家族政策-多様な家族への平等保障を
元こども教育宝仙大学教授
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創刊号・目次

題字は
勝井三雄+中野豪雄

特集●次の時代 次の思考

家族政策-多様な家族への平等保障を

親子やパートナーは当事者同士の承認から

元こども教育宝仙大学教授 池田 祥子


はじめに

1 家族や親子に関わる司法判決

2 非嫡出子=婚外子という存在

3 親子関係やパートナー選択の自由


はじめに

人が生まれ、育ち、そして日々を暮らす場と人々、さらには、多くの人にとっては、新たな人と出会い子を産み、育て、老いて死んでいく場、看取ってくれる人々・・・そのような人の生の日常的な場と関係性は、人というものにとって、ある意味では存在を支える基本の共同の場であり、小宇宙ともいえる。それほどに人を包み込む当たり前の存在基盤ゆえなのか、日本語では長い間、言葉化しないできてしまったようだ。あえて該当するものを探せば、それは「イエ」だろうか。

「家族」という言葉は、江戸末期から明治の初めにかけて大急ぎで作られた和製熟語の一つであるという。英語の family が元になり、「家族」という日本語は今も、韓国でも「カジョク(家族)」であり、中国語としても使われている。

ただ、この「家族」とは、それを構成する人の生と死を包み込んでいるため、時の移ろいとともに形は変わり、構成する人々の富や階層によってもその様相は大きく異なるものである。

しかし、近代国家の誕生とともに、この家族は、人口政策としても、また国民意識の形成やモラルの統一のために、基底的な社会装置として重要視されていく。周知のように、明治民法によって、元々は武士階層のものであった家父長制の「家」制度が庶民にまで徹底され、また、戦後の民法では、一夫一婦の結婚とその下での子どもの出産・育児という、いわゆる「核家族」がモデル化された。

移ろいやすく多様であるはずの家族が、時代による違いはあれ、いずれにしても国家によって一つのモデルとして定型化されたのである。そして、日本の場合は、このモデル化された家族は、そのモラルの徹底のために学校教育では重視されながら、一方、人の生き死にを支える社会経済基盤であることには、十分な国家的関心は払われなかった。むしろ、家族の自助努力・自己責任に任され、その財政上の安上がりの旨味が利用された。

こうして、もともと多様であらざるをえない家族が、国家的にモデル化されることによって、そこからはみ出す家族は無視され、異端視され、ありのままの家族がひとしく認められることを阻害してきたのである。また、人の生存と暮らしを保障する家族が、その多様な形態のままに、社会的に保障されることなく放置されてもきたといえる。

近代社会の政治が、優先的に配慮するべき社会福祉領域において、日本は、欧米諸国と比べても、あまりにも家族政策を蔑ろにしてきたことに注視すべきであろう。

それでも、以下に見るように、この日本でも、家族をめぐる法制度が次々と問い直されてきている。これらの動きを貴重なきっかけにして、改めて「家族とは何か」「家族政策とは何をなすべきなのか」について、根底的に考えていかなければならないと思う。

1 家族や親子に関わる司法判決

昨年は、とくに後半にかけて、家族や親子のあり方に大きく関わる司法の判決が相次いだ。主なものは以下の通りである。

1 2013年9月4日 最高裁判所の憲法14条違反判決

民法900条ただし書き「非嫡出子の相続分は、嫡出子の2分の1とする」は、憲法14条1項の「法の下の平等」に違反する。

2 2013年9月27日 最高栽第一小法廷・上告審判決

戸籍法49条の出生届の「婚外子」記載規定について、「規定は差別的扱いを定めたものではなく、憲法には違反しない。」ただし、「記載の義務づけが、事務処理上不可欠とはいえない。」

3 2013年11月25日 大阪地裁 憲法14条違反判決 

地方公務員災害補償法の、遺族補償年金は、妻は年齢を問わず受給できるのに対して、夫は55歳以上しか受給されない。これは主として男性(付随して女性)に関わる性差別であり、憲法14条に違反する。

4 2013年12月10日 最高裁第三小法廷 性同一性障害の女性から男性に性別変更した父と、第三者から提供された精子で妻が出産した長男との父子関係を認定。

民法772条「妻が婚姻中に妊娠した子は夫の子と推定する」を厳格に適用した。


以上4つのケースとも、憲法14条の「法の下の平等」規定に照らして、婚内子と婚外子、夫と妻(男と女)の間の放置されてきた不平等を正したもの、ということができる。いま一つには、戦後の経済成長によっても支えられ大衆化された「男と女による結婚」「夫=稼ぐ人、妻=専業主婦」という性別役割分業家族が、決して多数によって支持されるものではなく、また現実的にも成り立ちがたくなってきていること、さらに離婚、再婚、晩婚、非婚なども含めて多様な家族の実態が顕著になっていることを無視できないという現代社会の現実が反映されているのかもしれない。

これらの判決の後、自民党内ではかなりの反発もありながら、結局は2013年12月5日、民法改正は可決成立した。しかし、戸籍法49条の出生届記載義務は、「違憲ではない」という判決が拠り所になったのか、削除の改正は否決された。しかし、「嫡出子」「嫡出でない子」の欄への記入がなくても出生届は受理されるという法務省通知通り、運用面での柔軟化は行われている。

さらに、1980年代に梃入れされた専業主婦のいる家庭への優遇策である、妻の収入が103万円以下の配偶者控除や130万円以下の厚生年金や社会保険料免除の税制が、改めて検討の対象に据えられたという(2014.3.8)。その他、長い間放置されたままであった生殖補助医療に関する法の整備が、いよいよ自民党のプロジェクトチームで、女性への卵子提供や代理出産を検討し始めたとも伝えられている(2014.3.7)。

しかし、社会福祉を安上がりで担う日本型家族への根強い憧憬もある中、以上のような動きが、どのような家族政策を導き出そうとしているのか、それは未だ不明である。

だからこそ、わたしたちは「家族」や「親子」に関わる固定観念を可能な限り解きほぐしながら、リアルな家族を試行していきたいと思う。

2 非嫡出子=婚外子という存在

とりあえず「非嫡出子=婚外子」というややこしい子どもの法律上の名称を横において、憲法14条1項の「法の下における平等」ということに限定すれば、すべての子どもはどのような家族や環境の下に生まれようと、平等であることは疑いえない。近代の人権概念を前提にする以上、今回の最高裁の違憲判決は当然である。

しかし、その上で、現実の子どもはたった一人で抽象的に生まれてくるわけではない。日本社会が法定している家族との関わりを免れることはできないからである。

もともと「嫡出子」という言葉は、父系制家族における家督(全財産)相続に絡むものであり、父とその血縁の相続人の認知を意味する。明治民法では、家督相続の順位が①嫡出男子 ②庶出男子 ③嫡出女子 ④庶出女子 ⑤私生子男子 ⑥私生子女子 とされていた。庶子、私生子は、ともに婚姻外の子どもであるが、父親に認知されているのが庶子、認知されていないのが私生子(児)である。それが、戦後民法では、家制度の廃止とともに家督相続も廃止され遺産相続に一本化された。その際に、戦中にすでに庶子、私生子とも「嫡出に非ざる子」と一括されていたものが(1942.2.12)そのまま継承されたのである。民法には、依然として「嫡出子」「嫡出に非ざる子」という言葉が使われたままであるが、「嫡出」という言葉があまりに家制度を引きずり時代錯誤的なためか、裁判闘争では「婚内子」「婚外子」が使われるようになっている。

八木秀次氏(高崎経済大学教授)が「みんながみんな、戦前の民法と戦後の民法の違いも知らない」と怒りながら、戦後民法900条ただし書制定の歴史的な経緯を記しているが、確かにその部分に関しては、共通理解をしておくべきであろう。

つまり、戦後の新しい男女平等、一夫一婦の結婚制度の下で、家制度下では野放図に放置され、むしろ男の甲斐性として褒賞されていた男たちの妾や婚姻外の子どもの存在に対して、家制度と男たちの放縦に悩まされてきた正妻の代表としての「婦人議員」たちは、婚外子への遺産相続はゼロ、つまり相続権はなし、と要求していたという。しかし、家制度の後始末として婚外子を無視するわけにもいかず、あくまでも妥協の産物として「二分の一」(戦前の遺産相続が参考にされて)と規定されたのだという。(「婚外子『不当相続』から家族を守る民法改正の秘策―最高裁判決に怒りの倍返しだ!」(『正論』2013.11 産経新聞社)

このような歴史的な経緯をみると、1995年最高栽の「合憲」判決や、その後の度々の「合憲」判決にもそれ相当の根拠があったことは分かる(2000年、2003年、2004年、2009年)。しかし、現在では、婚外子は必ずしも夫の不倫の結果としての「隠し子」ばかりではない。その意味では、問題は、一つは、なぜ「婚外子」なのか、であり、いま一つは、なぜ、差別の再生産である家族の遺産相続が認められているのか、である。

「婚外子」を考えることは、つまりは結婚制度を考えることである。たとえば、1972年の民法改革、親子関係法改正から始まるフランスの場合は、2013年4月同性婚法を制定し、現在では、異性、同性同士を含めた、正規の結婚、パックス(民事連帯契約)、事実婚(ユニオン・リーブル)の三つの形態が可能であり、手続き的に簡便なパックスが増えている。しかも、家族政策の対象としては一律であり差が見られない。こうして、フランスでは正規の結婚以外のカップルから生まれた子どもは「婚外子」にカウントされ、2008年で52.6%という。その他の西欧諸国もスウェーデン54.7%、イギリス43.7%、アメリカ40.6%、ドイツ32.1%、割合の少ないイタリアでも17.7%となっている。日本は1995年婚外子数1万人強、1.1%だったものが、若干増えても、2008年で2.1%である。同じ「婚外子」という言葉でも、その社会的なあり様と受け止め方は甚だしく違っている。(因みに、英国でも2013年7月、同性間の結婚を認める法律が成立している。スコットランドでは、2014年2月成立、今秋から施行されるという。アメリカ同様、宗教も絡み激しい反対もある中で、それでも世界は少しずつ着実に変わっている。)

男と女の一夫一婦婚、しかも家制度を微妙に引き継ぐ戸籍制度を維持する日本社会では「できちゃった婚」や婚内子が当たり前。婚内子が絶対多数である風習は堅固である。こうして、日本では、「婚外子」差別が深く潜行し再生産されるのである。しかも相続税の引き下げ(優遇策)が行われることはあっても、遺産相続の廃止など問題にもなっていない。憲法14条「法の下での平等」規定が宙に浮いたままであっていいはずはないのだが。

3 親子関係やパートナー選択の自由

1(家族や親子に関わる司法判決)で挙げた4番目のケースを取り上げてみよう。これは、確かに社会的には非常にマイナーなケースである。同じ人が、次男との親子関係の確認を求めた大阪家裁では、この請求は棄却されている(2013.9.13)。

だが、2004年の「性同一性障害特例法」の4条1項では、当事者の性別変更が戸籍上でも認められるようになっている。2013年3月現在で、家裁で性別の変更が認められた人は約3,900人という。今回の最高裁の親子(父子)関係の認定は、たまたま日本社会が明確な立法をしないまま、「闇」で黙認してきた「夫ではない第三者の精子による非配偶者間人工授精(AID)」という事実との論理整合性が保てなくなったからであろう。

1949年以来、秘密裡に行われてきたこのAIDで生まれてきた子どもは、現在では約1万5千人にも上るという。「闇」であるから、精子提供者も明らかではなく(自覚もなく)、生まれてくる子ども自身にもその事実は隠されているのがほとんどである。

なぜこのような事態が黙認されたかといえば、それは現行民法772条「妻が婚姻中に妊娠した子は夫の子と推定する」の規定があるためである。当事者同士の同意・承認や認知によってではなく、なんと法律によって自動的に「夫の子と推定」されてしまう。

考えてみれば、この民法772条自体が家制度の残滓のような奇妙な規定ではあるが、性同一性障害特例法によって性別変更が認められ、「男と女」としての結婚が認められている以上、論理的には通常のAIDのケース同様、夫の子と推定されなければ辻褄が合わない。ところが、通常の場合は、夫の精子不能はカワイソウという「同情・憐憫」が介在するのか、社会は寛容であり続けながら、今回は、大谷裁判長ふくめ2名(5人中)が「妻が夫によって妊娠する機会がない」と反対意見を述べている。さらに、水野紀子氏(東北大)は「(父が)戸籍に元女性と明記されているために、子どもは確実に生物学上の父は別人だとわかってしまう。そういう苦悩を子どもに与えるべきではない」とまで述べている(2013.12.12 朝日新聞)。「生まれてきたことの苦悩」?・・・それは一人ひとり千差万別である。一体、これまでの1万5千人の子どもたちに「事実」を隠してきたこと、「事実」に向き合う機会を奪ってきたことの社会的な責任はどのように考えられているのだろうか。

以上のことからも明らかであるが、日本では、未だに親子関係とは、婚姻内の夫婦の性交の有り無し、あるいは「父親の認知」によるものである。血縁やDNAが重要でないとは言えないとしても、それだけではない。親子関係とは、むしろ当事者同士、認め合えることが基本ではないのだろうか。(映画「そして、父になる」も一つの例だ。)

パートナーの選択も然り。同性同士のカップルが公認されれば、「性同一性障害」と社会によって強制的に命名される人たちも、いっそう正直にありのままの姿でカップルを組んでいけるのではないか。

多様なカップルや、自由な親子関係を保障するためにこそ、家族政策は、水平的(所得制限なし)かつ垂直的な(所得制限あり)家族給付を二つともに具体化すべきであろう。少し前に、所得制限なしの「こども手当」か、所得制限ありの「児童手当」か、という二者択一の不毛な議論が展開され、結局民主党政権の無様な後退となってしまったが、いま少し、本質的な議論が交わされるチャンスだったのかもしれない。フランスでは、家族政策の核ともいえる家族給付は、所得制限のない(水平的連帯)手当が4分の3を占めているという。「腹の座った適切なお金の使い方」ができるかどうか・・・やはり政治が問われている。

(参考文献:石田久仁子、井上たか子、神尾真知子、中嶋公子編著『フランスのワーク・ライフ・バランス』パド・ウィメンズ・オフィス、2013)


いけだ・さちこ

1943年、北九州小倉生まれ。元こども教育宝仙大学学長。本誌編集委員。主要なテーマは保育・教育制度論、家族論。著書『〈女〉〈母〉それぞれの神話』(明石書店)、共著『働く/働かない/フェミニズム』(小倉利丸・大橋由香子編、青弓社)、編著『「生理」――性差を考える』(ロゴス社)、歌集『三匹の羊』(稲妻社)など。