特集 ●総選挙 結果と展望

宮本太郎提言は“神聖なる憎税同盟”の壁を打ち破れるか

『貧困・介護・育児の政治――ベーシックアセットの福祉国家へ』を
めぐって宮本・濱口桂一郎さんが徹底討論

中央大学教授 宮本 太郎 

労働政策研究・研修機構労働政策研究所長 濱口 桂一郎

司会 本誌代表編集委員 住沢 博紀 

1.「深堀」の二つのテーマ設定

住沢:今回の「深堀」対談は、非常に評判になった宮本太郎さんの近著、『貧困・育児・介護の政治―ベーシックアセットの福祉国家へ』(朝日新聞出版社 2021)が対象です。この本に濱口桂一郎さんがブログでコメントをして、さらには講演会などで宮本さんが濱口コメントに言及されています。そこで『現代の理論』27号で宮本さんにまず、「社会民主主義の再生とベーシックアセット」というタイトルでこの本の要約をしてもらい、今回は、ヨーロッパや日本の労使関係の専門家である濱口さんと、日本の雇用システムの問題点もふくめた視点から「深堀」してもらうという企画を立てたわけです。

『現代の理論』27号では、ベーシックアセット戦略を軸にした福祉国家の再構築、ひいては社会民主主義の再生はありうるか、ということが宮本さんのテーマでした。それに対して濱口さんの方からは、労働組合に組織された勤労者の側でも、経営者と同じように増税を憎む層が主流であり、両者は「神聖なる憎税同盟」を形成している。この「神聖なる憎税同盟」は、宮本さんのキーワードである「磁力としての新自由主義」と共通する部分があり、この点で宮本さんの所論に共感するという事です。

それでこの「深堀」対談では、(1)過去30年の日本の福祉政治を、「磁力としての新自由主義」、「例外状況としての社会民主主義」、「日常的現実としての保守主義」という3つの概念で分析することの含意、(2)ベーシックアセットという構想とその問題点について議論してもらいます。

2.福田・麻生政権―後期民主党政権―第2次安倍内閣にみる社会民主主義の伏流

濱口:私が読んですごく同感した点と違和感を抱いた点を述べていきたいと思います。この本で一番、我が意を得たりと思った点は、「磁力としての新自由主義」です。この言葉は宮本さんの中では社会保障に着目したかたちで議論されていますが、雇用システムの観点から見るともっと根深いものがあって、まさに「磁力としての新自由主義」がずっと働いている、というのが私が感じてきたことです。宮本さんの本では、大枠としては自民党政権が新自由主義であり民主党はそれを批判する側という枠組だと思うのですが、私の目から見るとかなり違う光景が見えてきます。

2009年の民主党政権は、小泉政権と同じくらい「磁力としての新自由主義」を撒き散らしていたのではないか。宮本さん自身も詳しく書いていますが、2000年代前半の小泉政権は、確かに小泉・竹中の新自由主義路線でした。しかし第1次安倍政権から、福田、麻生政権と進むにつれ、自公政権は徐々に社会民主主義的な傾向を現してきました。それが民主党政権になってもっと社民主義になったというふうに、『現代の理論』の読者は考えているかもしれませんが、私の目から見るとむしろ民主党政権で小泉政権に戻ったのです。構造改革だ、事業仕分けだと言って、無駄を全部切ればお金はいくらでも出てくると主張し、それまで自公政権末期3代で少しずつ積み上げられてきた社会民主主義的な方向が、個々の政策ではつまみ食い的に社会民主主義的な政策はあるものの、大きな流れでいうとむしろ断ち切られてしまった。

鳩山政権はそれとは別の面で失敗して参議院選挙で与野党が逆転してしまい、やむを得ず菅直人は自公政権末期の社民的な政策を徐々に復活させていきました。その社民政策復活を象徴する人物が二人います。一人は財務大臣になった与謝野馨さんですが、もう一人は宮本太郎さんです。皮肉なことに、2000年代から2010年代への変わり目の中で、民主党政権というのは一時期小泉的な構造改革路線に逆流し、それが難しいことが分かって再び福田・麻生政権時代の社民的な政策に復帰して、野田政権で税と社会保障の一体改革に結実したのだと見ています。

こうした流れの中で見ると、第二次安倍政権というのは実に複雑な構造です。新自由主義的なものも部品レベルで見れば確かにあります。民主党政権で排除されていた竹中さんが復活したのはそれを象徴しています。一方で、それまでの社会民主主義的な流れも維持していますし、官製春闘などそれまでにない社民的政策も登場しました。この対立軸とは別の次元で、宮本さんの言う「日常的現実という保守主義」ではなく、頭の中でこしらえられた妙にイデオロギー的な、本来の保守主義とは異なるので私はカタカナで「ホシュ主義」と言ってますけれども、ある種の右翼的アイデンティティ・ポリティクスも強烈に打ち出された。

こういう様々なものがないまぜになったのが安倍政権だったのではないか。しかしここでは第2次安倍政権の正確な位置づけが大事なのではなく、福田・麻生政権で徐々に拡大し、鳩山政権でいったん断ち切られて後期民主党政権で復活した社会民主主義が、現在の安倍・菅政権まで流れてきているということの方が大事だと思います。この辺は社会政策の周りをうろちょろしている私の目から見ると自然にそのように見えるのですが、また宮本さんの見解ともおそらく一致すると思うのですが、世の多くの人にはそのように見えてない人が多いと思います。

ちょうど今自民党の総裁選挙の中で、岸田さんから「新自由主義からの脱却」といった議論が出てくる一方で、かつて民主党政権が唱えていた年金改革論が、規制改革を唱える河野さんから出てくるという、大変興味深い様相になっています。これは、いわば野党側が出してくるであろうカードを先回りして自民党の側が打ち出している形です。あえて社民的な政策を打ち出して見せる一方で、意識せざる新自由主義的な議論を振り回して、自民党としては混合したメッセージになっています。そうした事態の分析を、イデオロギー的に裁断するのではなく、現実の流れに沿った仕分けの仕方が大事である、というのが宮本さんの本を読んだ感想です。

住沢:宮本さんの「見立て」に同意しつつ、しかも与謝野馨さんと宮本太郎さんその人がキーパーソンであるという興味ある見解が示されました。宮本さんの方からコメントお願いします

3.交錯する「磁力としての新自由主義」と「神聖なる憎税同盟」

宮本:濱口さんのコメントをあっちこっちの講演で利用させてもらいました。濱口さんは私にとって最もその意見を聞きたい社会科学者です。私は本の中では「磁力としての新自由主義」とか「例外状況の社会民主主義」などの言葉を使いましたが、この言葉を濱口さんに褒められたというよりも、日本政治の分析に活用する方法を示唆されたようで知的興奮を覚えました。

私も実は政党政治の枠組みでは解決できない大きなフレームというのが日本にあると思います。その意味で濱口さんが使われた、「神聖なる憎税同盟」という言葉は、やはりこれもやられたと思いました。例えば野党の統一については、連合と共産党系の間に立憲民主党が入って苦労している構図なんですけれども、憎税同盟という点では同じように労働組合の主流と反体制で重なる部分があるということです。ある意味で今度の野党連合の消費増税を5%に戻すという提起も、その背景が少し見え隠れしているという感じがします。

濱口さんも示唆されたことですが、岸田さんが言葉の上では「新自由主義からの脱却」を言うなど、「例外状況の社会民主主義」に再接近する動きも見せるなか、野党がまたお株を奪われ、「憎税同盟」頼みになりつつあるのかもしれません。ただ、その底を探っていくと、日本のリベラルが背負ってきたポジションというものが感じられます。

リベラルというのは権力に対して、自由と自律を拡大しようとする考え方です。日本の権力というのはこれも遡っていくと、丸山真男さんではないですけども、村落共同体コミュニティの情実の論理を、官僚の論理、機能性の論理で統合し活用してきた。さらに戦後になると、政府の護送船団方式が経済を庇護し、日本的経営においては、コミュニティの論理が企業の中にも浸透してくる。つまり日本の権力というのは、国家とコミュニティと市場が融合している。日本のリベラルというのは、この権力の融合から抜け出そうとするわけです。

アメリカのリベラルの場合で言うと、対抗した権力というのはプロテスタント的な市場勢力ですので、リベラルは連邦政府の中に対抗の拠点を持つわけですね。トランプ時代に至っても、「ワシントンに巣くうリベラル」と言われて連邦政府を担っているとされる。それに対してトランプたちは市場勢力の俺たちが対抗するんだ、という構図になるわけです。ところが、日本のリベラルは政府に拠点を持つことができず、国家と市場とコミュニティ、全て敵に回して、「浮遊するリベラル」、というか「拠点なきリベラル」にならざるを得なかった。

まず「浮遊するリベラル」とコミュニズムの関係です。つまりコミュニズムというものは現在の体制ではなく、未来のコミュニティに拠点を置こう、そこを心の支えにしようというところがあって、国家・市場・コミュニティの融合体を敵に回す上ではこの構えは重要だった。ただし、どうしても一定の知識層でないとそういう理念だけで自らを支えるのは難しいということがあります。

他方でもう少し社会民主主義的な勢力というのは、そうしたコミュニズムに反発しつつ、逆に企業コミュニティに閉じこもるようなことになってしまうわけですね。念のため繰り返すとその双方が、「憎税」的なものを持っているわけですね。濱口さんご指摘のように、社会民主主義的なシステムで供給されるべきベネフィットが企業で提供されるわけですので、余計な税を払う必要はないということになります。「浮遊するリベラル」とコミュニズム、さらには企業別労組が共通するところは、税金は最悪の権力の現れという考え方です。この双方が「憎税」的な繋がりを維持しつつ対抗し合う、分裂の中での「神聖なる憎税同盟」という奇妙な関係があるわけです。

そうした客観的な評論にとどまらず、じゃあ「浮遊するリベラル」、「拠点なきリベラル」が日本の中でどのようにリアルな陣地を持てるのか。もう一つ付け加えておきたいのは、現在、社会の現状の中でとんでもない不安を抱える若い世代にとって、「浮遊するリベラル」、「拠点なきリベラル」は保守的な勢力に映るということです。リベラルは、とにかく現状をこれ以上悪くされたら困る、現状からの後退を阻止するという事になりがちです。陣地のないリベラルだからこそこれ以上悪くするなということで固まってしまう。若い世代からすればリベラルが保守的に映る理由です。政治学の実証的研究でも、若い人たちが一番革新的なのは維新の会で、最も保守的なのが共産党であると考えていると調査結果がある。まさに濱口さんが開けてくれた扉を行き過ぎたところもあるんですけれどもこのように把握しています

住沢:今キーワードとなる「浮遊するリベラル」、「拠点なきリベラル」といわれると、まるで『現代の理論』のことかと思うわけですが、かつては社会党・総評ブロックや、70年代80年代には革新自治体という頑張る知事さんが何人か存在して拠点があったと思うのですが。しかし21世紀に入ると日本だけではなくてヨーロッパでも社会民主主義勢力が同じような状況になりつつあるように思えるのですが、濱口さんの見解はいかがですか。

濱口:今宮本さんが言われたことは大枠において私も共有します。本当の新自由主義者はごく少数しかいないのに、なぜ「磁力としての新自由主義」が山のように広がっているのか、つまり意図せざる新自由主義者がそんなに多いのかというと、ヨーロッパであれば社会民主主義の最大の岩盤であるべき安定した労働者層がむしろ新自由主義的な感覚を持ち、しかもそれに反発をする反体制的な、宮本さんのいう「浮遊するリベラル」も、やはり国家権力に対する反発から意図せざる新自由主義に走るという点にあります。イデオロギー的には対立しながら、国が税金を取ってそれを全体に再配分するという本来の社民主義に対して非常に違和感、あるいはむしろ敵対心を持つという意味で、結果的には似通ってしまうという構造だと思います。

ただこの説明はまだ概念的です。面白いのは、この二つのイデオロギーは思想としては対立し、ぶつかり合ってるんですが、社会的実態としてはある程度重なり合っている。社会党・総評ブロックというのはまさにそれを体現していたのではないか。彼らの大部分は、日本的な、私の言葉でいうとメンバーシップ型の企業システムの中に生きてるんですね。企業福祉の中にどっぷりつかって生きているがゆえに、その中で全部完結してしまい、それで十分済んでいる。

ヨーロッパであればもろもろの国家の社会保障で提供されるようなサービスは、企業内ですでに提供されているので、それを超えるようなものはいらないという実感がある。その実感が体制派的な労働者としての無意識的な新自由主義のもとになる。しかし同時に、口先の反体制的なイデオロギーとしては、マルクス主義的に福祉国家なんてものはダラ幹だ、というセリフでそれを正当化していた。この二つは、形而上的にはぶつかり合っているように見えて、形而下的な実態としては密接につながっていたと私は思ってます。

こうした無意識的な新自由主義の感覚が、かなりの程度、21世紀になっても持ち越されてきているのではないか。イデオロギー的には本当の新自由主義と、無意識的な安定労働者層のもつ実感的な新自由主義の感覚と、さらに宮本さんのいう「浮遊するリベラル」の反国家的な新自由主義の感覚とが、強力無比な「神聖なる憎税同盟」というトリア―デを作っている。そうするとその「神聖なる憎税同盟」をかいくぐって、国家が社会保障にしゃしゃり出ることが可能になるのは、それ以外のアクターが出てくる時しかありません。宮本さんのいう「例外状況としての社会民主主義」とはそういう機会なのだろうと思います。

宮本さんが出している三つの事例の中で、最も成功したあの介護保険とはまさにその典型で、その神聖同盟でないところから、すなわち介護の現場から、介護せざるを得ない家庭や、介護現場の声が噴出し、それまでこの無意識的な「神聖なる憎税同盟」に入っていた労働組合や、あるいは自民党の中の人たちも巻き込みながら動いて行ったわけで、まさにその意味で例外だったのでしょう。けれどもそれはあくまでも例外であって、神聖同盟の憎税感覚が変わっているわけではないので、その原動力が弱まってくると、元の磁力としての新自由主義的がまた強まってくる。

4.「例外状況としての社会民主主義」が生まれる背景と次の課題

宮本:今、話を一歩進めていただいた印象なんですけれども、じゃなぜ社会民主主義的な改革が進んだのか、限界があるにしても進んだのかを考えるとき、これは安定した基盤なき社会民主主義なんですね。

濱口さんが今いわれたように介護、子育て、貧困などをめぐって、「磁力としての新自由主義」ではもはや対応できない、国の支出を省いては対応できない問題が噴出してくる。そうした状況とかかわって、政権与党の弱体化、これは自民党政権であれ、民主党政権であれ、政権与党の弱体化が進んで、そうした中で比較的マイノリティの政治家とか、あるいは志の高い行政官とかが動き出し、そこにさらに財務省の戦略がかぶさるわけですね。これは増税の好機かもしれないという戦略がかぶさった。ただし、こうした動きは政党の中でも、また場合によっては官庁の中でも多数派にはなりきれない。ゆえに堅実な市民運動を引き込もうという流れも起きてくる。そうしたアマルガムみたいなものが出来上がる。これが結果的に社会民主主義的な改革につながってきた。

このパターンは、冷たく言うとシステムの自己調整みたいところがあるんですね。「神聖なる憎税同盟」だけではとても説明できないような、社会の持続可能性が保てない状況下でのシステムの自己調整的なことがあるのですが、ただ、そういう言い方で済ましたくないのは、さっき濱口さんがおっしゃってくださったように、自分自身そうした流れにかかわったということもあって、やっぱりそこにさまざまな行政官であったり、政治家であったり、あるいは市民運動や私のような研究者の思いがあり、そういう思いは、空回りした訳じゃないし、介護保険でも子ども・子育て新制度でも、困窮者自立支援制度でも、決して大枠で誤っていたわけではない。ここをどう継承していくのか。

思いや政策理念の妥当性だけではなく、人々のニーズとかみ合っているところも大きい。例えば介護、これはもう他人ごとではない、場合によっては自分自身の問題でもあるっていう感覚が広がった。子育てに対しては、嫌なら子供作らなければいいじゃないかということになりがちだったのが、もうそれですますわけにもいかないわけで、これまで憎税神聖同盟的なものに寄りかかっていた人々も発想を変える条件があります。

住沢:先ほどのお二人の話では、介護保険では多くの人が当事者という意識を持ったが、育児はそうではなかった。しかしこれから育児も、男性社員にとっても「自分事」にあり、社会にとっても「必要事」になるという事でした。その意味でも、育児休業制度も「例外状況の社会民主主義」の産物の一つという気がします。幅広く活用されている制度ですが、取得者は正規雇用の女性が大部分であり、給付も雇用保険からです。また育児休業の後、元の職場に復帰するかと言うと必ずしもそうではありません。育児休業制度の持つ日本の企業システムを変えうるポテンシャルに関して、どのように評価されますか。

濱口:私は、育児休業自体は女性にとって明らかに就業を促進する方向に、その制度が働いてきてると思います。みんながみんな育児で辞めるわけではありません。ある方の本のタイトルにもありましたけれども、雇用均等法以前の結婚退職するのが当たり前だった時代の女性に対して、育児休業法以後の女性を「育休世代」と呼ぶ言葉も生まれています。

ただ、これは今日のメインのテーマとはややずれますが、企業の雇用システムは何も変わっていないので、女性は育児休業を取った後、「普通の働き方」ではなくて、「男性正社員型の働き方」に戻ることになります。しかし、幼い子供を抱えて男性正社員型の働き方ができるかと言うとできるはずがありません。その結果、入社の時にはみんな総合職で入りますけども、育児休業明けにはそういう働き方ができない。そこで、マミートラックという女性向けのコースに追いやられていきます。男性正社員型の働き方というのは普通の働き方ではなくて、無制約な働き方だからです。日本の現状では、制約された働き方かそれとも男性正社員型の無制約な働き方かという二者選択になってしまい、結果として育休復帰後は制約型になってしまうのです。

この問題は日本型雇用システムに根差す問題であって、このために日本社会や日本企業は女性のポテンシャルを十分使えていないのです。結局、育児休業制度が入ったことで一定程度は女性の有効活用ができるようになったと言いながら、そこには限界があります。 

5.21世紀の福祉国家とベーシックアセット

住沢:それでは第2の問題の方に行きたいと思います。宮本さんは『現代の理論』への寄稿論文でも社会民主主義の再生という言葉を使っておられて、その戦略の一つとしてベーシックアセットという福祉国家の新しい展開を提起されています。ベーシックアセットに関して濱口さんの方からよく分からないという点もあるということでしたのでそこからお話をお願いします。

濱口:ベーシックインカムというのは分かりやすいし、ベーシックサービスというのも分かるのですが、ベーシックアセットというのは分かりにくい。とにかくお金をとか、公的なサービスを、というのはわかりやすいのですが、アセットというのは資産ですよね。最初にサブタイトルを見た時に、ベーシックアセットというのは、人生の出発点の時にある一定の額を支給され、それをどう使っていくかはあなたにお任せしますというようなことかな、と思ったのです。しかし、そんなことを宮本さんが言うはずがないし、読んでみてもそういう話ではないので、何だかよく分からないなということになったわけです。

色々なものの組み合わせだという説明はあるのですが、もう一度この本を読んでみると、これは憲法25条、つまり健康で文化的な最低限度の生活を保障するということだとも書いてある。そうであればよく分かります。しかしそれならば憲法25条でいいのではないか。それをベーシックなんとかというなら、私の感覚から言うともう少し細分化して、例えばベーシックヘルスケアとか、ベーシックチャイルドケアとか、 ベーシックエデュケーションとか、ベーシックトレーニングとか、ベーシックハウジングとか、具体的なベーシック保障を示した方がいいのではないか。

このうち、たとえばベーシックヘルスケアというのは戦後の日本ではアメリカと違って一応確立しています。しかしベーシックハウジングはほぼ欠落している。この点で、現在立憲民主党が提案している住宅政策は画期的だと思います。これは、これまでベーシック保障の対象だと思われていなかったことを、社会政策としてきちんと位置付けるという意味がある。憲法25条はこうした提案の根拠ともなりうるでしょう。

生活保護の中の住宅扶助を除けば、ベーシックハウジングというのは日本ではほぼ欠落していたのですが、実はごくマイナーな形ですが今は存在しているのですね。非常に局部的ですけども。いつできたかというと、法律に盛り込まれたのは2013年の生活困窮者自立支援法なのですが、出発点はリーマンショックの時なのですね。これは宮本さんの言う言葉とはちょっと違う意味での、「例外状況の社会民主主義」のいい例であると思います。

リーマンショックとは例外状況なのですね。それまでは住宅に補助をだすなどという発想はなかったのですが、揺らぎの中で雇用対策の一環として住宅難民への対応が求められ、始めは貸付金から始まりましたが、その後民主党政権下で住宅手当という形に進展し、政権が変わる中でも形を変えながら住宅支援給付として残り、2013年には生活困窮者住宅確保給付金として法律に規定されるに至ります。今回のコロナショックも同じで、やはり例外状況にならないと日本に社会民主主義的な政策は出てこないのかと思います。ナオミ・クラインの『ショックドクトリン』とは逆の意味ですが、ある種のショックドクトリンかもしれません。

宮本:まず第一に、ベーシックアセットという考え方は、もろもろの給付を全部に乗っけてしのごうという安易な発想じゃなくって、制度をちゃんと構造化しなければならないという考え方です。しかしその話に行く前に、なぜベーシックアセットという言い方をするのかについて濱口さんの話を受けて述べさせてもらいます。

まず憲法25条でいいじゃないかという話ですが、実はそうなんですね。「健康で文化的な最低限度の生活」を保障するという憲法というのは他に例がないんじゃないかということ、でスウェーデンの憲法でも行政の給付を保障するとは言ってますけれども、生活を保障するとは言っていない。だから憲法25条の素晴らしさというのを共有しなければいけないのですが、ただ現在では25条は措置制度にひきつけて論じられてしまっていて、例えば中間層がこれを根拠に自分たちの生活を構想という事にはなりにくい。やはり相当困窮した人々のセーフティネットとして、憲法の大事な条項が機能を限定されてしまっている。憲法25条をやはりもう少し使い倒していくべきではということが第一なんです。ベーシックアセットという言葉がその誘い水にならないかという発想があります。

その際、憲法25条を活かしていくためにも、社会民主主義的な考え方が「例外状況」を越えて根づいていく必要がある。ところが現在では、社会民主主義は欧米含めて空回りしがちで、この事実をどう受け止めていくのかということがないと、25条を中間層を含めて活用していくことはなかなか難しい。

その点に関して併せて考えたいのは、北欧発のヨーロッパ社会民主主義の王道としてあった社会的投資という考え方、あるいは積極的労働市場政策という考え方が現在直面している状況をいかに捉えていくか、という点です。

積極的労働市場政策とは、流動的な労働市場の中で、人々が安定した良い職に着くことができ、生活を安定させることを目指した政策です。そのために、職業訓練や職業紹介、保育や介護などのサービス給付を強化する。他方で職業訓練を受けている間とか、子育てに専念している場合とか、そういう時に集中して現金給付も行い、積極的労働市場政策を支えるという政策パッケージがありました。ところがこれが今空回りをしてしまっている。そもそも国際競争力のある部門での安定した雇用など少なくなっている。これはグローバル市場でICT とか AI が役割を拡大しているということにもよると思います。いずれにせよ、そうした安定的な仕事に移っていくことによって経済競争力も強めていきつつ福祉国家と両立させてゆくということが、しだいに困難になってきてしまっています。

そうした中で、むしろこうした積極的労働市場政策の発想が、新自由主義に使われる傾向があります。とくに2013年の産業競争力会議で今の雇用調整助成金を労働移動支援助成金に置き換え、人を成熟産業から成長産業へと人を移していく、ということが提起されました。しかし成長産業と言っても、さきほど、ヨーロッパの積極的労働市場政策についてお話ししたとおり、もはや先端部門は人を吸収しません。雇用があるのは、サービス産業など仕事が厳しくて離職率が高いところで、労働移動と言っても、誰も乗って来ないわけですよね。そこで労働移動支援助成金の支給で研修と称して従業員に転職を迫る会社も現れ、問題になりました。

逆に濱口さんにお聞きすることになりますが、先端部門が人をあまり吸収しなくなり、他方で地域では働くことに様々な困難を抱えた人が増えている。こうした人たちを含めて、誰もが地域密着で働く機会を広げるにはどうすればよいか。私はちょっと冷や汗ものなのですけども、メンバーシップ型の雇用でもジョブ型の雇用でもなく、オーダーメイド型という形も考えられるのではないかと提起したわけです。どんな人でもそれぞれ関われるような仕事の仕方、というのをカスタマイズしていく必要があるのではないかと思っているわけですけども、濱口さんにどういう風に言われるかと気になっています。同じ社会的投資でも、いわば地域密着型の社会的投資を広げていく必要があるのではないかということです。

この地域密着型の社会的投資を考える際、働き始めるのだけども所得が十分ではないという時に、先ほど濱口さんが言ったみたいに住宅関係の手当を出すとか、給付付き税額控除を適用するとか、補完型の所得補償をやっていくことが非常に重要です。もう一つ、今現金給付というアセットとサービス給付というアセットを挙げたのですが、さらに大事なのは、コモンズというアセットです。みんなが認め認められるという場に身を置き、自己肯定感が高められること、ジョン・ロールズがいうところの自尊の社会的基盤を持てること、これこそが最も重要なアセットだと思います。

ただ日本の場合、自尊の社会的基盤としてのコミュニティは権力統合の場となりがちです。それに対してコミュニティを選択した離脱したりできる条件を確保するためにも、福祉国家によるサービス給付や現金給付というのが非常に重要になってきます。そうした下支えのもとでコミュニティがアセットになりうる、つまり自分が身を置いて元気になる場という意味でのアセットになりうるのではないか。

6.メンバーシップ型企業システムと教育訓練・最低賃金制の限界

住沢:社会的投資としての積極的労働市場政策が本来のヨーロッパ社会民主主義の王道であるという話でありましたが、これが現在では回らなくなっています。この問題も含めて濱口さんの、宮本さんへの質問なりコメントをお願いします。

濱口:いくつかの次元があるかと思います。スウェーデンの社民党がリカレント教育を提唱したのは半世紀前になります。今日、AIが登場するなど人類史的な転換期にあって、今までのような仕組みでうまくいくのかなどときわめて大きな問題があって、私もこの先の見通しはできませんが、これからはうまくいかないかもしれない。しかしこれまでは社民的政策の定番であった社会的投資、一人一人に投資してそれで社会に再統合していくというリカレント教育は、日本ではこの半世紀間、意識的・無意識的に排斥されてきたのではないかと思います。そういうベーシック教育訓練に対して一番無理解で、それをバッサバッサと平気で切り捨ててきたのが実は民主党政権でした。あまり皆、覚えてないかも知りませんが、当事者にとっては結構重要なことです。

しかし前述の「磁力としての新自由主義」からすれば、それは自然なことだったかも知れません。そうした発想の源泉は2種類あり、一つはベーシック教育訓練はすべて企業の中でされているから、国がそんなことをする必要はないと思う人。もう一つはそもそも国家が教育訓練に介入するのはけしからんという二重構造になっていて、それで切り捨てたわけです。

皮肉なことに、第2次安倍内閣になってから、産業競争力会議主導でそういう字面の上では真っ当な社民的政策が打ち出されてきています。そしてそれを受けていろんな教育訓練制度がつくられるのですが、それらは私の目から見るとまともに動いていない。まともに動かない最大の理由は、日本社会の主流がそういうものを重要だと思っていないからです。つまり社会的投資戦略がうまくいくためには、私の言葉でいうと、ジョブ型社会が前提なのです。なぜならば、ジョブ型社会というのは、何かができる人でないと雇ってくれない。これを裏返して言うと、私はこの訓練を受けてこの仕事ができるようになりましたといえば、そこに着目して雇ってくれる社会です。

これに対して日本のメンバーシップ型社会では、何もできない人間を雇うのですが、何もできないから雇うのではなくて、今は何もできないけども、どんなことでも会社がやれと言ったことはやれるようになる、何でも鍛えればやれるはずだというそのポテンシャルに着目して採用するのです。そうするとそのポテンシャルがないような奴は、学校を出て会社への入り口で、ポテンシャルがないとみなされて排除されたような人間は、ちょっとばかり訓練を受けて何か特定のことができるようになったからといって、採用してやろうなんていう風に思わない。

宮本さんのいった、ジョブでもメンバーシップでもなく、オーダーメイド型が必要だというのは、確かに欧米でもオーダーメイド型が必要な人もいて、そういう政策も実施されています。しかし日本の特徴は、本来普通に働ける人であっても、初めにポテンシャルが足りないと企業から排除された人は、どんなスキルをつけてもお前はメンバーシップに合わないと言われてしまいます。そのために、欧米ならオーダーメイドでなくてもいいような人まで、オーダーメイドで対応せざるを得なくなってしまうのではないかと思っています。

繰り返して言えば、産業競争力会議で、職業教育訓練を一生懸命やればうまく回るはずという、一見、欧米型の社会的投資戦略に見えるような政策がいっぱい作られるのですが、企業の主流がそういう人を受け入れて積極的に採用するようにはなっていないから、結局うまく回らない。仕組み自体は悪くはなく欧米であればまともに動くはずのものが、日本の文脈に置くとそういうねじれた形になってしまっています。

先日内閣府の経済財政諮問会議が骨太の方針で、公共職業訓練の効果分析をすると書かれていて、これは危ないなと思ったのです。なぜかというと、欧米の職業訓練と同じように効果があるという結果が出るはずがないのですよ。それは訓練の中身が悪いからではなく、中身が良くてもメインストリームの企業側が、それを受け入れようという仕組みがないからです。

もう一つはいま宮本さんがいったように、成長産業つまり雇用が増えるという意味での成長産業は対面型サービス業であり、対面型サービス業とは多くは官営準市場で、介護保険などによって事実上その低賃金が固定化されてしまっている。ところが欧米の教育訓練の効果分析ではどういう風にやってるかというと、訓練を受けた仕事に就職できるか、そして就職した先で元の仕事よりもどれだけ賃金が上がったかでその効果を分析する。それが指標であり、労働市場がジョブとスキルで動いてることが前提なんてすね。

ところが日本ではそうでないので、日本で教育訓練をやっても効いていないように見える。教育訓練を受けた者が、みんな元の仕事よりも低い賃金となる、そういう結論になるんです。分析する前からこの結果は分かるのですよ。わかってるのにそれをやるっていうのは非常に恐ろしいことで、これやったら間違いなく効果はない、むしろマイナスであるみたいな変な評価が出て、こんな無駄なものは要らないと、また民主党政権の事業仕分けみたいなことがおこるのではないかと今から危惧しています。

ベーシックアセットに関して、この内容をアセットと呼ぶことがよくわからないということが第1点。さらに今言われたオーダーメイド型であるとか、地域のコモンズとかは分かるのですが、それは全体の中ではマイノリティ向けなのではないか。実は欧米のようなマイノリティよりは結構広がりがあり、例えば就職氷河期世代のようにかなり広がりを持っているのは確かなんですが、やはりそれは社会の中ではマイノリティであり、企業の立場から見るとよそ者たちがと困っているだけの世界、ということになるので、そこを中心に制度を組み立てるのは正直少し難しいという感じがします。

じゃあお前は何なんだって言われてもアイデアがあるわけではなくて、今まで福祉国家とか社会保障とか言ってきた中で落ちこぼれがちであった領域、例えば教育訓練とか住宅とか、これらもベーシックな社会保障としてヘルスケアと同じように大事なんだと、これを伝える。全体で社会保障という一つの傘の中に入るものだという概念として伝える、そういうものとして理解すればベーシックアセットというのも分かるかなという感じがします。

住沢:私の方から二つの質問があります。まず宮本さんにはベーシックアセットという枠組みですが、さらに地域やコモンズという概念を入れることにより、人々のつながりとか尊厳とか言う話も入ってきます。その場合、「準市場」というもう一つの宮本さんの重要な概念があるわけですが、具体的なものや事例をあげることができるでしょうか。

濱口さんに対してはメンバーシップ型の日本企業が抱える問題が出されていますが、『若者と労働 「入社」の仕組みから解きほぐす』(中公新書ラクレ 2013、2021,9版)では、日本の雇用=「入社」という仕組みの抱える問題を、当事者の若者にもわかりやすく書かれています。しかしもう一つの現実的な問題として、日本でも最低賃金の底上げが大きな課題になっています。ヨーロッパでも労働組合による労使交渉と並んで、最低賃金制の導入とその底上げが大きな政治課題になっています。安倍・菅政権も最低賃金を引き上げることに力を入れてきました。この問題についてコメントお願いします。

宮本:これは濱口さんの質問に対する再度のリプライということになりますけども、私はベーシックアセットという言葉をかなり包括的に使っていますが、ポイントは地域密着型の社会的投資です。マイノリティの世界になりがちではないかというご指摘ですけれども、今日では中間層を含めてこうした社会的投資を必要としていると思います。他方でこれまでの社会的投資はいらないということじゃ全くなくて、従来型の、グローバルな経済を射程に入れた教育訓練や人的投資というのも必要だろうというふうに思っています。ただ地域の現実と肉離れを起こしてしまっているので、地域密着型の仕組みで補完する必要があるということです。

また私は、ベーシックインカムやベーシックサービスの一見わかりやすいところが罪作りだと思っていて、それよりはベーシックアセットのわかりにくさの方がマシだということを言いたかったのです。そこが濱口さんとの戦略的な判断が違うかもしれません。それでは何が罪作りかと言うと、ベーシックインカムを言う人も公共サービスをやらないとは言わないわけですよね。ベーシックサービスも現金給付をやらないとは全く言わないわけでして、結局両方なのに全体のビジョンは示されない、ということです。その点で、とくにベーシックインカムはポピュリズムに傾くところがあるのではないか。

濱口:賃金について言うと、そもそも日本の最低賃金は出発点ではそうではなかったんですけれども、最低賃金法が出来てから日本はだんだんと正社員型の社会になっていきました。正社員は最低賃金よりもはるかに高い水準で、大企業で労使交渉をやりそれが中小企業にも波及していく。その結果最低賃金というのは正社員ではなく、パート・アルバイトの賃金となりました。パート・アルバイトというのは夫や父親が正社員として生活給でもって生活が成り立っている世帯の、小遣い稼ぎや家計補助的な位置づけでずっとやってきました。

ところが、そのパート・アルバイトの中に家計維持型の労働者が大量に入ってきたために、最低賃金ではまともな生活ができないという問題が浮かび上がってきたのが、実は十数年前の第一次安倍内閣の時です。この時、最低賃金と生活保護の逆転現象が起こっているのがおかしいじゃないかという批判があり、それでは生活保護の水準までは上げましょうということで、今日に至るまでに毎年毎年かなり上がってきたわけです。東京でいうと、時給700円くらいのところから、今では1000円超えるところまできているのですが、ではそれで本当に一人前の労働者として家計を支えられるか、セカンドアーナーとしてではなくファーストアーナーとして家計を支えられるかと言ったら、依然そうではない。

ただ問題は日本の企業、あるいは経済自体が、過去数十年間かけて、そういう家計補助的な労働力を最低賃金すれすれの賃金で大量に活用することを大前提に回るようになってきた。製造業中心からサービス業中心へという産業構造の転換自体は世界共通に起こったものですが、それが日本の場合は、サービス業の構造が最低賃金ギリギリの家計補助的な労働力をフルに活用することを前提に形成されてきてしまった。

そのことが社会保障にも影響しており、年金や医療保険など社会保険の適用を拡大しようとすると、そういう流通関係の事業団体が猛然たる大反対運動をやる。そうすると与野党ともにそのロビーイングを受けて足を引っぱるという事態がずっと繰り返されるわけです。これはけしからんと言えば済む話ではなくて、家計補助的なレベルに最低賃金があり、それで家計補助的な労働力が供給されることを前提に、この半世紀間かけて形作られてきてしまった経済構造そのものが問題なんです。それをどうするかという話を抜きには、最低賃金の話だけでは難しいと思います。

住沢:最後に、対談では大事なテーマではあるがそのためには第2、第3の対談が必要となるという事で、「深堀」しなかったテーマを掲げておきます。

第一は、社会的投資、とりわけ高等教育への投資におけるその利用者が中産階級など一部に限定されるという「マタイ効果」の話です。教育格差は現代の社会的不平等の源泉の一つとして欧米諸国でも議論されていますが、それが新しいグローバルエリートを生むだけではなく、教育格差による社会的分断をなくす方向と方策が問われています。

第二は、宮本さんの言われるコモンズとアセットいう「資金=もろもろの装置のつながり」の関連です。コモンズは共同体、コミュニティですから、宮本さんもその加入と離脱の自由、その金銭的な基盤に言及しています。しかし多くの工業諸国が移民国家、多文化社会になる現在、福祉国家をめぐる「成員の合意」は簡単ではありません。濱口さんは、メンバーシップ型社員はこれまで企業システム内部の問題であったけれど、それがナショナリズムの問題と結びつく傾向に関して危惧しています。

みやもと・たろう

1958年東京都に生まれる。中央大学大学院法学研究科修了。中央大学法学部教授。北海道大学名誉教授。福祉政治論専攻。内閣府参与、総務省顧問、男女共同参画会議議員など歴任、現在、社会保障審議会委員、『月刊福祉』編集委員長など。単著に『共生保障 「支え合い」の戦略』(岩波新書)、『生活保障 排除しない社会へ』(岩波新書)、『社会的包摂の政治学 自立と承認をめぐる政治対抗』(ミネルヴァ書房)、『福祉国家という戦略 スウェーデンモデルの政治経済学』(法律文化社)、『福祉政治 日本の生活保障とデモクラシー』(有斐閣)など。

はまぐち・けいいちろう

1958年生れ、東京大学法学部卒業、欧州連合日本政府代表部一等書記官、東京大学大学院法学政治学研究科客員教授、政策研究大学院大学教授、労働政策研究・研修機構統括研究員を経て、現在労働政策研究・研修機構研究所長。主著に、『新しい労働社会』岩波新書(2009年)、『日本の雇用と労働法』日経文庫(2011年)、『若者と労働』中公新書ラクレ(2013年)、『日本の雇用と中高年』ちくま新書(2014年)、『働く女子の運命』文春新書(2015年)、『日本の雇用紛争』労働政策研究・研修機構(2016年)、『EUの労働法政策』労働政策研究・研修機構(2017年)、『日本の労働法政策』労働政策研究・研修機構(2018年)、『働き方改革の世界史』ちくま新書(2020年)、『団結と参加』労働政策研究・研修機構(2021年)、『ジョブ型雇用社会とは何か』岩波新書(2021年)。

すみざわ・ひろき

1948年生まれ。京都大学法学部卒業後、フランクフルト大学で博士号取得。日本女子大学教授を経て名誉教授。本誌代表編集委員。専攻は社会民主主義論、地域政党論、生活公共論。主な著作に『グローバル化と政治のイノベーション』(編著、ミネルヴァ書房、2003)、『組合―その力を地域社会の資源へ』(編著、イマジン出版 2013年)など。

特集/総選挙 結果と展望

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