特集●転換の時代

ヤマト―日本にとって沖縄とは何か

ヤマトを照らす光としての琉球

筑波大学名誉教授・本誌代表編集委員 千本 秀樹

はじめに

「ヤマト―日本にとって沖縄とは何か」という課題を、他人ごとではなく主体的に語ろうとすれば、それは「自分にとって沖縄とは何か」ということにならざるをえない。それほど沖縄体験がないわたしに、そんな資格があるかと問われればこころもとないが、義務感と欲求は強く感じる。十度ばかりの沖縄訪問、歴史学を学ぶ立場、沖縄出身学生との交流、そして社会運動のなかで考えてきたことの中間総括である。

いまさらと思うが、多くの読者には迷惑かもしれないけれども、本誌を読んでいても曖昧にされているので、確認しておきたい。北から奄美、沖縄、宮古、八重山の4地域をあわせて琉球と呼ぶ。沖縄は琉球の一部である。琉球考古学の安里進によれば、独自の歴史を歩んできた宮古・八重山などの先島は、11世紀のグスク時代に沖縄を中心とする古琉球に支配されるようになった。特に尚氏時代の近世琉球においては、人頭税に象徴されるように、先島は沖縄から差別され、収奪された。「沖縄本島」ということばはそのような沖縄・先島の関係を象徴しており、本稿でも「沖縄島」とする。

奄美について、現在、鹿児島県に所属しているのは、1609年に島津氏が琉球王国から軍事力で奪い取ったからである。その400年後、2009年8月に放映されたNHK沖縄制作の「きんくる~沖縄金曜クルーズ」の「薩摩侵攻400年!歴史探検琉球王国」の冒頭で、番組を仕切る沖縄芝居の俳優、お笑いもこなす津波信一が見せた怒りの表情は印象的であった。

一方で、わたしの奄美出身の友人に尋ねたところ、彼のお母さんは沖縄にはまったく関心がなく、鹿児島と東京の方ばかり見ているという。ほかの奄美出身者にきけば、アイデンティティのありようはやはりひとそれぞれであるようである。しかしことばにしても、島唄にしても、ほかの生活文化にしても、奄美が琉球文化圏であるのはいうまでもない。

1.「復帰しても戦前に戻るだけサ」

わたしが初めて沖縄を訪れたのは1970年11月であった。11月15日に沖縄県民による戦後初の国政参加選挙が予定されていた。1969年の佐藤首相訪米を受けて、沖縄施政権の日本への返還が1972年に予定され、その前に日本の衆参両院に議員を送り出そうというのである。選挙運動では沖縄革新と保守が激突していた。1960年に沖縄教職員会を中心に結成された祖国復帰協議会は「即時無条件全面返還」「核抜き本土並み返還」を要求し、革新側は「復帰すれば米軍基地はなくなる」と夢想していた。それが可能と思っていることが、わたしにはなんとも不可解であった。当時のわたしは、琉球の歴史と文化をほとんど知らないままに、沖縄が日本に再併合され、アメリカによるアジア支配の拠点から、日本のアジア再侵略の拠点とされることに異議申し立てをしようとしていたと記憶する。わたしは「沖縄返還粉砕」の旗のもとに結集していた。

わたしは京都大学新聞社から沖縄に派遣された。当時の学生新聞運動は学生運動と一体であり、写真もデモをしながらシャッターを切るというのが原則であった。予算にも限りがあり、鹿児島まで鉄道、そこから船に乗った。鹿児島港では自民党の宣伝カーが沖縄の選挙についてがなりたてていた。パスポートを持って、那覇まで2泊の船旅である。船中でギターとともに歌い始めたカナダの青年たちがうるさいと愚痴っている老人に、わたしは話しかけた。わたしが初めて沖縄について書いた報告である。

「沖縄は選挙戦ですごいでしょうね。鹿児島でさえあれだとすると」

「あんたはヤマトの人か。そうサ二十八年ぶりだもの。しかし復帰してもどうってことはないサ。同じことだよ。戦前のかたちに戻るだけサ」

敗戦の際の、赤松大尉による民間人の「集団自決」事件が頭をよぎる。高年層の人々にとって、ヤマトは、ただ帰ってゆくべき所ではなく、戦前、戦中を通して自分達を抑圧してきたものでもあるのだ。自らを抑圧してきた者に対して、まったく抗わず、「皇民化」「天皇の赤子」の名のもとにそれに同一化しようとしてきた自らに対する苦々しさが、彼らの多くを「沖縄独立」に志向させる傾向があるという。(「沖縄現地ルポ『社会再編の激動の中で』」、『京都大学新聞』1500号記念特集号、1970年12月7日付)

「復帰しても戦前に戻るだけサ」という老人のことばは、いまにして思えばなんという洞察力とあきらめに満ちていることか。

那覇港についたわたしは、宿も予約していなかった。頼りは全国紙を自負していたわが社の購読者名簿であった。幸運にも最初に電話したラジオ局のディレクターが、労働組合が自主管理生産している印刷工場を紹介してくれた。この工場に、わたしは1週間余り、お世話になることになる。

わたしのこのルポは、沖縄の本土への系列化、とりわけ労働組合の系列化に警鐘を鳴らしている。沖縄労働運動がヤマトに系列化されることによって骨抜きにされ、沖縄社会全体がヤマト化されることを危惧しているのである。

11月14日、わたしの21歳の誕生日、那覇の与儀公園には国政参加選挙粉砕派が約1万人結集した。一方で復帰派の集会は数万人と大規模であった。返還粉砕派は、デモの後、投票所入場券を焼いた。

当時、返還協定粉砕の運動には、はなはだ矛盾するが「沖縄奪還」を主張する中核派を含め、さまざまなスローガンが混在していた。毛沢東思想の影響を受けたML派は「沖縄独立」、解放派は「本土・沖縄を貫くソビエト政権樹立」、第4インターは「沖縄労農自治政府樹立」を掲げた。激論が繰り返される運動のなかで、「大綱領」が許容される、いや、掲げないと論争に参加できない時代であった。それにやや遅れて、フロントは「併合粉砕、沖縄人民の自決権断固支持」を提起した。当時このスローガンは、諸方面に衝撃を与え、当時無党派であったわたしにも強い説得力を持った。

ただこの党は、その方針に従って、組織から沖縄県委員会を分離した。沖縄県党は方針を自決すべきであり、ヤマトの党指導部は指導すべきではないということだったのだろうと推察する。指導・被指導の関係を組織原則とするレーニン主義党としては、必然だったのだろう。しかしそれは、1950年ごろに、日本共産党が民族主義に従って朝鮮人党員を党から排除したことと変わらないのではないかと疑問に思う。民族自決論とプロレタリア国際連帯の関係がどう議論されたのかを当事者からうかがいたいところである。

そこには、当時のもうひとつの時代思潮が関係する。1970年7月7日(日中戦争開始の日)の華僑青年闘争委員会(華青闘)の告発である。華青闘は、旧左翼はもちろん新左翼も、日本人民を含めた日本全体がアジア人民に対する加害者であったことに無自覚だと指摘したのである。これは歴史的な告発であった。当時は圧倒的少数意見であったにもかかわらず、今では安倍首相でさえ否定できない時代となった。

ただ、この告発の受けとめかたについて、混乱が生じた。侵略者・抑圧者・差別者であった側は、その被害者と子孫の主張について、すべて無条件に受け入れるべきであるという姿勢である。その先頭に立ったのは中核派であった。それは、在日朝鮮人をめぐる課題を含めた日朝・日韓連帯運動、部落解放運動、女性解放運動、障害者解放運動にまでも悪影響を及ぼした。

ある有力介助グループは、障害者を介助する健常者は、障害者に自分の意見を主張してはならないとした。かなり後になるが、この傾向に影響を受け、アイヌ民族について卒業論文を書こうとした学生は、被抑圧民族はすべて理想の人格者であるという大前提に立ったために、卒論が書けずに退学せざるをえなかった。この風潮は、琉球・ヤマト関係にも波及した。先にふれた政治組織が沖縄県委員会を分離したのも、その影響ではなかったのだろうか。

1972年の沖縄施政権返還後、わたしは沖縄の日本化に反対するという立場で動いていた。自衛隊の沖縄進駐反対運動は、沖縄を日本帝国主義のアジア侵略前線基地とすることに反対するという、わたしにとっては重要な闘いであった。郵便番号制度の沖縄県への適用に反対する集会にも参加した記憶がある。次第にわたしは、ほかの課題にかまけて、沖縄についてはスケジュール闘争に参加する程度になっていった。

当時のわたしは、沖縄へ行くなら、基地と戦跡を見に行こう、青い海を楽しむ観光旅行などもってのほかだという単純な政治青年であった。ただ、当時の集会での発言を思い返してみると、「沖縄問題」は沖縄の問題ではない、日本の問題であると繰りかえしていたことはたしかである。

2.東南アジアの最北端としての琉球

大学の教師になって、研究においても、学生とのつきあいにおいても、日本とは何か、日本人とは誰か、日本文化とは何かということを、毎日、二六時中考えることになった。琉球へのわたしのまなざしも、その文化に引き付けられていった。その前提になるのが、日本とはどこかということである。

日本という国号と天皇という称号が定まったのは、7世紀後半、天武天皇の時であるというのが多数派説のようである。初代天皇は平安京を造った桓武天皇であるという説もあるようだが、友人によると伊勢神宮がこわいので、なかなか論文には書けないとのことである。学問の世界も天皇制に支配されている。

いずれにしても、日本という地域は、天皇権力と、それに代わった権力者が支配する領域であった。それは時代によって刻々と変わり、特に明治維新後はドラスティックに変わっている。一時期は台湾も朝鮮半島も日本であった。

わたしが学生諸君にアピールしたいことは、「日本」というものを相対的にとらえてほしいということである。現在の47都道府県が、過去も未来も永続的に日本という国家であるという思いこみを払拭してほしいのである。

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そこでめぐりあったのが、琉球考古学に携わる安里進の歴史展開図(クリックすれば大きな図1、図2が表示されます)であった。不勉強なわたしが持っている彼の最新の琉球歴史展開図は 図(1)(『沖縄県の歴史』、山川出版社、2,004)であるが、御本人には申し訳ないが、旧説の図(2)もあわせて学生には提示している。それは図(2)には「北海道」地域も記されているからである。

図(2)の魅力は、第1に、縄文、弥生、古墳…奈良と続く時代区分が、日本列島の一部の歴史しか表していないことを一目瞭然にわからせるからである。第2に、縄文文化を北海道(それ以北も?)から沖縄島までが共有していたこと、さらに琉球の先島は沖縄とは別の歴史を歩んできたが、沖縄に併合されたこと、また蝦夷地(明治2年に北海道と命名)が明治日本の最初の植民地であり、琉球が2番目の植民地であること、蝦夷地も琉球もヤマトの弥生時代以来、ヤマトとは別の歴史を歩んできたことを一瞬にして理解できる。

さらに、日本列島中央部に侵入した渡来人が弥生文化、天皇制権力を樹立したこと、その権力の支配が及ばなかったアイヌ民族と沖縄の人々の共通性を見て取れる。沖縄と先島の文化の乖離は、沖縄の牛は日本の牛と同じだけれども、先島の牛はカラバオ(水牛)で、フィリピンと同じであることも了解できる。安里進にとっては修正した旧説であろうが、わたしにとっては大好きな歴史展開図である。

山川出版社は、1960~70年代に旧版の県史シリーズを刊行していた。その『沖縄県の歴史』(1972)に、東アジアのカムチャツカ半島からフィリピン・ベトナムまでの地図が掲載されている。この地図のすばらしさは、オホーツク海・日本海・黄海・東シナ海・南シナ海が内海であることを示している。内海は文化交流の場である。

小学校の教室の壁に掲げられている「日本全図」は、北海道から九州までで、琉球は切り取られて日本海か太平洋に張り付けられており、周辺諸国との関係は見えない。「日本」だけを見せられて、「これが日本だ」、「お前は日本人だ」と洗脳されている。なぜ沖縄は、紙面の都合で切り取られなければならないのか。

上記の地図のもう一つのすばらしさは、北海道が日本国家最北端というだけではなく、環オホーツク文化圏の最南端であること、沖縄県が日本国の最南端というだけではなく、東南アジアの北端であることを示している。

地図は、嘘は書いていないにしても、切り取り方によって、見せ方によって、伝わるものは異なる。沖縄施政権返還によって米軍基地がなくならないことを知ったウチナンチューのあいだに、沖縄は日本の最南端ではなく、東南アジアの北端の民であるという認識が生まれたと聞いたことがある。長粒種の米と黒麹で造る泡盛しかり、「レ」「ラ」のない5音階しかり。これらは東南アジア文化である。

3.「人んかい殺さってぃん眠んだりーしか、人殺ちぇー眠んだらん」

ある党派の代表が口走ったことがある。「おい、沖縄には文字がなかったんだって」と。安里進の歴史展開図を見てもわかる通り、琉球の古代は、日本列島中心部より1000年「遅れて」いる。遺物として残されている金属器や文字は、日本列島中心部より約1000年後である。しかし日本にも、もともと文字はなかった。中国にしても、文字を使用し始めたのは数千年前にすぎない。先ほどの某代表は、「沖縄は遅れていた」と言いたかったのだろうか。数百万年の人類の歴史のなかでは誤差の範囲内である。わたしはそれよりも、沖縄の人々が1千年前まで縄文的な暮らしをしていたことに注目したい。

沖縄の精神性を表すことばといえば、「命どぅ宝」、「イチャリバチョ―デー(行き合えば兄弟)」などが有名であるが、わたしがこだわっているのが「人んかい殺さってぃん眠んだりーしか、人殺ちぇー眠んだらん」という心性である。「人から傷つけられても眠ることはできるが、人を傷つけると眠ることはできない」という意味である。被害者になるよりも、加害者になるほうがつらい。これは「足を踏まれた者の痛みは、踏まれた者にしかわからない」というヤマトの心性と正反対である。

戦争を知らなかった縄文人と、財産を奪うために戦争をした弥生人。沖縄のこれらの精神性は、縄文の記憶ではないだろうか。1万数千年続いた縄文時代を停滞していたと理解する時代が長かったが、最近では豊かで安定した社会であったから長く続いたという見方が強くなっている。

明治政府は1879年に軍事力を背景に、最終的に琉球王国を滅ぼし、沖縄県を設置した。翌年2月には「会話伝習所」を開設、6月には沖縄師範学校とした。全国の師範学校としては、最初に天皇の「御真影」が「下賜」されている。師範学校の最大の目的は、子どもたちにヤマトのことばを教え込むことだった。当時、ヤマトゥグチとは鹿児島のことばを指し、東京のことばは「ウフヤマトゥグチ」と呼ばれた。ヤマトにはまだ「国語」、「標準語」は作られていないので、「会話伝習所」なのである。ちなみに1895年に台湾に設置されたのは「国語伝習所」である。

琉球における皇民化政策の中心が日本語教育であった。これを「皇民政策の中心が国語教育であった」と書くのとでは、わずかの違いのように見えるかもしれないが、実は天地ほどの違いがある。「皇民政策」と「国語教育」とは国民に対して実施されるもので、「皇民化政策」と「日本語教育」は外地で行なわれる。琉球を日本の一部と見るか見ないかの違いである。琉球のことばを「方言」と呼ぶのは、琉球が日本の一部であるという立場に立っている。

渋沢栄一の孫である渋沢敬三は財界人でもあり民俗学者でもあったが、彼が提唱して設立された人文・社会科学の九学会連合は、離島など各地で共同調査を実施し、沖縄については1976年に報告書を刊行した。ここに参加した日本言語学会は琉球のことばを琉球方言とし、日本語の一部とした。

日本語教育学の世界では、日本語教育史を述べるとき、台湾から始める。しかしわたしが教室で日本語教育史を講義するときは、琉球から始めた。最近ようやく言語学者のなかでも「琉球語」という単語を使う者が現れてきた。独立した言語と位置づけているということである。

2008年、国連の社会権規約委員会は、アイヌ民族と琉球民族を先住民族とし、アイヌ語と琉球語で学校教育を実施するよう勧告した(拙稿「国連が日本政府に厳しい勧告」、本誌21号、2010秋参照)。最近、翁長知事が国連演説で先住民族と述べたことについて、沖縄自民党の一部が、「自分たちは日本人だ」と反発している。

わたしは「先住民族」を、みずから国家を形成した経験のない人びとと考えており、そうすれば琉球民族は先住民族ではないのだが、インカ帝国の例もあり、先住民族とは何かについて議論を深める必要がある。しかし先住民族かどうかと、日本人かどうかは別問題である。

2009年、ユネスコは、奄美語、国頭語(くにがみご、沖縄島北部)、沖縄語(ウチナーグチ、沖縄島中南部)、宮古語、八重山語、与那国語を消滅危機言語、特に八重山語、与那国語を特別危機言語と指定した。その際、担当者はこの6言語を国際的な基準から見れば独立した言語と考えてもよいと述べた。ただその後、方言と考えることも排除しないともしている。

琉球には800のしまくとぅば(島言葉)があるといわれ、集落ごとに異なっている。隣の村同士で通じない場合、共通言語として日本の標準語を使用することさえある。世界の少数言語は熱帯に集中しているが、それは生物多様性に富んでおり、それによって生業が異なっているから、言語も違ってくる。「グローバル化」によって、2500もの言語が消滅の危機に瀕している。

4.「日本人」への作り替え

民族を規定する要件として、独立した言語と独自の歴史を重視するならば、琉球民族は別の民族である。信仰もまた、ヤマトとも中国とも異なる独自のものである。だからこそ琉球における皇民化政策は、琉球人を日本人に作りかえることを目的とした。それは、琉球人の精神性を破壊することであった。沖縄では、自殺すると先祖伝来の墓に入れないといわれてきた。それほど命を大切にしてきた。「命どぅ宝」である。日本では場合によっては死が美しいものとされ、天皇のため、国のために死ねと教育してきた。沖縄戦における日本軍による強制集団死は、日本人に作りかえられた究極の姿である。

本来、軍隊は国民を守るものではない。わたしは、軍隊は国家を守り、警察は政府を守るものだと書いたことがある(『「伝統・文化」のタネあかし』、アドバンテージサーバー、2008)。国民は国家のために死ぬべきものだから、軍隊は国民を守る必要はないのだ。1945年8月、関東軍が在満日本人を残して先に逃亡したことが、そのことを象徴している。

沖縄戦においても、「沖縄住民が地上戦にまきこまれた」という叙述をよく目にするが、わたしは不適切な表現だと考える。住民は日本軍とともに南へ逃げる必要はなかった。現実に、とどまった人びとはアメリカ軍によって収容所に入れられ、命は助かった。日本軍は本土決戦準備のために、沖縄での持久作戦を選択した。そのためには住民を米軍からの攻撃の盾にすることによって戦力を維持した。県民の多くは、「生きて虜囚の辱めを受けず」という日本人に作りかえられていたから日本軍とともに南へ逃げた。女性や子どもを狙い撃ちした米兵もいたが、日本軍の前に住民がいると、やはり米軍も攻撃しにくい。住民はまきこまれたのではなく、日本軍の盾とされたのである。日本軍はみずからを住民に守らせたのである。

「琉球は日本である」という学校教育は現在も続いている。琉球王国は徳川将軍の代替わりに慶賀使を、国王の代替わりに謝恩使を江戸に派遣した。その行列について、教科書はこう書く。

使節の行列には、異国風の服装・髪型をはじめ、旗・楽器などを用いさせ、あたかも「異国風」としての琉球人が将軍に入貢するように見せた。(『詳説日本史B』、山川出版社、2003)

田中恵はこう述べる。

当時の琉球人の普段着は和服―ではもちろんありません。琉装というゆったりした風通しの良い服です。しかし、正装は明朝の冠服です。……「江戸上り」と呼ばれた琉球使節も公的なイベントですから、琉球使節は基本的に「唐衣装」を身につけようとします。上の教科書の記述は事実の表現にとどまっていますが、実際の語り口としては、〈琉球王国を「奴隷」状態に置いていた島津家が、その思惑のために異国風を強制した、それによって沖縄人は日本人とは違うという差別観念を本土人に植え付けた〉とまで言われることもありました。(前掲『「伝統・文化」のタネあかし』)

「琉球人は日本人なのに、異国風を強制した」という事実ではないことが教科書には書 かれているのである。

5.新しい国境・国家概念を求めて

今、琉球では、自立、独立、自己決定権ということばが飛びかっている。1910年代以来、世界では民族自決、独立国家の形成が課題とされてきた。独立した言語を持つ集団を民族と考えて独立を認めるならば、世界は6000の国家にわかれる。またそれがいかに民主的な国家であろうとも、新しい国家権力を生み出すことになる。それは人間の抑圧と差別からの解放につながるものあろうか。

国境は19世紀においては、支配領土を確定するものであった。20世紀初頭に、他民族による支配を反省して、民族自決、国家の独立が追求された。国境は20世紀においては、施政の範囲を決定する機能を果たすものに変わった。その現実化がEUである。今、21世紀の国境概念を産みだすことが求められている。琉球がどのような未来を創りだすのか。それは19世紀的国境概念や20世紀的独立論ではないであろう。しかもそれは琉球だけの課題ではない。琉球を抑圧・差別してきたヤマトは、抑圧者・差別者からの自己解放をかけて、みずからの未来を模索しなければならない。

わたしは「日本史」という科目名であっても、アイヌ、琉球について、また現代史専攻でありながら縄文時代に多くの時間を割いている。アイヌ文化、琉球文化と「日本文化」を対比することによって、「日本文化」を相対化することができる。現在の日本国のなかの文化が多様であることに気がつくことをきっかけに、ヤマトのなかの文化も多様であることを若者は発見する。文化は多様であることによって、豊かさが担保される。天皇制国家は、均質な日本語と家制度を強制することによって、文化を貧困化してきた。 アイヌと琉球は、ヤマトの人々が、自分は何者であるかを暗闇のなかで模索するときに、それをさし照らす光のひとつである。

ちもと・ひでき

1949年生まれ。京都大学大学院文学研究科現代史学専攻修了。筑波大学人文社会科学系教授を経て昨春より名誉教授。日本国公立大学高専教職員組合特別執行委員。本誌代表編集委員。著書に『天皇制の侵略責任と戦後責任』(青木書店)、『伝統・文化のタネあかし』(共著・アドバンテージ・サーバー)など。

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