論壇

戦後教育委員会制度と文部省の復権

戦後教育を問う(その1)

前こども教育宝仙大学学長 池田 祥子

はじめに

戦後日本の「民主主義的な」教育の代表的な制度の一つとして、いまでも「教育委員会制度」、とりわけ「公選制」のそれを重要視する教育関係者やジャーナリストは少なくない。

だが、戦後の民主主義教育システムとして制度化された「公選制の教育委員会」(1948年7月成立)とは、はたしてどのようなものであったのか。1956(昭和31)年、地方教育行政法によって任命制となり、つい最近の2014(平成26)年4月、首長の権限が強化されながらも、辛うじて執行機関としての教育委員会は残された。日本の教育行政において、簡単に改組ないし解消しえないほどのしたたかさを保持している。それは、なぜか。今後の教育委員会制度の行方を確かめるためにも、戦後初期の経緯を改めて整理しておこう。

公選制の教育委員会構想は、1946(昭和21)年3月に来日したアメリカ教育使節団の報告書によって、米国の歴史的実態をモデルにしつつ勧告されたものである。この教育使節団は、戦前日本の教育勅語体制(宗像誠也)としての、天皇制に基づく国家主義的教育の一掃を任務として来日した。したがって、提案の第一は、文部省の権限の縮小・限定である。(GHQの最大のターゲットは内務省だったが、国内では、「文部省」の解体含めて、中央教育委員会構想なども検討されたようである。しかし、文部省はいち早く、「新日本建設のための」民主主義教育推進を担う中心的な部署に衣替えしていた。文部省が解体されずに存続しえたのは、これが理由なのではないだろうか。(新藤宗幸氏は、「いまも謎のままだ」といわれるが。『教育委員会』岩波新書、2013)

第二は、都道府県の公選制による教育委員会である。第三は、同じく市町村での公選制の教育委員会である。第二、第三とも、それぞれの行政地域での選挙によって選ばれた教育委員によって構成され、かつ、それぞれの教育委員会は、教育への専門的な資格ある指導者を任命すべきであるとする。

こうして、①教育行政の民衆統制(民主化)、②一般行政からの独立(教育行政の自主性確保)、③教育行政の分権化、という「三原則」が、それぞれの理念それ自体の妥当性が改めて検討されるということもなく、「民主的な教育行政」として受け止められていく。

しかし考えてみれば、明治以来、廃藩置県によって、中央の上意下達の下部組織として位置づけられてきた日本の都道府県や市町村と、建国に至るまでの各コミュニティーを前提として整備されていくアメリカの自治的なcity やcountryとは、同じ「地方」という名前で一括するには、あまりにもその歴史的、文化的な違いは大きい。しかも、アメリカの教育委員会(Board of Education)は、独自に課税権も持つ特別な教育行政単位としての学校区(School District)を基盤としている。その意味では、同じ「教育委員会」という名称を持ちながら、どこまでも「日本的教育委員会」の創出であったことはやむを得ないことであったろう。   

一方、教育使節団にとっては、民主的な教育行政のモデルを、理想のままに提供し、とにもかくにも日本に「教育委員会」が実現すればよし、とされたのかもしれない。当時のアメリカ本国では、選挙によって選出される教育委員(layman=素人)の統制(control)と、教育専門家(professional)の指導性(leadership)との「調和」という教育委員会制度自体の根本的なあり様が、すでに大きな問題とされていたのであるが、日本に制度を移入するに際し、そのような現実にはまったく言及されることはなかった。(宗像誠也『教育行政学序説』有斐閣、1954。三上昭彦『教育委員会制度論』エイデル研究所、2013。など)

しかも、「教育長」に求められる「教育の専門性」がどのようなものなのか、最後まで判然とせず、きわめて直接的かつ民主的な住民(父母)参加のPTA組織が、真っ当に位置づけられてもいない。

1 文部省の復権、その1― 民主主義教育の推進

文部省が、「新日本建設のための新教育指針」を公表したのは、1946(昭和21)年5月15日、アメリカ教育使節団報告書の提出後まもなくであった。そこには、「新しい日本を、民主的な、平和的な、文化国家として建てなほすこと」が第一の課題として明記され、この新しい方針は、「マッカーサー司令部の政策も、この線にそって行はれてをり」とわざわざ記されている。

この時期にはすでに、GHQ=CIE(民間情報教育局)は、文部省を解体の対象としてではなく、戦後の民主主義教育推進の担い手として戦略的に位置づけていたのであろうか。それを裏づけるように、この「新教育指針」は「軍国主義と極端な国家主義」の除去を一貫して強調している。

ここでは、第一部、第二部にわたる膨大なこの「新教育指針」の第一部前篇「新日本建設の根本問題」の各章のタイトルを紹介しておこう。

第一章 序論・日本の現状と国民の反省
第二章 軍国主義及び極端な国家主義の除去
第三章 人間性、人格、個性の尊重
第四章 科学的水準及び哲学的・宗教的教養の向上
第五章 民主主義の徹底
第六章 結論・平和的文化国家建設と教育者の使命

そして、文部省はこの後、1948(昭和23)年と49(昭和24)年に、文部省著作教科書『民主主義』を上巻、下巻に分けて刊行している。これは、1953(昭和28)年まで、中3と高1の社会科教科書として使用されたものである。

1937(昭和⒓)年に『国体の本義』、1941(昭和⒗)年に『臣民の道』を公刊して、正統的国体論を先導した文部省が、敗戦後すかさず「民主主義」を率先して啓蒙するというそのしたたかさに圧倒されるが、しかし、この侮りえない統治力にGHQもまた着目したのであろうか。以下は、文部省著作教科書『民主主義』からの一部、引用である。

―― 多数決という方法は、用い方によっては、多数党の横暴という弊を招くばかりでなく、民主主義そのものの根底を破壊するような結果に陥ることがある。なぜならば、多数の力さえ獲得すればどんなことでもできるということになると、多数の勢いに乗じて一つの政治方針だけを絶対に正しいものにまでまつり上げ、いっさいの反対や批判を封じ去って、一挙に独裁政治体制を作り上げてしまうことができるからである。(復刻版、径書房、1995、p.100)
―― 多数決の結果を絶えず経験によって修正し、国民の批判と協力とを通じて政治を不断に進歩させて行くところに、民主主義のほんとうの強みがある。少数の声を絶えず聞くという努力を怠り、ただ多数決主義だけをふりまわすのは、民主主義の堕落した形であるにすぎない。(同上、pp.104‐105)

以上、文部省の「民主主義」の啓蒙は、確かに真摯ではある。しかし、「経済生活における民主主義」の章では、「八千万の日本人が働いて生活できるようになるのは、決して容易なことではない。だが、われわれは連合国の好意ある援助のもとに、困難を乗り越えることに全力をあげなければならない。」(同上、p.191)と、顔をしっかりとGHQに向けている。

その上で、「民主政治は『多数の支配』である」とも記し、「多数で決めたことが、国民全体の意志として通用するのである」(同上、p.99)と述べている。

多数決主義への慎重な警戒心を披歴しながらも、「多数で決めたこと」がすなわち「国民全体の意志」として尊重されるべきという、この後の文部省の「多数⇒全体⇒公」に基づく「上意下達」の論理がすでに顔を出していることに注意すべきであろう。

2 文部省の復権、その2― 教育勅語と教育基本法

いち早く、「民主国家・平和国家・文化国家」の担い手として表看板を塗り替えた文部省にとって、もう一つの幸運は、文人文相として東大の安倍能成に続いて、法学部教授の田中耕太郎を招いたことだろう。

もちろん、田中の前の前田多門文相、安倍能成文相とも、敗戦後においても「教育勅語」への敬慕の念は少しも変わる所はなかった。

「教育の大本は勿論教育勅語をはじめ戦争終結の際に賜うた詔書を具体化していく以外にあり得ない。」(前田多門)

「教育勅語に関しては世上多少の疑義があるやうですが、・・・私も亦教育勅語をば依然として国民の日常道徳の規範と仰ぐに変わりないものであります。」(安倍能成)(いずれも鈴木英一『教育行政』東京大学出版、1970、参照)

これら先達のスタンスを受けて、いやそれ以上に、カトリック教徒でもあった田中耕太郎は、教育勅語の精神に、自然法的倫理の正当性を認めている。

「教育勅語は我が国の醇風美俗と世界人類の道義的な確信に合致するものでありましていはば自然法とも云ふべきであります。即ち教育勅語には個人、家族、社会及び国家の諸道徳の諸規範が相当網羅的に盛られてをるのであります。それは儒教、仏教、基督教の倫理とも共通して居るのであります。」(鈴木英一、前掲書)

さらに「滅私奉公」の精神と言われる「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ」の箇所も、次のような彼の解釈を強弁している。

「『一旦緩急』云々は好戦的思想を現しているものではなく、其の犠牲奉仕の精神は何時の世にも何れの社会に於いても強調せられなければならない。其処には謙虚さこそあれ、何等軍国主義的過激国家主義的要素も存じない。」(鈴木英一、前掲書。田中耕太郎『教育と政治』好学社、1946)

田中耕太郎は、もともとは官僚組織から超然と自立・自律した「教権独立」を掲げ、西欧的な法理念(政教分離)を知悉している法学者としては、国会で定める法律の中に、教育の目的や規範を盛り込むことは、いささか収まりが悪いことは承知していたようだ。(岡村達雄『教育基本法「改正」とは何か』インパクト出版会、2004)

しかし、新しい日本国憲法に教育条項があまりにも少ないために、彼の持論であった「教育勅語」に匹敵するような「教育根本法」を打ち出し、文相田中耕太郎は、すなわち政治家として、日本の国家を支える「教育基本法」の制定に踏み出したのである。その時、文部省官僚たちの事務能力が、どれほど田中文相を支えたことだろう。こうして、田中耕太郎の「教権独立」論は、いつしか文部省を抱え込んだ上での、「他の一般行政からの分離・独立」論に変容していくことになる。

教育基本法の巻頭は、「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理念の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」となっている。大江健三郎も、この「教育の力」への着目に感動し、高く評価しているが(『世界』岩波書店、2006.7)、ここは微妙ではあるが、注意深くあってほしい。ここには、教育勅語の、「億兆心ヲ一ツニシテ世々ソノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス」という、「国家を築きあげるための教育」という日本の教育の形が、表看板の「国体」と「民主的、文化的国家」という大きな違いの底に、潜在的に継承されているからである。

こうして、戦前、戦後と大きく国家観は変わった。もちろん、これ自体は画期的なことである。だが、この政治文化的に大きく異なる国家観を、同じ文部省自ら担うことになった点は、やはり細心の注意が必要だったであろう。ともあれ、戦後当初は、教育勅語と教育基本法は同根であり、文部省にとっても違和感はなかったことになる。GHQからの叱責によって、大慌てで教育勅語の「排除に関する決議」(衆議院)、「失効確認に関する決議」(参議院)(1948年6月19日)がなされるまでの1年3カ月、教育勅語と教育基本法は、文部省、教育関係者を含め、多くの日本人が訝ることなく堂々と共存していたのである。

3 文部省の復権、その3―「教権の独立」=教育行政の一般行政からの独立

教育基本法の成立は、1947(昭和22)年3月である。この後、CIEを相手に延々とした折衝と文部省の法案づくりを経て、教育委員会法が成立するのは、翌1948(昭和23)年7月であった。

教育使節団が構想を提示した「教育委員会制度」を、少しでも日本の実態を踏まえたものにする―これが教育委員会の制度づくりと法案の作成に関わった教育刷新委員会と文部省の課題であった。したがって、細部に渡って、教刷委と文部省は熱心にGHQ=CIEとの交渉を重ね、あまりに「理想的=机上の空論」であるCIEの教育委員会構想に、少なからぬ修正をかけようと、当時の力関係の下、かなりの精力を傾けたようである。たとえば、いまだ戦後の6・3制の整備自体に必死であった各地方の実情を見ながら、教育委員会の設置の範囲と時期を変更したり、日教組の根強い反対運動にも押されて現職教員の被選挙権禁止をなくしたり(ただし、当選後は兼職を認めない)、教育委員に一定の報酬を認めたりした。(構想では、無報酬のボランティアであった。)

しかし、幸いなことに(?)、CIEの提案する教育委員会構想の基本理念である「教育行政の自立=教権(教育権)の独立」は、文部省の存在を「特別に」優遇するものであった。戦後の混乱、財政難は著しく、「公選」そのものも甚だしく費用のかかるものであったにもかかわらず、文部省がこの教育委員会法を錦の御旗に掲げたのは、この理念こそ、文部省の足元を強固に打ち固めてくれるものであったからであろう。

もちろん、一方では、一般行政を全体的に掌握しようとする内務省と、この教育行政独立論は真っ向から対立することになる。

たとえば、飯沼内務次官の発言(反対理由)が以下のように記されている。(教刷委第16回総会、1946(昭和21)年⒓月20日)

①「教育権の独立」には教育だけは特別なものという考えがうかがわれ、国民全体が考えなければならぬ教育問題を特別な人たちだけが考えればよいという感じを一般に与える。②分離行政は現代の政治の行方と逆行し、むしろ統合行政として教育行政は一般行政に組み入れるべきである。③教育に関する全ての権限をうばわれた府県知事、市町村長は管内の教育問題に非常に冷淡になり熱意を失い、かえって地方の教育に悪い結果を生む。④教育委員会制度は簡素化を要求される現代の地方行政機構をいたずらに複雑にし、事務の渋滞を生む。⑤地方議会の議員・首長は公選となり教育行政の独立なくしても民意は充分反映される。」(三上昭彦、前掲書、p.41、参照)

この内務省の見解は、正鵠を射ている。政治の民主化によって、普通選挙制度が施行され、地方の首長や地方議会の議員も選挙で選ばれるシステムに変わる以上、あえて教育行政のみ別個に打ち立てる必要性はないではないか、というのである。「公選」というシステムもまた、民主的かつ有効に運用されるためには、それこそ民意の賢さに委ねられているものであり、長い時間をかけた国民の課題でもある。(持田栄一『教育管理』国土社、1961)

しかし、教育使節団の構想を受けたCIEは揺るがなかった。しかも、田中耕太郎はもちろん、当時の宗像誠也を初めとする教育学者、教育関係者もまた、こぞって「教育権の独立」こそ、民主的な教育を守る理念であると確信していたのである。もっとも、「教育」は、政治や経済の再分肢と捉える説もないわけではなかったが(宮原誠一『教育学著作集』1、国土社、1976)、また、それが一つのリアルな認識ではあるが、当時は、「教育を政治や経済から守れ!」の悲願が何よりも優っていたのである。

1947(昭和22)年12月31日、内務省自体が廃止・解体された。その結果、この争いは文部省の一方的な不戦勝となった。GHQ=CIEの絶対的な後ろ盾の有り無しは決定的であった。

おわりに

教育委員会法の第1条は、「この法律は、教育が不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきであるという自覚のもとに、・・・教育本来の目的を達成することを目的とする」と謳っている。この文面は、教育基本法第10条第1項をそのまま受けたものである。

今回は十分に追跡することはできないが、この「不当な支配」という曖昧な表現こそ、実は、教育基本法作成過程で、文部省が作為的に挿入したもののようである。なぜなら、もともとの田中耕太郎の要綱案では、「教育は、政治的又は官僚的支配に服することなく」となっていたからである(1946年12月21日)。それが、審議の過程でこの文言は削除され、「不当な支配」に置き換えられている。(1.30案)

しかも、その後の文部省の『教育基本法の解説』では、「ある階級、組合、官僚、学校の設置者等の一部の利益のために仕えてはならない」(p.100)と説明されている。

「官僚支配」も除外されているわけではないが、むしろ、対立の激しくなっていた日教組などへの牽制が前面に出ていることが分かる。

それに加え、教育委員会の第1回の選挙が行なわれた1948年10月5日前後、対日占領政策の動向は端的に変わり、これ以降、政治的な対立はいっそう激化する。

しかし、「国民全体に対し、直接に責任を負う」主体として自らを位置づけた文部省は、たとえ教育委員会法第55条第2項で、「指導監督をしてはならない」と規定され規制されたとしても、教育委員会の運営に右往左往する都道府県や市町村の教育委員会に対して、揺るぎないリーダーシップを実質的に発揮していくことになる。また、校舎建設などに四苦八苦する地方の教育委員会にとって、文部省とのパイプがいかに重要であったか。機関委任事務が多く残り、形ばかりの戦後当初の「地方自治」以上に、地方の教育委員会は自ずから中央に直結していったといって過言ではないだろう。

その後の「地方教育行政法」(1956年)によって、この「公選制」の教育委員会は「任命制」に変えられ、文部省の権限は合法的に強められていく。しかし、いま一つ留意すべきは、元の教育委員会法第1条の、「教育が不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任をもって行われるべき・・・」が全面的に削除されたことである。

さらに時代は大きく飛ぶが、2006年12月、第一次安倍内閣の下で改定された「(新)教育基本法」では、かつての第10条(教育行政)は、第16条となり、「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」と改定された。こうして、文部科学省の施策は、つねに「法律の定め」にしたがって行われるものと強調され、そうである以上、国民全体の意志を体現し、合法であり、「正当」であるということになる。言い換えれば、「不当な支配」から「官僚支配」がきれいに拭い去られたのである。立法過程や、法律そのものの絶えざるチェック・監視という重要な側面への著しい軽視である。

もっとも、この辺りの教育委員会制度を通して確立されていく文部省(文部科学省)の教育統制の経緯や実態、そして、教育現場を硬直化させるその大きな問題性については、戦後70年間に渡るなお詳細な追跡、検証が必要であろう。

いけだ・さちこ

1943年、北九州小倉生まれ。前こども教育宝仙大学学長。本誌編集委員。主要なテーマは保育・教育制度論、家族論。著書『〈女〉〈母〉それぞれの神話』(明石書店)、共著『働く/働かない/フェミニズム』(小倉利丸・大橋由香子編、青弓社)、編著『「生理」――性差を考える』(ロゴス社)、歌集『三匹の羊』(稲妻社)など。

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