論壇

伝統・文化理解教育とナショナリズム(下)

筑波大学名誉教授・本誌代表編集委員 千本 秀樹

1.帝国主義世界体制の変容(=グローバル化)とナショナリズムの醸成

2.教育基本法の改悪と愛国心の強調

3.「日本の伝統・文化理解教育」の推進(略)

4.明治政府による国境の確定(以上、前号に掲載)

5.「日本人」の創出(以下、本号に掲載)

6.「日本の伝統・文化」の核心としての天皇文化

7.おわりに

この拙文は、翰林大学校日本學研究所の『翰林日本學』第40輯(2022年5月)に掲載されたものです。同研究所の許可を得て転載します。なお、編集担当からの短縮してほしいとの要請により第3節を省略しました(千本)

5.「日本人」の創出

国境を画定したことによって、その内部に住む人々を「日本人」化することが明治政府の大仕事であった。近代国民国家論でいえば「国民の創出」であるが、大日本帝国憲法には国民は存在せず、「臣民」である。臣民とは、天皇の所有物であり、天皇に絶対服従する存在であった。1895年からは台湾が、1910年からは朝鮮半島が帝国の領土とされ、そこに住む人々も「大日本帝国臣民」とされた。ちなみに満州国、満州帝国には憲法が存在せず、よって国民もいない。

「日本人」とは何か。「日本国民」とはどう異なるのか。法律学的にいえば、日本国民とは「日本国籍を所有している者」でかたづくのであろうが、政治学や歴史学での「日本人」はそう簡単なものではない。「日本人としてのアイデンティティを持たされている者」あるいは「現代日本イデオロギーを共有している者」とでもしておこう。

植民地以前に、明治維新当時、本州・四国・九州に住む人びとにも「日本人」という自己認識はなかった。「国」といえば武蔵であり、薩摩であり、西郷隆盛は薩摩人であった。知識人のあいだに日本人という自覚が広まるのは、ペリー来航以後、しばらくたってからである。

明治と改元して、戊辰戦争で会津城が落城した直後の10月、新政府はまず京都で、そして翌年にかけて全国各地で個別に民衆にむけて布告を発布した。その典型といわれるのが明治2年2月の「奥羽人民告諭」である。まず、日本には天子様というものがござって、から始まり、天子様は天照大神の子孫であって、お前たちがもっとも位が高いと思っている「正一位稲荷大明神」も天子様が授けたものだ、最大の賊魁であって処刑してもよい松平容保さえも許すほどに心の広い方である、日本の土地も人民も天子様のものであるからありがたく思って、一揆など起こさずに真面目に働けという趣旨である。これは、日本は神である天皇のものであり、人民は天皇の赤子という日本人であるという自覚を持てということを教えこむためであった。そのために、「日本人」が持つべき共通のイデオロギー、「日本文化」を創出することが重要な課題となったのである。

まず、国境領域内に住む民衆に「日本人」としての共通認識を持たせるためには、自分たちが「同じ」であると自覚させることが必要である。それは天皇のもとに一体であること、同じ文化を共有しているという自覚であった。

さて、「日本の伝統・文化理解教育」の実施が、実質的に義務化されたことによって、教育現場は途方にくれた。誰が担当して、どのように実施すればよいのか。ある学校では三味線を趣味に持つ教員が担当し、将棋を教える授業もあった。そこで日本教職員組合のシンクタンクである国民教育文化総合研究所(当時)は、「日本の伝統・文化理解教育」研究委員会を設立し、わたしを含めた四名が共同研究を行なった。その中間報告として、教育現場の教員たちに「伝統・文化とはなにか」を考えてもらう一助となるように刊行したのが、ブックレット『「伝統・文化」のタネあかし』である。本節と次節はこの書物を体系的に再構成した部分があるために、具体的な個別例に関しては、同書を参照されたい。

四人が持つ共通の問題意識は、「日本の伝統文化」とされているものの多くが、実は明治政府によって政治的につくられたものではなかったのかということだった。これは同書刊行後、広範な研究者が共有していることを知るのだが、明言した書物も少なく、不勉強なこともあって、自覚していなかったのだ。さらに四人は、「文化」の意味について、前述したような広義の意味で理解することを確認した。

この共同作業のなかで、わたしが個人的に追求したテーマは、明治維新によって成立した中央集権国家は日本列島の文化を均質化することによって貧困化させた。均質化の武器は言語の統一と、結婚・相続・セクシュアリティの統一であって、後者は家制度ということばでも表現され、それが他の近代国家とは異なった天皇制の特質であるということだった。

維新以前、徳川幕府による封建制は、大名の領地支配による人々の土地への縛りつけと身分制によって維持されていた。領地外への移動が不自由であることは、それぞれの土地において固有の文化を花開かせた。江戸の人口は100万人を数え、ロンドンを凌いで世界最大の都市ではあったけれども、一極集中は現在とは比較にならず、全国に知識人が散在していた。江戸時代末期には識字率が40%に至り、江戸だけでは90%にのぼったという。当時ロンドンの識字率は15%にすぎなかった。

書きことばは全国共通であったが、日本列島には共通話しことばはなかった。江戸城内だけで使用される共通言語はあったものの、庶民には流通しなかった。江戸市内でも下町方言と山の手方言があり、列島内でも距離が遠ければ会話は成立しなかった。大坂から瀬戸内海を通り、山陰・北陸を経て蝦夷地に至る北前船の商人は、各地での商いには筆談を用いた。

近代国民国家が言語を統一するのは世界に共通しているが、日本も中央集権国家となると、資本主義の育成のためにも、統一した軍隊を育成するためにも共通話しことばが必要となる。そのため文部省は標準語の作成にとりかかった。全国調査も行なわれている。山の手ことばを基本とし、関東地方など各地のことばも付けくわえて「標準語」という日本語が作られた。「おいこら」は薩摩方言であったが、東京のポリスは薩摩士族が多かったため、江戸から各地に広がった。1904年から使用される国定教科書のためにも、たとえば犬・猫などの動物の名称やその鳴き声も統一された。ニワトリの鳴き声をどう聞いているかも調査されているが、最終的にはどの地方からも報告がなかった「コケコッコー」が国定教科書では採用され、現在のすべての日本人はニワトリは「コケコッコー」と鳴くものと思い込んでいる。

その過程を描いた戯曲が、井上ひさし『國語元年』(注5)である。文部省から全国共通話しことばの制定を命じられた役人の主人公は長州出身、妻は薩摩、女中頭は江戸山の手、他の女中は江戸下町、車夫は遠野、書生は尾張で、家庭内のコミュニケーションが成立せず、様々な事件が起こる喜劇である。

もうひとつは、辞書の編纂である。文部省が1875年に命じたのは江戸生まれ、江戸育ちの元仙台藩士大槻文彦で、苦闘の結果1886年に『言海』を完成させたが、文部省に刊行予算がなく、原稿は大槻文彦に下げ渡され、1889年に大槻が自費出版した。現在でも改訂版が使用されている(注6)。また、1880年代半ばから、二葉亭四迷ら文学者を中心に言文一致運動がおこり、文章を口語に近づける努力がなされた。

文化に根拠を持たない標準語の制定は、文化を背負った方言を下等なもの、下品なものとする風潮を生み、各地方の文化が劣ったものとされて、文化の均質化・貧困化に大きな役割を果たした。現実には話しことばとしての標準語は、NHKの放送で使用される程度であったが、現在ではNHKアナウンサーも東京方言に色濃く染まっており、使用者はいないといってよい。

言語とともに大きなテーマは、生活文化、とりわけ家族形成とセクシュアリティにかかわる問題である。江戸時代は、自治の時代でもあった。地方の支配方法は大名に任されており、江戸時代前半期には改易、すなわち取り潰しが頻発したが、後半期に入ると一気に減少した。

農村における年貢納入も村単位であり、個人単位ではなかった。賤民とされた人びとの支配も、たとえば東日本では江戸浅草の長吏頭(エタ頭)矢野弾左衛門に委ねられており、役負担(納税)も司法権も弾左衛門役所が担当した。町人と賤民とされた人びととの争いは、江戸では町奉行所と弾左衛門役所が双方の利益を代理して折衝した。いわば身分内自治が存在した。

ここで注目するのは若者組である。江戸時代の結婚相手は親が決めたという誤解が横行しているが、庶民の世界では逆であった。親は子どもの結婚に関して、発言権はなかったのである。武家の場合は政略結婚が多かったから、親が決めていた。

若者組のありようは地方によってさまざまであるが、農村においても漁村においても、多くは10代の半ばで若者組に加入し、男子は若者宿、女子は娘宿で寝起きし、朝帰宅して親とともに働く。若者宿、娘宿で夜なべ仕事や語らいに時を過ごすのだが、当然恋愛話に花が咲く。若者宿と娘宿の交流も行なわれ、そこで結婚相手も決まっていくのである。村の共同作業も重要な話題であった。

このような青年による自治は、国家の中央集権化にとっては障害物であった。日露戦争後、政府は若者組に代わって官製青年団の設立を進め、大正期、全国の青年団に呼びかけて明治神宮の造営に動員した。それをきっかけに大日本連合青年団が結成され、戦争協力に向かう。現在も明治神宮外苑にある日本青年館旧館は、1925年、全国の青年団員の拠金で建設されたものである。若者組は次第に減少し、1920年代にはほとんど見られなくなった。

結婚のありようは、地方によっても多様であった。西日本には、末子相続が行なわれていた地域が点在する。子どもたちが年長者から順に独立していって、末子が家産を相続するとともに親の面倒をみるのである。東日本には見られないが、西日本から東南アジアにかけて存在する。西日本では、「わたしもそうだったよ」という年配者に出会うこともあるが、タイでは今も一般的である。

大坂の船場を中心に「娘家督」が存在した。豪商の場合、商売に不向きな息子に継がせると店の危機となるので、娘に優秀な青年を婿に取るのである。これも家業にとっては合理的である。近年でもある事件で話題になった料亭では全国の各支店を娘に継がせていた。

このように多様であった結婚と相続を、長男相続と見合い結婚に統一したのが、1898年に制定された「民法相続篇」である。国家、すなわち大日本帝国の単位を何にするかの議論のなかで、一部のクリスチャン官僚には欧米のように個人を単位とすべきだという主張もあったが、その反対の極に、日本は天皇を親とし、臣民を赤子とする一体の国家であって、単位には分けられないという意見も強かった。その結果成立したのが「家」を単位とする家父長制である。明治4年の戸籍法では、一夫一妻制を原則としながらも「妾」も、その子も同一戸籍に入るという家制度であり、今でいう非嫡出子も家督や家産の相続も一定程度の権利が認められていた。民法相続篇ではそれを整備し、嫡出系家族を国家の単位とした。家長が家族のなかで唯一の主権者であることは、天皇が帝国の唯一の主権者であることと相似形をなしている。家族国家観の成立である。第一次大戦期には大企業のなかで、会社オーナーを親とし、従業員を子とする「家族主義的経営」、「温情主義的経営」の論理が広がり、相似形が国家と家族から企業にまで広がったことによって、就職をめぐる部落差別が拡大したことは別稿で論じた(注7)

このように家族と結婚の形態が均質化されることによって、セクシュアリティのあり方や表現も均質化される。江戸時代の文学では、同性愛や両性具有など、現在でいうLGBTQを扱う文学作品も少なくなかった。それは江戸時代の性がおおらかであったことを反映しているのだが、明治維新以降、日本列島の歴史上もっとも女性差別が激しい時代に入るとともに、キリスト教の普及とあいまって、性は賤しいもの、隠すべきものという風潮が広がって、性を扱う文学も猥褻なものと一括されることになった。LGBTQに対する差別の強化とともに、文学もおおらかさを失っていくのである。

日本列島における女性差別は、古代から年を経るにしたがって強化されていくのだが、明治維新後、女性はもっとも厳しい環境に置かれることになった。そもそも良妻賢母思想は、17世紀のイギリスでの育児は女性の仕事という考え方に始まり、資本主義の発展によって性別役割分業が西欧に広がって、維新後、日本にも導入されたのである。西欧では、妻が夫を支え、母が資本制を担う子を育てるというものだったが、日本では賢母良妻と重要順序が逆転し、女性を家の中に閉じ込める機能をはたした。農業中心社会では、女性も重要な労働力として、男性に劣らない役割を果たしていたのである。もっとも現在でも各国、特に欧米の首脳が、「ファーストレデイ」を連れまわすのは、妻を利用しているようにしかみえないのだが。

以上述べたように、天皇制国家への中央集権化は、江戸時代に存在した多層的な自治を破壊して文化の多様な担い手を消滅させた。また標準語の制定を中心とする地域文化の均質化によって、列島の文化は貧困化させられていくのである。

6.「日本の伝統・文化」の核心としての天皇文化

天皇制国家の「伝統・文化」の核心として明治政府が作りあげたのが天皇文化・皇室文化である。現代でも、即位式などの天皇代替わり行事や皇族男子の結婚式、歌会始など、それが日本古来の伝統文化であるとして仰々しく演出されて、マスコミでも大々的に報じられる。しかし、先述したように、明治維新までの皇室行事は基本的に仏式であり、神式の皇室行事は明治維新後に古式を再構成したものである。

まず、国家神道をとりあげよう。慶応3年、王政復古のクーデターにより倒幕派は神道の国教化をめざした。翌年、祭政一致を布告し、睦仁天皇が「五箇条の御誓文」を神に誓うという祭りを行ない、日本は神の国であることを示し、また神仏分離令を発した。それまでは神仏習合により、寺院のなかに神社がある場合も多く、神官は僧侶に従属していたため、神官たちは廃仏毀釈運動を始め、各地の寺院を襲撃した。明治3年には「大教(天皇中心の神道教義)を宣布せしめる詔」を発出し、神道国教化を進めた。明治4年には太政官布告で「神社は国家の宗祀」であるとして、社格を官幣社・国幣社・府県社・郷社・村社とし、それ以外を無格社とした。伊勢神宮を頂点として、天皇とより近い神社を上位に置いたのである。民衆にとって、村の鎮守は多くが自分たちを守ってくれる先祖を祀る祖先崇拝にもとづくものであり、天皇と関係がなければ、薄ければ下位に置かれたのである。翌年には人を祀る別格官幣社の制度が定められた。藤原鎌足を祀る談山神社を最上位とし、靖国神社も含まれる。

1880年、皇族が伊勢神宮の代わりに参拝するための神宮遥拝所(後、東京大神宮)の祭神として、大国主命を含めようとする出雲大社派と、それを拒否する伊勢神宮派が対立して決着がつかず、明治天皇が伊勢神宮派を支持して祭神が決定した。神社界の対立と混乱のために、政府は神道国教化をあきらめることになる。政府と神道界は、神社神道から祭祀と宗教を分離し、神社から宗教行為を奪って、祭祀のみを行なうこととした。管轄は内務省で、神官は官吏扱いとされた。これが国家神道であり、大日本帝国憲法の第1条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スへカラス」とを合わせて政治体制としての国家神道が完成する。

わたしは国家神道を、天皇教という宗教を基軸とした政治体制と考える。日本宗教思想史の阿満利麿は、明治政府は国家神道は国家の掟だから宗教ではないというが、実は創唱宗教であるという。日本人の74%が自分は無宗教であると自認している原因について、阿満は次のように述べる。

明治新政府は、天皇を日本国の唯一の主権者と位置づけ、天皇を中心として国の統一を測ろうとしました。その際、……国家が「総省宗教」を造ろうとしたのです。『古事記』や『日本書紀』を聖典とし、天皇を教祖として、全国の神社と神官を組織したものを教団とする。そのいわゆる「国家神道」という「創唱宗教」を軸に近代日本を牽引しようというのが、支配者たちの考え方でした。

そうなると、天皇の日本国支配の正当性をいかに確保するかということが、政府の重要な関心事となります。そのとき、一番問題になるのは、同じ「創唱宗教」の存在です。仏教やキリスト教といった既存の「創唱宗教」に「国家神道」を脅かされないように、政府はさまざまな楔を打ちました。

最大の楔は、「信仰心や宗教心というものは個人の内面にとどめておくべきである」としたことです。宗教というものは「私事である」と限定して、社会的に広まる芽を摘んでしまったわけです。

そのうえで、「国家神道」とは「国家の掟」だという考え方を広めました。「あれは宗教ではなく、国家のおきてだから、憲法の信教の自由を侵すことにはならない。臣民たちがそれに服するのは当たり前だ」と謳ったのです。こうして、「国家神道」と呼ばれる「創唱宗教」は、「宗教ではない」ということになりました。

明治政府がさまざまな手段を講じて神道国教化を進めたことで、民衆は宗教に対して漠然とした不安をもつようになりました。……このような状況がいろいろ積み重なって、「無宗教」という言葉が、私たちの社会で大手を振って歩くようになったのだと思います。(注8)

阿満が国家神道を宗教とするのに対し、わたしは宗教としての天皇教と政治体制としての国家神道を区別する。それ以外は上記の引用部分に全面的に同感である。わたしが区別するのは、戦後国家神道は廃止されたが、天皇教は現在も生きているからである。1945年まで、日本臣民は「天皇は神である」と信じ込まされてきたし、多くの人びとは信じているふりをさせられてきた。「信じているふり」であっても、天皇への崇敬の念は強かった。現在では圧倒的多数の人びとが天皇を日本国の象徴であると受け入れている。特高警察のような暴力的な強制力はないが、日本国憲法第1条の「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」、「日本国民の総意」という文言の精神的暴力性によって裏打ちされている。象徴天皇を認めない人は「非国民」なのである。国家神道に代わって、象徴天皇制が「天皇教を基軸とした政治体制」となっているのである。

また阿満は、帝国憲法第28条に注目する。「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ゲズ及ビ臣民タルノ義務ニ背カザル限リニオイテ信教ノ自由ヲ有ス」。阿満は、この部分について、伊藤博文の『憲法義解』では、個人の内部における信教の自由は完全だが、布教や礼拝という外部については法的に制限を受けるとされていて、これが日本人が宗教を避ける原因になったとする。わたし流に解釈すれば、「安寧秩序」は天皇制国家の秩序であり、「臣民タルノ義務」とは、天皇への奉仕である(注9)

すでに1873年、暦の換算による混乱を経て、神武天皇即位日とされた日を紀元節と定め、他にも元始祭(1月3日)、神武天皇祭(4月3日)、新嘗祭(11月23日)、春季皇霊祭、秋季皇霊祭など、天皇の祭日が臣民にとっても祭日とされた。これらの祭日は、多くが現在でも名称を変えて国民の祝日として継承され、天皇の祭りを国民も祝うことが強制されている。

明治政府が作りあげようとした「日本人」は、天皇のために死ぬことができる日本人として完成する。

天皇勅裁によって建立された靖国神社は、戦前・戦中は宗教組織ではなく、陸海軍の管轄下にあった、いわば軍事組織であった。前身は明治2年に建立された東京招魂社で、戊辰戦争で戦死した新政府軍兵士を祀るためのものであった。1879年に靖国神社と改称し、日清戦争後も天皇のために戦死した軍人・軍属を「英霊」として祀っている。

戦後、GHQ による陸海軍の解体に際して、靖国神社も解体の瀬戸際に立たされたが、宗教法人に衣替えして生き残った。その後も陸海軍両省の残務を担当した厚生省(現、厚生労働省)が、追加する祭神の名簿を送達している。現在、約250万柱の「英霊」が祀られているが、その中には約5万人の台湾人・朝鮮人が含まれている。ある台湾人の遺族が祀られることを拒否して取り下げを日本の裁判所に訴えたが敗訴した。日本人キリスト者の遺族も同じく敗訴している。

一方で、朝鮮戦争の際に機雷除去に参加して死亡した海上保安庁の職員遺族が合祀を希望したが、かなえられていない。「大東亜戦争までの戦死者を祀る」というのが理由であるが、天皇に命をささげたのではないというのが本当の理由であろう。ちなみに朝鮮戦争には日本軍の元軍人を中心に数千名が参加している。特に仁川反攻の際の揚陸艦上陸には二千名が動員された。朝鮮の海岸線や地形については、米兵よりも日本の朝鮮軍の方が詳しいのは当然である。しかしその時の日本人戦死傷者については何も明らかにされていない。

靖国神社は御霊信仰の形式にもとづくといわれるが、御霊信仰とは本来、敵対する人物を死亡させた場合、その怨霊からの祟りを怖れて、怨霊を鎮めるために祀ることである。だとすれば、天皇に敵対して殺された人の霊をこそ、靖国神社は祀るべきではないのか。靖国神社拝殿の向かって左側に、小さく鎮霊社が1965年に建立された。靖国神社の説明によれば、ペリー来航から1963年までのあいだに、戦争・戦乱でなくなった人で、事情があって靖国神社に合祀できない人を祀っており、外国人も含んでいる、個人名を特定して祀っているのではない、という。あまりにも曖昧であって、一般にいわれる、天皇にとっての賊軍(例えば西郷隆盛や会津白虎隊)の霊が祀られているという解釈の方が説得力がある。賊軍であるために鳥居はない(注10)

靖国神社は「英霊を慰霊し,顕彰する」としていて、けっして「追悼する」ということばは使わない。「顕彰」とは褒めたたえることであって、「追悼」には生きていてほしかったという思いが込められているから、靖国神社としては当然であろう。顕彰することによって、戦死すれば神となって靖国に祀られ、神である天皇に参拝してもらえると戦地に赴かせ、また次々と新しい戦死者を作り出す機能を果たした。現在もなお顕彰し続けていることは、新しい戦死者を生む未来を想定していると考えざるをえない。

しかし靖国神社が御霊信仰であるならば、「英霊が天皇を恨んでいるから祀っている」と考える方が自然である。顕彰することも、「英霊が天皇を恨まない」ためにする行為ではないのか。その意味でも靖国神社の存在は矛盾に満ちている。

韓国や中国が日本の首相をはじめとする政治家の靖国神社参拝を批判するときに、東京裁判のA級戦犯が合祀されていることを理由としている。わたしはA級戦犯問題以上に、靖国神社が「死んだら靖国で会おう」を合言葉に軍人を戦地に赴かせ、そして「英霊」を顕彰することによって新たな戦死者をつくりだそうとしていることが問題だと考える。

韓国や中国はもとより、世界のほぼすべての国が、国家のために死ぬことは崇高なことだと顕彰する。日本でもA級戦犯合祀問題をきっかけに、靖国神社とは別の国立追悼施設を建設しようとの主張が高まった時期があった。靖国神社をはじめとする神社界が反対したのは当然であるが、逆の陣営からも「第二の靖国化」するとの批判があった。根本的な問いは、「国家に戦死者を追悼する資格があるのか」ということである。それも別稿で論じたので、参照されたい(注11)

明治政府がつくりだした「伝統・文化」は、具体例の枚挙にいとまはないが、ここでは天皇制にかかわる例をあげよう。天皇の写真である「御真影」は、1887年、沖縄県尋常師範学校ではじめて掲げられ、1890年代には全国化した。また臣民の「心のありかた」を国家が決定したいと願っていた天皇親政派の儒学者である元田永孚枢密顧問官と、憲法制定に加わった井上毅が中心となって「教育勅語」を作成した。元田は儒教的内容にこだわり、井上は法制化に反対した。結局、元田の主張した内容を、天皇の著作物という形式で発表されることとなった。

各学校には奉安殿が設けられて、「御真影」と教育勅語の写しが納められた。天皇の祭日には、児童・生徒たちが奉安殿の前に整列させられ、校長が教育勅語を「拝読」して全員で宮城を遥拝する。天皇中心史観の教科書で天皇文化を叩きこまれた子どもたちは、政治体制である国家神道の神社としての学校で学ばされたのだった。

最後に、現在も「国民歌集」として読まれている『万葉集』をあげよう。そもそも『万葉集』を高く評価したのは、江戸時代の賀茂真淵であった。賀茂真淵は、良いものは男性風、悪いものは女性風という価値観に立っており、「万葉集」に「ますらおぶり」を見出して賛美した。『古今集』は女性的だから価値が低いというのである。

維新後、官僚政治家の末松謙澄が1884年に『歌楽論』を書き、音楽性をともなっている『万葉集』に回帰すべきだと主張した。また貴族院議員で帝国大学文科大学長の外山正一は『帝国文学』に『万葉集』の自然な表現の方が『古今集』の技巧的な作風より優れているとした。正岡子規が「歌よみに与ふる書」を新聞に連載して『万葉集』に注目し、評判になったのは1898年である。子規は末松の書物を参考にしたと思われるが、子規に先行して『万葉集』を「発見」したのは政治家であった。もっとも子規も政治家志望であったのだが、出身が松山藩という幕府側だったので、出世が望めず文学に転じたとも伝えられている。

賀茂真淵が『万葉集』に見出した「直き心」や「まこと」は、維新後、天皇に対する姿勢としても利用される。大伴家持の「うみゆかば みづくかばね やまゆかば くさむすかばね おおきみのへにこそしなめ かへりみはせじ」は兵士の出征を送る歌として使われ、現在も靖国神社に併設されている戦争博物館「遊就館」の展示の冒頭に置かれている。

沖縄に「命(ぬち)どぅ宝」、命が最も大事、ということばがある。沖縄では、自殺した人は門中(むんちゅう)の墓には入れてもらえないというほどである。しかし沖縄戦では、日本軍の強制があったにしろ、多くの県民がかつては「集団自決」と呼ばれた強制集団死をとげた。「命どぅ宝」から強制集団死へ。琉球処分直後から始まった日本人への作り変えが完成したようにみえる。

7.おわりに

1972年の沖縄再併合の際、子どもが「日本に復帰したら、雪が降るの?」と尋ねたという話が伝えられた。笑い話で済まされることではない。「日本は四季があって美しい」というような言説は、冬には雪が降り、春には桜が咲くという「日本人」の季節感覚を沖縄の人びとにも強制する。沖縄の桜は1月に開花する。「日本人なら誰でもわかるよね」というような曖昧であるからこそ強制力を持つ事柄を共有しないと日本人として認められないのである。

日本国臣民を「天皇の民」につくりかえることを「皇民政策」と呼び、植民地の人びとにそうすることを「皇民化政策」と区別することが一般的に行なわれているようである。沖縄を同一民族と考える場合、「沖縄における皇民政策」とされるのだが、わたしは「沖縄における皇民化政策」と記してきた。

かつて「国史学」、「国文学」ということばがあったが、さすがに「国史学」は死語になりかけているし、「国文学」も「日本文学」に置き換えられてきた。しかし「国語」はいまだに健在で、教育現場でも「国語教育」を「日本語教育」に改める動きはまだまだ弱い。

日本人のための「国語教育」、外国人に向けた「日本語教育」という区別が外国人向け日本語教育の世界で行なわれてきたことも、「国語教育」ということばを死語にするうえでの小さな足かせになっているのかもしれない。

日本語教育学の世界では、日本語教育の歴史は1895年の台湾から書き起こされてきた。わたしが担当したときには、1879年の沖縄から説き起こした。その後に痛感してきたことは、日本人意識を持っていなかった日本列島の民衆を「日本人」、天皇の民につくりかえる明治政府の作業と、植民地の人びとを皇民化する政策はひとつながりのものとして位置づけなければならないということであった。

普遍的にいえば「国民の創出」、日本でいえば「皇民」としての臣民の創出を当然のこととし、植民地における皇民化政策=同化政策を悪とする視点を克服することによって、現代帝国主義の変容のなかで、国家としてのまとまりを失いかけている国々の政府が、「国際貢献」を装うようなナショナリズムを鼓吹し、国民の再統合をはかろうとしていることの本質を見抜けるのではないだろうか。

 注記―年号表記は、太陰暦が使用されていた明治5年までは太陰暦で、翌1873年からは西暦で表記した。日露和親条約は安政元年12月21日調印で、西暦では1885年2月7日である。第1の理由は、年月日や時刻表記は現地主義が原則だが、意外と守られていない。例えば真珠湾攻撃は12月7日。第2の理由は、日露和親条約が安政2年と書かれている文献が少なくないこと。これは安政への改元が11月27日だったため、西暦1855年の10か月余は安政2年にあたる。そのため安直に1855年=安政2年と置き換えてしまい、1855年2月なら安政2年だろうとしてしまった誤りだろう。そのため、明治5年以前は、現地の日本で使用されている年月日とした。

 

【注】

注5.井上ひさし『國語元年』、新潮社、1986年、新潮文庫、1989年

注6.高田宏『言葉の海へ』、新潮社、1979年

注7.千本秀樹「部落間差別問題から考える関係の変革」、『季刊現代の理論』、vol.2,2005年新春

注8.阿満利麿『歎異抄にであう』、NHK出版、2022年4月

注9.阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』、ちくま新書、1996年

注10.『東京新聞』、2009年8月29日、「こちら特報部」

注11.千本秀樹「靖国神社が『反靖国』をつくる」、『季刊現代の理論』、vol.6、2006年新春、
  千本秀樹「国家に戦没者追悼の資格は無い」、『季刊現代の理論』、vol.9、2006年秋

ちもと・ひでき

1949年生まれ。京都大学大学院文学研究科現代史学専攻修了。筑波大学人文社会科学系教授を経て名誉教授。本誌代表編集委員。著書に『天皇制の侵略責任と戦後責任』(青木書店)、『「伝統・文化」のタネあかし』(共著・アドバンテージ・サーバー)など。

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