論壇

みどりやと「サブカルチャー」(上)

シリーズ⸺ちんどん屋・みどりやの「仕事帖」から

フリーランスちんどん屋・ライター 大場 ひろみ

これまでみどりやの「仕事帖」の記録を基に、ちんどん屋の仕事内容をデータ化して浮かび上がる流通史や、「スト」の記述の多さに触発されて「ストライキ」及び労働運動とそれに対する抑圧の流れなどを見て来たが、重箱の隅を突つくようなつもりで実は社会のメインストリームを追ってきたことに気づいてしまった。これではちっともちんどん屋さんの面白さに手が届いていないではないか!なので、今回はちんどん屋の仕事の中でも文化現象、それも道端でお仕事をする彼ららしく、アカデミズムには縁がないので、「サブカルチャー」(この言葉にはいろんな定義とその変遷があるらしいが、ここでは大衆が触れる機会の多い文化、くらいのつもりで使う)との接点を見て行こうと思う。

レコードになったちんどん屋―『チンドン屋大行進』

1969年2月22日土曜日、この日は新装開店なのか12日から連日頼んでくれているパチンコ店・丸正センターの仕事は妻のいくとナカイクちゃん、弟の武史に任せ、浅草のかつらや小間物を扱う店・小一堂の口利きで、みどりや進とサックスの染ちゃんがキングレコードへ出向き、レコードの録音に臨んでいる。

小一堂の主人は、みどりやによれば、「私たちチンドンマンの後ろだてとなって、いろいろと力を貸してくれました。小一堂さんが道楽みたいにチンドンマンの世話をしてくれなかったら、今日のチンドン屋はなかったでしょうね」(『NHK「趣味の手帳」より 世相よもやま咄』文化出版局⦅ラジオ番組の録音を書籍化したもの⦆)と恩に着る人物で、かつらや鬢付け油、櫛・簪などを商う関係でちんどん屋と縁があるだけでなく、好きが高じてちんどん屋の宣伝やイベントの仕事の斡旋をする、つまりプロダクションのような役割を引き受けていた。自身がちんどん屋でないことも幸いして、コンクールなど大勢が出演する時など、利害関係もあってなかなか仲良く団体でまとまることが出来ない東京のちんどん屋を束ねるには、欠かせない存在だった。

キングレコードの録音は、みどりやの他、小鶴家、瀧の家一二三などが参加し、クレジットは「小一堂宣伝社社中」となっている。東京以外に名古屋の万宣社社中、ノムラ宣伝社社中(所在がよくわからないが大阪という説もある)が録音しており、『チンドン屋大行進』というLPレコードとして69年に発売された(2001年CD『日本の大道芸/チンドン屋』として復刻)。当時、ちんどん屋の音は今日のように音楽としての観賞用や歴史資料として対象化されたのではなく、あくまでも店舗などが店で流して販促に使用するなど、実用目的のケースがほとんどである。他には、菊乃家〆丸演奏のカセット『ちんどん大作戦』(東芝EMI)、新興宣伝社演奏のCD『店内放送 呼び込み』(ビクター 79年発売カセットの復刻)などがある。

戦前にもSPが出ているが、私は鈴勘(本郷田町で旗揚げしたちんどん屋で大人数が所属。後小石川に移転)連中演奏のSP『ナンセンス 街のチンドン屋』(トンボ)しか聞いたことが無い。タイトルに「ナンセンス」が乗っかっているが、エログロナンセンスが流行った昭和初期、ちんどん屋もこの流れとみなされたのか。実際に聴いてみると(中村とうよう編『A GUIDE TO TRADITIONAL ENTERTAINMENTS IN JAPAN』⦅有限会社オーディブック⦆に収録)、楽器で人の言葉の真似をしたり、語りも笑いを誘うように進むので、漫才のような印象を受ける。少なくとも販促用にはならない。

この中村とうようのセレクトによる戦前の音源集には、“ナンジャラホワーズ”という音楽コントグループも含まれており、こちらにも「ナンセンスコーラス」の副題がついている。少なくともSPでの鈴勘は、宣伝業というより「ナンセンス」な色物として見られ、またそのように演じてみせたようだ。傍目にはちんどん屋は、必ずしも宣伝という目的だけで認知されず、二村定一がコミックソングに唄った如く(「チンドン屋はおしゃれだね、お顔に白粉かきまゆげ云々」)、また童謡に『チンドン飴屋』として飴屋と同一視されて唄われた如く(「チンチンドンドンチンドンドン、あめ屋が来た来たぢいさんだ)」、やはりその目立つ扮装と響く音色の強さによって印象づけられ、「ナンセンス」な、面白おかしく街を歩く存在として経験されることも多かったかも知れない。

戦前のちんどん屋がどう認識されていたかは、後の章にかかわるので触れた。ともかく、LP『チンドン屋大行進』は、発売された当時の目的は販促用だったかも知れないが、後に80年代以降入門した若手にとってバイブルのような存在になり、どんどんダビングされて人から人へ渡り、みな繰り返し聴いては先輩方の音を必死で吸収しようとした。つまり「音」としてのちんどん屋復興の橋渡しになったのだ。小一堂宣伝社が演奏した『たけす(竹に雀)』『千鳥』『四丁目』など下座囃子の曲や、『花と蝶』『恋の季節』『お富さん』などの歌謡曲は今でもちんどん屋にとって必須アイテム、輝ける古典である(だから後の世代まで、親方たちの時代のヒット曲に縛られてしまった、あるいはちんどん屋のイメージが「昭和歌謡」に固定化されてしまったともいえるが)。

しかしそれに値するほど、このレコードには、若かったみどりや等、多くのちんどん屋の演奏の熱とエッセンスが詰まっている。彼らは単なる「仕事」としてこなしたに過ぎないだろうが。その通りに、この日のみどりやの記述は「キングレコード(小一堂)」だけとそっけない。しかしこの文字を目にした瞬間、私は奇跡の日を発見したと思った。ちょっと大袈裟ですが。

TVのちんどん屋への目線

“キワモノ”

みどりやの「仕事帖」は1968年3月から88年12月までだが、その期間に記録された日本のTV関係と思われる仕事が37本ある。意外に多いと思いませんか? マスメディア系は他にラジオ出演、CM撮影、フランスのTVが各1本。先に引用した本『世相よもやま咄』に掲載されたみどりやの話は、タイトル「チンドン戦後史」で1975年4月26日にNHKラジオで放送、と記載されているが、この頃にラジオ番組収録の記述は「仕事帖」にはない。記録されている37本のTVの仕事のうち、何に出演したか分かるものを見ていくと、TVへのちんどん屋の取り上げ方にいくつかの傾向があることが分かる。

一つは、深夜番組やワイドショーへの採用。71年6月8日の『23時ショー』(NET ―後のテレビ朝日)。生放送で、時間は23時から50分間の深夜番組。日本テレビの『11PM』に対抗して作られた。みどりや出演の日の副題は「夜のチンドン大会」。この年みどりやは4月に行われる富山の全国チンドンコンクールで優勝しており、この日撮影に臨んだのも優勝チームの進・いく・糸井の3人である。「夜の」、がつくだけで意味合いにお色気が加わるが、富山のチンドンコンクールに触発されて企画したのだろうか。72年8月24日にはまた呼ばれて「愉快!夜のチンドンコンテスト」、同工異曲の企画と見える。同年10月11日には「外人女武道㊙対決」で出演。もはや何でちんどん屋なのか見当がつかない。しかしこの番組の副題の例を挙げると、「真夜中の肉体楽器大会」、「夜の蝶ドッキリコンテスト」、「純日本美人産地直送大会」などなど、お色気・低俗色をはっきり打ち出し、しかも“大会”のように競わせる趣向が多い。

73年10月31日には『23時ショー』のライバル番組『11PM』(23:15~0:23)に呼ばれる。副題は「今夜はあのやり方で」。この頃は日本テレビの出演が続いていた。『11PM』には76年3月17日にも出演、副題は「ああ!人気大爆発 今夜はなんと官能の夜」。『23時ショー』より思わせぶりだが、狙いは似たり寄ったりだ。

エキセントリックな見出しで興味をそそる手法は昼のワイドショーにも見られる。

75年12月9日は昼のワイドショー『3時にあいましょう』(TBS15時から60分)に出演、副題は「17歳西川峰子の超成熟度!徹底尾行隠し撮り」。76年12月8日はまた『3時にあいましょう』出演、副題は「浅野ゆう子の秘技!?SEXY腰運動をり」。ライバル番組『3時のあなた』(フジテレビ)も同様で、この頃の昼のワイドショーは競って挑発的なスクープや芸能スキャンダルを繰り返し垂れ流していた。80年には5月2日昼のワイドショー『奥さま2時です』(東京12チャンネル)副題「速報摘発強化の芸能界所得番付 松坂慶子の謎」出演、確認できるワイドショーの最後の出演記録は87年9月11日『新アフタヌーンショー』(テレビ朝日)、副題は「赤面?興奮?女性専用ストリップ初公開」。

高度成長してタガが外れたのか、昼の日なかから主婦がスケベな覗き映像を「うんまあ」と呆れた振りをして見ている、夜は夜でオヤジが裸のバカ騒ぎを鼻の下伸ばして見ている、そんな時代。そのどちらにもちんどん屋が、何らかのかたちで映し出されている。

みどりやに限らず、ちんどん屋は仕事を選ばないので頼まれれば出るが、頼む製作側はどんなつもりで呼んでいるんだろう。具体的な役割はわからなくても番組の内容から想像すれば、真面目に取り上げられたとは考えにくい。ちんどん屋に期待されていたのは、戦前からあった見た目における「ナンセンス」な、(きわどい、変な、危ない、刹那的なという意味での)“キワモノ”性ではなかろうか。TVの製作側は馬鹿にして採用しているところもあるんだろうが、ちんどん屋は変な格好をして目立ってナンボの商売である。富山のチンドンコンクールなどは、70年の例で見ると、助六揚巻に、鞍馬天狗、竜宮城に呑気な父さん、丁稚どん、宇宙飛行士にゴリラと(次章中の表1 引用雑誌一覧表の②)、キッチュなガラクタ箱の蓋を開けたみたいで、企画に煮詰まった深夜番組スタッフが膝を打ったのも当然である。

ちんどん屋はTVとその向こうにいる視聴者の視線に一方的に捉えられているだけではなく、自ら見られることを発信してもいる(ちんどん屋が何で“変な”恰好をしたりするのかは、拙著『チンドン』⦅バジリコ刊⦆で歴史性を、『現代の理論』第22,23号大場ひろみ「聞き書きちんどん屋の歩み」でその経緯を参照してほしい)。

「チンドン日本一」

二つめは「チンドン日本一」という話題性によって取り上げるもの。

71年5月4日の『アフタヌーンショー』(生放送)。平日12時から55分放映されていたNETの人気番組でこの頃は桂小金治が司会。今でいうワイドショー形式で、浪越徳次郎の指圧や田村魚菜の料理コーナーなど、子供心によく覚えている。この番組には私の師匠、瀧廼家五朗八も出演したことがあり、ちんどん屋の大家族として一家総出の出演シーンの写真が残っている(73年頃)。先にも言った通りこの年みどりやは富山のコンクールで優勝しており、この日も同じメンバーで出演し、日にちも大会直後なので、その話題性でTVに取り上げられた可能性は高いが、想像の域を出ない。

73年5月3日(4月6日録画)の『ほんものは誰だ!』(日本テレビ木曜19時半~20時)に出演、「チンドン屋日本一」の副題がある。この番組は3人のマントを着た人物が登場して、そのうちの2人は偽物、1人の本物を当てるクイズ形式になっている。『TVジョッキー』も担当していた土井まさるが司会で、やはりとても人気があった。出演したのは妻のいくで進ではないが、ちんどん屋の本物として登場したのだろう。実は前の年(録画はこの年のコンクール前)みどりやは富山のコンクールで優勝していない。

75年11月4日には朝のワイドショー『奥さま8時半です』(TBS8時半~10時)に生出演、副題は「チンドン人生日本一!」。この年もみどりやは富山で優勝していない。

80年4月24日夕方の情報番組『600こちら情報部』(NHK18時から25分)副題「華麗!爆笑!チンドンマン日本一」。さすが天下のNHKというべきか、コンクール優勝直後の日程でタイムリーな話題性を確保し、事実の正確な報道という点でも民放のように外していない。

このように「チンドン日本一」は必ずしもその年の富山の優勝という事実性を踏まえず使われているが、いつ優勝しようが、TVの企画の世界では「チンドン日本一」がちんどん屋を取り上げるきっかけとして、便利なキャッチフレーズなのかも知れない。まあ、ちんどん屋においては富山のコンクールが実質日本一を決める大会と見なされてはいたが、この当時は他にも日本各地で様々なちんどん屋のコンクールが開催されていたので、そこでの優勝を含めれば「日本一」という事実、の振れ幅は広い。

82年10月9日放送の『日本テレビスペシャル 第1部欽ちゃんのこれが日本一!』(19~21時)は、副題「人間ドミノ倒し/日本一大集合/動物対談/赤ん坊合唱団/喜多郎大演奏/激走オートバイ50台ほか」(第2部は「ザ・バラエティー」)で、「日本一大集合」の一つとして「チンドン日本一」(この年は優勝している)が呼ばれたのだろうが、他の企画を見ると大袈裟で出鱈目な見世物尽し。その中に「喜多郎」(NHKの人気紀行番組『シルクロード』のテーマ曲で有名なシンセサイザー奏者)が滅多にTVで見られないからって混ぜられているのがお気の毒な気がするが、これは「日本一」と「低俗」=“キワモノ”というTVの持つ視線がミックスされて頂点を極めている例といえよう。

「チンドン家族」

三つめはちんどん屋という職業、生活への興味で、先の「チンドン日本一」の例も、関心はこちらの方向を向いている。『ほんものは誰だ!』は、「本物」当てクイズを楽しみつつ、変わった職業や特技の持ち主を面白がるという趣旨の番組だ。『奥さま8時半です』の「チンドン人生日本一!」も、「チンドン人生が日本一」に読み取れる。

79年7月17日には朝のワイドショー『ルックルックこんにちは』(日本テレビ8:30~10:30)副題「名物夫婦 高校生妻/議員秘書の金髪妻/前代未聞超ケチ夫婦/泣き笑い!呑気苦労のチンドン屋妻」に出演。80年12月22日(12月15日録画)には朝の報道番組『テレビ列島7時』(TBS7:00~8:10)副題「チンドン家族」に出演。昼のワイドショーに比べ朝の番組は「家族」「人生」「夫婦」のワードがちりばめられ、朝っぱらから「不謹慎」な「お色気」で引っ張れない分を穏当なファミリーの話題で埋めている。

家族ぐるみで仕事をすることの多かった当時のちんどん屋は、人生語りを通じて人情を搔き立てる一方、珍しい職業の知られざる生活を覗き見たいという欲望も満たしてくれる格好の題材だ。『ルックルックこんにちは』などは、特異なシチュエーションの「妻」の話題をかき集めて、深夜番組のような“キワモノ”にかなり近づいている。

84年11月18日(11月10日録画)の『オールスター家族対抗歌合戦』(フジテレビ日曜20時から60分)副題「ジャンボ鶴田新婚秘話/森山かよ子父母長寿/ダ・カーポお絵書き夫婦/日本一チンドン人生」に夫婦と息子で出演。この番組は主に有名人の家族が自らのエピソードを披露しながら、歌を歌って対抗し、勝ち抜くというもの。みどりやは素人枠で登場し、口上で鍛えたトークと自慢ののど(夫婦とも歌も上手かった)で多分優勝したのだろう、翌年の11月に家族3人で優勝賞品のバンコク旅行に出かけている。これは「日本一」(この年もコンクールでは優勝していないが)と「家族」の話題がミックスされた典型例だ。おつりに海外旅行がついているから、みどりやにとっても悪くない仕事だっただろう。

雑誌に見るちんどん屋

みどりやが出演したTV番組をタイトルや見出しから検討しただけでは、具体的なちんどん屋の捉えられ方をそれ以上知ることが出来ないので、少し「仕事帖」から離れて、雑誌媒体でのちんどん屋の記事を参照し、比較してみることにした。

比較したのは表1の一覧の雑誌で(1962~87 主に大宅壮一文庫に拠る)で、何を取り上げて描いたかを抽出すると、表2のようになった。

表1 引用雑誌一覧表 クリックで表1・2を拡大

表2 記事に描かれたもの

やはり、職業や営みへの興味が大半(17中13)で、それ以外も3本はグラビアで文章表現が大変少ないもの(②⑦⑩)、もう一つは国立劇場でのイベント『日本の太鼓』にちんどん屋が出演したことを報道した短い記事(⑰)。

①③⑥⑨は記者或いはライターの取材によるもので、どれもちんどん屋の街歩きに付き合って仕事ぶりを観察し、履歴や生活、意見などを伺う体裁を取っているが、4本中③⑥⑨が『アサヒ芸能』で、さらに③⑨が「潜入」してちんどん屋を体験するというまったく同様な企画。ゴシップ週刊誌の『アサヒ芸能』らしく、読者の興味を引くために煽る仕掛けが要るらしい。⑥は「ゆうもあ人生録」という連載で、これは「個性豊かなゆうもあ人間の人生ドラマ」を毎週募集して載せる企画で、初代瀧廼家五朗八(私のついた親方の父)に対して、「江戸っ子」「人情」「男ダテ」と類型的だが人物像へとクローズアップしている。

④は評論家・白浜研一郎の記事で、無声映画時代からのクラリネット楽士・三井重治の人生話。⑪は大衆芸能研究家・藤井宗哲の喜之字家はじめ数名のちんどん屋に取材したやはり人生話だが、文筆家によるものはどちらも書き出しで己の興味がどこにあるかを主張するのが、週刊誌記事やTVに多い、主語の無い視線と異なる。

次に多かったのが、ちんどん屋の高齢化と仕事の減少に触れた記述で、ともに17中11本。70年代、既にちんどん屋は年寄りがやる、廃れた職業と認識されていたのだ(拙著『チンドン』でこの時期の衰退について言及している。みどりやが例外であったことは『現代の理論』第32号拙文参照のこと)。

①のみは62年の記事で、大正時代からのちんどん屋・増山東昇に取材しており、彼は戦前が一番ちんどん屋が繁盛した時代だとしている。他は戦後からの経験として、「警察に規制される4,5年前まではよかったぜ」(70年③)、「一時は東京だけで千人もドン屋さんがいたけど、いまは3百人いるかな。しかも平均年齢が62、3だからな。」(75年⑨)、「3~4年前からお店の仕事もだんだん少なくなったねえ」(86年⑯)と、証言者によって仕事とちんどん屋の減少の時期がずれるようだが、「最近本当にチンドン屋さんを街で見受けなくなってしまった」(77年⑪)「いずれは消えてしまう商売と、輿石さん(注:ちんどん屋《新興宣伝社》)は覚悟を決めている。」(83年⑮)と、見る側とやる側の認識が共通している。

②はグラビアだが、その少ない文章部分の中でさえ、「数少なくなった自分たちの商売をデモンストレーション」(70年)と書き留められるくらいだ。高齢化については、「チンドン人生60年―当年とって80歳の現役・辻久さん」(72年⑤)、⑮などはタイトルが「にっぽんのオバ讃」(という連載コラムのようだが)と、やたらと高齢を強調し、その理由に「若い人は入ってこない」(77年⑪)が挙げられる。これに対して、若いちんどん屋が珍しいと「日本最年少のさわやかチンドン娘は16才!(注:アドマンというちんどん屋の後継者)」(78年⑭)と持ち上げられたりする。

しかしそもそも珍しいという好奇の視線を浴びせられるのは、ちんどん屋という商売の形態だろう。グラビア(②⑤⑩⑫)では言葉では語らずとも、(写真家の意図に関わらず)ちんどん屋の存在(本質)としての「奇抜」さが一目瞭然である。⑯では電車に乗るところや食事風景なども写真で追い、日常の空間に彼らがもたらす「違和感」を否応なく捉えている。「“チンドン屋”と一口でいうと、誰もが、時代おくれの街の道化―という印象がある。」(72年④)、これが一般の正直な見方だろう。この筆者はその「状況のよじれの中に、むしろ奇妙な実在感と、そして肉声の“音”を発見させられる」と続け、三井さんというちんどん屋楽士の人生をリスペクトするので、逆に一般の「印象」をストレートに記述することが出来たのだ。

⑨は若い記者がちんどん屋に弟子入りをして、「恥ずかしい」「恥ずかしい」を繰り返してにべもないが、そんな若者に小鶴家幸太郎親方は「オレたちゃ、チンドン屋なんだから、チンドン屋といわれるのはあたりまえよ。パン屋がパン屋! っていわれたって怒らないのと同じよ」と言い返す。

しかしこの「道化」扱いは「悲哀」の感情とセットだ。「トランペットの哀愁。旗持ちの道化。」(72年⑥)、「厚化粧に悲哀を隠すチンドン屋稼業」(75年⑨)と類型的なものや、「彼らは言う。―ドーセ曲ガッタ人生ダモンと。」(77年⑪)と、その生き方の中に悲哀の根拠を見出そうとするものもある。⑤などは大雪の青森で街歩きを続ける80歳のちんどん屋を捉えて、雪国と仕事の忍耐を二重写しにした。

以上の例から、雑誌とTVに共通する興味は、ちんどん屋という珍しい「道化(=キワモノ)」の「職業」「営み」を知り、「人生」と「人情(=悲哀)」を感じ取ることにあり、さらに雑誌からは、その背後にちんどん屋が「年寄り」のやる、既に「時代遅れの廃れた商売」だという、これは見る側と見られる側に共通する認識があったことが読み取れる。

無論その興味と認識には、ちんどん屋ごとの違いや、70年代から80年代にかけての時差がある。みどりや進は71年のTV出演時は42歳、84年では56歳だが、本人は常に壮年のつもりで働いていただろう。70歳過ぎた親方と仕事をしても、歳をまったく感じさせなかった。もっともTVがどう見てとったかは別である。瀧の家一二三という親方は75年の⑧と86年の⑯に登場し、⑧の時は36歳で「新しいリズムも覚えなくちゃいけないし」と話も若々しいが、⑯では46歳で、「どっこい生きてる“チンドン屋”」と形容されてしまう。

一二三親方は「道化」と見られることが大嫌いだったが、それが自分達の本質の一つであることも身をもって知っていた。男前のかっこいい親方だったが、頭脳明晰ゆえ屈折した思いを抱えていた。どうせ目を向けるなら、あらかじめ用意されたイメージを結論にするような見方でなく、それぞれがみどりや進や瀧の家一二三のように、自由な考えを持っている人間だということを前提にしてほしいものだ。

次回は、大掛かりな宣伝にちんどん屋が採用された例から、ちんどん屋の「本質」がポジティヴに発揮された景気のいい話をします。

おおば・ひろみ

1964年東京生まれ。サブカル系アンティークショップ、レンタルレコード店共同経営や、フリーターの傍らロックバンドのボーカルも経験、92年2代目瀧廼家五朗八に入門。東京の数々の老舗ちんどん屋に派遣されて修行。96年独立。著書『チンドン――聞き書きちんどん屋物語』(バジリコ、2009)

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