この一冊
『保育園義務教育化』(古市憲寿 著 小学館、2015.7)
非常勤講師残酷物語
大学非常勤講師 須永 守
◆「大絶賛!大反響!」にはご注意を
「文句なしによい本。まっとうでもっとも。子供もいないのにどうしてここまでよくわかる!? 上野千鶴子」(本書帯広告より)
あの上野千鶴子も大絶賛の少子化対策、待機児童対策の提言書という帯広告に目を引かれ、「保育園落ちた日本死ね!!!」の話題が吹き荒れるなか、なけなしの財布をはたいて本書を購入した。読後の感想は、予想以上に「期待はずれ」であった。
本書の主旨を簡単にまとめるならば、0歳から小学校入学までの保育園や幼稚園を無料化し、義務教育化することによって、少子化解消や待機児童解消に貢献するだけでなく、社会全体の「レベル」をあげることにもつながるという提言である。確かに、「お母さん」を大事にしない社会の現状や、3歳までは保育園などに預けず母親が育てるべきだなどという「3歳児神話」が幻想に過ぎないことなどを、手に取りやすい軽いタッチでまとめた価値は評価すべきなのかもしれない。しかし、今まさに1歳の娘の子育ての渦中にあり、大事にされていないのは「お母さん」だけではない現実を日々痛感している私自身にとっては、なんともお気楽な「勝ち組」エリートのご高説にしか思えなかったのである。
なにより、保育園義務教育化による少子化解消や待機児童解消が、大人になってからの収入アップや犯罪率の低下という意味で社会の「レベル」が上がると強調し、子育て支援に予算を割くことが国の経済成長につながるから「いいことずくめ」なのだと断言する姿勢には、どうも違和感が拭えない。一見正論のように思わせながら、子育て支援を国力や経済力に直結する投資とみなし、その費用対効果によって評価しようとするならば、費用対効果に基づいた評価の逆転も容易に起こりうるのではないだろうか。
それにしても、そのような議論についても上野千鶴子は「文句なし」であり、「まっとうでもっとも」な主張と考えたのであろうか。さすがに本書の宣伝に乱用された「大絶賛!」はできないまでも、私にとっては「保育園落ちた日本死ね!!!」のなかで溢れ出た怒りの方がよほど「まっとうでもっとも」と思われてならないのである。それほど私自身の子育て環境も逼迫しているといわざるを得ない。
◆奨学金返済中の大学非常勤講師、1歳児娘の父親
先に「大事にされていないのは「お母さん」だけではない現実を日々痛感」と書いたが、決して誇張ではない。私は現在1歳の娘を育てながら、複数の大学で非常勤講師をして食いつないでいる一人の「お父さん」である。もちろん私の置かれた状況以上に苛酷な状況で子育てに奮闘するお父さんやお母さんがいらっしゃることは十分承知した上で、それでも私自身社会に大事にされていないのではと孤立感を感じる瞬間が多々あることを告白しなければならない。それは単に、保育園に入園させることができない待機児童問題としてではなく、そこに至る原因として奨学金問題や不安定労働問題などが複合的に存在することからも、私個人の問題に留まらない、極めて深刻な現代的課題といえるのではないだろうか。
本号の特集でも奨学金問題対策全国会議の意見書が掲載されているが、私自身も家庭の事情もあって高校時代から当時の日本育英会から奨学金の支給を受けていた。そして大学へ進学した後も生活費の補助として支給を受け、研究者の道を志した大学院進学後も無利息の第一種奨学金に切り替わったものの支給を継続したのである。通算すると約700万円もの奨学金という名の借金を抱えながら、大学院を出て行くことになったのである。
しかし、昨今の文系不要論に象徴されるように、国家規模で高等教育経費の削減が進められるなか、安定した研究職に就職することは容易なことではない。私自身もご多分に漏れずその狭き門をくぐることはできず、大学の非常勤講師や非常勤研究員を複数こなしながら食いつないでいくことになったのである。それでも収入は大人一人が生活できるギリギリのものでしかなく、妻との共働きでなんとか安定した収入を確保しながら、子育てしているというのが現状である。
さらに、それぞれ短時間の非常勤講師や非常勤研究員を複数兼務することで収入を確保しているため、どの職場においても社会保険には加入することができず、国民年金や健康保険料も支払わなければならない。そのような状況にも関わらず、奨学金の返済もはじまり、毎月数万円を奨学金の返還にまわさなければならない。大学の講義がお休みとなる長期休暇中には、上記支払い額が収入を超えてしまうこともある惨憺たる状況である。
それでも、少ない収入ながら志した道で精一杯努力していきたいとの決意の前に、さらなる壁が立ちはだかる。それが1歳児の娘の保育園入園問題だったのである。
前述のように妻と二人で働かなければ十分な収入が確保できない状況のなか、娘の保育園入園は生きていくための絶対条件となる。しかし、私の娘は国が定めた基準をクリアし、都道府県知事に認められ、運営を許可された認可保育園には入園できなかったのである。
理由は私の勤務形態にあった。私は複数の大学で非常勤講師や研究員を勤めているのだが、それぞれの大学が自宅から遠く、移動時間が非常に長くかかってしまう。それでも大学の講義時間に間に合えば授業は成立するわけだが、保育園の入園審査ではそのような事情は考慮されないのである。つまり、移動時間については保育できる時間とみなされ、たとえ往復6時間かかる大学に出講したとしても講義時間(約2時間)のみの勤務とみなされるのである。したがって私は娘を保育できる十分な時間的余裕のある人間とみなされ、認可保育園への入園は許可されなかったのである。
事情を担当窓口に説明しても「残念ながら対応できない」と一蹴され、やむを得ず認証保育園や認可外保育園を探さざるを得なくなったのである。しかし、認可保育園が公費で運営されているのと異なり、認証保育園は預ける際の金額が高く設定されていることが多く、入園できたとしても更に家計を逼迫させることになる。なにより、認証保育園もまた多くの子供たちが入園の順番待ちをしている状況であり、即座に入園は不可能である。
まさに「保育園落ちた日本死ね!!!」が言うところの「どうすんだよ会社やめなくちゃならねーだろ。ふざけんな日本。」といった状況である。奨学金の受給を受けながら進学し、研究者の道を志して大学非常勤講師として生きていくことが、そこまで道を外れた生き方なのであろうか。「大事にしてくれ」とは言わないが、せめて奨学金を返しながら、毎日必死に講義をこなす大学非常勤講師が少なくないことを知ってもらいたいのである。
確かに研究者の道にも切磋琢磨は必要ではあるが、研究上の苦難の道のりではなく、苦学の先に待つのが私のような八方塞がりの生活苦というのでは、未来ある若手研究者の希望を挫き、結果的に日本全体の高等教育や研究水準の劣化をもたらすことになってしまうのではないかと危惧するのである。
◆「国を理由に言い訳」の落とし穴
保育園問題にかこつけて長々と身の上話を書いてしまったので、最後に一点だけ書評らしい内容を。本書において保育園を義務教育化する理由の一つに、「「義務教育」だと、子どもを保育園に預けることに、後ろめたさを感じることもなくなる。「国が義務っていうから仕方なく保育園に行かせてるんだよね」と「国」を理由に堂々と言い訳ができるようになるから」(19ページ)と述べられている。国家の権威に従う姿勢を示すことによって保育園に子供を預ける正当性を担保しようとするアイデアらしいが、「国の義務」だから従わなければならないし、正しいとみなされる=正当化されるという考え方こそが、保育園問題に限られない大きな危険性をはらんでいるのではないだろうか。
多くの国民が「国を理由に言い訳」をするようになったその先に、「国が義務っていうから仕方なく戦地に行かせてるんだよね」という会話が交わされることのないよう願うばかりである。
すなが・まもる
1976年生まれ。複数の大学で非常勤講師をつとめる。専門は日本近・現代思想史。東京都練馬区在住。
この一冊
- 『安倍政権にひれ伏す日本のメディア』ジャーナリスト/秋田 稔
- 『保育園義務教育化』大学非常勤講師/須永 守