論壇

中世日本は高校でどう教えられているのか

高校「日本史」教科書を読む

元河合塾講師 川本 和彦

1 はじめに

令和書籍という社名からして犯罪的な出版社の、『国史教科書』という書名からして反動的な本がある。私は本誌40号で、この本の書評(というより悪口雑言罵詈讒謗)を書かせていただいた。『国史教科書』には、「情け深い天皇が一貫して民を慈しんでいた」という記述が、それこそ一貫している。

もちろん少数ではあっても、人格的に慈悲深い天皇や貴族、大名はいただろう。だが、支配・搾取する側であることに変わりはない。マルクスが『資本論』で、搾取―被搾取の構造と資本家の人格とが無関係であると述べたのは正しい。人格や情の問題ではないのである。

だが、反動に抵抗する側も別の意味で過ちをしてきたのではないだろうか。「元始、女性は太陽であった」という言葉は左翼・リベラル陣営の一部によって、女性の地位は近代化によって貶められたのであり前近代では女性の地位が高かったという主張に置き換えられてきた。泣く子と同様に無茶振りを発揮する地頭によって百姓は一方的に虐げられてきたとか、反対に百姓は常に果敢に階級闘争を展開していたかのような主張もなされてきた。アイヌと和人との関係についても、そのような「理解(一部誤解)」がある程度広まっていたように思う。「良心的な」小説や映画に登場するアイヌあるいは琉球人は、平和を愛し自然を慈しむ人格者として描かれてきたことが多かった。

「こうあってほしい」と「現実はこうだった」とは、必ずしも一致しない。というより、一致することのほうが稀であっただろう。歴史教育の第一歩は何よりも、史実の正確な理解を促すことであるはずだ。前述の『国史教科書』は別にして、多くの歴史教科書はその点かなり良心的である。ただ教え方によっては、ある一面のみが強調される危険があると感じる。また基本的には正しいと評価できるものの、物足りなさを感じる箇所もある。

本稿では、中世日本史に関する教科書の記述を取り上げる。素材として、山川出版社の高校教科書を用いることとする。

2 女性の地位

❶北条政子は演説していない

1221(承久3)年、後鳥羽上皇が北条義時追討の兵を挙げた。いわゆる承久の乱である。この時、東国武士の動揺を鎮めたのが北条政子の演説とされる。

NHK大河ドラマではこれまで、大塚道子・栗原小巻・岩下志麻・財前直見・杏・小池栄子が演じてきた。迫力では岩下志麻が圧巻で、さすが「極道の妻」と思わせた(頼朝が極道というわけではないが)。気品では、やはり栗原小巻さんですねえ。

教科書にも、以下の記述がある。

〈上皇側の期待に反して、東国武士の大多数は源頼朝の妻であった北条政子の呼びかけに応じて結集し、戦いに臨んだ。〉

ところが『吾妻鏡』承久三年五月一九条には「二品(筆者注:北条政子のこと)が家人らを簾下に招き、秋田城介安達景盛に大声で語らせた」とある。「北条政子の呼びかけ」という教科書の記述が誤りだとはいえないが、北条政子が東国武士を前に自ら演説をしたわけではない。北条政子はスピーチライターであったのだ。

❷北条政子の本名は不明

前述のように『吾妻鏡』には「二品」とあるのみで、「北条政子」とは書かれていない。ちなみに「二品」とは、大宝律令と同時期に制定された位階身分制における「親王四階」の第2位である。

実は北条政子の本名は不明なのだ。朝廷から従三位に列せられる際、記録するための名前を求められた鎌倉幕府が、「北条時政の子」を短縮して「政子」と届けたものが、文書に残っているだけである。もちろん本名はあっただろうが、知っているのは家族や乳母、親しい友人や家来くらいであった。

これは彼女に限らず、室町時代あたりまで女性の本名は公式に記録されていない。ご存知、紫式部や清少納言にしても本名は不明である。「式部」「少納言」は官職名であり、たとえば式部は式部省勤務の公務員であったことを示す。冠位・官職と無関係に記述するときは「道綱母(みちつなのはは)」「孝標女(たかすえのむすめ)」など、男性との関係を記すのが一般的である。これ、男女平等とは程遠いと思いませんか❓

私は選択的夫婦別姓のための民法改正に、100%賛成である。悪の枢軸と呼ばれる自民党・保守党・参政党の議員や支持者は、「日本の伝統は夫婦同姓だ」と大声で大嘘を語っている。だがそれに対抗して、「夫婦別姓こそ日本の伝統だ。源頼朝の妻は源政子でなく北条政子ではないか」とは言わないほうが賢明だ。揚げ足を取られる恐れがある。ま、自称右翼は不勉強だから、北条政子という通称の由来など知らないだろう(自国の正しい歴史を知らない奴らこそ、非国民であり国賊であり亡国の徒である)が、教科書がそうであってはいけない。「北条政子の呼びかけ」などと、さらりと書かれては困るのだ。

❸女性の権利は制約されていた

教科書から引用する。蒙古襲来直後の時期に関する記述である。

〈女性の地位も低下の傾向をみせ始めた。女性に与えられる財産が少なくなり、また本人一代限りでその死後は総領に返す約束つきの相続(一期分)が多くなった。〉

「地位も低下」ということは、それまでは地位が高かったことになる。そのことに異論はないが、問題はどの程度高かったかということである。

中世前期における女性の権利を象徴するものとして、夫婦別財が挙げられてきた。百姓でも、多くの夫婦は別々に財産を所有している。離婚しても妻の財産は夫に取り上げられることはなく、妻が持ったままである。このことから夫婦がセットで一つの家を形成していたのではないという見解が広く支持されてきた。この見解だと、家は独立した男女の対等なパートナーシップに基づいて形成されていたことになる。

だが中世の家においては、金銭や土地といった財産よりも、家業や社会的地位の継承が重要であった。貴族・武士・百姓を問わず、家業や社会的地位は、父から息子へ継承されるのが原則である。女性の財産権はある程度保障されていたにせよ、家制度においては既に男性優位になっている。

男性優位は「御成敗式目」でも明らかである。第21条によれば、夫から財産分与を受けた妻が離別された場合、不妊や不倫など妻に原因があると認められれば、妻は分与された財産を夫に返す義務がある。夫が若い女性に惹かれて妻を捨てたというケースでは、妻は財産を返す必要はない。女性にかなり配慮しているようにもみえる。

とはいえ、言い換えれば夫は財産放棄さえすれば何ら落ち度がない妻を一方的に離縁することが可能であった。そして、女性の側から自由に離縁することは難しかったとみられる。当時の記録で夫が妻を「捨てる」「逐う」という記述はあるがその反対、妻が夫を「捨てる」「逐う」という記述がないからだ。中世における女性の権利は、近世・近代よりは保障されていたかもしれないが、それは「女性は太陽であった」というには程遠く、相対化して捉える必要がある。

3 百姓の実態

❶一揆とは何か

一揆と聞けば高校生のみならず、多くの人は武装蜂起、しかも百姓の蜂起を連想するだろう。それは一揆の一面に過ぎないことを、教科書はわかりやすく教えてくれている。引用しよう。

〈中世の人びとは、協力して一つの目的を実現しようとする際に、神仏に誓約して一致団結した状態(一味同心)をつくり出した。このようにして結ばれた集団を一揆といい、この時代には国人一揆のほか土一揆など種々の一揆が結ばれた。〉

土一揆の「土」は土民、すなわち農民や馬借などの庶民を指すが、国人一揆の「国人」は領主となった武士である。一揆は百姓だけのものではない。そして教科書が説明しているように、一揆とはある種のNPOであった。このNPOは何をしていたのか。引き続き引用する。

〈強い連帯意識で結ばれた惣村の農民は、不法を働く代官・荘官の免職や水害・干害の際の年貢の減免を求めて一揆を結び、荘園領主のもとに大挙しておしかけたり(強訴)、全員が耕作を放棄して領地や山林に逃げ込んだり(逃散)する実力行使をしばしばおこなった。〉

武装蜂起というよりは、デモや座り込み、ストライキに近い。殺すか殺されるかという蜂起とは、かなり印象が異なる。教科書を読んだ高校生は、多くの百姓を平和志向の草食動物だったと考えるかもしれない。

けれども、百姓はおとなしいだけの存在ではなかった。特に中世も後期になると、百姓は雑兵として無理やり動員されるというより、進んで戦場での略奪行為に参加している。南北朝時代においては、領主の制止を振り切って、百姓が参戦している例が多数ある。戦場は大切な稼ぎ場であったのだ。もちろん略奪されるのも百姓であり、食糧を奪われて餓死するケースがみられる。百姓は加害者でもあり、被害者でもあった。そのどちらかの一面だけを見るのは妥当ではない。

❷百姓とは誰か

これまた高校生のみならず多くの国民は、「百姓=農民」と理解していることだろう。そして、これまた一面的理解なのである。教科書の記述は微妙に異を唱えているが、十分ではない。

〈社会の大半を占める被支配身分は、農業を中心に林業・漁業など小規模な経営(小経営)に従事する百姓、(以下略)〉

網野善彦らが指摘したように、もともと百姓とは「たくさんの姓を持った一般民衆」くらいの意味であり、農民という意味はない。古代の和訓は百姓を「おおみたから」と読んでいるが、ここにも農民という意味は含まれていないのである。百姓のうち農民が1割以下で、残りは職人や商人、船乗りなどという村は珍しくない。

百姓が負担する年貢にしても米だけではなく、絹や布、塩、鉄、紙、油などが年貢になっている。鉄を掘り出す人は、農民というより鉱夫というべきであろう。教科書が林業や漁業に触れている点は評価できるが、「農業を中心」と断言できるかは疑問である。近世になると、農村に住むのが百姓で都市に住むのが町人といった区分が定着してくるが、これは次号に譲りたい。

4 アイヌと和人

元寇と聞いて北部九州における蒙古軍と鎌倉武士団との戦闘を連想するのは、福岡県出身の私だけではないだろう。その偏った見方を修正してくれるのが、教科書にある以下の記述である。

〈アイヌの人びとのうちサハリンに住んでいた人びとは、モンゴルと交戦しており、モンゴルの影響は広く日本列島におよんでいった。〉

戦場は対馬・壱岐・博多湾だけではなかったのである。ここでアイヌに触れている教科書を評価したうえで、苦言も呈したい。アイヌの「人びと」という記述は、丁寧なようで差別の裏返しではないか。執筆者の善意を疑うものではないが、その善意にこそ問題がある。差別を否定するということがお互いを対等に扱うということであれば、アイヌだけ「人びと」を付けるのは不自然である。教科書に「百姓の人びと」「女性の方々」などという表記はないのだから。

教科書はアイヌ・コシャマインの蜂起にも触れている。

〈和人の進出はしだいにアイヌを圧迫し、たえかねたアイヌは1457(長禄元)年、大首長コシャマインを中心に蜂起し、一時は和人住居地のほとんどを攻め落としたが、まもなく上之国の領主蠣崎(武田)氏によって制圧された。〉

「コシャマインの乱」と書いていないのは、大いによろしい。アイヌの蜂起を「乱」などと形容するのは、中央権力の視点である。

ただ、「和人=加害者」「アイヌ=被害者」という構造であったことは事実であるものの、両者は常に対立していたわけではない。蠣崎(武田)氏の領地を発掘・調査した結果、墓地にあるのは大半が和人の墓であるが、アイヌの墓も発見されている。和人の墓にあった人骨の骨コラーゲンに含まれる炭素・窒素同位体比分析をしたところ、鮭を多く食べるアイヌ的な食生活であったことがわかった。人間関係までは証明できないが、時期・場所によっては、対立だけでなく共存・共生していたといえる。

・・・てなことを書くと、まじめな左翼の「人びと」は、アイヌに対する加害の歴史をごまかすものだと怒り出すかもしれない。でも私は思うのだ。仲良くできるものなら、そうしたほうがいいではないか。もちろん、アイヌや琉球に対する侵略の事実は教科書に載せるべきである(事実、載っている)。そのうえで、友好の歴史もあったことを伝えることが悪いとは思えない。これは日本と朝鮮半島の歴史についても同様である。

5 おわりに

私は本誌42号で先史時代を、43号で古代を取り上げた。今号で中世を扱ったということは、次号のテーマが近世となる。教科書の目次に従えば当然そうなるのだが、目次そのものを相対化する必要があるとも考えている(あくまで相対化であって否定ではない)。

中世といっても、前期と後期では大きく異なる。政治・経済体制だけでなく人々の暮らしや価値観(たとえば呪術に対する考え)の変化は、ほとんど別の国ではないかと思うくらいだ。中世前期と中世後期よりも、古代と中世前期のほうが近い社会であることは、多くの研究者が指摘している。

仏教について、教科書には「奈良仏教」「平安仏教」「鎌倉仏教」という小見出しがついている。だが、奈良仏教や平安仏教が、鎌倉時代以降に存在しないわけではない。蒙古襲来に際しては、鎌倉仏教よりも「鎮護国家」を掲げる奈良仏教のほうが、少なくとも祈祷の面では優勢であった。また鎌倉仏教の中でも栄西の臨済宗や日蓮の法華宗は、鎮護国家の色彩が濃厚である。

「この時代だからこうだ」という一見わかりやすい説明からは、こぼれるものが多い。「こうだ」ならまだしも「こうだったはずだ」という思い込みは危険であろう。教科書の使用に際して、注意したい視点である。

かわもと・かずひこ

1964年、福岡県に生まれる。新聞記者、予備校講師を経てフリー校正者。著書に『これならわかる 公共、政治・経済』(語学春秋社)など。

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