特集●次の時代 次の思考 Ⅱ

NHKを市民の側に取り戻すために

会長公選も視野に市民と労組の連帯が急務

映像ジャーナリスト 小山 帥人

1. 籾井会長発言が明らかにしたこと

2014年は冒頭からNHK(日本放送協会)のあり方が大きく問われる事態になった。1月25日の会長就任会見で籾井勝人新会長が、特定秘密保護法について「通っちゃったんで、言ってもしかたがない」、従軍慰安婦について「戦争をしているどこの国にもあった」、また国際放送について「政府が右と言っているのに我々が左と言うわけにはいかない」といった発言をしたことが、世論の広範な反発を呼び起こしたからだ。

これらの発言は事実誤認、およびジャーナリズムの基本への無理解または無視によるもので、公共放送の責任者としてはふさわしくない自らの資質を明らかにしたものだ。

韓国の中央日報は次のように書いた。

「一国の公営放送は国家の知性と道徳性を象徴する。特に史実に縛られた正統な歴史観は生命線だ。ドイツの公営放送ARDとZDFの会長が、ナチスのユダヤ人虐殺について『ドイツでなくとも多くの国の軍隊が戦争中に民間人を虐殺した』として責任を回避するならば、彼は会長職にとどまることができるだろうか」(14.1.27)

NHK会長を選ぶ経営委員会の上村達男委員長代行(早稲田大学教授)は3月11日の経営委員会で「この種の発言は、NHKのトップとして中身そのものが間違っているわけです。取り消そうが取り消せまいが、公の場であろうがなかろうが、個人の見解は変わっていないとおっしゃる中にそれらが入っているとすれば、とんでもないことだと思います」(経営委員会議事録)と異例の会長批判を行なった。

会長発言に対する電話やメールがNHKに多く寄せられ、4月段階で4万人を超えた。4月22日の経営委員会では、退任する理事の1人が「1月から続く異常事態はいまだに収束しておりません。職場には少しずつ不安感、不信感あるいはひそひそ話といった負の雰囲気が漂い始めています。現場は公共放送を担うことへの誇りと責任感を何とか維持しようと懸命の努力を続けていますが、限界に近づきつつあります。(中略)経営委員会こそが責任をもって事態の収拾に当たってほしい」と経営委員会に懸命に訴えた。

籾井会長の発言で問われたのは、籾井氏の資質とともに、何故、ジャーナリズムの基本スタンスからずれた人間がNHKの会長に選ばれることになったのか、その選定の仕組みのありようである。

2. NHK会長を選ぶシステム

NHKは視聴者の受信料を財源とした公共放送である。残念ながらこの認識は一般化したとはいえず、97年の世論調査では、NHKは国営、あるいは、半官半民と答えた人が半数を超えていて、特殊な公共的事業体と正しく答えた人は3分の1強にすぎない。

ネットにあふれるNHK会長の醜態

国営放送と誤解される原因のひとつはNHKの放送内容が政府や行政寄りであることだろう。またNHKの年間予算と事業計画が国会で承認されねばならないという仕組みも誤解の原因となっていると思われる。予算等は総務省に提出され、その承認を得て国会に提出されるため、NHKの幹部は予算確定の時期にはふだん以上に、与党と良好な関係を持ちたいと願う傾向がある。01年1月の「ETV問われる戦時性暴力」介入事件で番組が改ざんされた時、番組制作局長が「この時期、NHKは政治と闘えない」と言ったのはそのことである。

NHKの会長は経営委員会で選ばれ、その経営委員は「公共の福祉に関し公正な判断をすることができ、広い経験と知識を有する者のうちから、両院の同意を得て内閣総理大臣が任命する」(放送法31条)と定められている。13年の秋、安倍内閣はこの経営委員に政権寄りが明確な4人を推薦し、多数で国会承認をとりつけた。これまでも経営委員は政権が選んでいたが、ある程度バランスを保った人選を行なってきた。安倍内閣のやり方は内閣法制局長官や日銀総裁の人事と同様、慣例を無視してまでも、「お友達」を押しつけるものだ。その結果、「人間のクズ」発言の百田尚樹氏や右翼を賞賛した長谷川三千子氏、安倍首相の家庭教師だった本田勝彦氏など、偏った人選になった。この点に関して菅官房長官は「自らが信頼し評価する方にお願いするのはある意味当然」(13.10.25)と居直った発言をしている。

こうして、報道機関であるNHKが、人事を通じて、政府に都合の好いように管理されようとしているのだ。

3. NHKと権力との歴史的関係

何故、NHKは政府に容易に介入を許すことになるのか。それは日本放送協会が誕生して以来の権力との構造的な関係がある。

日本の放送は25年、関東大震災の2年後に産声をあげた。この年は普通選挙が実施された記念すべき年であるが、同時に治安維持法が作られた年でもある。いわば民主主義と国権主義がからみあった背景があった。

大正時代に作られた「無線通信法」では「無線ハ政府之ヲ管掌ス」とされているため、ラジオははじめ、国の事業と考えられた。つまり官営説である。しかし監督機関である逓信省・通信局は23年に官営説を否定する見解を発表する。

「成否隆替ノ逆賭ニ困難ナル新規事業ヲ政府ニ於テ経営スルハ策ノ宜ヲ得タルトハ称シ難シ」。つまり儲かるかどうかわからない新事業に政府の金を使うのはまずいという判断である。そこで民営説に傾くのだが、政府による管理を強化するため、公益法人という形をとることになる。

理由としてあげられたのは

 「本来政府専掌ニ属スル事業ナルニツキ、国家ノ目的ニ接近シ、政府ノ監督容易ナル組織ヲ有スルモノナルコト」
 「偉大ナル拡播力、深刻ナル徹底力ヲ有スル事業ナルニツキ、放送内容ノ選択其ノ他ノ事業ノ運行ヲ不偏公正ニ行ナヒ得ルモノナルコト」

などである。

こうして、政府が監督しやすいように、官営のようでもあり、民営のようでもある法人としての日本放送協会がスタートした。このあいまいさは時に権力の介入を容易にし、放送の自主、自立を妨げる要因にもなった。

スタート時点では東京放送局、大阪放送局、名古屋放送局の3局体制で、それぞれ独立して放送を出していたが、翌26年、政府は3局を解散させ、「社団法人日本放送協会」を設立する。新しい協会の理事は逓信省関係者で占められた。3局は反対したが、政府に押し切られる。東京放送局の総会は、解散にあたって次のような希望決議をしている。

「逓信省のとった態度に遺憾の意を表するとともに、将来の日本放送協会には断じて官憲の圧迫を斥け本来の精神に基づいて事業を遂行すること」

悲痛な決議だが、事態は彼らの予想していたように官僚による支配が強化されていく。日本放送協会の設立にあたって、安達謙蔵逓信大臣は次のように述べた。

「国家非常の場合には、この放送は唯一無二の大通信設備として国務に供せられる」

こうして戦前の日本放送協会は事実上、国営放送として運用されることになった。

4. ジャーナリズム組織になり得なかった戦前

日本放送協会のジャーナリズム機関となることへの新聞社による妨害もあった。放送開始に先立って東京の11の新聞・通信社の協議会は日本放送協会のニュースの時間を1日2回、30分と決め、東京放送局理事会に承認させた。ニュース・メディアとしての日本放送協会が新聞社の競争相手になることを怖れたのである。

31年、満州事変に際して日本放送協会は初めて臨時ニュースを放送するが、新聞編集局長連絡会は臨時ニュースの中止を要求する。

また、35年には新聞連絡会が日本放送協会会長宛に文書を送り「放送ニュースは新聞記事の所謂アッペタイザーとして放送さるべきもの」と釘をさした。結局、日本放送協会は新聞記事を話し言葉にするだけのニュース、もしくは通信社のニュースを読むだけで、戦後になるまで、独自の取材をする体制はとれなかった。つまりNHKは敗戦までは、ジャーナリズムとして成長することは許されなかったのである。創立以来のこの体質は、政府を批判する役割を持つウオッチドッグとしてのジャーナリズム精神が今にいたるもNHKに希薄であることの基盤ともなっている。

真珠湾攻撃が始まり、42年2月、情報局は「戦争下ノ国内放送ノ基本方針」を発表する。そこでは「放送ノ全機能ヲ挙ゲテ大東亜戦争完遂ニ驀進ス」とある。また基本方針として「宣戦ノ大詔ニ基キ皇国ノ理想ヲ宣揚シ国是ヲ闡明ス」、「国民ノ挙国的決意ヲ鞏固ナラシム」とされた。

放送は文字通り、戦争の道具となった。ローカル放送も天気予報も放送が中止され、軍の大本営発表がラジオを通じて、嘘の戦果を全国に伝えた。

「敗戦日記」の作者、渡辺一夫は敗戦の1ケ月前のラジオの様子を書いている。

「全国民は固き決意と共に百年でも二百年でも戦争をする覚悟だとラジオが絶叫している。結構なことだ!」

ここには放送への絶望と軽蔑がある。

5. 占領軍に管理された放送

アメリカ占領軍は戦争に協力した国策通信社や国策映画社を解散させたが、日本放送協会に対しては、解散させるより、占領をスムースに実行するための道具として使うことを選んだ。

それでも戦後は、初めて「放送の自由」が宣言された時代でもあった。占領軍に不利になる放送は厳しく禁止されたが、政府批判は自由であった。放送について討議し、会長を選ぶ「放送委員会」も作られた。放送委員には、宮本百合子、滝川幸辰、矢内原忠雄、荒畑寒村、土方与志、聴濤克己ら、学識者、文化人、社会主義者を含む17名が選ばれ、NHK会長に大原社会問題研究所所長の高野岩三郎を選出した。

高野会長は就任にあたって次のようにあいさつをした。

 「ラジオは大衆とともに歩み、大衆のために奉仕せねばならぬ。太平洋戦争中のように、もっぱら国家権力に駆使され、いわゆる国家目的のために利用されることは厳にこれを慎み、権力に屈せず、ひたすら大衆のために奉仕することを確守すべきである」

籾井会長の就任時の言葉との違いは明瞭だろう。しかし高野会長のあいさつはあったものの、NHK全体としては戦争責任を追及し、反省したとはいえない。その甘さが再び政治介入を許す原因にもなっている。

戦後になって初めて労働組合を作ったNHKの労働者は、46年10月、読売争議に連帯して停波ストライキを敢行する。しかし、朝日新聞や毎日新聞などがストに入らなかったこともあって、20日間続いた闘争は惨敗し、組織が崩壊する。さらに朝鮮戦争が始まった直後の50年7月にはレッドパージがあり、NHKでは119人が解雇された。この数はメディアでは最大で、朝日新聞の104人、毎日新聞の49人、中日新聞の36人などを上回る。新聞通信放送全体では704人が解雇され、パージ率は2.35%で、一般のパージ率を大きく超えた。ストライキの敗北と苛烈なレッドパージは、NHKで働く人たちに権力と闘うことの恐怖を実感させた。このことはトラウマとなって今も残っている。

6.政治介入の歴史

50年には「放送法」ができ、51年には民放も誕生し、日本の放送界は新しい段階に入る。この時点では、電波を管理する機関として「電波管理委員会」があったが、52年の独立とともに、吉田茂内閣は電波管理委員会を廃止し、電波の許認可権を郵政省(今は総務省)に取り戻した。その結果、政府を監視するはずのテレビ・ラジオが5年ごとに政府・総務省の許認可を受けるというシステムになった。先進国では電波を管理するのは、政府から独立した委員会であることが自明になっているが、日本は中国やロシア同様、政府の直接管理なのである。

NHKの公式見解によるとNHKは一度も政治介入を受けたことがないことになっているが、実は放送の歴史は政治介入の歴史でもある。放送が自由になったはずの戦後、民衆に人気があった社会風刺番組「日曜娯楽版」への政府の攻撃は執拗だった。52年、吉田首相の圧力で「日曜娯楽版」は「ユーモア劇場へ」と名前を変え、穏健なユーモア路線を強いられたが、それも54年には造船疑獄事件の風刺をめぐって番組が廃止されてしまった。

ベトナム戦争が激化した 65年には、NTVの「南ベトナム海兵大隊戦記」が放送中止になった。橋本登美三郎官房長官がNTV社長に電話で抗議し、圧力をかけたのだ。60年代は放送界全体で61件の放送番組が中止させられている。

露骨な放送介入はしだいに少なくなっていったが、01年には「ETV問われる戦時性暴力」介入事件があった。番組の編集が完成したあと、放送の前日の1月29日、松尾放送総局長、国会担当の野島局長が安倍副官房長官と面会し、番組について意見が交わされた。

安倍氏のブログによると「明確に偏った内容だったことが分かり私は公正中立の立場で放送すべきではないかと指摘した」としている。

面会のあと、登場する慰安婦を減らす、日本軍の組織的関与を消す、などの編集により44分の番組が43分に縮められた。さらに放送当日には中国人被害者の証言や、元日本軍兵士の証言などがカットされ、40分に縮められて放送された。

こうした介入に対して、NHKは、対抗して筋を通すという姿勢ではなく、文句を言われない番組にすることを心がけてきた。その結果、ニュースでいえば行政や官僚から発信されるネタが中心になる。放送法でいわれている「放送の不偏不党」あるいは「公共性」が、高野会長が言った「大衆への奉仕」や「自立」ではなく、現実には「行政追随」となっているのだ。原発や政治問題に関するデモなどの大衆運動について、嫌悪とも見える過小評価、あるいは無視する傾向は、民放テレビに比べても歴然としている。

そして与党政治家に接近する機会があり、その意を呈する政治部出身の記者がNHKの中枢を担う構造は、自民党政治家と関係を深めた島桂次元NHK会長の言説(「シマゲジ風雲録」)でも明らかである。

7.安倍首相のメディア戦略

安倍首相は菅義偉官房長官とともに、メディア対策に力を注いでいる。第一次安倍内閣時の06年、総務大臣だった菅氏はNHK会長を呼びつけて、国際放送で拉致問題を「特に留意して」放送するように命令した。これまで命令放送の規定はあったが、具体的事項の命令は初めてのことだった。

12年、首相に帰り咲いた安倍氏は積極的に新聞社やテレビ局の責任者と会食を重ねている。その後の経過を見ると、民放においては、政府に辛口のコメントしていた識者のテレビ局に出演する機会が明らかに減っている。

こうしたメディア戦略は、世論調査の結果に逆行する特定秘密保護法の強行採決(NHKは「強行」という言葉を使わなかったが)や、集団的自衛権を認める閣議決定による解釈改憲にみられるように、祖父の岸信介が活躍した、かつての日本を「取り戻す」ための戦略の一環である。集団的自衛権承認と、秘密保護法、そして首相に近い経営委員の任命によるNHK管理は結びついている。

籾井会長は、会長就任直後に理事全員に辞表を出させたほか、番組全体ではなく、個々の番組で公平性を貫くように発言するなど、番組への関与を始めている。NHKはこれまで、ETV特集の「ネットワークで作る放射能汚染地図」など、独自に事実を調査する優れた番組を作ってきた。政府にすれば、こうした番組も「偏向番組」と見えるようだ。籾井会長は経営委員会で「偏向番組」という言葉を使い、自らに課せられた政府筋の要望を実現しようとしている。

どこの組織でもそうだが、上層部の意向を忖度し、迎合する流れがある。籾井会長が実現する前の時点だが、NHKは看板番組の「クローズアップ現代」で特定秘密保護法をとりあげなかった。「NHKスペシャル」でも扱わなかった。多くの新聞が国民の知る権利などと関連させて大々的にとりあげた特定秘密保護法を、NHKは法案の修正や可決といった単発ニュースとして扱い、問題点を明らかにする番組を作ろうとしなかった。こうした姿勢が既成事実を次々と重ねていく政権に都合がいいことは明らかである。

8. 市民と放送労組の連帯

これまで見てきたように、NHKは歴史的に、かつ法制度の点からも権力からの介入を受けやすい構造があり、NHK労働者の権力への抵抗力も、切り削がれてきた歴史がある。

しかしNHKの労働組合である日本放送労働組合(日放労)は会長を辞任に追い込んだ経験を持っている。76年、ロッキード事件で逮捕された田中角栄前首相が保釈されたときに、NHKの小野吉郎会長が見舞いに駆けつけたことがあった。元郵政省次官で、田中角栄の力でNHKの会長になった小野を批判する声が高まり、1週間で130万を越える署名を集めた。各労組や市民団体もこの運動に協力し、小野会長を辞任に追い込むことに成功した。NHK生え抜きの会長が実現したのは、天下り人事に反対するこの運動によるもので、NHK誕生以来、初めてのことだった。

もちろん70年代と今は状況が違う。労働組合の力は弱くなり、国会では与党の力が圧倒的に強い。日放労のホームページを見ると、籾井会長発言後の中央委員会見(14.1.31)では「『個人的見解』はひとまず措くとしても」と発言内容への批判を避け、「公共放送がどのような姿勢をとるのか(中略)きちんと説明する必要がある」という内容で、会長との対決を避けたい姿勢がにじみ出ている。

一方、局内の集会では、「三国志」の取材が中国の博物館から拒否されるケースなどが現場から報告され、会長の辞任を要求しないまま日が経っていくと、職員も会長も同列だとみなされ、NHKへの信頼が損なわれていくといった発言が出ている。組合員の意識が多様化していく中で、日放労として組織をまとめあげていく苦労があることは容易に想像できる。しかし、ことは公共放送の根源に関わる事態である。権力から自立した放送機関を目指す明確な方針を打ち出す必要がある。その姿勢が見えないと市民から信頼をかちとることはできない。

NHKのOBの間でも、このままでは公共放送が危ないという危機感が深まり、会長が辞任するまで受信料の支払いを凍結するとして、いくつかの放送局でOBと交渉が行なわれている。6月には経営委員会に対して、会長に辞任を勧告し、従わない場合は罷免することを求めるNHK退職者有志による声明が出され、その賛同者は7月末段階で千名を越えた。退職者によるこれほどまとまった動きは、およそ90年のNHKの歴史で初めてのことだ。

韓国では「公正放送」を掲げて、MBC 労組が、大統領に近い天下り会長の退陣を求めてストライキを行い、市民がろうそくデモで応援し、昨年、会長を辞任に追い込んだ。基幹放送のKBSでも、政府批判を抑えるように報道に圧力をかけた会長の辞任を要求してストライキが行なわれ、この6月、理事会が会長の辞任を決定した。組合などは言論団体などを含む国民代表が参加する「会長推薦委員会」によって新会長を選ぶことを提案している。韓国の放送労組の闘いには多くのメディア研究者も賛同表明し、民衆の支持も根強い。

キル・ファンヨン社長解任推薦案の理事会可決に歓呼しているKBSの全国言論労組のストライキ勝利報告大会。(ハンギョレ新聞インターネット版から)
【ハンギョレ新聞】1987年6月の民主化宣言直後の9月に発刊準備委員会が構成され、翌1988年5月に創刊された。軍政時代、民主化を主張して職を追われた新聞記者が中心になり設立された。漢字は一切使わず、発刊当初から横書きを採用した。

日本でもNHK会長の選出方法など、放送制度にメスを入れる時期に来ている。「放送に関する独立行政機関の設置」、「経営委員や会長の公選」など、容易に権力に介入させないような制度を考えたい。

籾井会長は、NHKの最高責任者として、放送現場に口を出して来る可能性が強い。現場はいかなる上からの圧力も跳ね返し、優れた番組、権力を監視するニュースを作ってほしい。そして、NHK労働者と組合には、日本を戦渦に導いた戦前のNHKの歴史を踏まえ、「放送はみんなのものだ」という原点に立ち返ってほしい。内、外の議論を深め、大胆に市民との連帯を深めること、それが放送を市民の側に取り戻す鍵となるだろう。

こやま・おさひと

映像ジャーナリスト。自由ジャーナリストクラブ世話人。1964年から2002年までNHK大阪報道部・映像取材グループに所属。航空騒音をテーマにした「現代の映像・空からの衝撃」、人工呼吸器をつけて学校に通う少女「歩ちゃんと30人の仲間たち」などのドキュメンタリーを取材。インドやアフリカでの世界社会フォ−ラムを取材したDVD「もうひとつの世界は可能だ」、「もうひとつのアフリカ」を制作。著書に「市民がメディアになるとき」(書肆クラルテ)、共編書に「非営利放送とは何か」(ミネルヴァ書房)。

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