コラム/若者と希望

生きることそのものが励ましになるとき

若者と希望をつなぐ“底ひ奈く深き愛”

歴史知研究会 川島 祐一

「真実は実在を愛する人にとっては、自己の死は何でもない。大きな交響曲の一音が私の一生であろう。発すべき時に発すべき音を発したとき、そして消えたとき、それで一切はよい。秋雨よ、静かに降り続け。」

この一節は、松本市の浅間温泉の茶臼山中腹に建てられた石碑の詩である。木村素衞(きむら・もともり)の心の底に澄んでいた静かな覚悟、そしてどこまでも透明な生の姿勢を伝えている。生と死を、自己中心の重さでなく、宇宙の調和の中にある一音として受けとめるその眼差しは、ひたすらに清らかであり、同時に確固たる思想の深みを秘めていた。

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1895年、石川の地に生まれた素衞は、幼少期より自然の中で、そして書物を通じて世界と向き合った。少年期に身近な人々との交流を通じて感じた、人間の限界と可能性の交差点は、のちの思想の核となる。第三高等学校に進学したが、病により中途で去る。その「痛み」は、素衞にとって「生の限界」を直視することになり、後の教育思想に深く影響を与えた。やがて京都帝国大学文学部哲学科に入り、西田幾多郎のもとで思索を深める。西田哲学の「自覚と場所」の思想や「絶対無」に関する議論は、素衞に「生の瞬間の尊さ」を考える眼差しを与えた。

広島文理科大学の講師・助教授を経て、1932年、京都帝国大学教育学教授法講座に招かれる。美を愛し、美に向かう心を強く抱いていた素衞は、この任を引き受けるべきか深く煩悶した。単なる学術的地位の獲得ではなく、己の生をどのように響かせるか。その問いは彼にとって一生の課題であり、悩み抜いた末、そこに「己れの音」を見いだしたのであろう。まるで楽譜の中で自らの音色を探すかのように、素衞は教授職に身を置きながらも、日々の教育と思想を自己表現として響かせようとした。

大正の末から敗戦直後にかけて、素衞は信州において哲学と教育の講演を100回を超えて行った。信州の教師たちは、彼のことばを待ちわび、その一言一句に心を傾けた。教室での子どもたちの小さな応答のように、教師たちの目は真剣に、かつ温かく光っていた。1945年――荒廃のなかで学生部長として復員学生を迎えながら、素衞は8度も信州へ赴き、35回もの講演を行った。その講演は単なる理論の解説ではなく、教師たちの日々の営みと生の感触に根ざしていた。翌年1月末、体調の衰えを押して再び信州の地を訪れたが、上田での「文化の哲学と教育の哲学」という講演後に倒れ、そのまま2月12日、静かに生を閉じた。

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京都の家に遺体が戻ると、机上には岩波書店から届いたばかりの『国家における文化と教育』の初版が、包装を解かれぬまま置かれていたという。まるで、主の帰りを待ちながら、沈黙のうちに息をひそめていたかのように。その光景は、素衞自身の生の姿勢――静かに、しかし確実に世界に向かう意志――を象徴していた。

人は絶望の淵に立たされたとき、まるで暗闇に沈む海の中で、ひとすじの光を探すかのような瞬間を迎える。胸を圧しつける孤独や自らの限界の重みに耐えながら、目の前に何もないように見える世界に対し、なお手を差し伸べることが求められる。そのとき、人は初めて、自分の存在の薄さや儚さを知る。しかし、その虚空の中で息づくもう一つの世界が、静かに顔を出す。絶望の向こう側に、他者との小さなつながりや、日常の微かな喜び、心の奥底に眠る愛が、光となって現れるのである。それは決して眩い光ではない。むしろ、沈黙の中でひそやかに燃える小さな炎のようであり、その存在こそが、人を生きることへと再び誘う力となる。

幸福とは、豪奢な祝祭のように轟く歓喜だけではない。むしろ、それは雨の降る静かな午後に差し込む一筋の光、あるいは子どもが初めて小さな言葉を紡ぐ瞬間のように、ささやかでありながら確かな生命の輝きとして感じられるものだ。幸福は、何かを手に入れることで得られる外的な満足ではなく、世界と自分との間に生まれる微妙な調和の中で、ひそやかに、しかし確かに心の奥に宿る。生と死、喜びと悲しみ、希望と絶望の境界線のうえで揺れながら、それでも人は歩みを止めず、世界に向き合う。その歩みの一歩一歩が、幸福という名の静かな旋律となり、絶望という深い闇を照らす光となる。

素衞が見つめたのは、限界に満ちた人間の存在そのものの美しさである。絶望の底に沈みながらも、他者に手を差し伸べ、世界に問いかけ、静かに生を貫くその姿こそ、最も純粋な幸福の形である。幸福とは、軽やかに訪れるものではなく、絶望と共にあるものとして深く味わうものであり、そこにこそ生命の尊さと、教育者としての希望の根拠が宿るのである。

素衞の思想は、教師の仕事の意味を、他の誰でもない「その教師自身の魂」の地点から照らし返すものである。教育とは、単なる教える技術や制度に還元できるものではない。むしろ芸術に似た創造の営みであり、教師自身の感性と判断が重なり合う一瞬の行為の連続である。だからこそ彼の思想は臨床的であり、実践の土の匂いを帯びている。信州の教師たちが彼を慕ったのは、京都帝国大学教授という肩書きではなく、彼のことばが日々の教育の営みに根を張り、教師たちの魂に直接触れたからである。

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教師は日々、子どもに働きかけ、判断し、応答をうながす。ときに「よし」と思える手ごたえを感じることもあれば、後になってその判断が浅かったと悟り、胸の底が冷えるような後悔に襲われることもある。教育の現場における一瞬一瞬は、二度と取り返すことのできない一点の光であり、ただ一つの行為が子どもの生の方向を決定づけることもある。その重さの前で、教師はしばしば自らの限界と過誤を直視せざるを得ない。

素衞は、その極限にこそ「開かれるもの」があると説く。人は絶望の底に追い込まれたとき、自己を根底から否定する瞬間を迎える。その否定の彼方に、もう一つの世界が不意に息づき始める。もう一つの愛が、静かに姿を現すのである。素衞が見つめていたのは、限界に満ちた人間が、その限界のただ中で、なお他者と向き合おうとする姿の美しさであろう。

授業で教師が発問し、子どもが応える。その一つ一つの応答は、それぞれの子どもの小さな「表現」であり、教師には願いがある。応答は願いに近いものも、遠いものもある。しかし教師は、どの子の表現も受け止め、願いに近づくよう再び働きかける。「表現」とは、人間の生きる営みの根本にあるもので、この営みは単純な技術ではない。それは、光のさす方向を慎重に見定める航海のようなものだ。

子どもが「できる」ようになり、ほめられてさらに努力する――それは大切な過程である。しかし、それだけでは子どもは限界に向き合うとき、かえって力を失ってしまう。「できる」ことに根拠づけられた肯定は、条件さえ崩れればたちまちしぼむ。他人との比較に引き寄せられ、子どもを苦しめることすらある。しかし、生きていることそれ自体が喜びであり、この世界に受け入れられていると感じられる「無条件の自己肯定」は、子どもの魂の奥底に灯る小さな火であり、その火があればこそ、人は「もっとよく生きよう」と歩み続けることができる。

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素衞は、その火を守り育てようとする教師の姿を深く信じていた。1938年7月、松本女子師範学校附属小学校で講演した際、素衞は色紙に「底ひ奈く深き愛あり ますらおよ いのちの限り 努めざらめやも」と記した。底知れぬ愛がある。いのちの限り、人は努めずにいられようか――その思いは、素衞自身の生の姿そのものであった。

1946年、帰らぬ旅路の途中、素衞の遺体を乗せた列車が駅に停まるたび、多くの教師が集まり、彼の死を悼んだという。その情景は、素衞が生涯をかけて紡いだ言葉と行為の重みを象徴している。信州の地ではその後も、素衞の著作は読み継がれ、「信州教育」の基調を成す思想として静かに息づき続けている。そこにあるのは、単に風土や人柄だけではない。素衞思想にそなわる、根源的で、そしてどこまでも人間に寄り添う「臨床性」――それこそが、彼の言葉を今日に至るまで生かし続けているのである。

 

〈ブックガイド〉

木村素衞『表現愛と教育愛』信濃教育会出版部、1965年

 信州で木村素衞の教えを受けた教師たちが中心となり、「表現愛」「一打の鑿」「意志と行為」「教育愛」「科学と表現」を一冊にまとめて追憶した書である。素衞の仕事の意味と、その思想の今日的価値をあらためて見つめ直すための好著。

木村素衞『花と死と運命』木村素衞先生日記抄刊行会、1992年

 学者として、教育者として、そして家庭人としての全人格を傾けて長野県各地で講演した木村素衞。信州を愛し、信州の教育者を大切にした素衞の日記抄。読み合わせ会にも最適の、感動に満ちた一冊。

張さつき『父・木村素衞からの贈りもの』未来社、1985年

 教育哲学者として活躍し、信濃教育会に大きな影響を与えた木村素衞。信州各地での講演旅行の途上、惜しまれつつ急逝した氏の、学問への情熱と深い人間愛に満ちた人生を、子が父を思うまなざしでつづった感動の記録。

かわしま・ゆういち

1982年生まれ。2021年に小さな学びの教室「学びのこっころ」を開室。『季刊・現代の理論』では、[若者と希望]「安心して絶望できる社会」デジタル第2号(2014.夏)「どんなに小さな言葉でも」デジタル第23号(2020.夏)「共苦≠同苦―『苦難の共同体』の成立のために」デジタル第26号(2021.春)[論壇]「他者の声への応答―『なぜ生命倫理なのか―生と死をめぐる現代社会の見取り図』を読む」デジタル第39号(2024.夏)等、執筆。

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