特集●労働法制解体に抗して
[連載] 君は日本を知っているか ⑪
お国自慢で語られないこと―知られざる古文書の世界
神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長 橘川 俊忠
「古文書大国」日本の現状
ここ数年のテレビ番組の世界で目立っている現象は、「お国自慢」というか、「自国褒め」というか、とにかく日本の素晴らしさを再認識しようという趣旨の番組の多さである。料理、工芸、職人技、もてなし、人情から信号の渡り方まで、なんでも「クール」という誉め言葉の連発で、政府の「クールジャパン」と名付けた外国人観光客誘致政策の片棒をかついだような番組のオンパレードである。実際には、コンビニ弁当で食事を済ませ、高価な工芸品には手も出せず、安物のプラスティック製品を溢れさせ、いじめやパワハラに苦しめられているにもかかわらず、自国誉めの番組を見て、日本人として誇らしい気分にさせようというかのようである。ナショナリズムの雰囲気が、それと気付かないうちに充満させられているようにもみえる。
それはともかくとして、どうせ自慢するならもっと自慢してよいこともないわけではない。その一つが、近世の日本では実に大量の文書が作成され、それが現在に至るまで保存されてきたという事実である。筆者は、大学に在職中、日本常民文化研究所という研究機関に係り、地方(じかた)の古文書や民俗文化の調査研究に携わってきた。その調査の経験で実感したことであるが、日本の地方には驚くほど多量の古文書が存在している。近世に村の名主・庄屋を務めたほどの家には、必ずと言っていいほど古文書が所蔵されているし、その量も半端ではない。数千点はおろか数万点に及ぶ場合も少なくない。近世の村の数は、現在と違って六万を超えると言われているから、六万を超える名主・庄屋が居たことになる、その家が現在まで存続していたとすれば、文書の総数はどのくらいになるか見当もつかないほどになるであろう。
もちろん、名主・庄屋の家が現在まで続いているわけではないし、むしろ続いている方が少数かもしれない。また、家が続いていても、天災や火事あるいは家の没落その他の事情によって所蔵していた古文書が失われた場合もある。戦争中には、和紙が軽くて丈夫だということで風船爆弾製造のために供出させられ、そのため一村丸ごと古文書が失われたということもあったし、尾籠な話で恐縮だが、戦後の紙不足のため便所の落とし紙として消費されたこともあったという。そういう様々な事情で滅失した分を差し引いて現在まで残されている地方の古文書の量が、とうていその全部を数え上げることが困難なくらい多いのである。
いうまでもなく、近世の古文書には、幕府や藩で作成された文書や朝廷・寺社で作成された文書などもある。これらの公的性格を持った古文書の量も膨大だが、ここではそれについては考察の対象から外してある。それでも、残されてきた古文書は国際的に見ても圧倒的に多いのではないかと推測される。
中国には、档案館という公文書館があり、そこには大量の公文書が保存・管理されているが、その大部分は支配側が作成した文書で、被支配身分に属する民間の文書はあまりない。韓国の場合も、同様で、被支配身分の文書の例はあまり聞いたことがない。ヨーロッパの場合は、十九世紀に古文書のトラスト運動が行われ、自治体毎に文書館が作られ、それを管理する文書士(アーキビスト)の制度も整備されているが、教会や領主の文書が主で日本の地方文書にあたるような文書は多くないと言われている。古文書の残り方についてのきちんとした研究がないので、絶対に確実だとは言えないが、日本の残り方は突出しているとみてほぼ間違いはないであろう。
なぜ古文書が大量に残ったか
それでは、なぜ日本には古文書が大量に残っているのか。これにはいくつかの理由が考えられる。第一は、とにかく日本、特に近世の日本が文書社会であって、大量の文書が作成されたという事情があげられる。幕府や藩という支配機構において君主の政治的意志も最終的には文書の形で示されたし、支配下の領民に対する命令・規則も文書で伝達された。また、民間でも土地・家屋の売買・貸借もちろん借金・雇用にも必ず証文が作られた。ちょっとした商品の売買でも領収書が書かれることが少なくなかった。また、冠婚葬祭にともなう祝儀・香典についても必ず帳面が作成された。商家に限らず、農家でも経営帳簿である大福帳も毎年つけられていた。さらに、様々な争いごとについてもその経過や決定についての記録が「写し」と共に作成され、大事に伝承された。そのほか、個人的な備忘録のようなものが作られている例も少なくなかった。とにかく、近世社会では日常生活の細々としたことにも文書が作られていたのである。
第二に、その文書の材料である紙(和紙)が量産できたことも大きい。たしかに、紙は、現在に比べれば貴重であったから、別の用途に再利用されることもあった。たとえば、襖や屏風の下張り、茶かごなどの目張り、袴の腰当部分の芯に使われた。その場合には、領収書や不要になった帳簿類、書状などが使われることが多かったが、そこには、かえって日常生活の実態を示す情報が秘められており、研究上では重要な意味を持っている場合すらあった。近世は、出版文化が花開いた時代と言われているが、それも紙の量産が可能であったことを抜きには考えられない。
第三に、識字率の高さがあげられる。文書は、物体としては紙に文字で書かれたもののことであるが、当然それを作成し、受け取る人の双方が、文字を書き、文字を読むことができることを前提としている。大量の文書が民間でも作成されたということは、それだけ文字を扱うことのできる人の数が多かったということの証拠でもある。実際、近世には往来物と総称される民衆向け文字学習用の書籍が大量に出版されている。その名称も、商売往来・農業往来・日用用文章(証文類の文例集)・百姓日常訓など多岐にわたっている。それらは、みな庶民用の初等教科書というべきもので、寺子屋などの庶民教育で使われた。内容には問題はあるが、女性用には女大学や女宝箱というような教科書もあり、女性にも識字教育が行われていた。
近世の識字率を正確に示す資料はないが、女性も含めた識字率を五割以上と推測する研究者も少なくない。この数字は、十八世紀前後の数字としては、世界的に見ても突出していると見て間違いはない。
第四は、紙と墨の保存性の高さである。和紙は、現在普通に使われている洋紙と比べると格段に保存性に優れている。洋紙は基本的に酸性紙であって、酸性の紙は劣化しやすく、水濡れにも弱い。和紙は、保存状態がよく、虫害にでもあわない限りは何百年ももつ。また、水濡れにも強い。さらに、墨は、顔料を使ったインクに比べて、はるかに定着性がよく、乾いていれば水に濡れても滲むことはない。和紙と墨によって書かれた文書は、驚くほど保存がきくのである。
第五に、日本近世の社会的安定性が高かったこともあげておきたい。江戸幕府成立以来三百年近く大規模な戦乱がなく、王朝の交替もなかったことは、文書の保存にとって有利な条件であったことはたしかである。中国では、王朝が交替すると前代の記録は集められて抹消されたというが、そのようなことは日本ではなかった。社会の安定性があればこそ、古証文も有効性を維持できるし、それをとっておこうという気にもなる。
実際、体制が変わり、変化の激しい社会になると文書は廃棄されることが多くなる。明治維新以後、古証文の効力はなくなり、それに従って保存の意欲も薄れてくる。文書に対する人々の意識も変化せざるをえないのである。明治維新から百五十年、古文書は危機にさらされてきたといってもよい。調査をしながら、よくもこれほど残ってきたものだとの感慨を禁じ得なかったことを覚えている。
それにしても、これほど大量の文書が残っていること自体の価値が認識されているようには思えないことは残念というほかはない。普通には読めない「ミミズの這いずったような」字で書かれた文書は古文書になり、歴史家のための資料としてのあるいは一部は文化財としての価値しか認められないようになってしまったが、それでよいのだろうかという思いもよぎる。そこで、古文書が残されていることの現代的な意味について、若干触れておきたい。もちろん、多岐にわたる文書について検討することは到底できないので、二三の例をあげるにとどめざるを得ないが。
記録類の価値について
先にも記したように近世の古文書は、形式内容共に多種多様であるが、その中で記録類とでもいうべき文書について検討してみよう。記録類にもいろいろあるが、ここではまず御用留を取り上げる。
御用留とは、幕府・藩や代官所からの「お達し」、現代的にいいかえれば通達・指示のようなものを綴じたものをさす。それは、普通は写しで、名主・庄屋のところで年次や関連する一件書類として一冊にとじてあることが多い。これは、公文書だから本紙は、藩や代官所から届けられ、一定地域の名主・庄屋間で回覧の上回収されていたと思われるが、それを名主・庄屋の方で筆写して保存しておいたのである。それを保存しておく名主・庄屋側の意図は、藩や代官所の「仕置き」(現代の用語では行政)を確認するにとどまらず、藩や代官所の施政の変更があった場合、その変更の理由を問い、あるいは自己に不利益が及ぶ場合に異議申し立てをする根拠にするためでもあった。近世の幕府支配は、「新儀停止・祖法墨守」を原則としていたから、古い法令・通達でも自己の利益を守るための武器になり得た。したがって、御用留は、公文書として保管が命じられたというよりも、名主・庄屋側の意志によって大事に保存されたと考えるべきであろう。
次に、一件書類の綴じこみとでもいうべき留帳がある。たとえば、藩や代官所に提出した訴状やその訴えの顛末を記録した書類の綴じこみ、村内あるいは隣村との間で発生した紛争について経過を記録した文書のとじ込みなどである。前者は、訴状の下書きから、提出した本紙の写し、藩や代官所の対応など訴えから結末に至るまでの克明な記録であり、後世に教訓・前例として伝えるために作成されたものであろう。その中には、地震や水害、火山の噴火などの災害とその被害からの復興過程を記録したものもある。これなどは、現在でも役に立つ情報が含まれている。
後者については、村境についての争いとか、水利に関する紛争とか、村にとっては重大な問題のものもあるが、村人同士あるいは他村の者との喧嘩の始末に関するような些細と言わざるを得ないような事件の顛末まで実に細かい記録が残されている。これも、後に同様な事件が起こった時に参考にするとか、紛争を未然に防ぐ根拠とするとかの目的があったのではないかと考えられる。
さらに、日記や備忘録のような個人的なレベルで作成された記録もある。それも、内容を読むと、個人の内省のためではなく、自分の子孫に教訓・前例を伝えるために書かれたと言ってよいであろう。
こうした、記録類を見ていると、そこに、記録を残そうという強い意志を感じることを否定できない。近世は、村の自治が相当程度存在していたといわれている。それは、様々な行政的課題や紛争の処理も自前でやらなければならなかったということでもある。したがって、村レベルで行政課題や紛争処理についての記録を詳細に残しておく必要も、必要性の認識も強かったというべきかもしれない。
それに比べて現代では、中央政府から地方自治体に至るまで組織・機構が整備され、法体系も詳細を極め、専門化が進行して、普通の市民生活では、記録を参照したり、自ら記録を作成したりすることはほとんど必要なくなった。個人で記録の必要性が生じるのは、土地や家屋売買で法務局に行って土地台帳や家屋台帳を閲覧するか、年金の確認かぐらいしか考えられなくなっている。これでは記録への関心が薄くなっても仕方がないであろう。
しかし、記録はすべて公的機関が保存しているはずだからと安心していてよいのだろうか。そうではないことは、年金記録の問題の時にも、最近の森友・加計問題の時でもはっきりした。個人情報がいいかげんに管理されたり、文書が改ざんされたり、あるはずのものを無いと言って隠蔽されたりという事件が頻発しているのを見れば一目瞭然であろう。近世の村ように記録を残すことの重要性の意識を持てと言っても無理かもしれないが、せめて、文書管理と情報公開制度の人員配置・予算配分を含めた拡大強化ぐらいには関心をもってもらいたい。古文書についての無関心と現代の文書問題とはけっして無関係ではないというのは、一歴史研究者の思い込みにすぎないと言われれば、それまでだが。
きつかわ・としただ
1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任。現在名誉教授。本誌前編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)、『丸山真男「日本政治思想史研究」を読む』(日本評論社)など。
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