特集●戦後70年が問うもの Ⅰ

戦後レジームからの攻勢的な脱却を

東京裁判史観と日本国憲法を越えて

筑波大学教授・本誌代表編集委員 千本 秀樹

没後100年とか○○200年とか、わたしはその類の区切り目の年にあまり興味はない。しかし戦後70年、2015年は今後の日本と歴史認識のありようについて、大変な年になる。問われていることは、安倍首相の唱える「戦後レジームからの脱却」について、たんに「憲法を守れ、平和を守れ」ではなく、いかに理論的な面で攻勢的に反撃するかということである。対決テーマとして3点をあげよう。東京裁判の評価、日本国憲法の評価、日本国民の主権者意識をめぐって、そもそも戦後レジームとは何かを考えたい。

1.民主主義とファシズムの戦いか

ファシズム的様相を見せ始めた小泉政権と、かなり明確にファシズムに踏み込もうとしている安倍政権との違いは、極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判の判決を受け入れるかどうかにある。小泉首相はA級戦犯を明確に戦争犯罪人と呼んだ。しかし安倍首相は「勝者による断罪」と述べた。

東京裁判の審理は、アジア太平洋戦争について、その原因と経過を学術的に分析するための資料の集積という意味でも大きな第一歩であった。しかし裁判というものは、すべて政治ショーとしての側面を持つ。一般的な刑事事件の裁判についても、その時の政治支配者による社会秩序を乱した者はこのような処罰を受けるということを、見せしめとして人民に見せつける役割を果たす。まして勝者による一方的な断罪であった東京裁判は、政治ショーそのものであったといってよいだろう。

右派の論客や政治家は、東京裁判の判決を、あるいは裁判そのものを認めないという。その根拠は勝者による一方的な断罪であること、平和に対する罪と人道に対する罪は事後法であって、法の不遡及の原則に反することの2点に絞られる。後者についてはここでは詳述しないが、議論の余地があり、前者については、裁く側に問題はあっても、裁かれる側は裁かれるべき立場にあったとわたしは考えている。サンフランシスコ講和会議で日本は東京裁判の判決を受け入れることを表明して独立を回復したのであり、片面講和は批判すべきだとしても、歴史的事実としての政治ショーは一段落した。問題は後世において、その政治ショーをどう歴史的に位置づけるかである。

アジア太平洋戦争は、日本帝国主義のアジア侵略に端を発する、欧米帝国主義との植民地再分割戦争であった。それは一体のものではあるが、侵略した日本と侵略されたアジア諸国との関係、及び植民地を再分割しようとした日本帝国主義とこれまでの植民地権益を守ろうとした欧米帝国主義との関係は明確に異なる。日本はアジア諸国から断罪されて当然であるが、植民地支配への欲求というレベルでは、欧米帝国主義とは同質の立場にいた。後発帝国主義であるがゆえに無理をせざるをえない、またイギリスに対してもアメリカに対しても宣戦布告前に攻撃をしてしまうというおそまつさはあったにしても、である。

それを勝者の側は、民主主義とファシズムの戦いという構図に本質を歪めた。そして日本と世界の左翼勢力も、ソ連が連合国側に参加していたために、この誤った構図を受け入れた。この歪曲が、アメリカを「正義を体現する国家」と思いこませてしまい、戦後日本の政治と社会を誤らせ、世界の人民を苦しませることになる。

当初55項目あった東京裁判の訴因は、第1類、平和に対する罪(A級)、第2類、殺人、第3類.通例の戦争犯罪及び人道に対する罪(B・C級)であったが、1948年段階で第1類と第3類の10項目に整理された。またドイツでいえばユダヤ人虐殺に該当する人道に対する罪は、判決では適用されなかった。わたしが検討したいのは、B級戦争犯罪である。東京裁判の量刑に限っていえば、A級よりもB級犯罪が重視された。A級だけを訴因とされた被告のなかには死刑判決を受けた者はおらず、死刑判決を受けた7名は全員B級をも訴因とされており、そのうち松井石根はB級だけを理由とされている。松井石根はA級戦犯ではないのである。A級が重くてB級が軽いというのは誤解である。

ことほどさように連合国は、捕虜の虐待・非戦闘員の虐殺を重大問題とした。連合国側の戦争犯罪を取り上げるのはほとんど右翼の人たちであるが、たしかに連合国側は、日本・ドイツなどの枢軸国側にくらべて、はるかに膨大な数の非戦闘員を虐殺した。もっとも最初に実行したのは枢軸国側である。1937年のドイツによるスペイン・ゲルニカ爆撃、同年の南京大虐殺、後の重慶爆撃など。ドイツや日本に対する絨毯爆撃、広島・長崎への原爆は、それらへの報復であるという論理が当時通用したことは、とりあえず認めておこう。

2.マニラ市街戦、10万人の市民の死

しかし米軍がアジアで最初の無差別虐殺を行なったのは1945年2月のマニラ市街戦である。死亡した10万人のマニラ市民は、もちろん日本兵によって殺された者もふくまれるが、その戦闘のありようからみて、圧倒的多数が米軍の重火器の犠牲となったと見るのが自然である。

フィリピンにおける地上戦闘は、1944年10月、レイテ島で始まった。太平洋戦争のなかでも特に悲惨な戦いのひとつとして有名であるが、一応、軍隊同士の戦争であった。日本陸海軍の特攻攻撃もこの時に開始される。米軍は⒓月のミンドロ島上陸を経て、翌年1月、ルソン島リンガエン湾に19万人で地元住民に歓迎されながら上陸した。

山下奉文司令官率いる陸軍第14方面軍は、米軍の本土進攻を遅らせるために山中にこもる「自活自戦永久抗戦」という持久戦を決定するが、海軍がマニラ港を死守したいとマニラ防衛を主張したために、山下司令官が考えていたマニラでの戦闘を避けるためのマニラ無防備都市宣言は実現しなかった。しかし海軍には艦船もなく、海軍兵の大半は傷病兵であり、陸戦の訓練も受けていない。小銃さえ不足して手製の鉄槍で武装せざるをえないほどであった。そして結成されたマニラ海軍防衛部隊は、陸軍から借りた4000名をあわせて2万名であった。

2月3日、米軍はマニラ市内に進入、白兵戦が展開される。海軍防衛部隊は都市ゲリラ戦のような戦法で対抗した。米軍は兵の損耗を避けるため戦術を変更する。マニラ市民の犠牲を避けるためのピンポイント攻撃を放棄し、重火器による大規模な砲撃を許可したのである。ちょうど1か月に及ぶ戦闘の前半は、日本軍は拠点ビルにこもって応戦し、米軍の砲撃もそこに集中されたが、後半は、たとえばイントラムロス城内にこもった1000名に満たない日本兵を壊滅させるために、米軍は絨毯砲撃ともいえる攻撃を続けた。城内には1万人の住民、それと同数程度ともいわれる避難民がいた。イントラムロスは瓦礫と化し、残った建物は教会ひとつであった。

日本軍によるマニラ市民大虐殺説がある。市街戦開始後、日本軍の規律は乱れ、子どもたちをふくめて虐殺したことは多くの証言があるし、イントラムロスでは成人男性をまとめて虐殺したことは日本軍の資料にも残っている。しかし戦う武器さえろくにない日本軍による被害と、大規模砲撃を行なった米軍による被害はどちらが多かったのか。その比率は明らかではない。しかし米軍が、米兵の損耗を避けるために、市民の命を犠牲にする決断をしたのは、米軍資料から明らかである。日本軍が中国で行なった非戦闘員虐殺の報復としてマニラ市民は死ななければならなかったのか。

フィリピン戦地元住民100万人、マニラ市民10万人の死の責任をどう考えるべきか。マニラ市民でいえば、日本軍が山下司令官の無防備都市宣言の方針にもとづいてマニラから撤退していれば、市街戦は起きなかった。海軍防衛部隊の責任は大きい。責任はさらに1942年の日本軍によるフィリピン占領にまでさかのぼれる。しかしそれ以前のアメリカ、スペインの植民地支配は免責されるのか。

東京裁判が勝者による一方的な裁判であることによって議論の俎上に乗せられず、そしてそのことが後世に災いを残したことは何か。731部隊の問題もあろう。だが根本的なテーマは、帝国主義の責任と連合国軍の戦争責任である。わたしがここまで書いたことは、まったく目新しいことではない。しかしそれを強調する者がほとんどいないのはなぜなのか。戦後レジームとは、帝国主義と連合国と、そして昭和天皇を免責したことである。それこそが日本帝国主義の断罪と並ぶ、東京裁判史観のもうひとつの柱である。だからこそ日本帝国主義は戦後まもなく復活し、核軍備競争が行われ、アメリカはベトナムで、中東では今も非戦闘員に対する無差別爆撃を続けている。ベトナムでは今も枯葉剤による悪影響が新生児に続出していることに目をそむけてはならない。

3.有志連合への参加

東京裁判は、戦争を合法とし、戦時国際法に違反する事例を審議の対象とした。しかしそのような裁判は最後にしたい、戦争そのものを悪とする世界を創りたいという機運は、国際的にも確かにあった。「平和に対する罪」という概念、というより用語が導入されたのもその一例と言っていいだろうが、何よりも日本国憲法第9条の登場である。これは世界史的事件であった。国会、当時はまだ帝国議会であるが、そこでの審議では、日本共産党の野坂参三が自衛のための戦争は認めるべきだと主張したのに対し、吉田茂首相は、中国との戦争も自衛のためという口実で始めたのだから認めるべきではないと答えた。

しかしその後、冷戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争という状況のなかで、国際的には戦争そのものを悪とする考え方は弱まり、日本でも解釈改憲を重ね、自衛隊は世界有数の規模を持つ軍事組織となった。そして安倍政権は特定秘密保護法制定に続き、集団的自衛権の行使を容認する閣議決定を行った。戦後70年の2015年、通常国会ではそのための法制定、法改正を目論んでいる。安倍首相はとんでもない政治家ではあるが、突拍子もないあだ花ではない。国民の多数が戦争を支持しているとは思わないが、国会では9条改正派が多数であり、それは国民のなかのある傾向を確実に表現している。

注目しなければならないのは、日本の対イスラム国有志連合への参加である。2015年2月4日の衆院予算委員会で、岸田文雄外相は、2014年9月19日から有志連合に加わっていたとの認識を示した。日付については菅義偉官房長官は12月3日と食い違っているが、そもそも有志連合への参加は、いつ、どこで決めたのか。それに国会、国民の合意は必要ではないのか。アメリカ国務省が9月23日に発表した有志連合リストには日本が含まれているが、なぜ当時報道されなかったのか。国会で明らかになった現在も、なぜ議論が巻き起こらないのか。これはいつのまにか戦争が起こっていたというかつての道を想い起こさせる。

8月の、イスラム国との戦闘に参加していた湯川さん拉致について、政府はその直後に把握していた。そのうえでの有志連合への参加である。10月の後藤さん拉致についても直後に把握し、そのうえで1月にカイロでの有志連合への2億ドル拠出表明である(メンバーである以上、支援ではなく分担拠出である)。しかも人道支援とは言わなかった。安倍政権の政策はイスラム国が二人を殺害するように仕向けるものだったといわざるをえない。

三国同盟以降、イスラム原理主義の系統は、ナチス及び日本政府と密接な関係にあった。日本側の窓口は岸信介であった。戦後もそのパイプは継続し、岸・福田・安倍の清和会が引き継いだと村田信彦(元毎日新聞記者)はいう。ダッカ事件で超法規的措置をとり、6億円を支払ったのも福田内閣であった。安倍首相がどの程度パイプを持っていたのかはわからない。しかし安倍首相に親近感を持っていたはずのイスラム原理主義から見れば、有志連合への参加と資金拠出は裏切りだったはずである。もちろんそれは冷戦下で反共政策にイスラム原理主義を利用していたアメリカがそれを切り捨てたことの後追いにすぎないのだが。

明治維新以降の日本の戦争は、多くが「邦人の生命・財産の保護」の名目で開始された。「日本人がテロの対象になる」という現在の状況は、「戦争をする国家」づくりに邁進する安倍首相にとって好ましいに違いない。最大の問題は、日本国民が、日本が有志連合に参加していることに無自覚なことである。有志連合のメンバーだからこそ日本国民がイスラム国から攻撃を受ける可能性があるのに、「イスラム国のような野蛮なテロリストが出てくると、やっぱり自衛隊に頑張ってもらわないと」と勘違いすることになる。

戦争そのものを悪とする世界を創れるのか。そのためには、たとえば中国紅軍は日本に抵抗すべきではなかったのか。ガンジー的抵抗と毛沢東的抵抗をどう考えるのか。もちろん歴史的評価と今どう行動するかは別の問題だから、過去の抵抗の仕方について、一方が正しく、他方が間違っているということではない。矛盾や対立の、新しい時代の解決方法を創造したいのである。

4.憲法第1条の精神的暴力性

右派は日本国憲法がアメリカの押しつけであると強調してきた。しかし現在では、GHQが日本政府に渡した憲法案は、高野岩三郎、鈴木安蔵らの憲法研究会が1945年12月に発表した「憲法草案要綱」を強く意識していたことは、広く知られている。「憲法草案要綱」は、1881年に植木枝盛が作成した共和国憲法案「日本憲法」をはじめ、大正デモクラシーの民衆運動のなかで培われた思想を表現したものである。だからGHQ-日本政府案は国際的な新しい理論だけではなく、自由民権運動以来の民衆思想を体現したものである。

しかしわたしは手続き論にこだわりたい。憲法案の内容が日本産であるにしても、議会で議論する原案を国民自身の手で提案できなかったことは、残念極まりないことである。内容がいくら良くても、押しつけられたものは自分が作ったものではない。

ただ国会の論議の過程では注目すべきこともあった。憲法研究会案にはあった生存権が、GHQ案では消えていた。ワイマール憲法から学んで憲法研究会案に生存権を加えた森戸辰男は、日本社会党から衆議院議員に当選していたが、憲法改正案委員会に提案して第25条「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有す」が定められた。また義務教育はGHQ案では小学校だけであったが、議会審議のなかで中学校も加えられた。日本の議会によって修正された重要な部分もあるのだ。

より大事なことは、1947年からの逆コース以来、打ち続く弾圧や法改悪との闘いによって人びとは、日本国憲法の重要な部分を内実化していった。そのことによってこそ、押しつけ憲法論を意味のないものにしてこれたのである。憲法がある程度根づいたのは、さまざまな社会運動があったからだということを忘れてはならない。運動の後退は憲法の空洞化をもたらす。

日本国憲法にはさまざまな弱点がある。第11条から14条、すなわち、基本的人権、自由と権利の保持、個人の尊重、法の下の平等は、「すべて国民は」と国民にしか保障されていない。第25条から27条、生存権、教育権、労働権も同様である。これらの条項はなぜ「何人も」とされなかったのか。これらの多くは現在、解釈改憲と運用によって外国人にも適用されているが、外国人差別であることは明白である。解釈改憲が難しいのは第24条「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」である。「両性」すなわち女性と男性の存在しか認めておらず、セクシュアル・マイノリティーの人びとを苦しめる条項となっている。

最大の問題は第1条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」である。主権については次項に譲り、「総意」を問題として取りあげる。

大戦後の戦犯裁判で昭和天皇を訴追しないことを、アメリカは終戦直前には決定していた。理由は占領コストの一点に尽きる。天皇との第1回会談で、マッカーサーが天皇の人柄に感じ入ったからではないのである。しかしこれが東京裁判の進行を難しくさせた。「平和に対する罪」は被告たちの共同謀議を立証しないといけないのだが、お互いに会ったことのない者さえいた。共謀の中心には天皇がいたのだから、天皇さえ訴追しておけば、共謀の立証は簡単だったはずである。特に東京裁判は1928年以降を審理の対象とした。張作霖爆殺の年である。張作霖爆殺の実行犯を天皇が免責し、それが満州事変を誘発したことを証明すれば、15年戦争の実像は、より立体的に描けた。東京裁判の進行中に昭和天皇は『昭和天皇独白録』として後に発表される談話を記録していたのだから。

天皇の側でも「国体の存続」が最大の課題であった。いわゆる「終戦の詔書」の眼目は、「国体は護持された」、「神州は不滅である」の文言にあり、わたしは「第1次天皇制継続宣言」と呼んでいる。また1946年元旦の各紙に発表されたいわゆる「人間宣言」、正式には「新日本建設の詔書」は、天皇、GHQ、文部省の3者で作成された。天皇は現人神であることを否定することは了承したが、神の子孫であることを否定することはかたくなに拒否し、さらに詔書の冒頭に明治天皇が発した「五箇条の御誓文」を掲げて、日本は明治維新から民主国家であることを強調することを認めさせた。これが第2次天皇制継続宣言である。

昭和天皇は戦後も積極的に政治と外交に関わり、みずからの手で日米安保体制の成立や沖縄の米軍基地の半永久的使用を実現したが、歴代政権は昭和天皇の政治行動を隠蔽し、なんとか「象徴」の地位に押しとどめようとした。天皇を「象徴」としたのは、GHQの発案である。憲法研究会の内部には、高野岩三郎の「日本共和国憲法私案要綱」のように、天皇制を廃止し大統領を置く共和制案もあったのだが、「憲法草案要綱」では「天皇は国民の委任により専ら国家的儀礼を司る」となっていた。

これと現行憲法第1条を比較するとどうか。「総意」について、天皇制に反対する者のなかに、「自分は天皇が象徴であることを認めないから総意はおかしい」という主張があるが、第1条の趣旨はそうではない。「総意」は前提なのである。天皇を象徴と認めないものは非国民であると規定しているのが現行憲法第1条なのである。そこには厳しい精神的強制がある。「憲法草案要綱」の「国民の委任」にはそこまでの激しさはない。明治憲法は、天皇が神であることを認めよと強制した。現行憲法は「天皇は象徴だよ、当然でしょ」という。明治憲法は人びとに疑う機会を与えるが、現行憲法は考えさせないのである。精神の自由とは何か、天皇制を考えるということは、そういうことである

5.主権者意識の確立を妨害する象徴天皇制

誰かが自分を象徴することを許す者に主権者意識は成立するか。主権者意識について、ここでは自分の主人公は自分であることを前提に、他者とのあいだで互いに尊敬しあう関係を確立し、社会と国家のなかで一人分の権利を享受し、責任を果たすこと、としておこう。国家ということばは使いたくないのだが、国家が当分存続するものとして、過渡的な定義である。

そのような勝手な定義をするのなら、天皇を国民統合の象徴と認める者には主権者意識はないことになるのは当然だろうという声が聞こえてきそうである。

植木枝盛は1881年の「日本憲法」に、「日本国の最上権は日本全民に属す」と主権在民を宣言した。憲法研究会の「憲法草案要綱」でも「日本国の統治権は日本国民より発す」とした。主権在民であることを独立した条項で規定しているのである。しかし日本国憲法では、前文を別として、本文では「主権の存する日本国民」は天皇が象徴であることを認める主体としてしか描かれていない。日本国憲法そのものの主権在民規定が弱いのである。

それ以上に主権者意識を弱めているのは、皇国史観による歴史教育である。戦後、皇国史観は克服されただろうと誰もが思い込んでいる。この誤解を正してくれたのが長谷川亮一『「皇国史観」という問題』(白澤社、2008)である。皇国史観と天皇中心史観とは同一ではない。皇国史観とは、1940年代初頭、文部省が当時の歴史家を総動員して初めて編纂した高等教育用歴史教科書『国史概説』などに採用された歴史観である。その核心は、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、吉野朝時代、室町時代、戦国時代・・・という時代区分と、天皇が将軍を任命して政治を委任したという幕府と朝廷の関係の見方である。それまでの歴史教科書の時代区分は、「○○天皇の御代」、「××天皇の御代」というものであった。天皇権力が弱い時期もあったから、委任論を持ち込むことで、天皇国家が永続してきたことをより説得力をもって教えることができるようになった。

戦後の歴史教育も、皇国史観のふたつの核心はほとんど変わっていない。せいぜい「吉野朝時代」が「南北朝時代」に変わった程度である。

学問の世界では、ようやく変化が見えはじめている。鎌倉幕府の成立は源頼朝が将軍に任命された1192年ではなく、支配地に守護・地頭を置いた1185年説が有力となり、教科書にも反映されている。徳川権力の確立も、家康が将軍に任命されたからではなく、武士の世界で源氏の長者と認められたからであるとの説が多数派になりつつある。室町幕府はもとより天皇権力より上にあったから問題ではない。このような傾向はテレビドラマにも影響を与えていて、たとえば大河ドラマでも、脚本家が大政奉還を迫られた徳川慶喜に「大政奉還とはなにごとだ、家康公は自分の力で権力を奪ったのだ」という趣旨のセリフを吐かせている。

自分の力で権力を握ったのであれば、朱元璋が明という国を建てたのとどう違うのか。なぜ足利国、徳川国、大日本帝国、日本国という時代区分ができないのか。そこにはやはり万世一系の天皇という意識の重しがのしかかっているからである。万世一系とまではいわなくても、日本には千数百年途切れずに続いた天皇家があるから他の国とは違うという意識である。そこでは「国」は所与のものとして存在し、自分たちがつくったものという自覚はない。

本誌25号「歴史を共有する者が未来を共有する」に書いたが(本号アーカイブに収録)、イタリアの高校には「イタリア史」という授業科目はない。「イタリア史」にしてしまうと、イタリア建国以降の200年しか学べないからだ。イタリア人の意識では、現在のイタリアという国と古代ローマ帝国は明確に別の国家なのである。だからイタリアの高校生は「歴史学」として原始・古代から学ぶのである。韓国政府が現在編纂している韓国史も、本編は1948年からである。

国家は永続するものではない。だからこそ自分たちが、自分たちの近い祖先がつくった国、自分たちが構成している国という主権者意識が生まれる。主権者意識は愛国心にも通じる。日本の場合、所与としての天皇制国家だからこそ主権者意識が弱く、そのために愛国心が育ちにくいという、右派の人びとにとっては深刻な矛盾が生じる。それを解決するために、「美しい国、日本」という虚構のストーリーを強制せざるをえない。

念のため申し添えておくが、風土や自然と国家はまったく別ものであって、風土や自然が美しいからといって国家が美しいとはかぎらない。またどの地域であっても風土や自然とそこで育った個人は切り離せないものであって、その関係を愛国心に動員することは許されない。

現代日本人の政治的無関心や、一方で扇動に乗りやすい傾向は、主権者意識の薄弱さによるところが大きいだろう。その処方箋は、大日本帝国と日本国を切断し、日本国を自分たちが責任を持たなければならない国家だという意識を持つことである。大日本帝国と日本国をつないでいるのは、天皇制と殖産興業主義である。殖産興業主義は福島原発事故によって再検討の機会を得ることができた。天皇制もまた現在、大きな動揺の時期を迎えている。明治維新以降の最大の転換期にあたって、新しい時代を創りだす現代人の意志が問われている。

6.「許す、しかし忘れない」

大日本帝国を切り離すということは、大日本帝国を対象化することである。また大日本帝国の負の側面について、責任を取りきるということでもある。さらに大日本帝国が近隣諸国と持った関係とは異なる関係を追求し、ボーダレスな世界をつくることでもある。

中国・朝鮮との関係については多くの人が論じているので、ふたたびフィリピンについて触れよう。1945年9月3日、フィリピンの日本軍は投降し、フィリピン戦は終了した。米軍によるBC級戦犯裁判が始まり、約200人が被告とされた。1946年7月4日、フィリピンは独立し、フィリピン政府と軍が151名の被告を引きついだ。1948年4月、ロハス大統領が急死し、副大統領であったエルピディオ・キリノが大統領に就任した。彼は妻と幼い3人の子どもを自宅の近くで日本兵に殺されていた。しかも赤ん坊は銃剣で刺し殺された。

彼はかつては日本の文物に関心を持つ親日派であったが、「もし戦争が終わったばかりの頃日本人を見かけたなら、私はその人を生きたまま飲み込んでいたでしょう」と述べている。キリノは8月に1人、11月に2人の死刑執行命令書にサインした。敬虔なクリスチャンであったキリノは悩み、その後しばらく死刑執行はなく、戦犯たちはモンテンルパ刑務所に移され、処遇も良くなった。ところが1951年1月、14人が処刑される。そのなかには無実の者もいたという。それまではフィリピンが日本に多額の賠償を請求することを支持していたアメリカが、朝鮮戦争をきっかけに日本よりになったことに対するキリノの意思表示だともいわれる。ヒット曲「ああモンテンルパの夜は更けて」はこの刑務所の死刑囚たちが作詞作曲したものである。

14人の処刑は日本に衝撃を与え、戦犯家族や歌手の渡辺はま子らの減刑嘆願運動は盛り上がった。その声に触れるなかでキリノの心は動く。曲折を経て、キリノは議会の同意を必要としない特赦を決定した。終身・有期刑戦犯の全員釈放、死刑囚は終身刑に減刑の上、日本の刑務所で服役することというものである。キリノはアメリカの病院のベッドの上から、ラジオで日本とフィリピンの国民向けに声明を発表した。「私は日本人戦犯に対し特赦を与えた。妻と3人の子ども、さらに5人の親族を殺された者として、自分の子孫や国民たちに、我々の友となりわが国に長く恩恵をもたらすであろう日本人に対し、憎悪の念を残さないために。結局のところ、日本とフィリピンは隣国となる運命なのだ」と。

108人の戦犯たちは1953年7月、全員横浜に帰国、死刑囚56人は巣鴨プリズンへ移された。フィリピン世論の反発は大きかった。キリノは大統領選挙で息子のような腹心であったマグサイサイに惨敗、大統領任期切れ2日前の1953年12月28日、政権内の反対を押し切って巣鴨の元死刑囚全員に恩赦を発令、30日、釈放となった。

なぜ許すのかと問うた娘の質問にキリノは「もしゆるすことができなければ穏やかな人生が訪れることはないんだ。我々はゆるすことを学ばなければならない」とだけ答えたという。また「1945年マニラ戦を追憶する会」のファン・ホセ・ロチャ代表は13人の家族を殺された。「生き残った者は“痛みの記憶”に苦しんだのではなく“記憶の痛み”に苦しんだのです」、「許す、しかし忘れない」という印象的なことばを語っている。(NHK、BS1スペシャル「憎しみとゆるし~マニラ市街戦その後」2014年8月29日放送を参照した)

キリノは膨大な復興予算を必要とし、また日米比3国関係、フィリピンの国民感情、人の命を奪えるのは神だけだという信仰のあいだで苦しんだ。しかし多くの遺族は「許す」と言えるまでに数十年を要した。マニラでは今でも毎年2月、追悼集会が開かれ、高齢の遺族たちも、若者たちも参加している。憎しみの連鎖を断つために許した遺族たちは、今も「記憶の痛み」に苦しんでいる。

一方日本ではどうか。釈放された元戦犯たちと家族は口をそろえて感謝を口にする。しかし今の日本人は、はたしてどれだけの人がマニラ市街戦を、「許す、しかし忘れない」という人びとのことを知っているだろうか。教室のなかの学生が誰一人としてマニラ市街戦を知らないという事実をマニラの人びとが知ったらどう思うだろうか。許したが忘れないマニラ市民と、祖父世代が憎まれ、許されたことを知らない日本人が良き隣人となれるのだろうか。

おわりに

わたしは第三次『現代の理論』終刊号(2012年4月)に「責任を語りつぐということ」を書いた。忘れないためにも、繰り返さないためにも、事実だけではなく責任を語り継ぐことが必要だと。

戦後レジームとは何か。とりあえずある程度の指導者は処罰されたけれども、最高責任者である昭和天皇は訴追を逃れ、民衆は被害者意識に浸かっていたこと。その結果、事実と責任の語り継ぎが希薄になっていること。連合国の戦争犯罪が問われることなく、戦後もアメリカなどが無差別爆撃を続けていること。戦前の国体が、戦後に曖昧に連続しているために、日本国民の主権者意識が希薄なままであること。本稿では論じなかったが、中国に軍事的にも敗北したということに無自覚なことも加えるべきだろう。

東京裁判の不合理さと不充分さは徹底的に批判されなければならない。戦後レジームの枠組みとなる構成要素をあげれば、東京裁判、日本国憲法、象徴天皇制、日米安保体制であろう。その点で安倍首相とわたしは一致するかもしれない。問題はどちらの方向から、どちらに向けて脱却するかである。守勢に追い込まれている厳しい局面ではあるが、だからこそ撃って出て、明治維新以来の変革期を新しい世界の創造につなげていきたい。

ちもと・ひでき

1949年生まれ。京都大学大学院文学研究科現代史学専攻修了。筑波大学人文社会科学系教授。日本国公立大学高専教職員組合中央執行委員長。本誌代表編集委員。著書に『天皇制の侵略責任と戦後責任』(青木書店)、『伝統・文化のタネあかし』(共著・アドバンテージ・サーバー)など。

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