コラム/温故知新
関東大震災と南葛労働運動(上)
下町の労働運動史を探訪する(3)
現代の労働研究会代表 小畑 精武
それぞれの運命
1923年(大正12年)午前11時58分44秒、お昼直前に関東地方をマグニチュード7.9の巨大地震が襲った。関東地方に甚大な被害をもたらしたが、なかでも東京の人口密集地の下町地域の被災はすさまじく、逃げ込んだ両国旧被服廠跡地では数万人が炎の渦にまかれて亡くなっている。日本資本主義の発展と大正デモクラシーを背景に、ようやく盛り上がってきた若き労働運動も予想もしなかった人的被害を受けた。
そこには運命の分岐があった。
【焼死】大震災の犠牲者10万5000人の一人となって亡くなった島上勝次郎(1920年の大争議で東京市電を解雇され、組合の再建をはかっていた活動家、後に復職。戦後総評の初代事務局長島上善五郎の義父)は両国の旧陸軍被服廠跡の空き地に逃げ込んだが、地震による火災により焼死した。現在、跡地には58,000人の遺骨を納める東京都慰霊堂が建ち、構内には虐殺された朝鮮人被災者追悼の碑が建てられている。毎年の追悼式に都知事は追悼文を送る慣例だったが、現在の小池知事は「必要なし」と平然としている。
【虐殺】川合義虎は結成間もない日本共産青年同盟の委員長、平沢計七はサンジカリズムの傾向を持つ純労働者組合の主事(書記長)。若き活動家10人が警察と軍隊により殺された。(亀戸事件)最年長が平沢計七34歳、次が加藤高寿26歳、川合が21歳、もっとも若い北島吉蔵と近藤広造は19歳だった。大杉栄は憲兵隊甘粕大尉によって6歳の甥っ子と伊藤野枝とともに9月16日に虐殺された。
【在監】渡辺政之輔は(24歳、通称渡政:わたまさ)当時もっとも戦闘的な労働組合南葛労働会の理事長だったが、1923年6月の第一次共産党弾圧事件で逮捕され市谷刑務所に在監中で皮肉にも難を逃れ、出獄後左派労働運動、共産党の指導者となる。最後は1928年10月に台湾で警察に追い詰められピストルで殺される(自殺説もある)。
【逃げ延び】純労働者組合の理事長戸沢仁三郎は危険を感じ大阪に逃げのび、2年後に帰京し労働者消費組合運動をすすめた。
【被災者救援】キリスト者賀川豊彦は大地震の報を受けるや9月3日に神戸から船で東京に直行して以後被災者救援、震災復興の活動をすすめた。また総同盟の鈴木文治、西尾末広たちは全国の労働者に救援を訴え、救援活動をすすめた。ベルリンの国際労働者委員会からは震災寄付金として8,000円が寄せられ、その寄付金で本所太平町(錦糸町の精工舎が近い)に総同盟の職業紹介所と南葛労働会が発展した東京東部合同労組の本部事務所・会議室が新設された。
東京帝大新人会との出会い
皮肉にも、幸運にも難を逃れた渡辺政之輔は1899年(明治32年)に千葉県東葛飾郡市川町で生まれた。市川は千葉県だが江戸川を一本へだてた南葛飾郡は南葛(なんかつ)といわれ渡政がやがて就職し活動する東京府にある。1917年に深川に家族で転居しその後当時の新興工業であったセルロイドの会社、亀戸の永峰セルロイドに就職した。1917年は奇しくもロシア革命の年で、18年は米騒動の年である。
共産主義との出会いは東京帝国大学(東大)の「新人会」との出会いから始まる。東大新人会は、大正デモクラシーの旗手吉野作造(東大緑会弁論部長)が部長を務める弁論部の学生である赤松克麿、宮崎龍介、石渡春雄によって「人民の中へ(ヴ・ナロード)」を合言葉に1918年12月に創立された。翌19年に機関誌「デモクラシー」(週2回発行、のちに「先駆」「同胞」「ナロード」と改題)が創刊された。新人会には、その後三輪寿壮(戦前の衆議院議員)、河野蜜(元社会党衆議院議員、副委員長)、住谷悦治(元同志社大学総長)、麻生久(総同盟主事)などが加入している。
普通選挙権獲得のために日比谷公園では連日のように学生の演説集会が開かれ、翌年2月17日にも宮崎龍介(父は中国革命家孫文たちを支援していた宮崎滔天)が司会、演説を行う集会が開かれた。渡政は帰途についた宮崎を呼び止め「普選運動に参加したい」と申し込んだ。宮崎からは「労働者には別の運動の方法があると思うが、新人会に一度出席してみますか」との返事。
宮崎は渡政を東大構内の学生控室に呼び、赤松、石渡も呼ばれ、永峰セルロイドの渡政たち3人とで会うことになった。宮崎はさっそく「普選運動より労働者の権利と生活を守るために労働組合をつくるべきだ」と説いて、外国文献で学んだ知識を教えた。さっそく3人は組合をつくる第一歩として、工場内同人誌「篤友」を発行することになる。さらに、字が読めなくても参加できる八木節大会を近くの寄席でやって工員のほぼ全員が参加、大成功に終わる。
新人セルロイド工組合の結成
八木節大会で職場の支持を得た渡政たちは新人会との関係を深める。1919年1月「新人会」と「篤友」同人とが座談会を開き、永峰セルロイド工場に職工の組合をつくる合意が形成され、5月6日「全国セルロイド工組合」の結成となる。新人会が支援したので「新人セルロイド工組合」とも呼ばれそこには永峰はじめ亀戸、日暮里、四つ木からもセルロイド工が参加してきた。この頃渡政は永峰セルロイドで働いていた能村コウという女工にほれ込み、じぶんの腕に「こう命」と入れ墨を彫った(後日、この入れ墨が台湾で警察に銃殺された時に、渡政と判定する決め手となる)。
当時、キューピー人形がはやっていて永峰セルロイドの景気はよく、組合はさっそく5割賃上げ、労働時間8時間以内を要求、1日のストライキで3割賃上げと時間短縮の代わりに臨時の25%手当を獲得し、勝利に終わった。しかし、争議後に会社は渡辺たち活動家を直接雇用から下請けに替えている。セルロイド人形をつくる職場で彩色は女工が、プレスは中心が男性で300人の工場では2割弱ほどの熟練工がいればあとは臨時工で十分だった。そのため組合員数は少なくて渡政を中心とする新人セルロイド工組合は50人に満たなかった。
それでも友愛会に加盟していたが、50人以下のため21年7月の友愛会東京連合の大会に代議員を出せなかった。「半分にも達しなかった」と永峰セルロイドで一緒に働いていた恒川信之は述べている(恒川信之「日本共産党と渡辺政之輔」)。そこで50人突破に向けて、そのために新人セルロイド工組合員で当時広瀬自転車塗装工の庵沢義夫に働きかけてつくったのが「黒色労働組合」だ。
山川均の「方向転換論」
1921年5月に渡政は友愛会亀戸支部を解消し「黒色労働組合」を組織した。渡辺たちの大先輩であった藤沼栄四郎は「黒色という名ではアナーキストの様であるという反対論ももちろんあったし、何でもよいじゃないかという者もあったけれども、赤色としたのでは余り過激すぎるということから黒色にしてしまったのである」と説明している(加藤文三「渡辺政之輔とその時代」)。だが、あえて無政府主義者の表象であった『黒色』を選んで組合の名としたことにも、当時の渡政らのサンジカリズムの傾向があらわれている。この頃いわゆるアナボル論争が展開されている。渡政と新人会メンバーとの関係は徐々に薄れ、22年7月に結成された共産党へ傾斜していった。
1922年の夏、共産党の事実上の機関誌だった「前衛」が7・8月号に山川均の「無産階級の方向転換」を発表。8月には渡政と藤沼栄四郎が「南葛時報社」を創立するも、無届のため、発行人の渡政が出版法違反でつかまり「南葛時報」は創刊号で終わってしまった。
その頃は、山川均の「方向転換論」が南葛の労働者にも影響を与え「第一歩として革命的前衛を生み出し、第二歩として大衆の要求に立脚し大衆の中へ入って大衆を動かす」方向へ舵が切られていく。出版法違反の刑を終え出てきた渡政はアナーキストとみられる「黒色労組」を抜け出し、戦闘的分子を養成する研究会を始め、そこに川合義虎、丹野セツたちが参加して「唯物史観」の研究会が開かれている。
この研究会は、大島製鋼や汽車会社の争議をめぐって対立していた平沢計七たちの純労働者組合と合同して開かれていたことは見逃せない。丹野セツは「渡政が丹前を着こんで、大きな黒板の前ですごく大きな声で『資本論』を講義していた」と回想している(「丹野セツ 革命運動に生きる」)。そして10月には労働組合という名をあえて使用せず、幅広く労働者が結集できる南葛労働協会という組織をつくり、12月に渡政自身日本共産党に労働者党員第一号として入党する(7月にすでに渡政は入党していたと述べている佐野学の説もある)。
南葛労働協会の初陣と南葛労働会への改組
23年1月19日南葛労働協会は南葛飾郡(現江戸川区)小松川の野沢電機製作所の工場閉鎖問題で初陣を飾る。ここには渡辺政之輔、川合義虎ら3人が働いて、工場主は「工場整理」という名目で工場閉鎖解雇を強行してきた。その日の午後、全職工大会を組合員宅で開催し、会社に工場閉鎖の理由を問う質問状の提出を決めた。渡政たち3人が工場主と面接、工場主は思わぬ事態にうろたえ、態度を変えた。「気持ちよく働いてもらうため意見を聞きたいので2、3日休む」と回答、職工たちは、解雇撤回、閉鎖中の日給支払いの10数ケ条の要求を提出した。交渉の結果ほとんどを獲得し、さらに全職工が組合に加入して小松川支部が設立された。
その後南葛労働会と名を改め規約も改正した。そこでは「目的」を「労働者の現実生活の向上を計るをもってその目的とす」、「組織」は「本会は東京府南葛飾郡およびその隣接地域に生活しあるいは就職している男女の労働者をもって組織す」と定めた。組織構成は「地方別」「産業別」に分け、基本を「本会組織の単位は『各工場支部』である」とし①工場支部、②地方支部、③地方連合会」を組織し、「産業別」として④「産業組合」「工場支部は同一産業系統に属する工場支部と連合して『産業組合』を組織す」⑤産業組合連合会、⑥本部‐産業組合連合会と地方連合会とによって南葛労働会を構成す」と定めている。「事業として、イ現工場法の厳守、ロ工場法改正、ハ住宅不安の除去、ニ法律相談、ホ機関紙の発行、ヘ教育事業 、その他」
この新しい名称と規約のもと、8月までに地方支部が亀戸、吾嬬、大島、小松川に組織されていった。渡辺を先頭とする青年たちの南葛労働会にとって23年は飛躍の年になるはずだった。しかし、9月の巨大地震は無残にもその団結をバラバラに解体していった。それでも、震災前の南葛労働会の典型的な闘いを23年1~8月に垣間見ることができる。
3月18日には、都内の労組とともに失業者大会を芝公園で開き、渡辺は司会を務めた。20日には千葉県野田の野田醤油争議に南葛労働者20名とともに江戸川土手を赤旗と半ばデモをしながら応援に駆け付けている。4月には南葛労働会大会で理事に選出され、後に理事長になる。
5月1日の第4回メーデーでは上野署に検束された。5月には、錦糸町の汽車会社争議で平沢計七たちの自由連合派と闘い、総同盟系の立場を鮮明にしている。さらに共産党の活動として、労働組合の中に戦闘的な労働者を結集して、労働組合を階級的に強める集団「レフト」創立メンバー5人の一人になる。そこには野坂参三、関西から西尾末広が参加している。レフトの機関紙として「労働組合」が発行され、野坂、杉浦啓一、川合義虎が編集人、渡政は発行名義人となった。
南葛魂とは
こうした当時の南葛労働会の青年たちの運動は実際には関東大震災までわずか1年ほどであった。だが、南葛労働会の運動は渡政のリードのもと「南葛魂」として生き延びる。南葛の運動は「共産主義理論に対する熱心なる研究と大胆なる主張により中心分子の思想的純粋と一致とを持っていた。また、精悍にして統一ある行動をもって、あらゆる労働者の闘争の最前線に立つことを期した。されば、南葛労働会なる名は、全国の闘争的な労働者、農民の渇望の的となり、宛然(えんぜん:そのまま)その中心をなすかのごとくであった。支配階級がこの一握りの労働者団体を、最大の仇敵視していた理由はここにある」。さらに、渡辺政之輔について「自ら革命的理論に根差した固き信念を持ち、行動において最も勇敢であり、犠牲的、献身的であるところの革命的労働者の一種の風格が養われた」と述べられている(渡辺政之輔『左翼労働組合の組織と政策』所収「左翼労働運動指導者としての同志渡辺政之輔―彼の闘争小史―」より)。
大震災の当日9月1日、南葛労働会の主なメンバーの行動をみてみよう。川合義虎と藤沼栄四郎は会員の北島吉蔵ほか4人が働いていた広瀬自転車(亀戸事件の被害者追悼碑がある浄心寺[赤門寺]の門前にあって南葛労働会の拠点といえる)で始まった争議の準備、交渉、支援要請に入っていた。
会社は前日8月31日に全職工の半数180人を解雇するという案を従業員に提示。会社提案に対し、川合たち南葛労働会と争議団は夜を徹して「解雇撤回、生産事業の継続」などの争議団の要求案作成を行った。会社の2階事務所には蜂須賀ら3人の特高警察官が詰め、見守っている。
翌1日の朝7時に解雇された職工全員が集まり、解雇撤回の争議団要求書を承認した。社長が病気で出席できないので、太平町の技師長宅で団交に入った。川合は総同盟本部に支援要請と本部幹部の応援要請に行った。団交が進行中に地震が襲った。北島は2階にいた技師長婦人を救出し、交渉を切り上げた。
会社には特高の蜂須賀は何もできないまま呆然としている。交渉委員の北島は蜂須賀の胸ぐらをつかみ、争議団や赤門寺への避難民の所に連れ出し「このような時にこそ人々の先頭に立って、人民保護の立場から避難民を安全な場所に誘導するのが警察官の任務だろう。地震の激しかった時には、どこかに潜りこんでいて、今頃のこのこ出てくるとは卑怯だ」(加藤文三「亀戸事件 隠された権力犯罪」)となじった。蜂須賀は「警察官の立場を忘れ申し訳がありません」と謝罪し、帰っていった。
川合と吉島は共産青年同盟の同盟員だった。その後も大地震の跡かたずけや夜警に動いている。3日の夜は亀戸香取神社参道近くの南葛労働会本部(川合の家)に集まっていた川合、加藤高寿、山岸実司、北島吉蔵、鈴木直一、近藤広造、佐藤欣治が警察にいきなり連行された。吉村光治は小村井の自宅付近で連行された。純労働者組合の平沢計七は家が倒壊した友人宅の整理を手伝っていた。中筋宇八のことは分かってない。
中国人リーダー王希天も虐殺される
10人以外の労組活動家が殺され、4人の自警団も殺され、同時に混乱のなかで周知のように在日朝鮮人と中国人もあわせて数千人が日本人に殺された。僑日共済会長として活動をすすめていた中国人王希天は陸軍兵に殺された。同じく1918年1月から亀戸に住んで活動を進めていた無政府主義者の大杉栄は6歳の甥と伊藤野枝ともども憲兵隊甘粕大尉に殺されている。
日本軍による王希天殺害は日本と中華民国との「外交問題」にまでなった。しかし日中間の関係が戦争状態になって、補償問題はうやむやの状態で葬り去られている。
2011年3・1の東日本大震災では、さいわい関東大震災のような“社会、政治活動家”を闇に葬り去る社会的事件はなかった。しかし、外国人労働者が今後30万人近く増加する状況下で、関東大震災のような排外主義的事件や活動家の狙い撃ちなど社会的事件が起こらないとは断定できないのではないか。今年は2019年、100年前に起こった災害に乗じた権力と民衆による非人道的事件の再来を許してはならない。それがやがて戦争へ行きついた歴史を決して忘れてはならないだろう。 【次号に続く】
【参考文献】
加藤文三『渡辺政之輔とその時代』(2010、学習の友社)
加藤文三『亀戸事件 隠された権力犯罪』(1991、大月書店)
恒川信之『日本共産党と渡辺政之輔』(1972、三一書房)
丹野セツ『丹野セツ 革命運動に生きる』(1970、勁草書房)
亀戸事件建碑実行委員会『亀戸事件の記録』(1971)
渡辺政之輔『左翼労働組合の組織と政策』(1972、而立書房)
おばた・よしたけ
1945年生まれ。東京教育大学卒。69年江戸川地区労オルグ、84年江戸川ユニオン結成、同書記長。90年コミュニティ・ユニオン全国ネットワーク初代事務局長。92年自治労本部オルグ・公共サービス民間労組協議会事務局長。現在、現代の労働研究会代表。現代の理論編集委員。著書に「コミュニティ・ユニオン宣言」(共著、第一書林)、「社会運動ユニオニズム」(共著、緑風出版)、「公契約条例入門」(旬報社)、「アメリカの労働社会を読む事典」(共著、明石書店)
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