連載●池明観日記─第33回(最終回)
韓国の現代史とは何か―終末に向けての政治ノート
池 明観 (チ・ミョンクヮン)
》前号より続く《

私はこの頃1776年のアメリカの独立と1789年のフランス革命を比較しながら多くのことを考えている。フランス革命はアメリカの独立から学びながら、その13年後に起こった。トインビーがアメリカの革命は地球を何回もめぐったといったこともあげた。フランス革命はそれ自体として何回も反革命を経験したし、ヨーロッパにおいて数多くの荒波にもまれなければならなかった。フランス政治の民主的安定というのは第二次世界大戦以降に至るまでフランスの課題ではなかったか。それはほんとうにヨーロッパの混乱の中で多くの革命と反革命をへて行かねばならない遠い道のりであった。それは世界的な多数の国民、各種の人種が民主主義のなかでともに生きて行くという世界史の道ではなかっただろうか。これはこれからやってくる世界史の先駆であり実験ではなかったのだろうか。
アメリカの革命はそれが樹立した民主主義を裏切らなかった。進歩と保守はあったにしてもそれは民主体制の中においてであった。韓国の場合はいったん民主主義の道を行くと宣言していたが、1961年以後27年近い反動の時代が続いたではないか。その後に受け継いだ民主主義。朴槿恵もその父の専制政治に戻ることはできない。これからは韓国の政治史も民主主義の道を歩んで行くのだ。彼女の執権が終れば、いかなる政党が執権しようと民主主義をいっそう強く守り抜かざるをえないのではないか。すでに政権の力は弱くなっている。それに比例して国民の力は大きくなったとしても、それは分散し、弱化したといおうか。知識人と市民連帯の抵抗勢力とはすでに過ぎ去った政治力であるといおうか。これからどのような民主主義が実際において可能であるか注目してみなければなるまい。
アメリカに来て2年2か月が過ぎてしまった。アメリカにおいて韓国人たちがいかに孤独をかみしめているかもわかってきた。国内の状況を見渡してはそれでもアメリカの生活は幸せなものだと自らを慰めているようである。国内においても子どもの教育のためにはアメリカを見上げている。私は1世紀以上昔、韓国の移民が初めてアメリカに来た時のことを思う。彼らはハワイの砂糖きび栽培のためにアメリカに来たのであったが、そのようにしてやって来た移民がアメリカにおいて反日勢力として政治化されるのを恐れて、朝鮮が植民地化されると日本当局は直ちに移民を禁止したのであった。
またアメリカにおける安昌浩(アン・チャンホ)の役割を考えざるをえない。今日においてもそのような指導力がなければならないのではなかろうかと思われる。島山(ドタン・安昌浩の雅号)はキリスト教の信仰を持っていても教会に所属しようとしなかったといわれる。それには自分が教会にアイデンティファイすれば同胞全体に対する指導者としての役割がしにくくなるというところもあったようである。教会自体が閉鎖的であるというところにも問題があったかもしれない。今日においても教会はアメリカに住んでいる韓国人のために社交的慰安の場所となっているが、それ以上の指導力を発揮するまでには至っていないようである。アメリカ内の同胞だけではなく国内に対しても影響力を発揮できるようになるためにはどうすれば良いのか。このことはアメリカ社会から脱落してゆく同胞のためにも考える必要があると思える。
なぜ韓国人は近代史以降において外国に移ることを考えたのであろうか。貧しかったせいであるが、彼らは外に出ても強い祖国志向性を持っていた。かつては日本統治下の貧しい祖国であった。かつては身分志向的であったし、現在は出世志向的であるといえようか。貧しいことから、いっそう自由を求め、祖国における限界を耐え難い抑圧と感じたのであろう。
いつか韓国のある舞踊家が日本の舞踊はその身振りにおいて中心に向けて集中しようとするのに韓国の舞踊は外に向けて発散しようとするのだといっていたことばが思い出される。韓国人の外向性と日本人の内向性とでもいおうか。韓国人は遠く離れた土地で祖国のことを思って涙ぐまねばならなかったとすれば、日本は島の国に閉ざされたまま遥か遠き外の国に憧れの目を送っていたというのであろうか。壬辰倭乱(じんしんわらん、文禄・慶長の役)において日本人の外との出会いがいかに凄惨なものであったかを思わざるをえなかった。そして満州に行っていた朝鮮の農民または独立軍の祖国に向かった憧れの目付きを回想せざるをえない。
『「韓国からの通信」の時代』(影書房、2017年)
あるいは今日分断された祖国の南北において、いまもこのようなまなざしを送っているといわねばならないのかもしれない。このような根源的な民族のまなざしを忘却した政治勢力とは、実に彼らの政治的野望によって民族を裏切っているのだといわねばなるまい。このような素朴な民族の心にもどらなくては民族の統一を論ずる資格などあるはずがない。私は私自身をこのような根源的な民族の心において南北の統一を考える素朴な民族主義者だと考えている。それはほとんど無政府的で民族主義的な民主主義とでもいおうか。もともと韓国の 伝統においては政治とは悪しき人間どもの民衆を裏切った恣意による統治であると見られたのではなかったか。植民地下にあった祖国を南北に分断して69年ではないか。「悪しき為政者たちよ」と嘆息をつかざるをえない。東西ドイツの場合において見てきたように、統一とはあの対立して銃剣をつきつけている勢力を無視してコンクリートの壁を崩してすたすたと分断線を超えて行くことではないか。政治が崩れてこそ統一がくるのではないか。この民族、民衆の根源的な熱望を抑圧しようと騒ぎ立てる政治の論理にこれ以上耐えられない。統一よ、それは人間の残忍な詭計がくずれる時に、訪れるものではなかろうか。人間が統一を造り出すのではなく、人間の反統一的政治にもかかわらず、歴史の力によってそれがわれわれに迫ってくるというべきではなかろうか。長いこと耐えてきた「民心」が今はだんだんと限界点に達してきているように思われる。
イギリスの石器時代のビデオを見ながら考えた。3000年前の先史時代において人間は太陽崇拝を行った。人間は徹頭徹尾、地に属する存在であると考えた。それで死ねば地に帰って行くものだと思った。この地には人間の禍福を支配する人間の力を超えた数多くの神があると考えた。これは多分先史時代におけるほとんど人類共通の宗教的信仰であったであろう。
キリスト教はこのような考え方を否定した。太陽神のような自然神を否定して人格神を前提とした。そして地上にあるもろもろの神も否定した。一神論を唱え地上との関係においては受肉説を唱えて唯一神が地上に降りてくるものとした。そしてその地上に降りた神は時空を超えた世界に帰って行くのであった。人類の最後について復活説をとり人間が神の世界において神とともに生きるということを想定した。そしてその神が創造した世界には終末があると考え、すべての被造物はいずれ終末を迎えるのであり、その日には人間と神がこの世ならぬ超越的な世界において共存するのだとした。何よりもそのような世界観においてのみ人類の善悪というモラルが設定され、それが力を発揮しうると考えたのであった。
そこでそれはその出発から自然神論と対立せざるをえなかった。そのような発想の根拠としては、宗教は神が自らを啓示したところから来たと主張してそれを啓示宗教であると称した。人間が考えた宗教は神が啓示した宗教の前に頭を下げねばならない。これが自然宗教と啓示宗教の数千年にわたる対立の根拠であるといえよう。人類の生活がほとんど採集経済または農耕経済に限定されている時には、そのような宗教間の対立は死活の戦いにならざるをえなかった。今日のような複雑多端な日常生活においてはそれを忘却するか度外視することができるかもしれない。しかし長い宇宙の歴史においてその理由も知らないで短い期間この人生を生きて行かねばならない人間としては、一度足を止めて人生を振り返り、それを問題にせざるをえなかったであろう。老後の虚無感のなかで私もいまそういう考えにひそかにとらわれているといおうか。
ここに住んでいる韓国人たちがソウルに行って、ほとんど口をそろえて「ごたごたして、そこでは暮らせない」というようである。ソウルに行ってきては、ここにおける孤独な生活を彼らは肯定するわけだ。私の目にはこちらにおける彼らの生活というものは孤立している、白人とも黒人とも交わることのない寂しい生活であり、職場においては労働力を提供しては報酬をもらう取引があるのみである。この生活を耐えられるようにしてくれる人間の結び付きがなくてはならないのであるが、かつては島山の愛国運動があったといえよう。今ここには韓国人教会があるが、それが十分その役割を果たしてはいないといえそうである。心の底に深くあいているこの空洞。そのために刑務所には養子縁組で来た韓国人孤児が居り、学校では韓国系学生の銃撃事件も起こっているのではないか。
それにもかかわらず国内にはアメリカに対する憧れがある。終戦後貧しい時には在日同胞も祖国にいる人びととの羨望の対象であった。しかし少しずつ生活に余裕ができてくると彼らに対してかえって同情またはさげずみの目を向けたのであるが、在米同胞に対する目付きもそのように変わって行くのであろうか。まだアメリカには職業の機会が開かれており、留学して帰国すれば有利であると思っているのではなかろうか。国内においても英語を必要としているといえるのであるが、これもだんだん変わってくるのではなかろうか。韓国とアメリカの関係がそれからどう変わって行くのだろうか。今のところはアメリカがまだ機会の地となっているのだが。アメリカに住んでいる韓国人の孤独、それが少なくとも韓国教会の宣教的課題にならねばならないであろう。こちらで孤立している理念のない教会をながめながら私はこのような思いにふけるのである。(2014年7月17日)
≫ヨーロッパ共同体が歩んできた道を眺めながら≪
私は1972年に日本に行った頃から、ヨーロッパが共同体の方に向かうのをながめながら、われわれも北東アジア共同体またはアジア共同体への道を求めなければならないと主張してきた。それが先進国を誇る日本を説得することができる論理ではなかろうかと考えた。日本に対して国家主義的な立場で非難しあうのではいけないのではなかろうか。その頃はまだ反共的な連合を口にする時代であった。少なくとも朝鮮半島において対立している南北のどちらか一方に加担してながめる視点ではいけないと思った。朴正煕があおる対北敵対路線に抵抗しながら。
『韓国近現代史ー1905年から現代』(明石書店、2010年)
その当時朝鮮半島を両分してたがいに対決しあっている様相は、かつての封建時代の君主が対立しあいながら相手に死を迫っていた歴史の現代版ではなかろうかと考えた。われわれはすでにそのような状況の中で南北が数多くの同胞を殺害しあった
残忍な民族史という重荷を背負っていた。1990年代に入っては東西ドイツの統合をながめながら、われわれはいかにすれば無血統一の日を迎えることができるだろうかとひとりごちた。
私は常に歴史とは何かと問うてきた。日本統治下でそして終戦後の南北対立の歴史において私は死をもいとわずという姿勢で生きて来ざるをえなかったといえるだろう。今に歴史はそうなるであろうと数多くの判断ミスをしたことを反省しながら実に恥多き人生であったと思わざるをえない。1960年代にアメリカに来てコロンビア大学のマーガレット・ミードの講義を聞いた時、私はベトナム戦争に敗北したアメリカの現実を指摘しながら、アメリカにもローマの末路のような歴史がやって来たのではないかといった。
ついに古い主権意識などかなぐり捨てて、私はこれからは国々がどのように自己主張をくり広げるかを考えるのではなく、どうすればおたがいが協調しながら共同の利益を求めるか、その道をさがし求めなければならないと考え始めた。そこに目に見えざる神の御手が働いていると考えるようになった。この時代はまさに民族的主権を脱しようとする時代ではないかと。実際朝鮮の歴史では民族または民族主義について、かつての日本統治を経験したせいか、美しい郷愁のようなものまで込めて感じていたのかもしれない。しかし今は少なくとも北東アジア諸国の間における共同体を語りあうべき時代になってきたではないか。地政地理的にそうだといわねばなるまい。そのために1919年の3・1運動においても先達たちはあれほど切実に「東洋平和」について語ったのではないか。
歴史とは何か。歴史に対するわれわれの考えと実際の歴史の間にある乖離。われわれの歴史に対する考えというものは、われわれの恣意的な希望の所産、我執の歴史観ではなかったか。かつて日本人の側は彼らの大衆文化に対する韓国の開放をいかに執拗に要求してきたことか。そして韓国人の側はいわゆる日本文化の侵略を掲げていかにそれに抵抗したことか。しかし歴史的現実はどのようになって現れたか。今日は韓国文化のアジア進出と日本文化のアジアからの後退の時期とでもいおうか。(2014年9月18日)
私ははしたない考えといわれることを思いながらも、このもの足りない断片の最後に、この地の南北の政治権力を含めて、中国とか日本の権力層に向けて個人書簡形式でアピールとでもいおうか、そういったものに書いて見たいと思った。しかしそれが笑止千万ともの笑いになると考えるようになっただけではなく、今はそのような文章を書くことのできる気力もほとんど尽きてしまったというか、まったく意欲をなくしている。
今日のヨーロッパ統合に至る道は1950年代にヨーロッパ経済共同体から40年以上の歳月を要したではないか。わが北東アジア三国が統合の道を行くとしても、それ以上の歳月が必要であろう。まだ出発もできずに対立しあっており、この国の北にはまだそのような理念とはほど遠い状況にある。いまだに飢えの中に人びとが放置されているという現状ではないか。それでもこの地域にそのような平和と繁栄が訪れてくるという夢を私は抱き続けている。私はかつて「唐の平和」ということばまで使おうとしたではないか。歴史とは現在から過去をたずね、現在にもどりまた未来を展望するもの。たとえ政治が自己利益を掲げてそのような歴史に抵抗するといっても、われわれはそのような夢を持ち続けるであろう。
『韓国文化史 新版』(明石書店、2011年)
その平和の日に、過ぎ去ったつらい日々を回顧しながら、おたがい微笑の中で話しあいができればと思う。国家という名において他を敵にして憎しみあった時代よ、早く去っていくようにと両手を合わせて祈る。われわれがかつてのあのような時代に生きて行かざるをえなかった人びとであったことをいつか将来一度ぐらいは静かに瞑想していただければという思いである。(2014年10月1日)
人間は実に長く険しい道を歩んで来た。個人から家族に、そして部族から国家へと、そして人類に成長して来た。個人と個人の間、家族と家族の間、部族と部族の間、国家と国家の間は紛争と戦争をものともしないような対立と競争の場ではなかったか。このような人類の歴史から見れば、ヨーロッパはどこまで来ており、北東アジアはどこまで来ており、殊にわが国の南北関係はどこまで来ているのか。これから北東アジアまた朝鮮半島の前にはどのような険しい道が残されているのかおぼろげながら描き出せるのではなかろうかと思われる。先達たちが語ったように人類の集団的成長は個人の成長の道を反覆するのであろうか。
この道が目ざすのは平和絶対優位ということではなかろうかと思われる。これからはおたがい武器をもって戦ってはならない。それで敵をも愛せよといわれた。争うことは過ぎ去った時代に戻って行くことである。このように歴史を展望するならば国家間においてたがいに敵対した時代であった近代はそれこそ今は超克されるべき歴史としてわれわれの目の前におかれているといえるのではなかろうか。だから近代の超克というのではないか。超克した近代を合理主義、物質主義と決めつけてそしてかえって反動的な国民抑圧の体制を夢見た話のことではない。戦争へと国民をおしつけていたあの残忍な時代。近代は一個人の生命は集団の名において犠牲にされるものと、とてつもない発想が称えられ横行した身ぶるいせざるをえない時代であった。それでそれに抵抗しながら一人の生命は天下よりも尊いと言ったのであるが、そのようなことばは国家主義の騒音に埋ずもれて聞こえてこなかった。
今やそのような時代を否定する声が芽ばえてきた。そのような明かりが差してくるのを、まだ夜の暗さが濃いとはいいながら、遠い朝明けが広がるようにあけてくるのをながめながら希望をもってこの世を去ることができるのに感謝したい。平和絶対優位、銃剣を収めよ。このような考え、あのような考えとわれわれはおたがいに異なった考えを抱いていても、ただ平和を求めることにおいては心を一つにしているのではないか。平和と和解のためにたがいに考えることは違っていても、なごやかに語りあいながら80までの人生を生きるという平凡な知恵を確認しあおうではないか。これをもとにしてこそ真の民主主義への道が開かれるのではなかろうかと思われる。ヨーロッパは長い戦争の時代の果てにすでにこの道にたどりつき、われわれもまたこの道を行くことに心を一つにしようとしているのではないか。
朝鮮半島はこの平和の時代の先がけとなることはできないものか。時代的にも、地政学的にもこのような知恵、このような謙虚な姿勢が求められているような気がしてならない。私は1919年の3・1独立宣言にこのような姿勢と、その時代における民族の苦悩がにじみ出ているような気がしてならない。
今日は開天節(ケチョンジョル)の日(建国記念日)、夜が明けてくる。(2014年10月3日)
池明観さん逝去
本誌に連載中の「池明観日記―終末に向けての政治ノート」の筆者、池明観さんが2022年1月1日、韓国京畿道南楊州市の病院で死去された。97歳。
池明観(チ・ミョンクワン)
1924年平安北道定州(現北朝鮮)生まれ。ソウル大学で宗教哲学を専攻。朴正煕政権下で言論面から独裁に抵抗した月刊誌『思想界』編集主幹をつとめた。1972年来日。74年から東京女子大客員教授、その後同大現代文化学部教授をつとめるかたわら、『韓国からの通信』を執筆。93年に韓国に帰国し、翰林大学日本学研究所所長をつとめる。98年から金大中政権の下で韓日文化交流の礎を築く。主要著作『TK生の時代と「いま」―東アジアの平和と共存への道』(一葉社)、『韓国と韓国人―哲学者の歴史文化ノート』(アドニス書房)、『池明観自伝―境界線を超える旅』(岩波書店)、『韓国現代史―1905年から現代まで』『韓国文化史』(いずれも明石書店)、『「韓国からの通信」の時代―「危機の15年」を日韓のジャーナリズムはいかに戦ったか』(影書房)。2022年1月1日、死去。
