コラム/沖縄発

「言葉」への姿勢―大城立裕の場合

作家 崎浜 慎

作家・大城立裕(享年95歳)の一周忌を機に、10月24日に「大城立裕追悼記念シンポジウム」が那覇市で開催された。私は実行委員およびパネリストとしてシンポジウムに関わらせてもらった。

大城立裕追悼記念シンポジウムの開催

大城は1967年に「カクテル・パーティー」で芥川賞を受賞して以降、沖縄文学を牽引してきた作家であり、組踊や戯曲の創作にとどまらず、琉歌などにも造詣が深かった。その業績に触れるには、「大城立裕全集」(勉誠出版)全13巻がある。さらに、全集発刊後の2002年以降も大城は90歳を超えてもなお作品を書き続けた。

シンポジウムでは様々な切り口から大城の作品や業績が論じられたが、私は大城の「言語体験」に焦点を当てて発言した。

大城立裕は言葉の使用に対して「厳密」であり「厳格」であった。たとえば、最近の沖縄の作家について問われ、「本土の沖縄に対するエキゾチシズムにこびる傾向、ファッションがある。例えば文章に沖縄方言を安易に多用し、しかも間違って使う。私は方言でしか表現できない場合しか使わない。まず日本語で堂々と書くべきだ。」とかなり厳しく評している(「沖縄タイムス」1999年4月23日)。

言葉の使用に厳格であるのは小説家としては当然のことかもしれない。また後進の者に対しての教育的な意図もあっただろう。しかし、ここでは、大城が生きてきた空間そのものが、安定した言語の使用を許さない、非常に厳しい環境だったのではないかということを考えてみたい。

大城の育った時代背景を見ていくと、幼年期から少年期にかけては、日本語と自らの沖縄の言葉(シマクトゥバ)の間で揺れ動く、「バイリンガル」的な時期にあたる。

大城が学生時代を送った上海は租界(外国人居留地)であり、東亜同文書院は中国語を主として使用していた大学である。そこで他者と交流するためには、何よりも他言語や母国語(日本語)の使用による複雑な操作が必要だったにちがいない。

そうした環境を生きてきた大城であるならば、沖縄の作家たちに対する苦言を呈しているように見える発言(「私は方言でしか表現できない場合しか使わない」「まず日本語で堂々と書くべきだ」)にも、説教的な意味合いがあるというより、自身の言語に対する向き合い方の宣言と考えた方が自然ではないだろうか。

代表作「カクテル・パーティー」は、1960年代の米軍統治下の沖縄が舞台で、米国から被害を受ける沖縄は、日中戦争では中国に対して加害者でもあったという複雑な構図を描いている。基地内で行われる社交パーティーでは、中国・日本・米国・沖縄による国際交流の場として多言語が頻繁に交わされる。複数の言語が遭遇することによって生じる葛藤を描くなど、大城は多言語が交錯する事件の場に意識的である。言語同士の衝突や融和の中で生きてきた経験は、自己形成の上でも多大な影響があったはずである。

自分の内にある言葉を外に向けて、他者が理解できる言葉で表現すること、意味を置き換えていくこと。大城は生涯を通してこの問題に直面していたのではないか。そこにアイデンティティや文化の問題が絡んでくる。ここに大城の「翻訳」というテーマが浮かび上がってくる。

大城の場合、1960年代には、沖縄と日本の関係において、「祖国」への復帰をめぐる政治・文化的な摩擦や沖縄のアイデンティティが問われる問題に直面する。「翻訳」という作業を通して―具体的には日本語で文章を書くことによって―、自身の意見を表明し、思考をめぐらせていくことで、葛藤を克服していったのではないか。そのあたりの経緯は著書『同化と異化のはざまで』を読むと見えてくる。

この時代、沖縄から見ると日本はまさに外国であった。「翻訳」を通して大城が身につけたのは「国際性」ではないだろうか。

「国際性」とは他国の文化や言語に精通していることではなく(もちろん同化することでもなく)、他国と自国(他者と私)の差異や距離を正確に把握する技術であろう。「翻訳」には他言語との距離を測っていくという能力が求められる。

言語の距離を測量すること

明治政府により琉球王国が強制的に県として併合された「琉球処分」(1879年)以降、明治政府そして沖縄県庁の同化教育の一環として日本語教育があった。また、国家総動員体制下、沖縄県が進めた「標準語励行運動」はシマクトゥバの禁止や懲罰を実施するものであった。自ら進んで言語弾圧を行うというのは、「シマクトゥバ復興運動」が県を挙げての事業となっている現在から想像するのは難しいが、背景には複雑な事情がある。日本政府による同化政策だけでなく、学力向上や日本本土並みに経済発展を目指すために沖縄側が積極的に推し進めていったことも大きい。

大きな言語にマイノリティの言語が呑まれてしまうのは当然のことである。結局のところ、現在沖縄で話されているシマクトゥバは、ほとんど形骸化されたものでしかない。

しかし、それでシマクトゥバが絶滅したわけではもちろんなく、言葉はしたたかなものであるから、形をかえても生き残る。今、沖縄で私たちが使っている言語は、日本語とシマクトゥバがまぜこぜになった〈ハイブリッド言語〉と言っていい。その言語のありようから、母国語ともいわれる日本語に対する沖縄の葛藤と融合を垣間見ることができる。

ところで、一般的に日本は単一言語である日本語を使っていると思われがちではないだろうか。だが、現実はそうではない。在日朝鮮人、アイヌ、沖縄の人たちが話す言葉がある。様々な人種・民族を内に抱えながらも、政治・社会的要因により見えないものとされている人たち。その人たちが話す言語が日本語と「交雑」しているように見える。たとえば、大城は「若夏」(4~5月の季節)という沖縄出自の古語を1973年の沖縄国体で提案し、いまではそれが広辞苑にも載り日本語として認知されたと書いている。日本語としか見えない言葉に「沖縄」の残響がある。そこにこそ、日本語という単一言語にくさびをいれる「シマクトゥバ」の可能性を見ることができる。その痕跡を感じ取ることが、日本語が単一言語(単一民族)であるという幻想に亀裂を生じさせ、日本社会が包摂する「他者」への回路が開かれていくのではないか。

大城は沖縄の置かれている状況を作家の資質として言葉の面から感知していたからこそ、独自の政治観と文化観を保有することができたのであろうと思う。

言葉は揺れ動くものであり、複数の言語が遭遇することによって葛藤を生み出す。大城には日本だけではなく、日本の内なる他者が見えていた。さらにはアメリカと中国も視野に入っている。そこには、やはり幼少期からの揺れ動く言語体験が根底にあったからなのではないかと思う。

日本語とシマクトゥバだけであれば、より大きな言語へと適応していくのは、社会の趨勢なのかもしれない。しかし、大城の場合はそこに中国語を挟むことによって、言語の完全な同化を免れえたのではないかと思う。日本語・シマクトゥバ・中国語の三点間の距離を正確に測り把握することによって、各々の言語の様態が見えてくる。言語はその国の文化・社会を表象するものだと言ってもいい。他者の言語である外国語との距離測定は、自分がおかれている状況を冷静に見ることにもつながる。点が多いほど距離測定は正確さを増す。

他者との距離感を喪失し、陸上自衛隊のミサイル部隊を配備増強する「南西諸島防衛」などの言説がいくぶんか冷静さを欠いて流布されるいまこそ、沖縄に居住する私たちに求められているのは、この「測量」という作業なのかもしれない。

大城の「言葉」への姿勢は、小説や評論として言葉の形で読むことができる。大城は亡くなっても残された作品には、彼のたゆまぬ思考の展開や、生々しい言葉が息づいている。まだまだ汲みつくせぬものがそこにはある。(敬称は略しました)

さきはま・しん

作家。1976年沖縄市生まれ。2007年琉球新報短編小説賞、2010年新沖縄文学賞、2011年、2016年に九州芸術祭文学賞沖縄地区優秀作、2019年樋口一葉記念やまなし文学賞受賞。著書に『梵字碑にザリガニ』(2020年)。

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