連載●シリーズ「抗う人」⑫

慰安婦「捏造」=朝日新聞攻撃に抗う ~植村 隆

ジャーナリスト 西村 秀樹

いわゆる従軍慰安婦証言の記事を書いた元朝日新聞記者に対し、右派言論は慰安婦問題を「捏造」したと非難する。メディアは内戦状態。 問題はどう解決すべきなのか。平和国家、憲法9条が揺れ動く中、言論テロにさらされた元新聞記者が裁判で抗うことを決めた。

《吹雪の札幌バレンタインディ》

バレンタインディにあたる今年2月14日。札幌は北海道東部で猛烈に発達した爆弾低気圧の影響で、強風がふきすさび粉雪が地をはう。JR札幌駅の南側レンガ造りの旧北海道庁に近い大通り公園ではさっぽろ雪まつりが3日前におわったばかり。巨大な雪像の取り壊し作業が建設用重機によって進められていた。

言論テロにさらされたころはうつむき加減だった植村隆だが、抗うことを決めたいまは笑顔を見せる(写真提供;植村応援隊))

猛烈な冬型気圧配置による強風で、東京からの飛行機運航はほとんどがストップ。東京からの集会参加予定者は航空便が羽田でキャンセルとなり、他の航空便の空席を5時間以上待ったが、結局東京からは誰も参加できなかった。この日、札幌にある北星学園大学非常勤講師で元朝日新聞記者、植村隆が右派言論を相手どって起こした名誉毀損裁判がスタートするにあたって、地元では「植村応援隊」の結成集会がひらかれた。

会場の札幌市教育文化会館には、地元のテレビ局だけではなく、ソウルからかけつけた韓国MBCのテレビクルーも取材に訪れた。ことが日本国内だけでなく、海外メディアも大きな関心を寄せていることを示していた。

「わたしは捏造記者ではありません」。植村は落ち着いたトーンで、しかし大きな声で、はっきりと宣言。四階講堂を埋めた、およそ150人の聴衆から大きな拍手をあびた。

右派言論は「慰安婦は商売女であり、朝日新聞と記事を書いた植村は慰安婦問題を捏造した。日本をおとしめた」と主張するが、植村は「全くそうではない」と力強く宣言したのだ。

植村裁判とは何か。誰を訴えたのか。争点は何か。

《朝日新聞バッシング》

ポイントは、いわゆる従軍慰安婦問題である。植村裁判に至る経過を簡単にふり返る。

朝日バッシングは、昨年8月5日に朝日新聞が過去の慰安婦報道の検証記事をのせ、過去の当該記事を取り消したのがきっかけである。これに吉田調書(2011年3月11日発生の東日本大震災で、東京電力福島第一原子力発電所の吉田所長への聞き取り調書)をめぐる表現や、慰安婦記事でおわびがないことを指摘したコラムニスト池上彰のコラム掲載拒否問題などが加わり、朝日新聞社長が辞任、日本の戦後メディア史の最大の事件とまで言われている。

それは次なる騒ぎのきっかけにすぎなかった。朝日の検証記事をうけて、産経新聞や読売新聞をはじめ、一部週刊誌や一部月刊誌ら右派ジャーナリズムがこぞって朝日新聞へのすさまじいまでのバッシングを続けた。このことは、読者の皆さん方、よくご承知のことと思う。“メディアの内戦”(原寿雄)と言われるゆえんである。

その朝日新聞バッシングの標的となったのが、今回の主役、植村隆である。植村は、1991年8月、自ら従軍慰安婦だった過去を語るそのときはまだ匿名であったキム・ハクスン(金学順)の紹介記事を書いた。

「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり」(1991年8月11日付け、大阪本社版社会面)と報じた。

あれから20年余が経過。その記事内容をめぐって、植村に向けて言論テロにも等しい個人攻撃が始まった。

《激動の2014年》

植村は、51歳のとき、新聞記者のかたわら2010年母校早稲田大学大学院の博士後期課程に入学、さらに2012年には札幌にある北星学園大学の非常勤講師に就任、さらに学究生活に進もうと、神戸松蔭女子学院大学が公募したメディア系教授の道に応募した。神戸松蔭の面接はうまく行き、2013年末には、雇用契約も無事終わり、新学期の準備を進めていた。

その新しい人生を前に、降ってわいたのが週刊誌からの攻撃であった。新学期を直前にした2014年1月末、

週刊文春にこんな記事が載った。

週刊文春の編集部がつけた見出しはこうだ。

「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大学教授に」(2月6日号)。つまり、週刊文春は、植村のかつての署名入り記事が「慰安婦捏造」だと決め付けた。

ちなみに、捏造という文字を辞典でひもとくと、「捏(こ)ねる=手などで粘土状のものを練って混ぜる。つくねる。でっちるとも読む。捏造(でつぞう・ねつぞう)=ない事柄を、事実であるように作り上げること」(新潮日本語漢和辞典)。別の辞書はこうもいう。「『でっち上げる』以上に計画性や悪意が感じられる。『でっち上げる』の用法のうち、形だけつくようにいい加減にやっつけるといった意味合いでは代用できない」(中村明著『日本語語感の辞典』岩波書店)。相当に悪意を感じさせるニュアンスである。

この記事にすばやく反応したのがネトウヨだ。ネット右翼の住民がうごめきだした。キリスト教系の神戸松蔭には1週間で250通を超える大量の抗議メールが殺到した。多い日には一日で数十通という勘定だ。

大学側は大いに困惑した。植村と連絡をとり、神戸に呼び出し、交渉の場をもった。植村は、当時、朝日新聞の函館支局長で、自分の過去の記事の背景を説明すれば誤解は解けるだろうと資料を携えて折衝しようとした。が、大学側は植村の説明にいっさい耳をかさない。

「記事の真偽は関係ないのです。このままでは学生募集にも影響がでます」という。事実上教授就任の辞退を迫った。雇用契約はすでに結ばれている、しかし、大学のスタンスは硬い。このまま不当解雇だと裁判に訴えても、給与は支払われるかもしれないが、学生相手の授業の見込みはないと判断した。

植村は神戸の弁護士を代理人に大学側と交渉した。この神戸の弁護士は「こんな大学はあきらめなさい。行かない方がいい、と助言したい」。この一言が植村の背中を押した。

「この女子大学も被害者だ」と植村はやさしい気持ちのもと、雇用契約を交わした教授就任をあきらめた。植村は闘いの矛をいったんは収めた。植村の第二の人生が挫折した。ここまでが第一ラウンドだった。

《大学や家族への脅迫》

ことはそれだけですまなかった。第二ラウンドの始まりだ。

植村は、神戸での教授就任が決まった段階で、2014年3月末で朝日を早期に退職する旨、会社に通告した。にもかかわらずその大学での常勤教授の夢を失い、一方で新聞記者の職も失った。タイミングが微妙にずれ、結果的にいわばボタンを掛け違えたことになる。職を失い宙ぶらりんな状態になった。

植村は覚悟をきめ、2年前から始めた、札幌の北星学園大学の非常勤講師だけをよりどころに、第二の人生への船出をきめた。週に一日2コマだけ、非常勤だから収入もきわめて少額だ。

そのかろうじて決めた第二の人生に対し、さらにネトウヨたちからの猛烈なバッシングの嵐が植村の勤務先の大学や家族に襲いかかってきた。週刊文春の騒ぎから3か月たち、ネトウヨたちは鵜の目鷹の目で標的の追跡を続けていた。北海道の植村の勤務先がネット上にさらされターゲットになった。

2014年5月ごろから、植村の自宅になぜか不審な電話がかかってくるようになったのだ。神戸松蔭の件で植村を血祭りに上げ、勝利の美酒に酔いしれたネトウヨたちは、その新たな攻撃の的を見つけたのだ。新たなターゲットは北海道の北星学園大学であり、植村本人そして家族だった。

植村の家に見知らぬ女性の声で電話がかかってきた。

「言わなくてもわかるでしょ。逃げないで説明してください」と執拗に迫る。植村は自宅の電話番号を電話帳に載せておらず、NTTの104番に問い合わせてもわかるはずのない番号に、名前を名乗らない不審な電話がかかってくる。

5月末には、勤め先の北星学園大学にまで脅迫状が届いた。

「あの元朝日(チョウニチ)新聞記者=捏造朝日記者の植村隆を講師として雇っているそうだな。売国奴、国賊の。植村の居場所を突き止め、なぶり殺しにしてやる。すぐに辞めさせろ。やらないのであれば、天誅として学生を痛めつけてやる」など。

学生への暴力をほのめかす脅迫状には虫ピンが10本ほど同封されていたという。自らの名前は名乗らず、筋道たてて冷静に議論をするわけではなく、罵倒語だけをならべ、学生を痛めつけるなどと筋違いな、しかし多くの学生を預かる大学当局のもっとも痛いポイントをつく、卑劣きわまる脅迫状が届いた。

さらには「出ていけ、この学校から。出ていけ、日本から。売国奴」といった拝外主義的な、植村あてのはがきが大学にまで送られてきた。

個人攻撃はこれだけではすまなかった。

植村の長女が、偶然この時期、高校生平和大使の北海道代表に選ばれた。札幌から長崎や遠くスイス・ジュネーブへの派遣が新聞に発表されると、今度はその高校2年生の娘に対し攻撃の矛先が向けられた。

「これ植村の娘じゃないか」とネット上に書き込みがあり、顔写真がさらされた。さらには「売国奴のガキ」、その上「自殺するまで追い込むしかないな」とエスカレートしていった。

決定的だったのは、8月5日と6日の朝日新聞記事だった。朝日新聞は、過去の従軍慰安婦に関する検証記事をのせ、朝鮮人女性を「強制的に連行した」という吉田清治証言に関する記事を取り消した。その結果、右派ジャーナリズムは集中豪雨のような「朝日バッシング」の記事を書き、「朝日バッシング本」と言われる書籍を次々に出版した。

こうした言論に煽られたのか、9月には、大学に脅迫電話がかかった。この男は警察に威力業務妨害の容疑で10月下旬に逮捕された。 植村は、この時期、ぼこぼこに殴られっぱなしのサンドバック状態であった。

《反撃へ》

ネトウヨたちは、植村個人への攻撃の刃を北星学園大学に集中させた。この大学は、明治初期、アメリカ、ニューヨークから来日した女性宣教師、サラ・C・スミスが作った女学校が前身のプロテスタント系の私立大学だ。日ごろ、そうした暴力的な攻撃に慣れているはずもなく、大学の職員たちは、連日のネトウヨからの脅迫やその対応に疲れきっていた。永く新聞記者を勤めていた植村にとっても、学問の世界で多くの友人知人がいるわけではなく、植村は孤立を深めていった。

そんな折り、助けの手をさしのべたのは、一人の女性であった。彼女は札幌での市民講座の主宰者。その彼女の講座に植村が参加したことがきっかけとなって、植村と旧知の間柄であった。植村は彼女に相談の電話をかけた。

彼女は開口一番「わたしは電話をおまちしていました」と応じた。彼女は植村の心象風景をすっかり読み取っていた。植村のすさんだ気持ちをおもんぱかるように、彼女は一つの提案をした。「北星学園大学に対して、応援メールを出しましょう」。

こうしてたった一人が提案した新たな市民運動がスタートすることになった。植村のことで攻撃を受けている北星学園大学に「負けないで」との応援メールをおくるという。 彼女のメールは次々に転送され日本中をかけめぐった。植村と北星学園大学への支援の輪は、ネトウヨへのカウンター(=対抗)として、みるみる拡がっていった。背景には、朝日新聞バッシングへのリベラルな市民からの危機感があった。

大学の発表によると、植村攻撃がはじまった5月から朝日新聞の検証記事がのった8月末まで、抗議メールが807通に対し激励メールは20通にすぎなかった。しかし9月以降大幅に逆転し、10月末までの2か月間で抗議が333通に対し激励が1011通と実に3倍に達した。

そんな折り、二つの相矛盾する知らせが植村に届いた。

一つは悪い知らせ。植村の朝日新聞外報部時代の上司が、勤め先の帝塚山学院大学を辞職したのだ。この上司は、吉田清治証言を記事に書いた。そのことを責める脅迫状が9月13日大学に届き、上司は学生に迷惑をかけたくないとの理由で、すぐにその日辞職を決めた。そのことを9月末、毎日新聞がはじめて新聞記事に書いた。植村にとっては先輩記者の挫折である。「大きなショックでした」と植村はいう。

帝塚山学院大学での毎日の記事が口火となって、北海道新聞や朝日新聞、NHKなどが大学への脅迫の事実をつぎつぎに報じた。

さらにニューヨークタイムズ紙の東京特派員が札幌にまで出向き植村をインタビューし、NYタイムズに大きな記事を書いたし、韓国や諸外国のメディアも植村の苦渋を紹介する記事を書いた。

よい知らせは、朝日新聞が植村の当初の記事を検証した8月の記事だ。植村が1991年に書いた記事に「事実のねじ曲げはない」と、結論を載せた。

10月6日、『負けるな!北星の会』(略称、マケルナ会)が発足した。呼びかけ人には、この現代の理論「抗う」の前回で紹介した、原寿雄・元共同通信編集主幹や作家の池澤夏樹ら46人が名前をつらねた。

呼びかけ人の一人、小林節・慶應義塾大学名誉教授が発表記者会見でこう語る。

「植村さんの娘さんに自殺を教唆するのは犯罪だ。これがテロでなくて何か」

《雇用継続へ》

北星学園大学では、神戸の大学同様、学生たちへの影響を恐れていた。学生を守るガードマンの費用など、ディリーワークで人件費を計上する必要が迫られ、いったんは新年度に向けて植村の雇用の打ち切りを模索していた。

大学も悩んでいた。11月には教職員を対象に、雇用問題を話し合う公聴会を学内で開いている。この公聴会開催を伝えるNHKのニュースによれば、対象200人のうち半数の100人が参加したという。

「『脅迫に屈して雇用を打ち切るのは大学の自治の放棄になる』など雇用を継続すべきだという意見が相次いだということです」と放送した。

この大学では戦後50年にあたる1994年、「北星学園平和宣言」を採択している。 「戦争で、アジアの人々に与えた多くの被害・苦しみを痛感し、その責めにこたえていくことが、ともに同時代を生きるものの責任と思います」と宣言している。

この平和宣言を支持する学園内のリベラルな理事者や教員が中心になって、大学当局に植村の雇用継続をもとめた。

また国会でも植村の問題が取り上げられた。有田芳生民主党参議院議員が植村の長女の顔写真と実名がネット上でさらされた事例をヘイトスピーチにからめて質問した。

上川陽子法務大臣がこう答えた。「人権侵害はあってはならない大きな問題。そのままでおいてはいけないという思いだ」。

12月、大学は雇用の継続を決めた。

《もう一つの闘いの準備》

右派ジャーナリズムからぼこぼこにされていた植村だが、なんとか土俵際、徳俵一枚を残して攻撃を耐え抜き、やっとこさ、土俵にまだプレイヤー(正確には力士というべきか)として闘いの場に残った。

闘いはいつも当事者が強いられて、いま抗わないと自分の生存価値がまったく否定されかねないというぎりぎりの徳俵を前に、ようやく反撃が始まるのだ。植村も自ら積極的に動き出したわけではない。強いられた闘いであった。

マケルナ会のメールは、日本中のリベラルな人たちの間をかけぬけた。その一通が在日コリアンのピアニスト、崔善愛(チェ・ソンエ)に届いた。彼女はそれをかねて懇意の弁護士にそっと知らせた。これは偶然だが、植村は植村で、崔が弾くショパンのCDにいやされていた。

その崔のメールに届いた弁護士は中山武敏という。中山は、狭山事件の主任弁護人を務める、人権派弁護士である。

10月上旬、植村は上京し、秋葉原の喫茶店で中山弁護士とふたりゆっくり話し合った。

中山は植村の裁判への協力を申し出た。

民主主義は多数決原理だけではない。三権分立のうち、司法の役割は重大だ。侵害された少数者の権利を守るのが司法の役割だ。ヨーロッパではじまった近代民主主義には多くの基本的原理がある。たとえば基本的人権の尊重、たとえば言論の自由、たとえばプライバシーの尊重。裁判に至るのはこの基本的原理が衝突したときだ。裁判では、そうした原理と原理を比較度量、つまりてんびんにかけて、どっちが重視されるべきか、判事がきめる。植村はそうした司法制度を利用して、自分が「捏造」記者ではないことを世間に納得してもらうことが、遠いようで近道だと考えた。

《提訴》

植村は新たな闘いに踏み出した。

今年1月9日、植村は東京地裁に名誉毀損裁判を起こした。被告は神戸の女子大の記事を掲載し、植村を「捏造」記者と攻撃した週刊文春の発行元、文藝春秋とこの週刊誌にコメントを寄せた西岡力国際基督教大学教授だ。

さらに翌月、今度は札幌地裁に二つ目の裁判を提訴した。こちらの被告は、櫻井よしこ、雑誌WiLL(その発行元である株式会社ワック)、週刊新潮(その発行元である新潮社)、週刊ダイヤモンド(その発行元のダイヤモンド社)である。

東京地裁の経過は、さきに述べたので、札幌地裁の訴状を見てみる。

被告櫻井よしこは、かつて日本テレビの夜のニュース番組『きょうの出来事』キャスターを経て、1995年『エイズ犯罪 血友病患者の悲劇』で、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。「櫻井よしこオフィシャルサイト」(以下、サイト)を運営している。

植村の主張はこうだ。「櫻井がサイトに掲載している記述は名誉を毀損しているので、当該部分の削除と謝罪広告、出版社3社連帯して1650万円の支払い」を求めた。

ここからは、ちょっと細かな点が多いので、読者にはわずらわしいかもしれないが、戦後メディア史上、最大級の事件・朝日バッシングをめぐる裁判なので、読者にはちょっとおつきあいをお願いしたい。

櫻井の記述の何が問題なのか。論点をピックアップすると、櫻井の主張は次の二点に集約される。 1) 植村の義母は日本に戦後補償を求める裁判を起こした遺族会(太平洋戦争犠牲者遺族会)の幹部を務めているが、植村は義母の運動を支援する目的で、慰安婦記事を書いた。 2) 工場などへの勤労動員である「挺身隊」と「従軍慰安婦」は全く異なるものであるにもかかわらず、両者を意図的に結びつけて日本が強制連行したと報じた。

この二点を根拠に、櫻井は「植村の慰安婦記事は『捏造』および『意図的な虚偽報道』である」と書いたが、その表現が妥当かどうかが裁判で問われることになった。 

植村の反論をかいつまんで述べる。 A)1991年8月の元従軍慰安婦が証言を始めたという記事のネタ元は、遺族会ではない。当時、朝日新聞ソウル支局長との電話で「挺身隊問題対策協議会の共同代表ユン・ジョンオク氏が慰安婦の聞き取り調査をしているという情報提供」がきっかけだった。

その裏付けとして、当時、大阪で発行された、朝鮮関係の情報誌『ミレ』(朝鮮語で未来)に、植村は記事の執筆経過をしっかり書いている。

ちなみに、植村のお連れ合いは、記事を書く前年の1990年、植村が韓国国内を従軍慰安婦の痕跡を取材した際、遺族会の事務所で知り合い、やがて恋に落ちた女性だ。韓国 では、結婚しても女性の姓は変わらない。このため子どもと母親は別の姓を名乗る。だから、植村が見初めた女性は遺族会の幹部の娘だが、最初気がつかなかったという。

ただし、植村がなぜ朝日バッシングの標的のシンボルになったのかというと、今度の裁判の被告たち、週刊文春など右派ジャーナリズムがつくったストーリーなのだ。つまり「韓国国内の『反日』運動団体の幹部の娘を嫁にした朝日新聞記者が、義母のために慰安婦問題をでっちあげた」というストーリーが、物事を深く考えるのではなく短絡的に白黒つけたがる物語大好きなネトウヨの間でどんどん流布していったであろうと想像するのは容易だ。また、アジテイーターたちは流布しやすい、そうした物語を編むのが仕事であろう。 B)櫻井たちの「慰安婦と挺身隊をわざと結びつけた」のではないかという指摘に対し、植村はこう反論する。ネタ元が「挺身隊問題対策協議会のユン・ジョンオクさん」だからであり、記事を執筆した1991年当時、韓国国内では「挺身隊」がほぼ「慰安婦」の意味で使われていた。その反映だと。

ちょっと極端な事例をあげると、STAP細胞「発見」を報道したすべての新聞、テレビはなぜそれを信じて報道したかというと、ネタ元が理化学研究所という、日本国内でオーソライズされた研究機関であり、その上、イギリスの権威ある科学雑誌『ネイチャー』が厳格な審査の結果、論文を掲載したという、科学的な大発見だから、新聞テレビは喜んで報道したのである。しかるに、ネタ元がこれを否定する前に、新聞テレビがそのSTAP細胞の真偽について裏付けをとったかといえば、もちろん多くの全国紙、通信社、テレビ局の科学部を中心に真偽を追及したが、結果的に否定する材料を記事掲載に至るまではなかった。

何を言わんとしているかというと、メディアというのは、伝えるのが仕事で、もちろん証言の裏付けを取ることは記者に必要であるのは言うまでもない。とはいえ、ネタ元の主張から全く自由ではないことも残念ながら事実だ。ネタ元からの情報を吟味し事実だけを記事に書くのはほんとうに難しい問題である。挺身隊と慰安婦を混同する記事は当時の読売新聞や毎日新聞も同じように書いている。とはいえ、目くそが鼻くそを笑うのは、品位を欠く行動でもある。  

《慰安婦問題の解決とは》

過去をどう克服するのか。理屈と感情入り交じるので解決策はなかなかにむつかしい。日本人(正確には、日系人を含む)が被害者になった二つのケースを考える。

一つ目はアメリカ。今年2月19日、アメリカのオバマ大統領が「第二次大戦中、アメリカ政府が日系人だけを強制的に収容した施設を国定モニュメントに指定する」と発表した。第二次大戦中、アメリカはドイツ系やイタリア系移民にはしなかったことを、日系人だけには適用し、日系人だけをロッキー山地やハワイに設けた強制収容所に収容した。やがて時がたち、アメリカ政府はそれを過ちと認めた。やったことは5つ。1)事実を認め、2)謝罪し、3)責任者処罰、4)賠償、5)再発防止策の実施だ。

二つ目のケースは北朝鮮。2002年小泉総理が北朝鮮を訪問した折り、金正日総書記は、1)日本人拉致の事実を認め、2)口頭ではあったが、国家を代表して謝罪した。ただし、3と4と5はしなかった。

さて、いわゆる従軍慰安婦問題はどのように解決したらいいのか。

これまで日本政府は、河野洋平官房長官時代、1)政府関与を認め、2)歴代内閣総理大臣のおわびの手紙をだし、3)はないが、4)アジア女性基金という変則的な主体ではあったが、一人200万円を支払い、5)中学生の教科書にも慰安婦の過去を掲載した。

アメリカは戦争をよく起こす国ではあるが、そのアメリカは日系人強制収容問題の過去をこうして克服してきた。日本もまだ不十分だとの批判はあるものの、河野談話で慰安婦の政府関与をはっきり認めた。しかし、そうした過去克服の努力を気にくわないのが自民党の安倍内閣だ。過去の克服策をなんとかちゃぶ台返しのようにひっくり返そうと試みる。背景に、日本を新たな戦争のできる国に再編し、国際的な発言力を増したいとの野望が見え隠れしている。

そうした歴史修正主義者の思惑と商業的なそろばん含みの右派ジャーナリズムとが野合したのが、今度の一連の朝日新聞バッシングだ。

植村はその物語性(それは右派ジャーナリズムがかってに作り上げた物語ではあるが)ゆえに朝日バッシングの標的シンボルに祭り上げられたのだ。名誉毀損裁判は予断を許されない。勝利は簡単ではない。  しかし、札幌を中心に、反撃は着実に整いつつあるように見える。

韓国のことわざに「始めれば半分」というのがある。植村が名誉毀損で右派ジャーナリズムを相手取って裁判をおこした段階で、ぼこぼこにバッシングされた植村の生きる力はすでに半分回復されたのも同然だと、韓国のことわざは教える。

言論に対するテロで思い出すのは、1987年5月3日起きた、朝日新聞阪神支局襲撃事件だ。犯人をなのる赤報隊はなにを主張したか。 「反日朝日は50年前に帰れ」という。1987年の50年前は、ちょうど大日本帝国の皇軍が中華民国の首都南京を陥落させ、日本中が勝った勝ったと提灯行列をし、一方、南京では市民への虐殺や女性たちへのレイプが行われていた、その同じ瞬間だ。朝日をはじめ日本のジャーナリズムを戦前のように戦争への旗振り役を演じ、大本営発表を垂れ流した戦争加担者に戻してはならない。

阪神支局で殺された小尻記者と植村は同期。生物学的な生命を奪ってはならないのはもちろんだが、ジャーナリストの生命は記事を書くこと。ペンを鈍らせてはならない。

記者が殺されると社会が殺される。記者を殺してはならない。

にしむら・ひでき

1951年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒、元毎日放送記者、近畿大学人権問題研究所客員教授。同志社大学社会学部非常勤講師。著書に『北朝鮮抑留~第十八富士山丸事件の真相』(岩波現代文庫)、『大阪で闘った朝鮮戦争~吹田・枚方事件の青春群像』(岩波書店)など。

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