特集●転換の時代
〔連載〕君は日本を知っているか ⑥
海外に神社が少ないわけ――その2
神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長 橘川 俊忠
前二号(五号、六号)では、政治状況の急転と編集部からの要請もあり、海外神社についての原稿を休載せざるをえなかった。情勢の展開に素早く対応することも必要だが、情勢を最も深いところで規定している要因について問題提起し続けることもまた同時に重要な意味を持っている。しかし、なにしろ浅学非才の身、同時に二兎を追うほどの能力はないので、休載のやむなきに至った。安倍政権の右派的暴走は相変わらず続き、熊本・大分地震という大災害も発生し、緊急を要する課題は山積しているが、筆者の個人的状況では若干の閑暇を得たので、元のテーマの続きを書くことにしよう。
かつて海外には無数の神社があった
「海外に神社が少ないわけ――その1」(四号掲載)では、海外に神社が少ない現状について書いた。特に、神社本庁公認の神社は皆無に近いことを示した。しかし、かつては海外にも日本の神社は無数にあった時があったのである。もちろん、第二次世界大戦以前のことであるが、その数は、今もって正確には分からない。海外神社跡地研究の第一人者中島三千男の研究によれば、千六百四十社という数字があげられている(神奈川大学評論ブックレット『海外神社跡地の景観変容 さまざまな現在』御茶ノ水書房)。しかし、この数字は海外神社のすべてを包含しているものではない。中島も認めているように、地域が限られているうえ、また神社の性格も、戦前の国家神道の統括機関であった神社庁の「公認」したものに限定されている等の問題があるからである。
まず、地域でいうと、中島があげているのは、台湾、樺太(サハリン)、関東州(遼東半島先端部及び南満州鉄道付属地、日本が租借し、植民地経営を行っていた)、朝鮮、南洋諸島、満州(中国東北部)、中華民国(中国本土)であり、日本が戦前、植民地として支配したか、委任統治領として統治した地域、傀儡国家を造るか、軍事的に占領下に置いた地域に限られている。東南アジア(たとえば、シンガポールやフィリピンにも神社があったことは確認されている)、ハワイ、南北アメリカ大陸等に造られた神社は数えられていない。また、公認された神社以外に、私的に建てられた神社も少なからず存在した。たとえば、台湾では、中島の同書によれば小さな祠のようなものも含めて百八十四という数字があげられているが、台湾の神社を長年にわたって調査してきた金子展也によれば、企業や学校、個人が私的に造った神社(私社あるいは邸内社)も含めればその総数は三百数十社にのぼるという。台湾の場合には、戦後日本人が調査しやすかったという条件があったが、他の地域ではその条件と金子のような篤志の人もいなかったため、そういう実態は明らかになっていない。したがって、正確な海外神社の数は、今もって不明というしかないが、少なくとも現在と比較すれば無数というしかないほど多数の神社が海外にあったことはたしかであろう。
そういう海外神社のほとんどすべてが、大日本帝国の敗戦とともに機能を停止した。日本軍の敗退にともなって自ら破壊するか、建物は残っても神体は抜き取られたもの、現地住民によって破壊されたもの、居留民の引き揚げによって放置されたもの等様々なケースがあったと思われるが、海外神社の宗教施設としての機能は完全に失われた。神社を統括する国家機関である神社庁が、国家機関として解体され、それを実質的に引き継いだ神社本庁も海外神社には一切承認・援助しないという方針をとったこともそれに拍車をかけた。かくして、海外神社の大部分は、神社としては存在しなくなり、日本国民の大半はその存在すら忘れ果て、前に述べたような現状になったのである。
忘れられた海外神社のその後
先に述べたように海外には神社がほとんど無い現状とかつて無数に神社があったころの様相との落差はあまりにも大きい。その落差をどのように考えたらいいのか。なぜ海外にそれほど多数の神社を造り、それがなぜ一朝にして機能を停止し、放置され、忘れ去られてしまったのか。そこにどんな問題があるのか。その問題には、神社を設置した当事者だけではなく、日本人にとってそもそも「神社とは何か」を考えさせる重大な問題が潜んでいる。
かくいう筆者も、そういう問題に気付いたのは、神奈川大学二一世紀COEプログラム「人類文化研究のための非文字資料の体系化」の中で「海外神社跡地の景観変容」をテーマとした一つのプロジェクトが設定され、それに関わるようになってからである。COEというのは、文部科学省が国際的研究拠点を作るという目的で始めた大型の補助金制度で、全国の各大学に競わせることも狙いとしていた。したがって倍率も高く、競争は激しかったが、神奈川大学は日本常民文化研究所と大学院歴史民俗資料学研究科を中心としたプログラムでそれに選ばれ、前記プロジェクトがスタートした。無責任な文部科学省は、その後制度を廃止し、後は各大学でやれということになり、結局、神奈川大学は「非文字資料研究センター」を設置し、調査・研究を継続している。その成果は、各種の報告書・論文集、それから「海外神社跡地データベース」としてネット上にも公開されている。このデータベースは、このテーマに関するものとしては最大のもので、是非一度は閲覧してもらいたい。
それはともかく、筆者は、そのプロジェクトで、海外にはまだ多くの神社跡地が、神社があったことを確認できる状態で残っていることを知り、何回か現地調査にも同行させてもらった。そして、知れば知るほど先のような疑問が湧いてきたのである。しかし、先の疑問は、そもそも神社とは何か、神道とは何かという大問題にもつながるので、それは改めて論じるとして、まず、海外神社跡地の現状を一瞥しておきたい。
神社跡地のあり方は、神社と現地住民との関係を考えるうえで重要な資料となるものであるが、そのあり方はけっして単純一様ではない。筆者が調査に参加したり、別の機会に渡航して実見したりした中国、台湾、韓国、ブラジルだけを見ても、実に多様な姿をしていた。地図上と地形では確認できるが跡形も残っていないもの、参道や階段は残っているが社殿その他の施設は無いもの、鳥居や灯篭あるいは土台のような施設の一部は残っているが神社本体は失われているもの、社殿その他の施設は残っているが他の目的に転用されているもの、など実に多様である。
先に紹介した中島は、自ら実際に調査したアジア・太平洋地域の百九の神社跡地について、「改変・放置・再建・復活」の四つの類型を設定して整理している。中島によれば、「改変」とは「神社跡地が今日何らかの形に改変、手を加えられて」いるもの(敷地や施設の一部が、公園や学校、忠烈祠などまったく別の目的を持つ施設に転用されているもの)、「放置」とは「ほとんど手を加えられず未利用のまま放置され」たもの(シンガポールの昭南神社のようにジャングルと化したもの)、「再建」とは「戦後一旦廃絶し、その機能を喪失したにも拘わらず、一九八〇年代以降」再建されたもの(サイパン島やペリリュー島にあるが極めて例外的)、「復活」とは「海外神社が、もともとあった施設を利用して、創立された場合、日本の敗戦により、それが元の施設に戻った」もの(台湾の鄭成功を祀った廟を神社に改造し、戦後廟に戻したもの)を指す(詳しくは、中島前掲書で、具体的例をあげてそれぞれの類型について説明されているので、それを参照されたい)。
ただ、この類型化には問題もある。本格的な調査・研究が始まったばかりという現状からすればやむをえないことではあるが、類型化の基準が外面的現況であるため、その背後にあった様々な事情、たとえば、神社そのものの性格、現地住民との関係、現状に至った時期などの要因が反映されていないということである。そのため、ソウルの朝鮮神宮のように神社の遺構は一部の参道を残すのみで、完全に公園(南山公園)として整備されているケースと、台湾の新竹にあった桃園神社のように神社の諸施設はほぼ完全な形で残っているが中身は忠烈祠に変えられているケースなどが「改変」という同一の類型にいれられるというようなことが起こる。
いずれにしても、海外神社跡地の現況は実に多様であり、そこには現地の歴史や宗教意識、対日関係など様々な要因が働いていたことはまちがいない。そういう現地の要因を深く考えることなく、神社遺構が多く残っているから親日的だなどという我田引水的解釈に陥る愚を犯してはならない。そういう短絡した自己中心的な反応を抑えるためにも研究の進展が望まれる。
海外神社の遺構は何を語っているか
以上、海外神社の現況とその研究成果の一端について書いてきたが、問題は、それが日本人にとってどういう問題を投げかけているかにある。ここでは、なぜ無数にあった海外神社が、戦後機能を停止し、放置され、忘却されてきたかという問題に絞って、検討してみよう。
ところで、神社は、言うまでもなく宗教施設である。一般に宗教施設は、その宗教の信仰を確認する場として設置され、信仰を広める場としての機能を果たすことが期待される施設である。適切な比較かどうか分からないが、キリスト教の場合、宗教施設としての教会は、キリスト教進出の背後にいた国家が、軍事的に敗退しても機能を停止することはなかった。教会の興廃は、宗教としてのキリスト教の消長にだけ左右されてきたと言ってよいであろう。それに対して、神社は、国家の敗退と同時に宗教施設としての機能を停止した。ここには、宗教と国家の関係についての重要な相違がある。一方は、宗教と国家が一体化しており、もう一方は、宗教と国家が一応分離・独立の関係にあったということである。
いうまでもなく、戦前、神社を宗教施設とする神道は、国家神道として日本という国家と密接不可分の関係にあった。そのことからすれば、国家が敗退し、軍隊が撤退・解体してしまえば、神社も放置されることになるのは当然ということになる。「御神体」は、それなりの儀式を挙行して「帰還」したとしても、神社の施設は現地に残さざるをえなかった、あるいは「御神体」の無い神社はもはや抜け殻同然なので放置してもかまわないと考えられたのかもしれない。海外神社には、国家や軍が政策的に設置した神社が少なくないが、その場合には、そういう処置がとられ、放置されることになったのであろう。
しかし、その場合には、そもそも何のために神社を設置したかが問題になる。日本が、植民地支配を行った台湾や朝鮮では、神社が「皇民化政策」のための施設として設置されたと言われている。それは、単に天皇に忠誠を誓う日本帝国臣民を作ることだけが目的で、宗教としての神道の信者を獲得することは目的ではなかったということにすぎなかった。信者を獲得することが目的であって、それに少しでも成功して現地信者がいたならば、「御神体」を抜き、施設を放置するという行為は、それらの信者に対して極めて無責任な行為と言わざるをえない。逆に、信者をまったく獲得することができず、放置してもかまわなかったというならば、そもそも神社を設置するという政策自体が無意味であり、政策としては完全に失敗であったということになる。その点では、国家の政策に協力した宗教者として神職にあった者の責任も小さくない。実際には、信者を獲得することはできなかったから、政策の失敗が問題にされるべきであるが、神道関係者の間で戦後そのような総括が行われたことは聞いたことが無い。
さらに、国家や軍ではなく、日本人移民や進出企業が自主的に――といっても神社庁の承認の上で――設置した神社の場合も現地人の信者を獲得することを目的としていなかったという点では同じであった。神社は移民社会や企業の統合のシンボルであったと考えられたようで、移民や企業が引き揚げてしまえば、無意味と化す施設ということになる。ハワイやブラジルに、少数とはいえ神社が現存しているのは、戦争中の苦難を乗り越えて移民社会が継続していたからであろうと推測される。また、サイパン島やペリリュー島のように、戦後再建された例もあるが、これは、戦没者遺族の要望があり、現地の許可を得て、戦没者の慰霊のための施設として建設されたという性格が強い。
いずれにしても、海外神社の多くは、日本軍と移民が引き揚げてしまった後は、それを信仰し、それを守るべき信者がいなくなったわけである。したがって、神社は、破壊され、放置され、他に転用されることになったわけである。破壊され跡形もなくなったものの中には、もともと現地の人々の立入さえ許されなかったものもあるという。中国の徐州には、記録によればかなり大きな神社があったという。徐州は、中国史の中でも度々大会戦が行われた要衝の地であるが、日中戦争の際にも激戦地となった。徐州会戦に勝利し、そこを占領した日本軍は、そこに神社を建てた。しかし、当時を知る現地の老人に聞いた限りでは、子供といえども中国人は、境内に入ることすら許されなかったという。一体何のために神社がたてられたのか。少なくとも、立入も許さないというのだから、教化のためではないことは明らかである。現地の人々からみれば、それは勝利の記念碑、支配の象徴以外の意味を持つものではなかったであろう。その跡地には、たばこ工場が建ち、周辺を探してもそれらしき痕跡は一つも見つからなかった。そこでは、神社の跡地は、ただ虚しさだけを語っているとしかいいようがない。
忘れたままでよいのか
最近、テレビなどで海外神社跡地についての報道を見たことがある。台湾の事例だったが、観光客誘致のために神社跡地が利用されているというような報道であったと記憶している。だから、海外神社は完全に忘れ去られているわけではない、といえるかもしれない。しかし、その報道では、神社設立の経緯やその後の経過などについてはまったくと言ってよいほど触れられていなかった。それでは、単なる観光案内に終わっていると言わざるを得ない。海外神社に触れるのであれば、その歴史的経緯に触れなければ、思い出したと言ってもまったく意味はない。
すでに述べてきたように、海外神社は、植民地支配や戦争という国策にしたがって建設された。移民や企業が自主的に建てたといっても、それは、しょせん自分たちだけのための施設であった。そこには、自己中心的な、あるいは内向きの論理しかなかった。現地の人々にとって、それがどういう意味を持つかなどということは考えていなかったに違いない。
もともと、日本の神々と神社は海外に出て行かれるようなものであったかが問われなければならなかったにもかかわらず、それも本格的には議論されなかった。神道という宗教は普遍性を持っているのかといえば、答えは否であろう。特に、明治以来の国家神道化した神道は、日本という個別国家の論理に分かちがたく結びつけられたため、普遍化の契機を持ち得なかった、あるいは自ら放棄してしまったのである。普遍性を持たない宗教は特定の国家の実力に頼らざるを得ないし、国家が衰退すれば、それにしたがって衰退するしかない。
少し比喩的な言い方をすれば、自己中心の内向きの論理(「内」だけに通用する価値観)にとらわれた国家が、その論理を侵略の論理に転用し、「八紘一宇」のような際限のない拡大に乗り出し、それが挫折するやこれまた際限なく収縮し内に籠る、戦時期の海外神社の急速な増大と戦後の無残な海外神社跡地の状況とは、その拡大と収縮の象徴に見えてくる。そこまで思考をめぐらした時、初めて海外神社は忘却の中から這い出てくることになるのである。さらに言えば、排外主義的ヘイトスピーチが横行し、安倍政権下でナショナリズムが頭をもたげ始めた現在、それがいかに自己中心的内向きの論理によるものかを反省させるきっかけを海外神社跡地は与えてくれているのではなかろうか。
それにしても、海外にまで持ち出された日本の神々は、この現状をどう思っているのだろうか。敗戦の混乱の中で、海外の地に放置された「御神体」も少なくなかったに違いない。日本が「神国」であると主張する者こそ、海外神社のその後について重大な関心を払うべきであるが、そういう問題に取り組んだという話は聞いたことが無い。「英霊」などと持ち上げても、依然として戦地に眠ったままの遺骨を探そうとしないのと同じことであろう。彼等には、海外の地に放置された神々の嘆きの声は聞こえないのであろうか。
きつかわ・としただ
1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任、昨年4月より名誉教授。前現代の理論編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)、近刊に、丸山真男『日本政治思想史研究を読む』(日本評論社、6月刊)など。
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