論壇
杉田水脈問題のその後
根強い「ヘイト」と宙吊りの「性」
本誌編集委員 池田 祥子
いつの間にか私たちの周りで当たり前に使われるようになったLGBT。順番に、レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーを意味するが、それ以外の「性的マイノリティ」も含めての総称として用いられている。ただし、性的指向(セクシャリティ)や性自認(自己の性別認識)という性にまつわる異なる次元が一列に並べられているので、理解しにくいし、誤解もされやすい。
それにしても、「人間は男と女、その二つの性別しかありえない」「男と女がペアになるのが当たり前」と考えられてきた長い歴史の過程で、それに当てはまらない個別の事例や、男と男、女と女の同性愛などは「異端」として蔑まれ、内密に隠され、あるいは国によっては犯罪として処罰されてきた。
この意味では、1988年頃アメリカで、当事者たちがLGBTという言葉を使い始め、1990年代に入って、西欧や日本でも使われるようになってきたのは、明らかに大きな性意識の転換を意味するものである。ただ、日本では、トランスジェンダーの人々に「性別適合(性転換)」手術が初めて実施されたのが1998年(埼玉医科大学)、「性同一性障害特例法」(通称)が制定されるのが2003(平成15)年である。
それから10数年後、とりわけここ数年、LGBTという言葉が盛んに流通している。だが、それを契機にして、人間の「性意識」の大きな転換がよぎなくされているということを、私たち自身が自覚し納得するには、もう少し時間の余裕と、身近な体験と正直な応答が必要なのかもしれない。『新潮45』2018年8月号掲載の杉田水脈「論文」と、それをめぐる激しい批判は、本当ならば、現在のLGBTをきっかけとした社会の「性意識」の変革をさらに意識化させ、それを促す事例になりえたのかもしれない。
しかし、最終的には、『新潮45』は、10月号をもって「限りなく廃刊に近い休刊」となり、最終的には、首相安倍晋三が「人権が尊重され、多様性が尊重される社会を目指すのは当然」であり、「政府・与党の方針でもある」とあまりにも公式的な発言をすることで、難なく幕が降ろされてしまった。また、当の杉田水脈は、10月25日付けホームページで、当事者を差別する意図は一切なかったとし、ただ「不用意に『生産性』という表現を用い、誤解(誰も「誤解」などしていないー池田)や論争を招いた」と述べながらも、謝罪はなく、件の掲載「論文」の撤回もしていない。
1.杉田水脈論文―“「LGBT」支援の度が過ぎる”と主張
最初に、杉田水脈氏の略歴をみてみよう。
大学卒業後住宅メーカーを経て、西宮市役所勤務。みんなの党の勧めで兵庫6区から出馬予定だったが、結果として、日本維新の党から出馬し、衆議院初当選(2012年)。その後、次世代の党に属すも落選(2014年)。2017年、自民党公認の比例区単独で出馬し当選。その他、「新しい歴史教科書をつくる会」理事。著書に『なぜ私は左翼と戦うのか』(青林堂、2017)等がある。自民党からの立候補・比例名簿順位の優遇では安倍首相の強い意向があったといわれる。
以下、杉田水脈論文(『新潮45』2018年8月号)の内容を大まかに区切って、以下、番号を付して要約する。
1.LGBTの報道件数―この1年間のLGBTの報道件数は「朝日新聞260件、読売新聞159件、毎日新聞300件、産経新聞73件」。これを見ると、「朝日新聞や毎日新聞といったリベラルなメディアは「LGBT」の権利を認め、彼らを支援する動きを報道することが好きなようですが、違和感を覚えざるをえません」。・・・「しかし、LGBTだからといって、実際そんなに差別されているものでしょうか」
2.日本は寛容な社会だった。自身(杉田)もLGBTの人とも気にせずに付き合える。「もし自分の男友達がゲイだったり、女友だちがレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます。職場でも仕事さえできれば問題ありません」
3.LGBT当事者の話―社会的な差別より、自分たちの親が理解してくれないことの方が辛い。「これは、制度を変えることで、どうにかなるものではありません」。→「これは、生きづらさに関わっています」。→「リベラルなメディアは「生きづらさ」を社会制度のせいにして、その解消をうたいますが、そもそも世の中は生きづらく、理不尽なものです」
4.行政が動くことは税金を使うこと―子育て支援や、子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うことは少子化対策。それには大義名分がある。「しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです」
5.LGBとTを一緒にするな―「Tは「性同一性障害」という障害なので・・・性転換手術にも保険が利くようにしたり、いかに医療行為として充実させていくのか・・・」
6.LGBは性的嗜好―「多様性を受けいれて、様々な性的指向も認めよということになると、同性婚の容認だけにとどまらず、例えば兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころかペット婚や機械と結婚させろという声も出てくるかもしれません」。(杉田「論文」では、「指向」と「嗜好」の区別がないー池田)。
以上、杉田水脈「論文」の要約である。事実誤認や論理不整合の多いずいぶん荒っぽい文章だということが分かる。上記(6)などは、ふざけ過ぎ(本人は大真面目か?)で、まともに議論する姿勢も見えない。しかし、主として批判を浴びたのは、(4)である。ただ本人は、後日「生産性」という言葉を「不用意に」使って、「誤解(ママ)を与えてしまった」と弁明しているが、実は、2015年7月2日のネット番組「チャンネル桜」でも「生産性がない同性愛の人たちに、税金を使って支援するなんて、どこにそういう大義名分があるんですか」と語っている。十分に確信者なのだ。
それでも、この杉田水脈「論文」に抗議する大勢のデモやSNSでの炎上を目の当たりにして、『新潮45』は10月号で、「そんなにおかしいか「杉田水脈論文」」という特別企画を組んで巻き返しを図った。編集者自身が、「なぜこんな不当な批判を受けなければならない!」「杉田水脈は真っ当なことを言っているのに・・・」という憤りがあったのではないか。だが、結果としては、その10月号は「真っ当な」反論にも巻き返しにもならず、かえって批判の火の渦に油を注ぐ結果になってしまった。
2.『新潮45』特別企画―杉田水脈援護論の「ヘイト」ぶり
もちろん、この特別企画の中にも、できる限り「真面目に」LGBT問題を考えようとしている論者がいない訳ではない。松浦大悟の寄稿文から見てみよう。
(1)松浦大悟―特権ではなく「フェアな社会」を求む―の一文
松浦の肩書きは、元秋田放送アナウンサー、元民主党参議院議員、ゲイであることをカミングアウトしている。
松浦は最初に、杉田水脈への「過度なバッシングに疑問を感じています」と述べている。その理由は、「言葉の断片だけとらえて糾弾してもLGBTへの理解は深まらないと思うからです」と言う。その上で、杉田水脈に対しても次のように彼女の誤解を指摘している。「確かに杉田議員の文章には、情報不足による誤解が見受けられます。ゲイやレズビアンというセクシュアリティは趣味や嗜好品のように自己決定で選び取ったわけではない。だから努力してもヘテロセクシュアルにはなれません」。
さらに重ねて松浦は次のような事実誤認も指摘する。「杉田議員はLGBTへの税金投入も問題にしていますが、自治体が実施している同性パートナーシップ証明書にはほとんど予算はかかっていません」。この点に関しては、朝日新聞の「耕論-新潮45揺らぐ論壇」(2018..2)の論者の一人、小林よしのりも「ファクトチェックを編集部がしていなかったことが信じられません」と語っている。
その他、松浦は、「性同一性障害」という命名の「障害」という言葉についての自分の見解を述べ、また杉田水脈の「生産性がないので税金を使うな」という言葉の背後にある「能力主義」あるいは「優生思想(=優れた人間を大切にし、劣った人間はできるだけ排除する)」に対しても、慎重な物言いをしている。
まず「性同一性障害」に対して・・・(松浦)「性同一性障害者は障害者ではなく、「障害」という位置付けにしなければ母体保護法との関係で医師による子宮・卵巣摘出手術ができないため、あえて名称の中に「障害」の文字を入れている」。
確かにこのような場面のために「障害」という言葉が現実的に機能しているのも事実であろう。しかし、あえて法律の名称自体に、「障害」という名称を付すことによって、「体と心の性は同一である」という多数派(マジョリティ)の正当性が強調されているという事実に、私たちは充分に留意しておかなければならない。T=トランスジェンダーの人々をも一つの性のあり様として、社会の中に受け入れていくのか、あくまでも「障害」をもつ人々として位置づけるのか、ここは大きな分岐点である。この辺りの真っ当な議論にまでは松浦は触れてはいない。
いま一つの「生産性」発言=「優生思想」について・・・(松浦)「「生産性」発言については複雑な思いを抱いています。相模原障害者殺傷事件と同じ優生思想だとの批判はもっともだと思いながらも、しかし私たちは新型出生前診断により胎児がダウン症などの重い疾患を抱えていると分かった夫婦の96%が中絶を選択する社会を生きています」。
この松浦の指摘は、杉田水脈に自らの確信的な「優生思想」に気づかせるためにも重要であるが(ここではその側面は稀薄である)、一方、LGBTあるいはその支援者たちにも、単に「優生思想はダメである、優生思想はナチの思想である」と言うだけでは、今の社会、そしてそこで生きる人間の混迷・迷妄・悩みを共有できない、という難しい問題を提起している(もっとも、沖縄辺野古問題に絡んで、ライター武田砂鉄氏が「反対反対って言ってるだけじゃ変わらない、と言ってるだけじゃ、変わらないよ」と二重否定で語っている。(朝日新聞、2019.1.19)いずれにしても、他人事でなく、自分の事として考えることの難しさがここにはある)。
ただし、そう言いながらも、松浦の寄稿文の最後は、「LGBT特権」が欲しいわけではない、「フェアな社会」を望むのです、と言う。「フェアな社会」に異論があろうはずはないが、なぜここであえて「特権」と言うのだろうか。誰が一体「特権」を要求しているのだろう。あたかも在日韓国人の当然の、歴史的な要求を「在日特権」として激しく糾弾し憎悪する人々を連想してしまう。LGBTをめぐる運動も、あくまでも当然の人間としての存在の承認、その扱いを要求しているのであって、それを「特権」と言挙げすること自体が「フェア」ではないのではないか。
(2)その他の杉田水脈援護論の逆効果
まず、八幡和郎の「杉田議員を脅威とする「偽リベラル」の反発」。八幡和郎氏は徳島文理大学教授の肩書があり、近著には『「立憲民主党」「朝日新聞」という名の偽リベラル』(2018.2)、『「反安倍」という病』(2018.9)がある。この書名からも、「立憲民主党」や「朝日新聞」が「偽リベラル」というのは当然の前提のようである。
そして、今回の杉田批判は「杉田水脈いじめ」と捉え、次のように述べている。「杉田氏への偽リベラルの反発には、痛いところをつかれた怨みという面もありそうだ。実際、偽リベラル勢力は本当に杉田水脈を怖れているようだ。どうしてなのかといえば、やはり、杉田氏のこれまでの政治家とは異質の突破力が怖いのだと思う」。
大学人である八幡和郎であるにもかかわらず、この一文には、「いじめ」「反発」「怨み」「怖れ」など、あまりに感情的な言葉が連発されている。
また潮匡人(評論家)は、NHKの8月3日放送の特集で、「杉田水脈の文章は相模原障害者殺傷事件の犯人と根っ子は一緒」と発言したキャスターたちの発言に憤慨し、次のようにNHK批判に終始する。「ここまで徹底的に叩くのは病的にさえ見える。杉田議員でなくNHKこそ、ヒトラーや凶悪犯罪者と「根っ子は一緒」ではないのか」。
そしてさらに、NHKへの非難を続ける。「まさに厚顔無恥。他人からカネ(受信料)を巻き上げる特殊法人の分際で、偉そうに説教するな。「お客様は神様」とは言わないが、このタカピーな態度はあり得ない。/他人に頭を下げたことのない高収入のインテリ。「政治的に正しい」綺麗事しか言わない嫌みなリベラル。米トランプ大統領候補が敵視した陣営を思い出す」。
アメリカのトランプ大統領の独善的なスピーチを思い出すまでもなく、この『新潮45』10月号の特別企画それ自体が、すでに日本でのヘイトスピーチの片方の舞台になっているようだ。
毒を吐き出す文章は、読ませられる方も辛い。ここらで「もういい」と言われそうだが、最後にもう一つ上げておこう。
小川榮太郎(文藝評論家)は、「性的嗜好(ママ)など見せるものでも聞かせるものでもない」と言いつつ、杉田水脈を次のように庇っている。
「氏(杉田水脈)は「弱者」に一言阿(おもね)らねば発言も許されないようなマスコミの抑圧の危険な裏を暴き続けてきた。その人が、あえて世に問う文章が、辛口になるのは当然だろう。/「弱者」を盾にして人を黙らせるという風潮に対して、政治家も言論人も、皆非常に臆病になっている」。
そして、自らは次のように開き直って、勝手に非難のレッテルを貼る。「LGBTという概念について私は詳細を知らないし、馬鹿らしくて詳細など知るつもりもないが、性の平等化を盾にとったポストマルクス主義の変種に違いあるまい」。
にもかかわらず、小川は突然断定する。「Homo sapiens の性にはオスとメスしかない」と。「性別以前に回帰したければ来世はゾウリムシになればよく、雌雄同体に憧れるならカタツムリに生まれればいい。しかし、今はどんなに苦痛でもHomo sapiens である自分を受け入れる他あるまい」。
小川榮太郎さん!そうですよ、私たちの多くが「Homo sapiens の性はオスとメス」と信じてきたし信じさせられてきたのです。でも、LGBTは、それを問い直すきっかけを与えてくれた。だから「馬鹿らしくて詳細など知るつもりもない」とは言えない状況なのだ。「人間の性」とはどうなっているのか、一体「性とは何か」・・・この問いから逃げることはできなくなっているのだ。
3.残されているテーマ――人間の「性」の多様性と秩序、「結婚・家族」の制度への問い
今回の杉田水脈論文を発端とする政治的な炎上で、一つ、勘違いされている問題がある。それは、杉田水脈自身も「反省」しているような、「生産性」という言葉を用いたこと自体が問題なのではない。問題は、「生産性」という言葉を使いながら露わになった、杉田水脈自身の「能力主義思想」「優生思想」それ自体なのである。
にもかかわらず、「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝(副会長)は、先の『新潮45』10月号で、「「生殖」を「生産」に置き換える用語法は、マルクス主義に親近性がある」と述べ、「モノの生産とヒトの生産」という用語を用いている上野千鶴子の『家父長制と資本制』を突然、槍玉に上げている。
「「生産性」という言葉がケシカランといって永田町の自民党本部を襲ったデモ隊は、その後上野氏の事務所にも回ってデモをかけ、糾弾のシュプレヒコールを上げねばならなかったはずだ」。
本人は大真面目であろうが、以上の藤岡の指摘はあまりにも的外れである。なぜなら、「生産」という言葉は、英語ではproduct, productivity, production と、動詞、形容詞、名詞ともに、人間の生殖の意味と、モノの生産の二つの意味が含まれているからである。それはまた、漢字をよく見れば言うまでもないだろうが、「生む」も「産む」も、元はと言えば人間の生殖を表わす文字ではないか。
それが、資本主義社会の中で、「生産」といえばむしろ「モノの生産」が主流になり、生殖を意味するためにはわざわざ「ヒトの生産」あるいは「再生産」といわねばならなくなっただけの話である。また、少々古い話ではあるが、ユニークな経済学者大熊信行には、晩年に公刊された『生命再生産の理論―人間中心の思想(上・下)』(東洋経済新報社。1974、1975)があることも留意されてよい。
ただ、杉田水脈と藤岡信勝に共通することは、LGBTをめぐって、「人間の性」のあり様の再考がテーマになっているはずなのに、いつしか、「なぜ男と女、二つの性だけではいけないのでしょう」と杉田は本音を晒し、「「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません」と、男女の性別秩序維持、現在の結婚制度維持を頑なに保守するのである。
同じように、藤岡信勝もまた、「結婚が保護されるのは、社会の存立の根幹をなす次世代の『生産=再生産』という重要な機能に関わっているからなのだ。婚姻制度の廃止は社会の解体と同義である」と述べている。
この両者の危機意識は、さらに漫画チックに拡大されるとどうなるか。さる1月3日、山梨県での集会での議員平沢勝栄(自民党)の、「この人たち(LGBTを指す)ばかりになったら国がつぶれてしまう」という発言になってしまうのだろう。
LGBTの人たちの問題は、あくまでも「性的マイノリティ」、つまりは少数者たちからの問題提起なのだ。しかし、それは、単に「少数者」だけの問題にとどまらず、これまでの社会が前提とし公認してきた私たち一人ひとりの「性」のあり様に端を発して、さらに問われるべきテーマはあまりにも多い。
例えば――「男であること」・「女であること」・「男の性欲・女の性欲」・「性にまつわる身体と心」・「性にまつわる暴力・売買」・「制度としての結婚(国による法的・経済的な特別保障)」・「結婚の中の性」・「結婚の外での性と恋愛」・「結婚と相続」・「結婚と離婚」・「不倫」・「慰謝料」・「結婚と姓(氏)―同姓と別姓」・「同性婚」・「夫婦とパートナー」・「結婚と親権、離婚と親権」。さらにはこれらの根底にある「戸籍制度」――等々。私たちの心と身体のあり様、人と人との関わり方、さらには「暮らしのスタイル」などまでが、次々と問われることなのである。
首相安倍晋三が、どこまで言葉の意味を理解しながら語ったのか定かではないが、「人権が尊重され、多様性が尊重される社会を目指すのは当然」! 然り、その言葉がきちんと内実を伴うように生きて行くこと、それが私たちの目の前の切実な課題であるだろう。「子どもを産むこと、育てる」こともまた、当然、以上に密接に関わる重要なテーマである。
いけだ・さちこ
1943年、北九州小倉生まれ。お茶の水女子大学から東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。前こども教育宝仙大学学長。本誌編集委員。主要なテーマは保育・教育制度論、家族論。著書『〈女〉〈母〉それぞれの神話』(明石書店)、共著『働く/働かない/フェミニズム』(小倉利丸・大橋由香子編、青弓社)、編著『「生理」――性差を考える』(ロゴス社)、『歌集 三匹の羊』(稲妻社)、『歌集 続三匹の羊』(現代短歌社、2015年10月)など。
論壇
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