特集 ● 混濁の状況を見る視角

遺骨は故郷の琉球に帰せ

琉球遺骨返還請求訴訟で大阪高裁が住民敗訴判決、しかし異例の「付言」で京大を批判。原告は熟慮し上告せず

ジャーナリスト 西村 秀樹

判決は敗訴

「主文を言い渡す。本件各控訴をいずれも棄却する」

大阪高裁でもっとも広い法廷の202号法廷は、原告を支援する市民のほか、白いカバーで覆われた記者席15席分もほぼ埋まり、この裁判への世間の関心の高さを物語っていた(筆者註:本来なら控訴審なので控訴人と表記すべきだが、読者にわかりやすいように原告と書く)。

大阪高裁の判決に臨む原告と弁護団(9月22日、撮影西村秀樹)

2023年9月22日、提訴からおよそ5年が経過し、控訴審の判決を迎えた。大阪高裁の裁判長ら裁判官3人が入廷し、テレビ局の代表カメラが撮影を開始、規定の2分間がすぎカメラパーソンが退場する。定刻の午後2時30分、裁判長が口を開き判決文を読み上げた。「控訴を棄却する」。傍聴席から「裁判無効」など怒号が飛び、傍聴席はがっかりした雰囲気に包まれた。

主文の読み上げだけですぐに閉廷、原告と弁護団は、31ページにわたる判決文を読み込む作業を進めた。判決から一時間半経ち、裁判所のとなりの大阪弁護士会館で報告集会が開かれた。原告と弁護士が入場した。敗訴判決にもかかわらず、原告団長の松島泰勝や弁護団長の丹羽雅雄はどこか晴れ晴れとした表情に見えた。その理由は、判決文の中に記載された「付言」にあったが、そのことは後述する。

きっかけは世界遺産登録

この裁判のきっかけは、2000年ユネスコ(国際連合教育文化機関)が今帰仁城(なきじんぐすく)を世界文化遺産に登録したことだ。「琉球王国のグスクおよび関連遺跡群」の一つとして首里城跡などと共に登録した。グスクとは琉球の言葉で城のこと。

今帰仁城は、県庁所在地の那覇から北東へ60キロ、本部(もとぶ)半島の北側に所在する。この城は琉球王国をつくった第一尚氏の城で、琉球の歴史上、重要な城だ。今帰仁村の教育委員会は翌年、村内の文化財調査をスタートした。

地元の新聞『琉球新報』が2017年2月、スクープを報じた。一面タテ四段に「京大に琉球人骨26体」と大きな見出し。サブタイトルは「学者収集 昭和初期から未返還」。村の文化財調査の結果、昭和初期(1929年と34年)、当時の京都帝国大学の人類学者金関丈夫らがグスクの北東に所在する百按司墓(むむじゃな)墓から、骨を「研究目的」で持ち出したこと、そのうち26体を今でも京都大学が保管していることが判明したと報じた。百按司墓は琉球王朝時代の有力者を葬った地域の共同墓だ。

このスクープ記事に一人の琉球出身者が反応した。石垣島出身で現在は京都で暮らしている、龍谷大学経済学部教授の松島泰勝だ。南太平洋など島嶼の経済活動を研究調査している。松島は翌々月、京都大学に事実関係を照会した。はじめ京大は対応するような素振りを見せたが、やがて松島に対し学内の立ち入りを禁ずるなど、つっけんどんな対応に変化した。そのため、松島は沖縄2区選出の社民党衆議院議員の照屋寛徳に相談、照屋が国政調査権を使い照会した結果、京大は26体の保管を認めた。

誠実に向き合うどころか、話し合いすら拒否する京大の不誠実な対応に業を煮やした松島は、2018年12月、京大を相手とって、京都地裁に裁判を起こした。請求内容は、遺骨の返還と損害賠償だった。原告には松島と国会議員の照屋寛徳のほか、彫刻家の金城實、それに第一尚氏の子孫の家系図を有する亀谷正子、玉城(たまぐしく)毅が加わり、5人となった。

琉球遺骨訴訟の争点

この裁判に強い関心をよせる同志社大学〈奄美−沖縄—琉球〉研究センターの教授板垣竜太は意見書を求められ、裁判の争点を次のように指摘した。「この民事裁判の法律上の争点は、被告(京都大学)が遺骨の占有権限を有しているかどうか。返還拒否が不法行為を構成しているかどうか」。

原告は主に3点のポイントを主張した。刑法、民法、国際法だ。刑法(1907年公布)191条には墳墓(ふんぼ)を発掘し遺骨を領得すると3か月以上5年以下の懲役との定めがある。だから、原告側は京大が遺骨を違法に「盗んだ」と指摘、「盗んだ骨を返せ」と主張する。

民法897条には「墳墓の所有権は、慣習に従って祖先の祭祀を主宰すべき者がこれを承継する」との定めがある。ポイントは「慣習に従う」の解釈だ。民法は墓の相続を定める。ヤマトでは墳墓を家単位で承継し、主に長男が相続するケースが多い。原告たちは、それは明治民法以来、ヤマトのイエ制度の慣習だと主張した。琉球やアイヌなど先住民族では墓を村落共同体が維持する。今回の百按司墓の場合、第一尚氏の子孫が祭祀承継者だと主張した。葬送儀礼がヤマトと琉球ではまったく異なるのだ。ここが大きな争点となった。

一方、京大は占有の違法性の指摘を否定し、人類学者は「正当な手続き」を経たと反論した。当該の人類学の研究者、金関丈夫は、1929年、およそ3週間かけて琉球各地で遺骨を収集しその記録を出版した。その著作『琉球民俗誌』には以下の記述がある。「心配があった。それは骨を首尾よく持って帰れるか否かの問題である。これには官民諸方面の有力者に、でき得る限り多くの紹介状を用意した。私は遺骨採取に関して警察部の許可を得るため、午前中に県庁に出頭した。諸般の斡旋を依頼する」とある。京大はこの記述を根拠に、遺骨収集は「研究目的」であり、当時の沖縄県庁の警察部長(現在の県警本部長にあたる)など然るべき関係先から許可を得た「正当な手続き」だと反論した。

学知の植民地主義

原告の松島はここにこそ「学知の植民地主義」が顕著に現れていると反論する。金関が琉球を訪問した1929年当時、琉球は日本の内国植民地であり、沖縄県庁の警察部長をはじめ高級官僚はヤマトからの出向者であったことを指摘した上で、金関は遺骨収集の際、警察官を配置し地元民からの承諾はおろか立ち会いすら拒否した。刑法に定めのある事項(極端な事例だと、殺人罪)を警察部長といえ免責できるだろうか、免責できるわけがない。

ここでの留意点は、琉球はかつて独立した主権国家であり、遺骨を取り出された百按司墓は琉球王国の有力者の墓だったという歴史的な事実だ。1429年琉球王国が成立(本土は室町時代)。江戸幕府が成立まもない1609年、薩摩島津氏が琉球に侵攻、実効支配したものの、琉球王国は中国との册封体制を維持し王制を継続した。

江戸幕府が鎖国政策をとるなか、幕末の1854年、江戸幕府が所在する江戸湾に米国海軍の提督ペリー率いる黒船が訪れ、江戸幕府との間で日米和親条約を結び開国した。その前後、ペリーは琉球王国の首里を訪問し、琉米修好条約を結ぶ。同様に琉球王国はフランスやオランダとも条約を締結した。このことは、欧米諸国は琉球王国を主権の有する独立国と認めていたことを示す。

明治政府は、明治維新から間もない1879年、首里城を兵士と警察官数百人で包囲し、「琉球処分」を実施し、琉球王国を廃止した。のちに『琉球新報』はこの琉球処分を主権国家間の侵略を禁じた国際法違反の疑いが濃いと報道している。琉球は日本の「内国植民地」となった。

文化も言語も本土と異なる。2009年ユネスコは世界で消滅危機にある言語2500のリストを発表した。その中に、アイヌ語と、琉球諸島の6つの言語(奄美語、国頭語、沖縄語、宮古語、八重山語、与那国語)が含まれている。言語に関する国際的な基準によると、アイヌ語と日本語が別の言語であるのと同様に、琉球諸島の6言語は日本語と別の言語だ(方言と言語を区別するのはむつかしいと、言語学者ソシュールはいう)。

2007年9月、国連総会で「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択され、遺骨を故郷に迎え入れる権利が明記された。

一審の京都地裁は、2022年4月、原告の訴えを退ける敗訴判決を下したが、付言の中で「琉球民族として祖先の遺骨を百按司墓に安置して祀りたいという心情には汲むべきものがある」と述べた。

控訴審判決で付言が輝く

原告は京都地裁判決を不服として、大阪高裁へ控訴し、2023年9月、判決を迎えた。

大阪高裁の判決後の集会で報告する松島泰勝原告団長(マイクを握る人)

主文は冒頭に書いた通り、原告の請求を退けた。しかし、原告と弁護団が晴れがましい表情で支援者への報告集会に臨んだ理由は、判決文に書かれた「付言」にあった。

大阪高裁の大島眞一裁判長は、判決言い渡しを前にした9月10日付けで退官したが、控訴審判決を執筆、判決ではこの大島判決文が読みあげられた。大島判決は、原告の請求を退けた理由を、地元共同体の総意とは認められないことなどを挙げた。日本の現行の法律体系では、先住民族が遺骨の引き渡しを求める法的根拠が乏しいと、高裁の裁判長が吐露しているに等しい。一方で、原告と弁護団は、国連の「先住民族の権利に関する宣言」(2007年)などを根拠に遺骨の引き渡しの根拠となると主張、見解が大いに異なる。

「付言」は次のように述べ、子孫らの心情に寄り添い、返還が妥当との見解を示した。

高裁はオーストラリア、ドイツ、英米など、先住民の遺骨返還運動の世界各地の事例を示し「遺骨の本来の地への返還は、現在世界の潮流になりつつあるといえる」と断定する。

「遺骨は語らない。遺骨を持ち出しても、遺骨は何も語らない。しかし、遺骨は、単なるモノではない。遺骨は、ふるさとで静かに眠る権利があると信じる」と述べた上で、冒頭の見出しに書いた結論「故郷に帰すべきだ」と展開する。

先住民の遺骨返還が世界的な潮流であるとの指摘、さらに子孫の心情に寄り添った見解を示すのであれば、判決の結論は子孫の請求を認め、京都大学へ遺骨の引き渡しを認める結論に至るのが論理展開の行き着く先と思われる。が、高裁判決は「本件遺骨の所有権に基づく引渡請求等が理由が(ママ)ないことは前記のとおりであり、訴訟における解決には限界がある」と釘を刺す。つまり、ヤマトのイエ制度を前提とした、現在の日本の法律体系では、訴訟での結論に限界があると、嘆き節にも似た法律家の悲鳴が聞こえてくる。

さらに、日本人類学会が提出した「将来に渡り保存継承され研究に供すること」を要望する書面に対して、高裁は「重きを置くことが相当とは思われない」と、バッサリ切り捨てている。

先住民族と認定

百按司墓を現地調査する丹羽雅雄弁護団長(2021年3月、撮影・西村秀樹)

高裁判決のもう一つのポイントは、先住民族としての認定だ。判決文は冒頭の「事案の概要」でいきなりこう述べる。「沖縄地方の先住民族である琉球民族に属する控訴人ら」と記載する。ここで思い出すのは、アイヌ民族の萱野茂らが原告となって国を相手取って提訴した、二風谷(にぶたに)ダム用地強制収用裁決の取消訴訟だ。ダムは完成したため、1997年札幌地裁は請求を棄却した。しかし判決は「国はアイヌ文化に対し最大限の配慮をしなければならないのにそれを怠った」とダム建設を違法と断罪、アイヌ民族を先住民族として認め、実質的な勝訴判決を勝ち取った。この札幌地裁判決をきっかけにアイヌ民族への政策は急速に進んだ。国家機関である司法の場で、アイヌ民族同様、琉球民族を先住民族と認定したことの意味は大きい。

高裁が方向性を示したのが、当時者間での話し合いだ。高裁は「本件遺骨を所持している京都大学、祖先の百按司墓に安置して祀りたいと願っている子孫のほか、沖縄県教育委員会、今帰仁村教育委員会らで話し合いを進め、適切な解決への道を探ることが望まれる」と述べ、最後にこうとどめを刺す。「まもなく百按司墓からの遺骨持出しから100年を迎える。今この時期に、関係者が話合い、解決に向かうことを願っている。ふるさとの沖縄に帰ることを夢見ている」。 

熟慮し上告せず

高裁判決から2週間の上告期限を過ぎた10月10日、原告団と弁護団は「上告しない」と声明を出した。

弁護団長の丹羽雅雄はこう表現する。「大阪高裁判決は、京都地方裁判所判決と同様の論理と理由をもって控訴人らの訴えを斥けており、大変残念である」と釘を刺した上で、「付言の内容から判断しても琉球民族に対する愛情と理解を行間に読み取ることができ、控訴人らの訴えを真摯に受け取ろうとする姿勢と『訴訟』という枠組みの限界との間の悩みを感じ取ることができる」という理由で、大阪高裁判決を確定させる決意を示した。

原告団長の松島はこう述べる。「日本の最高裁においては政治的な介入が予想され、控訴審判決文で明記された歴史的な文言も消される恐れがある」と記載、控訴判決を確定させた理由を明らかにした。

10月11日、沖縄県教育委員会の委員長は県議会の答弁で、沖縄県が保管している琉球遺骨を今帰仁村教育委員会へ移送する手続きを開始すると述べた。この遺骨は、戦前、京都帝国大学の金関が台北帝国大学(現在の台湾大学)へ赴任のさい持参し、京大相手の琉球遺骨返還請求訴訟をきっかけに、2019年、台湾大学から沖縄県へ返還された遺骨だ。

琉球遺骨返還運動は、裁判という枠組みをひとまず終了し、話し合いの場を求める次なる段階に移る。京都大学は、研究機関としての倫理の点から内外の批判にさらされている。

北海道大学はアイヌ民族の遺骨をめぐって和解に応じて返還した。京都大学は現在当事者とテーブルの場にすら座らずダンマリの拒否を続けている。しかし、21世紀の人権のレベル、先住民族の権利の尊重の観点からこうした態度は許されない。

判決後の支援者への報告集会で、同志社大学の板垣竜太教授が次のように総括した。「京大は裁判で勝ったと思っているかもしれないが、京大は社会的に負けたのです」と厳しく非難した。世界最大の人類学会・米国人類学会が、7月10日、那覇市内で琉球人遺骨の現地調査結果について記者会見した。「日本政府や研究機関が先祖の遺骨を返還しない状況を作り出していることは、恥ずべきことだ」と、日本の研究倫理基準の低さを厳しく批判した。

琉球遺骨返還、そして先住民族として琉球民族の自己決定権獲得を目指す運動はこれから新たな段階を迎える。(文中敬称略)

【資料】

・「琉球人遺骨返還等を求める琉球民族による遺骨返還の訴えを斥けた大阪高裁判決について積極的に上告しないと決断した理由に関する原告団談話」(PDF)

・「琉球人遺骨返還等を求める琉球民族による遺骨返還の訴えを斥けた大阪高裁判決について積極的に上告しないとの決断をした理由に関する控訴人ら弁護団声明」(PDF)

にしむら・ひでき

1951年名古屋生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業後、毎日放送に入社し放送記者、主にニュースや報道番組を制作。近畿大学人権問題研究所客員教授、同志社大学と立命館大学で嘱託講師を勤めた。元日本ペンクラブ理事。著作に『北朝鮮抑留〜第十八富士山丸事件の真相』(岩波現代文庫、2004)、『大阪で闘った朝鮮戦争〜吹田枚方事件の青春群像』(岩波書店、2004)、『朝鮮戦争に「参戦」した日本』(三一書房、2019.6。韓国で翻訳出版、2020)、共編著作『テレビ・ドキュメンタリーの真髄』(藤原書店、2021)ほか。

 

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