巻頭対談
逆走・劣化する日本を憂うる
桜美林大学教授 早野透
前本誌編集委員長 橘川俊忠page
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特集●次の時代 次の思考

巻頭対談 逆走・劣化する日本を憂うる

蔓延する反知性主義、歴史修正主義は孤立化への途

桜美林大学教授/元朝日新聞コラムニスト 早野 透
神奈川大学名誉教授/前本誌編集委員長 橘川 俊忠


露わになってきた安倍政治の国家主義的本質

靖国参拝の安倍戦略と日本の孤立化

安倍はアメリカの足元をみているのか

特定秘密保護法は稀代の悪法―「国家の内実」が問われる

断片化する思考―「国家の体面」は感情を動員する危険な力がある

選挙は万能か、今また問われる民主主義とは

自分の都合のいい論理で歴史や政治を解釈する反知性主義

歴史的大転換期―ネット時代のどこに希望をみるか


編集部 最近の安倍政治をみているとまるで逆走日本です。その歴史修正主義観(戦後レジームからの脱却)は東アジアのみならず欧米からの批判をうけ孤立しつつあり、内を見れば危険な大衆民主主義(ポピュリズム)、反知性主義が跋扈し国家主義・強権政治への志向が露骨になっています。早野さんは名物コラム「新ポリティカにっぽん」(朝日新聞デジタル3月4日付け)で、「国家の体面」ばかりでなく「国家の内実」に力を尽くせ、と指摘されていましたがそのあたりから。(本文敬称略)

露わになってきた安倍政治の国家主義的本質

早野 僕などは日々の動きに振り回され大局的にみるのは不得意ですが、安倍政権ができて1年4か月。スタートはアベノミクス、主に金融出動で株価が上がり円安に、何となく経済的気分がよくなってきて参院選に勝利。そうしたら安倍晋三が本来持っている国家主義志向が露わになって、秘密保護法を12月上旬に突破、年末までに処理したのが沖縄の辺野古移転問題です。直後政権1年を期して靖国参拝。これは中韓のみならずアメリカやヨーロッパが反発するところとなった。しかしあるパーティーで会ったら、"ふてぶてしく行くんだ"と語っていた。そして今度は憲法解釈変更で集団的自衛権でしょう。そこにはみんな安倍国家観が根っこにある。

失敗した最初の政権時は、「美しい国」と語り、今回は気恥ずかしいのか「新しい国」と称している。そうしたなかで経済も一部の大企業にはいいかもしれないが、底辺の若者たちの就活の苦労などに付き合ってみると、昨今の安倍政治とは国家の外側のことをやや観念的に気にするばかりで国民の暮らしという内実にどこまで心を寄せているのか大いに疑問に思った。私たちジャーナリズムも安倍の国家の政治に気を取られて、いつのまにかこの格差社会時代の底で蠢く人間のことを忘れているのではと反省をこめて、もう一度考え直す時期だとの趣旨で書きました。ただ国家の「体面」と表現していいのかどうか。

橘川 そこは確かになかなか微妙な問題ではありますが。

早野 あえて体面と言ってみた。それは国家の論理としても必ずしも的確でないところに安倍はある種の虚飾も交えて拘っているのではないか。靖国参拝はその最たるもので集団的自衛権もそれに次ぐものでしょう。

橘川 安倍政権発足前の衆院選時もかなり国家主義的言辞が多かった。それが政権を回復し内閣を組織したら経済で行くんだと、一旦は国家主義的な体面を張るような主張が後景に退いた時期があった。その頃、書いたことがあるが国家主義的なものを額面通りやっていった場合、中国や韓国に体面を張って対立関係を深めていくことは、アメリカにとって好ましくないからブレーキがかかる可能性があった。

1405_hayano_photo早野透さん

早野 そのとおりになったね。

橘川 戦後レジームの見直しは日本国内だけで済む話でなく、極端に言えばポツダム宣言からひっくり返そうとの話に繋がるわけで欧米が絶対に認められることではない。厳しい対応が予測された。

早野 全くそのとおり。

橘川 当初、靖国参拝など右翼的陣営から見れば日和っているなとみえた時期があった。これなど明らかにアメリカからのストップがかかっていたわけだ。昨年7月の参院選で勝ち、アベノミクスもまあうまくいった。ただそのくらいで、一挙に靖国に行ってかまわんとなった。その変わり目は何だったのか。

確かに多少引っ込んだ時期はあり、リアルな政治判断としては正しかった。経済の方に重点をおいて、復興の問題もあり、また女性の働きやすい環境をつくるとか、言葉ではいろいろ言っていた。それがだんだん振り捨てられて、まさに従軍慰安婦問題が典型だが、「国家の体面」の側面だけが出ているような感が否めない。河野談話の検証と言っているが本音は見直しだと思う。

早野 その辺は微妙に曖昧にしているね。中韓の反発や諸外国の批判、アメリカの強い働きかけもあり対処が迫られている。

靖国参拝の安倍戦略と日本の孤立化

橘川 12月頃から変わっていると思うが具体的にはどうだろう。

早野 やはり大きな節目は靖国参拝でしょう。安倍が一番精神的基盤にしているいわゆる靖国派(共産党の言う)、まあ保守というより右翼の基盤のネット右翼などから安倍への突き上げがありました。"行く行く詐欺だ"と言われていた。第一次政権で行けなかったのは"痛恨の極みである"と言い続けていたから、政権一年、ここが潮時だったのでしょう。プラスマイナスがむろんあります。右の基盤と自分の信条からすれば一年のところで果たしたいとの気持ちだった。もう一方のマイナスは、中国、韓国との関係は完全にデッドロックで、さらにマイナスが重なったところでそんなに変わりがないと、そっちのリアリズムもあったわけだね。そこで彼は決断したのでしょう。

1405_kitsukawa_photo橘川俊忠さん

気になるのはアメリカで、衛藤晟一という側近を派遣し打診した。アメリカは中韓との関係がさらに悪化する、どうする気なのかとのことだった。衛藤というのは完全なお友達だから、アメリカに行ったのだからなんとかなるだろうの想いでいたのでしょう。そこが安倍政権の底が浅く浅はかなところなんだが、アメリカのブレーキがブレーキにならなかった。

外務省は無論、安倍の靖国参拝には反対なんです。なぜ衛藤の派遣に同意したのか聞いてみたら、衛藤は安倍の側近なんだから、アメリカの厳しさを伝えてくれれば安倍が断念するかもしれないとの判断だったが逆に出てしまった。それがアメリカの"失望"発言になったわけです。これはかなり底が深い話ですよ。昨秋にヘーゲル国防長官とケリー国務長官が来日し、むろん靖国に参拝せず千鳥ヶ淵の方に行ったのはハッキリとしたメッセージですよね。読売新聞なども心配するのは、アメリカと亀裂が深まると日本は本当に国際的孤立になってしまう、これはよくない。靖国参拝の是非のみならず、国際政治からの判断が必要と。

先ほどの話のように安倍の靖国参拝に込めた意図は、彼も言っている戦後体制からのマインドコントロールを解くに関連している。つまりポツダム宣言、東京裁判など一連の戦後日本の出発点を否定したいという心情の現れでしょう。だからこれはロシアもヨーロッパも的確に反応しているわけだ。戦後体制を否定するのはダメだと。安倍政権もその事情は分からないではないから、一挙に突っ込むことはできないが、そのつもりはないと言いながら実際は戦後体制の変革というか、戦後体制を終わらせて軍事力に裏打ちされた、かつ日本の敗戦に至る歴史を否定するニュアンスでの国家構築をなんとか成し遂げたい、これが安倍の大いなる野心でしょうね。

ここで今後の安倍政治の基軸を鮮明にしておこうということではないだろうか。

橘川 アメリカがどう出て来るかは少し歴史を知っていたら分かる話だ。アメリカがポツダム宣言、東京裁判を否定することは是非を別にして絶対ありえない。アメリカは戦後体制で自分だけが正義を背負っているとなったがために、戦後の独善的な行動様式をとるようになった。ベトナム戦争やイラク戦争などアメリカ自身が反省しなくてはならないが、ポツダム宣言や東京裁判は理念的にいえば絶対に否定されない価値だと思っている。民主党でも共和党でも変わりはない、総がかりで対抗してくる。少しアメリカを知っていれば分かる。それが衛藤レベルを派遣して説得できると思ったなら、もうほとんど国際政治を知らない。また衛藤が行って逆に安倍を諌めるような意見を持って帰ってくるだろうという外務官僚の読みもお粗末すぎる。

早野 そう、衛藤の日頃の言動を見ていれば分かると思うが。

橘川 外務省高官も衛藤が行って聞いてきて、引き留めてくれるというのは事後的な言い訳にしか聞こえないよ。「体面」を張ると言っても「体面」をはるだけのリアルな認識が欠けていれば、そんなのは直ぐに見破られてしまう。靖国では官房長官は反対したようだが、自民党などにリアルに判断してストップをかける動きは出てこないのか。

安倍はアメリカの足元をみているのか

早野 安倍の内奥にあるものはおそらく親米であり反米なんだよ。安倍が尊敬する祖父の岸信介がまさにそうだった。岸は戦犯として巣鴨プリズンの中で日本国憲法が出来たことを聞いて、岸はこれは日本の弱体化の策謀であると感じたと後に語っている。しかし娑婆に出てきて総理大臣になり安保改定をした。あれも日米新時代かなんか言っていたと思うが、まあアメリカの従属国家から少しでも対等にしたいとの趣旨でもあった。これは従属的親米よりは若干ではあれアメリカ何するものぞの気分があったんではないか。安倍晋三にもそれは引き継がれているのではと思う。靖国参拝にアメリカが異議を述べるなら、それを前提に先に進もうとの判断があるのではないだろうか。その意味ではふてぶてしいのですよ。

アメリカにしてみれば、世界支配体制のなかで日本と韓国が喧嘩するのはやはり具合が悪いから調停に乗り出しました。キャロライン・ケネディーがNHKに出てきて日米関係ほど親密な同盟関係はないんだとやたら強調してみたり、その反面でこれ以上靖国にいくなと。4月のオバマ歴訪へいろいろ動きが出てくるでしょう。安倍首相も中韓との厳しい対立関係のなかでロシアに活路を求めてみたのだがウクライナークリミヤ問題が勃発、米欧に付き合わざるを得ない。全部が関連してジレンマも深くなっていくんだとは思う。しかしやはり彼は、そこも含めて靖国はやっぱり安倍晋三のアイデンティティーとして行かなくちゃいけないと思い詰めたのでは。

橘川 ふてぶてしいと言えば、アメリカの足元を見ているのかも。アメリカも世界単一の帝国を築ける力もなく、中国との対抗上も日韓と結びつかないと東アジアのアメリカの覇権自体が揺らぐ可能性もある。となるとアメリカは日本を見捨てるわけにはいかないだろうと、その意味でふてぶてしいのかもしれない。しかし中国がアメリカとどのような関係をつくろうとしているのか、日本をにらみロシアをにらみ、米中はあっという間に接近するから日本が置いて行かれる可能性の方が高いかもしれない。日本はものすごく危ない賭けに出ているのではないか。

早野 確かにそうですね。今の日本政治の右の側から出て来るプレーヤーとして安倍晋三は傑出していますよ。

橘川 彼は一度失敗しているから、二度目だからブレ方が非常に少なくなっていると言えるかもしれない、右の方から見て。

早野 だから最初の政権の時にだらしないお友達と自分の病気で失敗したことを咀嚼し戦略的に第二次政権を築いていることはあるでしょうね。まさに去年の前半がアベノミクスと東京オリンピック。これローマ時代の皇帝の格言「パンとサーカス」ですね。そこで(内閣支持率という)大衆の支持をつくっておいて、自分の国家主義の実現に向っているのはなかなか戦略的ですよ。なんというか、大衆も生活が苦しくても、その先にニンジンがぶら下がっているかもしれないと思うから支持が続いているのでしょう。そうなってくると国家主義的政策がいずれ国民にもたらす犠牲であるとか苦しみであるとかはさておき、やっぱり今すぐ手に入るパン(株高、円安)がほしい、そしてサーカス(東京オリンピック)に慰められるという構図になっているのかと思う。

特定秘密保護法は稀代の悪法―「国家の内実」が問われる

橘川 政治学の旧いことわざが依然として通用する困った事態だね。問題は「体面の政治」、そこに領土問題がからむ。領土問題という「体面」の張り合いに陥ったら歴史的経験から見て、止まるところを知らない論理が働いていく可能性がある。リアルな理性的な認識に政治が常に従っているとは限らない。まさにパッションの政治でワーと行ってしまう危険性がある。とくにメディアの動き方次第によってはすごく高まっていくのではないか。我々はその危険性があることを認識しつつ、そこにどう楔を入れていくか次の段階で考えなくてはいけない。

その時にまさに「内実」というものが問われてくる。やっかいで言い方が難しいが、例えば特定秘密保護法の特定秘密が必要との議論で言うと、全部を全く否定できない部分があるわけです。「国家の防衛・安全保障にとって秘密の部分が国際的関係からいってもある」、にどう答えるかがある。

 一方、実際の秘密保護法の法案を読んだり、具体的議論を聞いているとあんな穴だらけのザル法でひどい法律はない。例えば今、地方自治体が反対とか修正せよとの決議を多く上げている。なぜかと言えば、あの法律の中で地方自治体の首長であるとか自治体の公務員がどうなるかまるで分らない。例えば軍隊を動員するとした場合、どこまで中央政府から情報が自治体に入ってくるか分からない。入ってきていたとしても住民にどう伝えたらよいか分からない。ヘタな使い方をしたら秘密保護法で知事や市長が処罰されるかもしれない。動きようがない、そんな法律は作り直してもらわないと困ると。

早野 なるほど、それはなかなか切実だな、自治体からすれば。

橘川 これは軍事的侵攻があった場合だけでなく原発事故についての情報の公開の仕方、自治体の関わり方など自治体から批判が出るのは、原発の時だって情報が出てこなかったではないか。カットされた情報下で住民を避難させろと言われて何シーベルトなどの情報を出したら、それは全体の秩序の維持に関わるのでヘタに出してはいけない、特定秘密だと言われれば動きようがなくなる。軍事的だけでなく災害の時、あの法律はどうなるんだと。あの法律では何にも決まっていない。国会の関わりも十分決まっていない。とにかくその意味で「内実」が無い。

早野 秘密保護法反対で盛り上がったかなりの部分はメディアへの規制であった。法律が成立してしまったが、やっぱりNHKなんかは政府の管轄下にあるから率直に言ってビクビクしているところがありますね、確かに公務員そのものについての議論は足りないね。

橘川 とくに自治体は住民に直結するから。

早野 そうだよね、国家公務員はそうでもないから。秘密保護法は観念的なんですよ。

橘川 そう観念的。例の新設された国家安全保障会議にしても少し政治史を勉強していれば分かるが。戦前の日本も国家の戦争戦略を統合するためにといろんな会議をつくった。五相会議とか大本営連絡会議など、どれもうまく行かなかった。それと似たようなことをやっているだけだ。制度をつくっても実際の安全保障の戦略をどこでたてるかといえば、結局は各省庁の代理が送り込まれるだけでセクト主義を超えられる話ではない。その角度から集団的自衛権問題を見ていくと、アメリカのどのような行動とどうからむかなど具体的なとこがまだ詰まっていないと思う。観念だけが先走っている感じだ。やっかいなのは出来上がってしまうと観念が一人歩きしてしまうことだ。

早野 そうなんです、それなんです。

橘川 その時、反対する論議として観念のレベルだけでなく、実態のレベル、「内実」の部分で食い荒らしていくような活動が必要だろう。情報公開を武器にずっと戦い続けること。メディアも積極的にやらねばいけないし、市民運動や労働組合とかいろんなところでうまく動けば、あんなザル法は使えなくなる可能性だってある。

断片化する思考―「国家の体面」は感情を動員する危険な力がある

早野 集団的自衛権問題はこれからだが、北岡伸一が先導役をやっている。学者がこのような政権との関わり方でいいのかはあるが、ともかく彼は政権が期待する集団的自衛権の禁止を解除するんだということだ。アメリカに飛んでいくミサイルを撃ち落とさなくていいのか、一緒に米艦と自衛艦がいた時、米艦にミサイル攻撃された時、日本はただ指をくわえて見ているだけかなど非常に限定されたケースについて語っている。大体そういうこと自体があるのかと専門家から指摘されている。そもそも戦争ゲームのシュミュレーションのような気もする。

しかし安倍は北岡に対して、もっとひろく検討してくれと注文していると北岡も言っている。北岡も地球の裏まで一緒に行くなどのバカげた議論もあると言ってはいたけど、観念とはそうではないからね。次なる時代にどのように使われるかわからない。明治憲法の統帥権がそうだったものね、治安維持法もしかりだ。

と考えると日本政治外交史の三谷太一郎門下生の学者がそれをやるとは、時代がこんな風になっている危険な兆候ではと思いますね。先日その三谷さんの話を聞く会があった。三谷さんは、丸山真男世代というか戦後民主主義の世代があったとの見立てを語っていたが、私はその世代がもう少し頑張らないと時代がおかしくなるのではないかと聞くと、戦後民主主義の出発点の丸山さんを今の研究者は読まないと。いまの政治学は何か技術的な政治学になっているとの指摘だった。政治のとらえ方を支える学問とか教養が、そこまで変質・退化している感じがしてね。大変だ、大変だとあまり言いたくはないが。

橘川 観念が先走っているというか、集団的自衛権も秘密保護法もある範囲で成り立ちうる可能性はある。しかしそこだけ取り出して全面的にやると限定のしようもなくなり、情報公開制度など他の条件と整合性の取れないことがいっぱい出てくる。それらを全部連結させてじっくり全体像を考えることが政治の世界で行われていない。実際の行政を担っている官僚の頭からも消えている。

早野 官僚の方が全体像を持っていたりすることがあったんだが。

橘川 ところが先の外務省の話を聞いても何をしているんだの感がある。いろんなところでバラバラに部品化され慣らされて、そこだけが肥大化して気が付けばとんでもないガラクタの反動的国家の姿が出てきてしまうかもしれない。ガラクタ、部品化しているのは政治家や官僚達だけではなくマスコミも我々研究者もみんな部品化して、全体、トータルにどうなんだという連関を考える力がどんどん失われていっている。

速野 全くその通りだよな。

橘川 そういうところにポピュリズムと言うか、感情を刺激する政治とでも言ったらいいのか、早野さんの「体面」がいい言葉だと思ったのは、「体面を張る」とは人間の感情に訴えるわけでこれが非常に危なっかしい。かつてのアメリカとの戦争だって論理性からはありえないがまさに「体面」で突っ走ったわけだ。体面とは感情を動員する力があって恐ろしい言葉と思う。

早野 なるほどね。あの「体面と内実」の言葉の使い方はそう間違ってなかったな。

橘川 いや大事な言葉ですよ。そこで問題は「内実」ということ。マスコミなどが安倍のペースに引き込まれて関心が領土問題とか防衛問題とかにいって、賛成にせよ反対にせよ観念的議論でそこだけに関心が集中するような構造になっちゃうと実は敵の術中に陥りかねない。

だったら政治の「内実」は別のところで出していかねばならない。例えばアベノミクスで株が上がり、失われた20年を取り戻したではなく、では格差はどうするのか。あるいは、政治が世界史的にも戦後大きく変わってきた、「政治というのは外交と軍事だけやってきた。人々の生活とか人権とかが政治の課題になってくるのは20世紀の後半になってからだ、それが市民自治の出発点だ」と松下圭一さんが言っていたが、これは見事にそうだと思う。その意味で「内実」というのは市民の観点に立った政治、あるいは生活を基盤にした様々な欲求をどう政策化していくか、国家がそこまで関わって、人々の生活それ自体を政治が背負わなくてはいけない。それが国民の権利だとの意識に変わってきている。

その権利を主張する中身が個別化、具体化、多様化していっている。政治は大変だがそうしたことに応えねばならなくなっている。震災復興をみても国家の一律性では対応しきれない問題が山積みしているがそこに目がいかない。「内実」と言った場合そこだと思う。生活者の多種多様なものに中央政府では対応しきれない。中間に自治体など公共的なものからNPOまで含めていろんな装置を創り出さないと絶対対応できない。その観点が政治家にも官僚にも感じられない。

選挙は万能か、今また問われる民主主義とは

早野 なくなってきたのかな、一時期はあったように思ったが。多様化した生活欲求に対して回答を国家がつくっていくのは大変なことで、これがうまくいくなんてこれからも永遠にないですよ。永久の課題ですよね。しかしそれが国家や政治の目的だとの意識を持つかどうかが問われている。安倍政治の一番の根本的欠如はそれが目的ではなく手段になっているわけだ。パンとサーカスね。安倍なりの国家像の構築、それが目的になっていてね。もう21世紀の政治観としては古いのではないかと思うが、そこに固執している。

だから国会の議論とか役所などに対し最後に持ち出されるのは"官邸の意向"なんだ。単に安倍が言うだけはなくて補佐官だとか秘書官とかが出張っていって、秘密保護法の時など、国会側が国会の関与を求めた時に、"それはダメです、これが官邸の意向です"と押さえ込んじゃう。それで伊吹衆院議長なんて頭にきたんだが。こうした経過が随所にあるんです。

その最たるものが例の集団的自衛権問題で、"憲法の解釈はオレが最高責任者だ、オレは選挙で選ばれてるんだ"との言い方をしたでしょう。つまり憲法は公権力の制約なんだという当たり前のことが分かってない以上に、選挙で選ばれた結果としての総理大臣のオレの言うことを聞けに繋がっているわけ。選挙で選ばれたんだからデモクラシーなんだ、総理、与党が最終決定する、思うように政治をする、それが託されているんだとの思いは、実は民主党政権の時からあった。政権交代で選ばれたんだからオレ達の主張が正義なんだと、それが今の安倍にも反映している。

橘川さんに聞きたいが、選挙で選ばれるというデモクラシーがそうした絶対的価値なのかどうか。立憲主義に基づく憲法観には人類が築き上げた英知があって、選挙で選ばれたからと言って覆せないのが、例えば基本的人権の考え方ではないですか。大阪の橋下徹がそうなんだが、選ばれた者の言うことを聞け、でしょう。デモクラシーのある種の危機だと思うが、大衆的ポピュリズムとも関連がある。

デモクラシーとは仕組みの中に自制心を持っていたし、多数を取ればなんでもやっていいわけはないと。後藤田正晴などは非常にシャープに意識していた。市民自治とかNPOとか選挙だけではない回路を吸収したデモクラシーであってしかるべきなのだが、選挙独裁主義になりかねない要素がある。それにブレーキをかける教養や知性がバカにされているでしょう。

橘川 そこが問題だよね。民主主義とはなんぞや・・・。歴史的に言えば貴族制の中にも民主主義はある。だってギリシャの民主制というが市民と奴隷がいたでしょう。ある一部の人間の中だけで通用する物事の決め方ルールであって、規模が大きくなってくると当然異なるルールのつくり方が必要になってくる。古代ギリシャは小さい規模だったからある種の直接民主主義のシステムで十分だった。規模が大きくなると間接制が入ってきて選挙となり直接制が失われるわけで、今度は間接制の中に物事の決定の仕方のルールが形成されねばいけない。

民主主義とは歴史的にいろんなものがごちゃっと入っているもの。民主主義という制度を使うための最低限の認識がないと民主主義としては機能しない。そこを無視して多数決だと形式論理的に民主主義を語るのは、それ自体が民主主義を知らないということだ。民主主義には形式はない。

早野 そうか、僕なんか新聞にいたから、つまり選挙は絶対だとの意識はやはり濃厚にあったのだよ、考えてみたら。民意だとか、この民意の現れ方はおかしいとか言ってみたりしていたが。選挙だけが肥大化し、そこがある種の崩壊過程にあるような気もするのだ。

橘川 歴史的に積み上げられてきた様々な慣習―例えばアメリカ上院で会期が終わるまで何十時間も演説して妨害するフィリバスターなど極めて非合理だけど、会期が決まっているという制度とセットになって少数派が多数派に抵抗する武器になるわけで、それを許容してきた。

早野 それが価値ある時もあるかもしれないという民主主義のとらえ方だったわけだ。

橘川 牛歩戦術などあまりスマートではないけど、それらの慣習もふくめて民主主義というものが機能しているわけだ。極端な対極はボタンを押せば投票結果がパッと出る方式。それなら国民全部の家にインターネットの端末を置いてイエスかノーかを集計したら、みんなにとっていい結果が出るという発想は民主主義ではない。時間をかけて様々な意見を集めて混ぜ合わせていってよりよいものを見つけていく過程があって、はじめて民主主義は意味がある。時間を一瞬で切ってしまう行為は民主主義ではない。瞬間測定方式は絶対に民主主義に反する。

早野 そうなんだね、もっと時間をかけて積み上げるものなんだよね。

橘川 時間を寸断すること、これが問題だ。何も民主主義だけの問題でなく、歴史的認識の問題で例の押しつけ憲法論も時間を寸断する行為なわけ。占領下で押し付けられた。だからその反対側に自主憲法を対置する。押し付け即自主憲法になる。押し付けられたとしても、その前にどれだけの歴史的過程があったかを考えずに、ただ二者択一を迫るという論議の枠組みをつくっている。

自分の都合のいい論理で歴史や政治を解釈する反知性主義

早野 安倍政権の提起している、あるいは結果としてもたらしているものは、戦後政治がある種の健全性を保っていたとすれば、そこからどう変わっていってしまうのか、何かお化けのようなものが出てきそうな気もするね。

橘川 2~3年前のねじれ国会の頃、決められない政治はダメだとマスコミも随分叩いたが、あれはやっぱりダメだね。確かに短縮しなくてはならない問題もあるが、基本的には民主主義は時間がかかるもの、時間の幅の中でいろんな知恵をどう集められるかが基本でしょう。これは左翼右翼関係なく同じこと。

また世論調査の結果で政治が左右される要素があるが、あれも一つの問題への瞬間値に過ぎない。

金科玉条のように受け取っている側もダメだし、金科玉条かのように報道している側も問題だ。

早野 それらをちゃんと自分の視座のなかに組み込んで物事を判断していく力というのがまさに知性であり教養だよね。最近は反知性主義なるものについての論評が多いが、結局、客観性とか様々な意見の検証とか、他者の内面に自分の身を置いてみるなど面倒くさい作業をしないで、自分の都合の良い論理で歴史を解釈したり、生活や政治の課題を解決しようというのが反知性主義のようだ。これは時代風潮についての的確な論評だと思う。橋下徹のように学者みたいな現場を知らない連中がバカを言うと、教養や知性への侮蔑みたいなのが一番危ない気がする。

それと今の状況で心配なのは教育の問題です。教育改革なるものが、あれも一種の効率主義で、イジメの問題を入り口にしているが、それのみならず、道徳の教科化など従順な国民をつくろうというところに繋がっていく。国家というものを教育の中に注入していくようなものでしょう。

だからその意味で安倍政権は長期戦略も持っている。そしてその要は全部人事なのだ。例えばNHKに籾井会長や百田とか長谷川などを送り込むのは、表だってNHKを変える、番組に注文をつけるなどは、まだまだ日本では戦後民主主義の世代も多く、正面からいくと失敗する。憲法96条改正などのクセ玉を出すと反発をくらうのを学習している。実質を変えていくのは人事だと、内閣法制局長官を替えたりした。政治戦略として自分の国家観の方に日本を導いていくというなかなか長期戦略も持っているようだ。それが教育に現れていると思う。

橘川 そうはいってもほころびがいろいろ出てくる。籾井がそうだし、あれを始末し叩けないのが情けないが。長谷川三千子なんか、もう神がかりで女性差別もいいとこ。女性は家庭に居るべきと言っても自分は大学教授で家庭なんかに居ない。自分のことはさておいて人を支配するためには自分に都合のいいように言う、まさに反知性主義だ。自分自身のことは振り返らないで人の都合のいい批判だけする。その風潮があまりにも多い。ヘイトスピ―チもそうだ。

早野 そうした精神風土のなかで『アンネの日記』事件や『はだしのゲン』の閲覧制限がある。

歴史的大転換期―ネット時代のどこに希望をみるか

橘川 そうした時代の風潮が今やインターネットの世界で流れていて、その影響力が我々の世代ではちょっと想像できない。学生を見ていると、レポートでネットを引いて切り貼りで提出する。フェースブックやツイッターにしても短縮して何となく通じるような、イメージだけが伝わるような言葉の羅列で物事が進んで行く。

早野 断片ですよね。

橘川 先の政治のガラクタ化、断片化と同じで全体が断片化している。これをどうやって押し返していくか。一つは現実そのものに直面するかどうかだね。学生だと就職に直面して初めて分かるのだが、あまりにも過酷だから人間を壊している。逆に3・11の被災した子供たちの方がよっぽど成長している。まさに現実が人を成長させる。それは多分人為的には簡単にはつくり出せない。

早野 だいぶ昔アメリカのリースマンが『孤独な群衆』で大衆社会の悪弊を書いていたが、ネット時代になり、部分化、個別化、断片化して相互の共通の理想であるとか、助け合う、寄り添うといった感情が消えてしまうと、憂いてばっかりいても仕方ないが心配だな。

橘川 ネットの問題でいえば我々の世代まではネットを使いこなす発想はなかった。50歳以上もダメかな。それが30歳代とかネット当りまえの世代が育ってきて、その中に少しでも理性的なものを実現する意志を持った者が育ちつつあるとは思う。

早野 それはそうだな。どこに希望を持つべきか。我々の世代が憂いていても刻々と次の時代が来るわけで、その中にどう我々の希望をつないでいくかを見いだしたいところだね。そういう人がいることはいるのですよ。接している学生諸君に、やっぱりよき人間というか、いい奴がいますからね。彼らに期待するしかないのかもしれない。いつの時代もそうなのかもしれないが。

橘川 転換期なのです。メディアを中心とした技術のこんなすごい変わり方したのは歴史的だ。技術の転換に対応できる力を持つには50年100年かかると覚悟を決めた方がよい。その中でどのように希望を持てるかを見ていかないといけない。いつの時代もまともに考えられるのはせいぜい20%だろう。その20%が壊れ始めているのは確かにピンチなのだ。だが我々の全共闘世代だって活動的にやっていた奴は10%もいないでしょう。そうした人たちの影響力が消えてしまっているから問題だが、今の状況で実際にボランティア組織などでやっている人たちの数をみれば、我々の時の活動家より層が厚いかもしれない。派手な動きをしないから目立たないだけだ。では何をどうするか、非常に緩い連合のようなものをいろんなレベルで考える以外ないのではと思う。巨大な単一に意思統一した組織はもういらないとも思ったりする。

早野 ただ安倍政権のようにある種の目的意識のハッキリとした、とりわけ右の勢力が走ると、それに対してゆるやかな連合形態とかNPOや自主的組織の活動では必ずしも対抗できないでしょうね。大衆ポピュリズムの方がある局面を覆ってしまう時があり、それがいつまでも続くとも思わないが、日本国や日本国民が変なことになってしまっても困るなと思う。あまり危機意識を言い募ってもいけませんが。

橘川 読めないことが多すぎてね。中国がどう出るかだって分からない。むかしの言葉で言えば、”内政の矛盾を外政に転化する”、さっきの”パンとサーカス”、また”絶対的権力は絶対的に腐敗する”、政治学の経験則上のある種の法則だが、ものの見事にわが日中韓の三カ国ではそういう構造になっている。中国が何かの拍子に尖閣列島に軍事行動を起こす、あり得ないことはない。この時、日本が一挙にナショナリズムの方にどっと突っ走る危険性は消えない。これが本当に危ない。

早野 確かにその心配があるね。いまのところ、安倍政権も極力冷静に対応することに努めているが、それも戦後平和思想がなお人々の根底に根付いているからだと思う。しかし、ネット社会という一波万波の政治状況はもはや逆進はありえないだろうから、ナショナリズムに走る危険性は例えば安倍の目測を超えてコントロールの効かないものにもなりかねない。そこの歯止めは国民の知性と教養の深さだけかもしれない。

橘川 ここは、じっくり腰を据えて、危機アジリに陥ることなく、もう一度根源的に考えることの必要性を主張し続けるしかない。国家でも、民主主義でも、憲法でも、人権でも、使い古された言葉として長年こびりついてしまったアカを削り落して、本来の言葉の意味を吟味しなおすことから始めることかな。遠回りのようでもそれしかないような気がします。

はやの・とおる

1945年生まれ。68年東京大学法学部卒業、朝日新聞社入社。新潟支局、政治部次長などを経て編集委員・コラムニスト。2010年より桜美林大学教授。著書に『政治家の本棚』(朝日新聞社)、『日本政治の決算』(講談社現代新書)、『政権ラプソディー』(七ツ森書館)、『田中角栄-戦後日本の悲しき自画像』(中公新書)など。現在、朝日新聞デジタルに「新ポリティカにっぽん」を連載中(月2回)。ネットテレビ「デモクラTV」よびか-け人。

きつかわ・としただ

1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任、昨年4月より名誉教授。前現代の理論編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)など。