コラム/関西発

リベラルな都市・大阪に向けて

大阪自由大学が目指すもの

(社)大阪自由大学理事長 池田知隆

リベラルとは

「リベラル」という言葉には、「自由主義的」というより先に、「気前がいい」とか「ケチケチしない」「寛容」という意味がある――。哲学者の鷲田清一さんから、そんなお話をうかがったことがある。辞書を引いてみると、なるほどそう書かれていた。大阪自由大学は、大阪という都市の地層に深く息づくそのような大らかな「リベラル」精神を見つめ直し、再生させていきたいと願っている。

混迷の時代にはいつも新たな息吹が生まれ、時代を動かしてきた。幕末の動乱期には長州の松下村塾から、大阪の適塾から時代を切り拓く多くの人材が輩出した。いままさに混迷を極めている都市・大阪でこそ、だれもが自由に、大いに学びあう場ができないものだろうか。そんな思いをもとに大阪自由大学は2012年7月に旗揚げした。

ここは大学を名乗っていても、学校教育法でいう教育機関ではない。東京や京都などにはすでに「自由大学」を名乗っているところがある。さらに「シブヤ大学」「三宅島大学」など地域活性化を掲げたご当地大学も続出し、高齢者大学、健康大学なども挙げれば、大学と名のつくものは数えきれない。大阪自由大学もまた、それらの一つといえなくもないが、私たちの暮らしの足元を見つめ、多彩な人々との交流を重ねながら、新しい社会の形成に向けて独自の模索を続けている。

「私立の思想」と自由都市

大阪では古くから中央権力とは一線を画した自由な文化が育ってきた。自由こそすべての文化を生み出す母体であることは、西欧近代の歴史をみても明らかだ。

大学の起源は11世紀のイタリア・ボローニャまでさかのぼる。学問を目指して集まった人たちによる自治組織(ギルド)で、そこには学ぶ楽しさと考える面白さを求め、人生を豊かにしようという人たちの意欲にあふれていた。

その思いは時代を超えて、大坂の地にも受け継がれていた。江戸期の大坂で、町人たちによる学問所「懐徳堂」が生まれた。元禄バブルが崩壊した後に大坂の豪商たちが出資して設立した学びの場だ。地方の各藩の財政状況が厳しい現実を見ながら、当時の大坂町人たちは「子孫に残せる財産は教育でしかない」と考えていたという。しかも今の財団法人のように元手の利子で運営する斬新な方法をとっていた。そこから富永仲基、山片蟠桃ら偉大な町人学者が育っていった。

「大阪は、自治都市であるとともに寄付に積極的な気前のいい市民文化があった。真の意味で『リベラル』な都市でしたよ」

懐徳堂の流れをくむ大阪大学の前総長でもある鷲田さんはそういう。大坂文化の特徴は「大事なことは民間でやれ」という「私立の思想」だった。その思想は教育だけでなく、橋や公共施設の建設などにも及び、「大事なことはお上に任せない」という気風が明治まで引き継がれた。

自らの課題を解く

幕末、緒方洪庵が開いた適塾。今に残るその建物は、二階建てのただの商家風の民家だ。門もない。その適塾について作家の司馬遼太郎さんはこう書いている。

 「すばらしい学校だった。
 入学試験などはない。
 どのわか者も、勉強したくて、遠い地方から、はるばるとやってくるのである。
 江戸時代は身分差別の社会だった。しかしこの学校は、いっさい平等だった。さむらいの子もいれば町医者の子もおり、また農民の子もいた。ここでは、『学問をする』というただ一つの目的と心で結ばれていた。」(洪庵のたいまつ) 

さらに司馬さんは「なぜ大坂でレベルの高い学問所ができたのか」と問いかけ、こう指摘する。

 「江戸では何かの為の学問だったが、適塾出身の福沢諭吉も言っているように大坂では目的がなかったことが幸せだった。しんどいことをやっている奴は自分以外どこにもいないという思いが支えだった」

大学とはそもそも、校舎も黒板もないところで、学びたい人が集い、自ら探してきた教授に問い、学ぶことから始まった。与えられたことを学ぶのではない。だれもがやっていないことを学ぶ。自ら課題を見つけ、挑み続けることの喜びがある。

いまの大阪は学問不毛の地か

しかし、現代大阪では、その学問的な気風が受け継がれているとはいえない。明治期以降、東京大学を先駆けとする日本の大学は、お雇い外国人教師のもとで西洋文化の吸収、普及を掲げた。そんな「上から」の教育に反発してか、大阪では「実学」重視の風潮が高まっていく。

旧制第三高等学校(京都大学の前身)は、明治2(1869)年に大阪で設立された舎密局(せいみきょく=理化学研究機関)に始まるが、明治19(1889)年に京都に移転した。いつしか「学び」の気風は京都で育くまれる一方、大阪では経済活動第一の風土が形成されていった。

いま、大阪市内にある大学は11校。京都市(26)、神戸市(20)に比べてかなり少なく、20政令指定都市のなかで9番目に位置する。学生数でいえば、約28000人と、同じく12番目と少ない数だ。

最近でこそ、梅田、中之島、難波などの都心にサテライトキャンパスが増えているが、それも学生募集や就職活動を支援するための場で、若者たちが語り合う姿はあまり見られない。さらには大阪における文化や市民交流の公的施設は市の財政難を名目に一つ二つと消えている。 

「自由」の力の再生を

そんな大阪で、かつての「適塾」のような多様な人々が集まり、熱気にあふれた学びの場ができないものだろうか。寺子屋みたいな小さなところでいい。いま、知りたいことを知る。実利のある講義も大切だが、まるで実利のない内容のものでもいい。インターネットやスマートフォンでもなんでも検索できる時代であっても、直接、人と語り合って学ぶことの意義はやはり大きい。

ただ、そこには「自由」の思想と、それに裏付けられた強い意志、美意識を明確にしない限り、続かない。いまの日本に、そして大阪に本当に「自由」の精神は息づいているだろうか。アジアや世界の新興国がさまざまな挑戦をしているが、日本はいつしか保守的になってきてはいないだろうか。なにを守り、なにを変えていかなくてはならないのか。どこに問題があり、どのように解決をしなければならないのか。だが、そのようなことは日本の学校であまり教えてこなかった。

大阪はスコブル先端!

社会が急速に変化し、未知の課題が目の前に山積している。これまでの知識で解決できない問題にぶつかったとき、どうやって一歩ずつ進んでいけばよいのか。さらに無縁社会といわれる現代、多くの人たちが孤立し、人々を結び付けてきた絆が失われつつある。いつの時代も人々は、多様な人との関係のなかで、学びあい、支えあうことなくしては、生きるのは難しい。

大阪は江戸期には「天下の台所」、大正期から昭和期にかけては「大大阪」と称され、敗戦後も経済繁栄を謳歌した記憶をもつ。それだけに東京一極集中化に伴う長引く経済地盤の沈下によって、大阪人の意識の中に漂う閉塞感は複雑で、深い。

さらにグローバル経済の矛盾が露出し、格差が急速に拡大している。そんな、時代の潮の流れや、波の形が大阪ではよく見える。その意味で、大阪は日本の縮図であり、スコブル先端の地ともいえる。

大阪には、多様な人々が流入し、多文化共生の市民感覚が育っている。その歴史と文化的土壌の豊かさを見直しながら、いま、「自由」に生きることをその根本から考えていくときにきているのではないだろうか。

虚妄のような経済成長の見果てぬ夢に酔ったり、独裁者による権力に依存したりせず、自らの生きていく社会の基盤づくりを考えていきたい。「おまかせ民主主義」を超えて、地域社会の「自由」と「自治」をどのように築くことができるのか。さまざまな立場、年齢の人たちが交流を重ねながら、そのことをともに学び、考えていくことこそが求められている。

大阪自由大学初代学長になっていただいた木津川計さん(雑誌「上方芸能」発行人)はいう。

 「私は、市民の多くが「一流の見識・技芸を持った人」でなければならないと、ずっと思ってきた。そんな多くの文化人が大阪に生まれるとき、この都市は歪められ、貶められた大阪観を返上することができる。大阪自由大学はそのために誕生した、と私は勝手に思っているのである」(学長のことばから)

大阪自由大学は、これまでの制度にとらわれない学びの場、創造の場を世につくり出したい。小さな一歩だが、そんな未来にむかって多くの人々の魂を点火していくような「たいまつ」を掲げて走り出している。

*大阪自由大学の詳細はホームページ(http://kansai.main.jp/)をご覧ください。

いけだ・ともたか

1949年熊本県生まれ。早稲田大学政経学部卒。毎日新聞入社。阪神支局、大阪社会部、学芸部副部長、社会部編集委員などを経て論説委員(大阪在勤、余録など担当)。2008年~10年大阪市教育委員長。著書に『ほんの昨日のことー余録抄』(みずのわ出版)、『団塊の<青い鳥>』(実業之日本社)など。

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