念にもとづいて推進されるべきではなく、人間と自然の調和という視点から開発・実用化することが重要になる。その可能性を秘めた「もう一つの技術」で、わたくしがとくに重要であると考えているものを2点ほどスケッチしておきたい。

第1に、大規模な自然収奪を推し進めてきた巨大技術ではなく、適正技術の積極的活用である。原発が最たるものであるが、事故を起こせば、制御が難しくなるような巨大技術は使用されるべきではない。

インドの仏教経済学者、シューマッハーは『スモール・イズ・ビューティフル』で、「人間の顔をもった技術」として、「中間技術」を提唱した。かれが「中間技術」を「1ポンド技術」と呼んでいるように、「中間技術」のモデルは発展途上国の技術開発にあった。

シューマッハーは「中間技術」を適正技術とみなしたが、適正技術はそれだけにとどまらない。高度な適正技術やソフトテクノロジー、エコ技術なども適正技術に含まれる。その特徴は、地域の生態系や文化とマッチしたかたちで地域経済を活性化し、地域社会が管理できるものという点にある。

第2 に、生物模倣技術(biomimetics)や生物資源の開発・実用にかかわるバイオテクノロジーは、まちがいなく21世紀の工業化の軸になっていくであろう。

生物模倣技術は、自然のなかで、自然を壊さないで自然に支えられて生きている生物の構造や機能に学んで、自然と調和した産業技術を創り出そうとするものである。ヤモリテープは、垂直の壁をもよじ登るヤモリに学んで、接着剤なしのテープとして開発された。くもの糸は、鉄よりも強度が強いが、人工的につくるのが難しいといわれてきた。だが、慶応大学発のベンチャー企業、スパイバーがくもの糸を人工的につくる技術の開発に成功し、量産化に取り組んでいる。「夢の糸」といわれている。

生命の尊厳を脅かすバイオテクノロジーは疎外された技術であり、活用すべきではないが、衣食住を中心に生物資源を活用するバイオテクノロジーは人類の歴史とともに古い。人間は生物体そのものを資源として利用してきただけではなく、蚕が紡ぐ繭を利用してきたように、生物体が分泌や代謝で排出したものを利用してきた。

そのなかでも、微生物は、21世紀の工業化のなかではたす役割はきわめて大きいものがある。微生物は顕微鏡で見なければ見つけることができない微小な生物の総称である。微生物にはカビや酵母、細菌、藻類の一部などが含まれる。ウイルスを含める場合もある。細菌やウイルスのように病気の病原体となるために、人類の敵対物のように扱われる微生物もある。

だが、微生物と人類の付き合いの歴史は古く、人類は、微生物による幾多の恩恵にあずかってきた。人類の文明とともに歩んできたビールやワインなどの酒類は、酵母による発酵は欠かせない。味噌・醤油・納豆などの発酵食品は、日本人の歴史とともにある。

最近では、微生物を産業に利用しようという試みも活発である。汚染水の浄化でも、微生物は力を発揮している。ミドリ虫からバイオ燃料を取り出すことも実用化されつつある。先にあげた燃料電池では、九州大学の研究グループが、白金電極に代えて、水素酸化酵素であるヒドロゲナーゼを電極に用いる研究開発に成功した。酵素は、微生物がつくるものである。人工のくもの糸を紡ぐのも微生物である。微生物が分泌や代謝によってつくるたんぱく質は、今後ますます、石炭や石油などの化石資源に代わる原料として、その比重が高まっていくであろう。

6 「自然の支配」を目指さないマルクスの自然観

人間と自然の調和の視点は、若いときよりマルクスがもち続けた自然観である。『経済学・哲学手稿』「第三手稿」における「共産主義は完成された自然主義として=ヒューマニズムであり、完成されたヒューマニズムとして=自然主義である」「(共産主義の――筆者)社会は、人間と自然との完璧な本質一体性であり、自然の真の復活であり、貫徹されたる、人間の自然主義と、貫徹されたる、自然のヒューマニズムである」という言説には、人間と自然の調和をめざすのが共産主義であり、その社会であることが語られている。

『資本論』でも、「社会化された人間、アソーシエイトされた生産者たちが、……この(人間と自然の――筆者)物質代謝を合理的に規制し、自分たちの共同的制御のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとで、この物質代謝を行う」ことが、共産主義社会として描かれている。この言説には、自然と人間の調和という若きマルクスの視点が貫かれている。

『資本論』では、人間と自然の正常な物質代謝の「撹乱」が環境と健康の破壊としてとらえられた。「撹乱」させないためには、アソーシエイトされた人々が人間性にふさわしく合理的に人間と自然の関係を共同で規制・制御する必要がある。マルクスの人間と自然の物質代謝論は、疎外された工業化を揚棄するさいの基本的な視点となるものである。

それは、自然の支配という技術万能主義的アプローチではなく、自然との調和を目指して人間と自然の関係をどのように制御するかというアプローチと結びついている。マルクスは、人間による自然の支配・制御という観念をもってはいないのである。

おわりに

資本の論理によって推進された近現代の工業化は、自然の支配という観念に支えられていた。資本の論理を批判したマルクスにたいしても、自然の支配という観念にとらわれていたという根強い批判がある。だが、そうでないことは、一般に自然の技術的支配の象徴とみなされるプロメテウスにたいするマルクスの評価を見るとよくわかる。

プロメテウスは、ギリシア神話に登場する神である。全知全能の神、ゼウスを欺いて火を盗み、人間に与えたのがプロメテウスである。そのため、ゼウスの怒りをかい、コーカサス山の岩場に釘づけされ、鷲に肝臓を食われるという罰をうけた。プロメテウスが人間に火を与えたところから、「プロメテウスの火」といわれる。現代では、原子力発電が「プロメテウスの火」にたとえられる。このようなプロメテウス像は、自然の支配・制御という人間中心主義の自然観の象徴であった。

マルクスのプロメテウス像は、それとは違っていた。それは、学位論文『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学との一般的差異』のなかにある。そこでは、「端的にいえば、すべての神々を私は憎む」「父なるゼウスの忠実な使者として生まれつくくらいなら、/この岩に隷従しているほうがまさっていると思うのだ」とプロメテウスに語らせたアイスキュロスの詩を引用しながら、「プロメテウスは、哲学の年鑑のなかの最も高貴な聖者であり殉教者である」という言葉で「序文」を閉じている。

アイスキュロスを通して、マルクスがプロメテウスのうちに見ていたのは、神々に抵抗して闘うプロテウスの姿であった。そこでは、プロメテウスは、圧政者にたいする反抗者の化身として描かれている。マルクスのプロメテウス像にみられるのは、ヒューマニズムの精神である。

マルクスのプロメテウス像は、自然の技術的支配の象徴ではない。学位論文におけるマルクスの姿勢は、晩年にいたるまで継承されている。

(追記)本論は、3・11後に書いた『脱原発と工業文明の岐路』(高田純氏との共著、大月書店、2012年)、「マルクスにおける生活者の視点」(『21世紀の思想的課題』金泰明氏との共編、国際書院、2013年)、「3・11後の未来社会論はどうあるべきか」(『社会の革新と哲学』、関西唯物論研究会編、文理閣、2013年)を踏まえているので、本論で舌足らずな点はそれらを参照されたい。

いわさ・しげる

1946年生まれ、一橋大学名誉教授、社会哲学。主な著書に、『環境保護の思想』(旬報社、2007年)、『マルクスの構想力』(編書、社会評論社、2010年)、『戦後マルクス主義の思想』(共編、社会評論社、2013年)などがある。

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