特集●労働法制解体に抗して

春闘連敗に終止符を打て

「高プロ」導入企業へ摘発・糾弾・不買運動を

元JAM労組副書記長 早川 行雄

太田薫が『春闘の終焉』を書いたのは1975年のことだ。このなかで太田は「全体的にみるならば、75年春闘はガイドラインでおさえられたといえるし、その意味で春闘方式とよばれてきたスケジュール闘争の挫折、終焉といってもいいすぎではないだろう」と述べている。ここで太田がスケジュール闘争と言っているのは、小島健司(元総評調査部長)が1955年から1974年に至る各年の春闘を振り返り、その到達点や限界性を踏まえて著した『春闘の歴史』(1975)において詳述したところの、単組や産別を超えて全国・全産業一斉に春の同時期に賃金に主軸をおいた対経営闘争を組織するという「日本の労働運動がつくりだした賃金闘争の独特のタイプ」のことである。

太田はスケジュール闘争が挫折せざるをえなかった経過について、「こんどのスタグフレーションは、この20年間の間にあった不況とはちがって、循環的な景気循環論では片づかないものである」「いままで資本のいい分を少しでも破って、たたかっていた春闘は、スタグフレーションの下ではその甘っちょろいたたかい方は通用しなかった」と分析している。

このように春闘を総括するにあたって、労働組合による運動論的観点からの検討は主要な柱のひとつではあるが、それのみでは物事の一面でしかない。春闘の全体像を捉えるためには、構造的な転換を含む経済情勢の変化や、それに対応した資本の戦略をも視野に入れた分析を避けて通るわけにはいかない。本稿では、太田の慧眼があぶりだした経済構造の転換に着目し、終焉が告知された春闘の歴史を経済的側面から振り返りながら、今日の賃金、労働時間をはじめとした労働諸条件に関わる、労使の力関係を反映した経営側の攻勢的戦略を解明する。

1.春闘44連敗

春闘の意義は賃金・労働条件の引き上げをめぐる労使交渉を、同時期に全国的な規模で展開することで労働運動に一画期をなしたということにとどまるものではない。春闘交渉をめぐる広義の政労使合意の枠組みを形成することで、春闘結果の全労働者に対する波及の回路を形成し、労働へのマクロ分配の水準を担保してきた歴史的経過を総括する必要がある。1970年代後半以降、マスコミは春闘の賃上げ率が一桁台にとどまったことをもって春闘連敗と報じ続けたが、春闘結果は、そのときどきの労使の力関係や労働組合の交渉力にも依存する。そこで春闘の背景をなした経済情勢の推移、とりわけ資本と労働へのマクロ分配の推移を分析することで連敗の前史と経過を振り返ってみよう。

①例外としての高度成長期

戦後高度成長期以降の、わが国における名目雇用者報酬と名目GDPの動向をみると、経済白書において「もはや戦後ではない」と記述された1955年からニクソンショック(金・ドル交換停止)直前の1970年(以下年度表示はいずれも4月~3月の会計年度である)にかけては、緩やかな労働分配率(分母に固定資本減耗を含む生産概念で考えた労働分配率=1人当たり名目雇用者報酬/就業者一人当たり名目GDP。以下同)の上昇傾向を含みながら、概ねパラレルに推移した。

この時期には1955年の8単産共闘発足を機に春闘がスタートし、着実な賃金引き上げが恒例化し、1960年代以降は10%台の賃上げが定着した。1964年には所得倍増計画を掲げる政府と総評の間で池田(首相)・太田(議長)会談が持たれ、民間賃上げが公労委調停を通して公共企業体に適用されることとなり、これが民間準拠の人事院勧告にもつながっていった。

こうした賃金上昇は中小・未組織労働者にも部分的に波及した。高度経済成長の成果が広く勤労国民全体に配分されることで、国民生活が向上し、分厚い中間層が形成され始めるのもこの時代のことである。この間は勤労者所得の向上が経済成長を上回る趨勢で続いていたことになる。しかしながら、これは日本資本主義の発展段階における例外的な事態でしかなかったことが、その後の経験から明らかとなる。

②資本を震撼させたオイルショック

変動相場制への移行や二度にわたるオイルショックを経験した1970年代は、名目雇用者報酬の伸び率が名目GDPのそれを大きく上回り、特に第4次中東戦争を発端とした第1次オイルショック前後の1973・1974年には30%近い上昇がみられた。1970年代後半には、イラン革命を契機とした1979年の第2次オイルショックなどもあったが、1975年から1980年についての名目雇用者報酬の伸び率は、僅かではあるが名目GDPのそれを下回っている。1970年代後半には、前半に「上方シフト」した労働分配率が、そのままの割合で定着したといえる。

1970年代に入って以降も春闘体制は維持されており、オイルショック後の狂乱物価を背景にした1974春闘賃上げ率は32.9%に達した。74春闘に関しては前掲の太田や小島の著書において、スケジュール闘争の限界や上滑りする「国民春闘」に対して運動論的観点から批判的な総括がされている。とはいえ敗戦後はじめてマイナス成長となった1974年の経済情勢激変が日本の経済界に深刻な事態として受け止められたことは間違いない。1974年は毎月勤労統計をみても現金給与総額は前年比29.1%、実質賃金は同6.2%の上昇となった。この結果、労働分配率は1970年の44.1%から1974年には53.2%まで上昇し、労働分配率が10%ポイント近く上方にシフトする構造変化がみられた。これは原油価格の高騰などから交易条件が悪化し、その結果として海外に流出することとなった実質所得を企業部門が負担したことの影響が大きい。

この「過剰負担」は企業にとって絶対に受け入れることのできないものであり、危機感を深めた日経連は、1975年春闘では生産性基準原理を「鉄の意思」をもって厳密に適用し、賃金引き上げを15%以下に抑えるガイドラインを設定した。一方労働側でも、従来の前年実績プラスアルファという春闘要求基準を見直し、実質賃金の確保に重点を置いた経済整合性論が台頭した。この結果1975年春闘の賃上げ率は、ガイドライン以下の13.1%に止どまり、1976年以降は1桁台の春闘が継続することとなる。生産性基準原理の1975年以降の春闘への適用は、日本型所得政策の本格化と位置づけることができ、文字通り春闘の転機となった。

③等閑に付された“逆”生産性基準原理

名目雇用者報酬と名目GDPの伸び率は、1970年代後半から概ね等しい値で推移してきた。GDPと雇用者報酬の伸び率がほぼ一定で安定した推移を示した時期は、1970年代後半から1990年代前半まで継続した。この時期は1985年のプラザ合意後の円高不況、その後の低金利政策や財テクブームによるバブル景気とその崩壊など大きな経済変動に見舞われたものの、労働分配率は1975年水準(55%前後)で大きな変化はなかった。

1980年代以降も1970年代後半に確立された生産性基準原理に基づく賃金決定枠組みが継続された。生産性基準原理は名目賃金の上昇率を実質GDP(正確には一人当たり)成長率以下に抑えるという賃金抑制政策だが、実際に1974年には29.6%あった両者の差が、1975年以降はスタグフレーション下の雇用情勢悪化もあって一桁台に落ち、1982年以降はマイナス圏(名目賃金上昇率が実質GDP成長率を下回る)にまでなった。同期間の実質賃金上昇率は年平均で2%未満に抑え込まれた。こうした情勢下、同盟(全日本労働総同盟)の賃金政策ブレーンであった佐々木孝男は、1984年に「実質賃金上昇率を実質生産性上昇率と等しくする」という逆生産性基準原理による大幅賃上げの実施を提唱した。その後1989年に労働戦線が再編されて、日本労働組合総連合会(連合)が結成されたが、連合傘下の大手産別は佐々木理論とは似て非なる経済整合性論に立った春闘要求方式を継続したため、マクロの分配構造が大きく変化せず、実質賃金上昇率は一貫してGDP成長率を下回り続けた。

④下がり始めた労働分配率

1994年以降、労働分配率は明らかな低下傾向を示しはじめた。それと並行して従来のマクロ分配ではみられなかった劇的変化も生じていた。第1に、右肩上がりの経済成長率が1997年をピークに弱含み横ばい圏に変わった後、リーマンショックで大幅に落ち込んだ以降も、低下した水準からの回復が遅々として進んでいない。バブル崩壊後の失われた時代の開始である。第2に、雇用者報酬の伸びが名目GDPの伸びを継続して下回る過程で、2003年および2004年にはGDPが伸びているのに雇用者報酬は減少する、つまり負の相関が生じるという前代未聞の事態まで起きた。第3に、両者の乖離幅は戦後最長となったいざなみ景気の過程(2002年2月から2009年3月までの86ヵ月間)で最も大きくなっている。これらの事象は生産性向上の成果が賃金にはまったく反映されなくなったことを意味する。

75年以降、生産性基準原理の厳格な適用という所得政策で徹底した賃金の抑制が続けられたが、90年代半ば以降の労働分配率低下は、最早それだけでは間に合わなくなった資本による一層の収奪強化が開始されたとみるべきであろう。佐々木の提唱した逆生産基準原理では実質賃金上昇率と実質GDP成長率が等しくなるべきとされているが、1975年から今日に至る各年の実績は平均して概ね2ポイントのマイナスであり、2018年も精彩を欠いて終わった春闘は44連敗を喫したことになる。

2.春闘の歴史的総括

日本経済は、経済成長率が概ね横ばいとなるような「成熟化」によって、実質的には定常状態に入っている。企業はそうした環境変化の下でも、投資が投資を呼ぶといわれた高度成長期と同様に増益基調で配当を継続すべき宿命を負っている。経済の定常化は個々の企業にとっては売上高の停滞であり、その下でも利益を拡大するには人件費などの固定費を抑制して損益分岐点を下げるか、さもなければ営業利益の不振を補完するべく、規制緩和された金融分野の収益を拡大して行くほかない。

それがもたらした結果は本稿で述べてきたとおりだが、このことは財務省の経済財政白書(2012)も、「実質賃金と労働生産性の相関は2000年代に入って消失した」と、いささか婉曲な表現で是認しているところである。端的に表現すれば、資本主義と生活向上が併存できた「福祉国家」の時代が終焉したのである。

①資本主義市場経済の構造変化

1970年代以降民間の高い貯蓄率に対して設備投資が不足する慢性的貯蓄超過体質となっているため、常に総需要の不足によるデフレに陥る潜在的可能性を内包してきた。そうした中における重要な変化として1998年あたりを境に、貯蓄超過の中心が家計部門から企業部門や金融機関に移行し、その貯蓄超過を政府部門の投資=赤字および経常黒字が補完するという構造変化が生じていることがある。

国民経済のオーソドックスなあり方としては、貯蓄超過である家計部門の余剰資金を資金不足の企業部門が借入れて設備投資を行い、それを仲介するのが金融機関という姿が想定される。90年代後半以降、企業部門は資金不足を脱して潤沢なキャッシュフローを持つに至ったが、一向に設備投資は増加していない。いまや実体経済の中で良好な投資機会は失われたようにみえる。それはなぜか。

1980年代以降、企業が生産に使用するために保有している建物や設備の総計を示す民間企業資本ストックは着実に積み上がる一方、実質GDPは1990年代以降概ね横ばい圏で推移しており、資本係数(民間資本ストック/実質GDP=1単位の生産・所得を産出するのに必要な資本ストックの量)は1980年の1.33から2016年には2.56と大幅に上昇している。これは膨大な資本ストックの稼働率が低下していることを意味する。資本係数の逆数は資本生産性であり、利潤率(1単位の投資から得られる利益の比率)と同様の概念なので平均利潤率の傾向的な低下が顕著になっている。

こうした実態はフローでみた国内投資にも反映しており、企業の減価償却に当たる固定資本減耗は、過去に積み上げた膨大な資本ストックを背景に増加基調を継続している一方、総固定資本形成は、企業の投資意欲減退により長期的に低迷している。その結果、総固定資本形成から固定資本減耗を控除して得られる純固定資本形成はバブル崩壊後急速に縮小し、リーマンショックを経た2009年以降は一旦マイナスに転じてしまった。純固定資本形成の増加は国民経済全体の生産力上昇を意味し、経済成長のバロメーターのようなものだ。これがマイナスに転じたということは、国内における既存の生産能力を確保するための設備を維持できなくなったことを意味している。

社会を経済の好循環により安定的に持続させるシステムとしての資本主義は、完全に機能不全を起こしている。投資からのリターン(資本生産性)が低下した下で、なお利潤率を維持・拡大しようとすれば、パイの斬り方を変えて労働分配率を引き下げる(労働側の取り分を奪い取る)しかないことは見やすい道理である。春闘の歴史的総括とは、経営側の頑なな交渉態度を必然化させている、資本主義市場経済の今日的到達点を正面から見据えることにほかならない。

②労働分配率低下の諸経路

労働分配率低下の根因は①に記載した資本主義の危機の深化にほかならないが、労働から資本への所得の移転(収奪)はいくつかの経路をたどる。大別すれば税・財政や金融市場の規制緩和(金融化)による逆トリクルダウンともいうべき、家計から企業への所得移転および労働市場の規制緩和(非正規・低賃金雇用の拡大)による直接的な移転に分類される。

ⅰ.株式会社の商品化

大企業救済目的の税財政は非常に分かりやすい。法人税率の引き下げや租税特別措置などの優遇税制で企業負担は大幅に軽減(利益を保証)されてきた。もともと歳入は過少なので、社会保障費の削減で歳出を抑え、なお不足する税収は国債の発行と消費税増税など家計部門の負担増で賄われる。しかも国債を引き受ける債権者は、主として金融機関を介した企業部門である。「企業の税金を負けてやり、その企業から借金して利息まで払い、溜まったツケはすべて家計に回す」。これが究極の企業援護スキームのからくりである。

こうした庇護の下で、近年の企業経営の姿勢は、主として海外の機関投資家などからなる「物言う株主」の意向を忖度しながら、利益の株主還元のみを極端に優遇するものとなっている。経済産業省も「伊藤レポート」(2014)でROE(自己資本利益率)8%にコミットすべきと提唱するなどして資本蓄積を後押ししている。ROE向上の手段は様々あるが、分母の自己資本を自社株買いで縮小するのもそのひとつ。これは株価上昇につながる株主優遇策である。もとより本筋は分子の利益拡大だが、その中心は合併やM&Aによる独占・寡占体制の復活である。

経済民主主義に反する市場集中度の高まりは独占利潤を生む一方で企業統合過程での人員削減などにより労働分配率を引き下げる。また、著増する内部留保の主内容はM&Aで取得した外国株式など有価証券で占められている。これが意味するのは、土地や貨幣から労働に至るまで、あらゆるものを商品化してきた資本主義は、ついに資本の自己増殖における基幹エンジンたる株式会社までも市場商品化してしまう自家撞着に逢着したということだ。

ⅱ.21世紀の産業予備軍

旧日経連が1995年に提唱した雇用のポートフォリオは究極の総額人件費抑制策であった。それは非正規労働者への常用代替と限定正社員などの低賃金層の形成による正社員の二極化を促進した。厚生労働省の「労働経済の分析(労働経済白書)」(2007)は非正規雇用割合の上昇は、近年の労働分配率低下をほとんど説明できる大きさであるとしている。

今日ではクラウドワーカー(ネットを介して仕事を請け負う人)のような非雇用就労も拡大しており、こうした産業予備軍的労働者層の拡大が労働組合の交渉力を弱体化させていることは疑い得ない。現在、統計上は労働力需給が逼迫しているようにみえるのも、低賃金・短時間労働の不安定な雇用機会が大量に創出された結果であり、マンアワー(総労働投入量=労働者数×労働時間)でみた労働投入はほとんど増えていないため、正社員を含む雇用労働者全体の賃金上昇への圧力とはなりえていないのである。

昨今、グローバル化が底辺への競争をもたらし、デジタル化が雇用の二極化を促進しているともいわれるが、これらが雇用の劣化をもたらすのは必然的なことではなく、労使の力関係を反映した攻勢的な経営戦略の結果であることをみておかねばならない。グローバル化には公正労働基準の国際化を対置し、デジタル化による効率上昇は時短に配分するといった労働組合の対抗戦略が問われている。

3.「高プロ」導入と労働時間をめぐる攻防

前記の産業予備軍的労働者層は現行労働者保護法の適用も難しく、労働基本権の行使もままならない。彼ら/彼女らは、英国の産業革命期、すなわち資本の原始的蓄積過程において「囲い込み運動」で農地を追われて都市部に流入した農民のような劣悪な働き方を強いられている。時あたかも、今国会では「働き方改革」関連法案が強行採決された。もとより労働者保護の充実を企図した立法ではなく、階猛議員らの表現を借りれば「働き過多」を蔓延させる内容である。

一連の法案における最大の焦点は「高度プロフェッショナル」職種の労働時間規制適用除外である。経営側にしてみれば時間管理をなくして賃金との連動を外すことはまさに垂涎の制度に違いない。この制度は、いわゆる管理監督者と異なって、上司の指揮命令下で出退勤時間などに裁量権を持たない一般労働者を労基法4条関係の労働時間規制から除外することのみを定めることで、正社員をも労働者保護法の埒外に置く労務政策に道を開くものである。

日本労働弁護団は「働き方改革関連法案の採決強行に対する抗議声明」において、「高プロ制度を導入する企業があるならば、当該企業は『ブラック企業』の烙印を押され、社会的な批判・非難の対象となることを免れ得ない」としているが、労働組合のある職場では「高プロ」を導入させないことは当然として、労組、弁護団、市民団体が連携して、「高プロ」導入企業の摘発・糾弾・不買などの運動を組織すべきだ。

「高プロ」の導入は、派遣法がそうであったように脱法状態の法的追認としての立法化であり、一旦導入されれば派遣法が職安法を有名無実化させていったように、労働基準法による労働時間規制を換骨奪胎してゆくものとして捉える必要がある。労働時間とは、資本主義市場経済に固有の賃労働と資本の関係に規定された使用従属関係の下で、人間としての労働者に近代憲法に基づいて保障された自由権が、使用者の指揮命令権の行使により制限される例外的時間帯である。

マルクスは賃労働を必要労働と剰余労働に分解し、必要労働時間は労働者家族の生活費を満たす賃金に充てられ、剰余労働時間は利潤の源泉になるとした。経済成長があれば労働者家族の「必需品」もタケノコ生活から三種の神器、さらに3Cへと充実してゆき、生産性の向上による相対的剰余価値の拡大は剰余労働時間を短縮してさえ資本の自己増殖を可能にしてきた。

小峰隆夫のいうように「経済成長は七難を隠す」のである。しかし成長が止まれば、資本主義に内在する七難、八難が次々に露呈してくる。労働時間規制の及ばない多数の労働者層の出現は、剰余労働時間の延長による絶対的剰余価値の拡大を目論むものと解すべきだ。一般に労働時間に関する協約は、賃金のようにインフレで影響を相殺するといった調整のきかない非妥協的な協約である。従って交渉力のない組合は時短を進めることなどできない。時短闘争の究極的な意義は、賃労働という束縛された例外的時間を極力小さくしてゆくことであり、今日的には労働生活全般に対する労働者による時間主権の確立への挑戦として取り組まれているところである。

しかし昨今の連合春闘要求をみると時短には重点が置かれていないようだ。最初のメーデーの要求が8時間労働制であり、今年のドイツIGメタルの産別交渉における最重点課題が週28時間制(育児・介護時)の導入であったように、労働時間を巡る攻防は労使交渉における最重要課題である。労働時間短縮の旗を高く掲げて真の働き方改革を主導することができなければ、連合運動はここでも存在意義を失うことになるであろう。

先にみた新たな産業予備軍の形成は、単に労働組合の交渉力を衰退させるばかりでなく、彼ら/彼女らを組織化し、その要求を担った運動を展開しない限り、労働組合組織自体を弱体化し解体に向かわせることにもなろう。

日本においてはユニオンショップ制度で組合加入が強制され、チェックオフ協定で組合費が自動的に徴収されるため、単組組織が形式的には維持されることで産業別組織への上納会費も担保されている。組合員数の減少が財政上の問題を惹起することはあっても、組織の存亡にかかわる運動実態への危機意識は希薄となりがちだ。単組がそうした状況では、産業別労働運動も内実を伴わない形骸化した取り組みとならざるをえない。

しかし危機の時代にあって労働運動が立ち遅れることなく取り組まねばならない課題は、情勢そのものによって突き付けられている。昔は良かったとぼやきながら現状を容認する「懐旧逃走」的思考を排して、ポスト資本主義に向けた「働くことを軸とする安心社会」を本気で目指す労働運動の構築が求められる。

はやかわ・ゆきお

1954年兵庫県生まれ。成蹊大学法学部卒。日産自動車調査部、総評全国金属日産自動車支部(旧プリンス自工支部)書記長、JAM副書記長、連合総研主任研究員などを経て現在労働経済アナリスト、JAM共創イニシアティブ推進室長。最近の主な論説として「TPP協定交渉参加国労働組合の見解 その背景にある思想ととりまく情勢」(『農業と経済』2012.5昭和堂)、「自民党安倍政権における経済政策(アベノミクス)の実像」(『労働法律旬報』2013.9.下旬 旬報社)、「あるべき賃金をめぐる論点について」(『Business Labor Trend』2015.3 JILPT)、「定常状態経済と社会の再封建化」(『労働法律旬報 』2015.11.下旬 旬報社)など。

参考文献

石水喜夫 (2012)『現代日本の労働経済』岩波書店/岩本沙弓(2013)『バブルの死角』集英社新書/太田薫 (1975)『春闘の終焉』中央経済社/金子良事 (2013)『日本の歴史を賃金から考える』旬報社/経済産業省(2014)「持続的成長への競争力とインセンティブ」(伊藤レポート)/ 小島健司 (1975)『春闘の歴史』青木書店/駒村康平(2015)『中間層消滅』角川新書/佐々木孝男 (1984)「“逆”生産性基準原理の定昇」経済・社会政策研究会/シュトレーク,ヴォルフガング(2016)『時間稼ぎの資本主義』みすず書房/日経連 (1995)「新時代の『日本的経営』」 /ハーヴェイ,デヴィッド(2017)『資本主義の終焉』作品社/早川行雄(2018)「2018年春闘総括の視点」労働情報2018.8/ピケティ,トマ(2014)『21世紀の資本』みすず書房/水野和夫(2016)『株式会社の終焉』ディスカヴァー・トゥエンティワン/連合総研 (1992)「90年代の賃金」/連合総研 (2014)「「好循環」への反転をめざして」2014~2015年度経済情勢報告

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