この一冊
『日本共産党―「革命」を夢見た100年』(中北浩爾著/中公新書/2022.5/1210円)
共産党の先行きを本気で憂うる歴史研究書
本誌編集委員 池田 祥子
歴史研究書としての『日本共産党史』
「日本共産党」といえば、人により、世代により、ある時は「輝く星!」、「頼りになる政党」だったり、全く逆に「信頼できない政党」と危ぶまれたり、さらには「打倒の対象!」と敵視されることもあった(あるいは現在形?)。
ただ、本書の著者は1968年生まれ。そして、東京大学法学部卒、同大学院博士課程を経た「日本政治外交史」「現代日本政治論」を専門とする研究者であるという点からも、本書は極めて客観的な「日本共産党」の歴史研究書となっている。それだけに、新書にしてはかなり分厚い(また、資料として、「日本共産党関連年表」や「各種データ」として年次ごとのグラフや、中央組織の変遷、最高幹部の変遷なども末尾に掲載されている)。
19世紀末から20世紀初めにかけて、片山潜、安部磯雄、幸徳秋水らによる日本初の社会主義政党としての社会民主党が結成されるが、たちまちに治安警察法によって結社禁止処分を受けてしまう。それでも執拗に1903年の「平民社」(幸徳や堺利彦)、1906年の「日本社会党」(片山や堺)の結成・結社禁止と続くも、1910年「大逆事件」によって弾圧されてしまう。その後、第一次世界大戦以降、自然発生的な労働争議、小作争議も頻発し、大杉栄などのアナーキズムに基づくアナルコ・サンジカリズムが気を吐いていた。
しかし、アナ・ボル論争(アナーキズムVSボルシェビズム)の後、1917年のロシア革命が歴史的に大きなインパクトとなり、ロシア共産党を中心とした世界的な「コミンテルン」の「指導」、後押しもあって、1922年(7月、9月、11月)堺利彦、山川均、高瀬清、荒畑寒村、高津正道などによって日本共産党が正式に結成された。奇しくも2022年は「結党100年目!」である。
ということで、本書の目次を、「章」だけでなく「節」まで含めて以下に紹介することにする。これを見るだけでも、大まかな日本共産党の歴史、その紆余曲折、浮き沈み、現在の問題点、なども概観できるだろう。
【目次】
はじめに
序章 国際比較のなかの日本共産党
1 東欧革命・ソ連崩壊と各国共産党の転換
2 日本共産党の柔軟性と教条性
3 ユーロコミュニズムの時代
4 宮本路線の独自性
大日本帝国下の結党と弾圧 ― ロシア革命~1945年
1 ロシア革命と日本共産党の結成
2 党の再建と相次ぐ弾圧
3 党組織の実態と理論・政策
4 壊滅した日本共産党
戦後の合法化から武装闘争へ
1 アメリカによる占領とそれとの相克
2 徳田球一の指導と反米への傾斜
3 コミンフォルム批判から武装闘争へ
4 六全協と宮本路線への道
宮本路線と躍進の時代 ― 1955~70年代
1 独自の平和革命路線と1961年綱領
2 ソ連・中国との対立と自主独立路線
3 宮本路線と大衆的前衛党への前進
4 人民的議会主義と民主連合政府構想
停滞と孤立からの脱却を求めて ― 1980年代~現在
1 苦境のなかで起きた東欧革命とソ連崩壊
2 政界再編・政治改革と一時的伸長
3 2004年綱領と党勢の衰退
4 野党共闘とその限界
終章 日本共産党と日本政治の今後
1 変化を遂げた100年
2 野党連合政権という難問
3 野党間選挙協力の限界
4 弱体化する党組織とこれから
「躍進の時代」と言われる宮本路線 ― 1955~70年代
戦前、日本共産党がロシア共産党によるコミンテルンの指導を受け続けたと同様、戦後もまた、ロシア共産党(スターリン)の指導(干渉?)はもちろん、1949年10月、毛沢東による中華人民共和国の建国によって、中国共産党の影響や要請までもが重なり、右に左に極端なブレを示すことになった。
1950年、まずは、戦後の日本共産党の方針、「アメリカ帝国主義の植民地的な支配下での平和革命路線」に対して、「コミンフォルム」からの批判を受けるや、たちまちに、戦後初、日本共産党内の分裂が引き起こされてしまう。しかし、これまた党内の人間関係や中国共産党、ソ連のスターリンの圧力によって、1951年綱領を制定する成り行きになってしまうのだが、その綱領では、当面求められる民族解放民主主義革命は「平和的な手段によって達成し得ると考えるのは間違い」と書かれ、「武装闘争」の必要性が暗示されていた(p.180)。
そして、1952年、日本共産党(主流派)は、この武装闘争を「山村工作隊」などによって実行に移すことになる。実際には半年ばかりの「武装闘争」でしかなかったが、結果としては、戦後の治安体制の確立のための格好の口実として利用されたのは事実だろう。
実際、1952年4月28日の講和条約の発効に向けて、吉田茂内閣は治安立法の制定を急ぎ、総評などの反対運動をも、共産党の火炎ビン闘争の危険性を印象づけることで退けながら、破防法(破壊活動防止法)を成立させることになった(7月4日)。もっとも、戦前の治安維持法とは異なり、共産党を即非合法化するものではなかったが、法務省の外局としての「公安調査庁」の設置にもつながり、戦後の治安体制の確立に易々と手を貸すことになった(p.189)。
ただ、このような戦後初期の日本共産党の紆余曲折も、1953年7月朝鮮戦争の休戦協定後、世界的な冷戦体制下でのいわゆる「日本の戦後体制」(1955年体制)出立の時点で終止符を打つことになる。保守の合同による自由民主党の結成、両派社会党の統一と軌を一にして、日本共産党も55年、「第6回全国協議会」(六全協)を開き、分派に認定されていた「国際派」が復権し、この時期、宮本顕治が党指導部の中枢に返り咲くことになった(p.198)。そして、徳田球一書記長の死亡が公表されたのも、この六全協においてであった。
これ以降の、日本共産党の具体的な歩みは本書に譲るとして、いわゆる「宮本路線」と言われるものが、その都度の党員間の意見対立、分派、除名を経ながら、徐々に確立されて行くのだが、日本共産党のこの間の大会を、次に列記しておこう。
・1956年2月 ソ連共産党20回大会でのスターリン批判
・1956年10月ハンガリーでの民衆蜂起、ソ連による軍事的鎮圧(日本共産党は支持)
・1958年7月 第7回大会(書記長:宮本顕治)
・1961年7月 第8回大会(春日庄次郎、亀山幸三、離党・除名)自主独立路線の準備
・1964年11月 第9回大会(志賀義雄、神山茂夫、中野重治、除名)「自主独立」強調
・1966年10月 第10回大会 自主独立路線確立(中国派・西沢隆二、除名)
・1970年7月 第11回大会 宮本顕治書記長が新設の委員長に昇格/ 不破哲三、書記局長/「人民的な議会主義」と定式化/当面の目標:「民主連合政府」の樹立/綱領の一部改正(「マルクス・レーニン主義」を、「科学的社会主義、すなわちマルクス・レーニン主義」)/「細胞」を「支部」に修正
・1973年11月 第12回大会「民主連合政府綱領についての日本共産党の提案」/綱領の一部改正(「プロレタリアート独裁」を「プロレタリアート執権」に)
・1976年7月 第13回大会 綱領と規約の一部改正(「プロレタリアート執権」削除/「マルクス・レーニン主義」は削除、「科学的社会主義」に統一
・1977年10月 第14回大会 ユーロコミュニズムの立場をとるフランス、スペイン の共産党と共同声明
*〔1997年9月 第21回大会 宮本顕治引退・名誉議長、不破哲三委員長、志位和夫
書記局長]
宮本路線の三つの柱
これまでの日本共産党の歴史の中でも、もっとも「大衆的に」躍進した時代、それがいわゆる「宮本路線」(宮本顕治のリーダーシップの下で成立した日本共産党の政治路線)時代と重なるのであるが、本書には、その宮本路線が次の3つに要約されている(p.243)。
1.民族民主革命を平和的な手段によって実現することを目指す(1961年綱領を中核とする)
2.国際共産主義運動の内部で自主独立の立場をとる
3.大衆的な党組織の建設とそれに基づく国会などの議席の拡大を図る
以上の3つに若干の説明を加えておこう。
まず第1の「民族民主革命」という「革命」の命名についてだが、これは日本共産党の設定する「二段階革命論」の「最初のステップ」とされるものである。これは、戦前の「反天皇制民主主義革命→社会主義革命」という二段階革命論を形の上では踏襲するものになっているが、戦後は「高度に発達した資本主義国でありながら、アメリカ帝国主義になかば占領された事実上の従属国」(太字:池田)という現状認識が前提となっている。
また、これは、1955年以降、60年安保闘争における「反スターリン主義」を掲げる学生ブントや、その後の春日庄次郎「一派」など、イタリアの「構造改革路線」を支持するいわゆる「現代マルクス主義」派などとの対立、除名などを経過した後の、基本的には、現在までも続く日本共産党の「現状分析」と革命戦略である。
第2の「自主独立」路線について、一般的には「異議ナシ!」であろう。ただ、これは、日本共産党が設立されて以来の、ソ連共産党(コミンテルン、コミンフォルム)や中国共産党の「指導」「指示・命令」や「経済的援助」からの「自立」宣言ともいえる。ただ、この「自主独立」路線に至る過程では、党内の「ソ連派」続いて「中国派」との対立・除名も絡み、どこまで柔軟な「自主独立」路線なのか・・・危ぶまれる要素も少なくはない。もっとも、1972年、日本共産党「創立50周年記念」と銘打った国際理論会議が本部で開かれている。参加した共産党は、フランス、イギリス、イタリア、スペイン、西ドイツ、オーストラリアの6カ国である。ソ連、中国とは関係を断ちながらも、日本共産党の「行くべき道」の模索は続いていたのであろう。
ただ、その後の1991年12月のソ連崩壊後、世界的には各国共産党の動揺、解散、「共産主義イデオロギー」の放棄、あるいは「ユーロコミュニズム」の新しい模索・・・なども見られるが、日本共産党が、どこまでそれらの動きに連帯し、共に「次の道」を探ろうとしているのか、その模索や悩みの姿は見えてこない。ともすると「自主独立」路線!と言い続けるだけで、極めて安直な「我関せず」の方便・免罪符になっているのではないか、現在では、気になる「路線・姿勢」である。
第3の「拡大路線」についてである。
本書では、日本共産党の党員数、『赤旗』発行部数、衆院選・参院選での日本共産党の議席数・相対得票率、中央委員会の「収入と支出」の推移などが、終わりの「付録」(図表)として掲載されている。主だったものをピックアップしておこう。
党員数 (第8回大会・1961年で「党勢拡大のための総合2カ年計画樹立」
1966年 275,000人 1973年 342,000人 (その後、1980年~1990年は党員数は40万人を超えているが、その後は漸減、2014年以降はほぼ30万人)
機関誌『赤旗』発行部数(1966年2月1日 『アカハタ』を『赤旗』に代える)
1966年 1,475,000部(本紙と日曜版) 1973年 2,823,000部(同左)
(1980年に3,000,000万部を超えているが、その後は漸減、急減、2017年はほぼ 100万部台となっている)
衆院選・参院選の議席数 衆議院、参議院の議員選挙は、その直前の政治状況に大きく左右される。しかし、1960年代末から、1970年代半ばまでは、衆院、参院ともにそれなりの「躍進」を遂げている。衆院選では1969年、14議席、72年には定数491議席中38議席となり、社会党に次ぐ野党第二党となった。参院選でも1971年改選6(改選定数125)、74年13(改選定数130)。相対得票率も、衆議院、参議院全国区のいずれでもほぼ1割を占めることになった。ただその後は「頭打ち」傾向が見られ、1979年の衆院選で、過去最高の39議席を獲得した後、それを超えることはできていない。
都道府県・市区町村の議員数また革新自治体 国の衆院選、参院選と異なり、都道府県、市町村の議員数は、1967年の統一地方選以降の定常的な増加が顕著である。とくに1971年の統一地方選では、「44の道府県議選で改選数の3倍となる105議席を獲得し、自民党、社会党に次ぐ第3党になった」(p.276)
1967年4月、東京都知事選での美濃部亮吉当選以後、以前からの蜷川虎三京都府知事に加えて、「琉球政府(沖縄県)・大阪府・神奈川県・埼玉県・滋賀県・岡山県・香川県で革新自治体が誕生した。革新市政も数多く発足する」(p.274‐275)
しかし、革新自治体も、その後の、共産・社会両党の関係悪化も響き、国政選挙と同じく、70年代半ばには「曲がり角」を迎える。そして、最終的には、1978年、京都府、沖縄県、79年には東京都と大阪府で革新自治体が終焉した。
ただ、市区町村の議員は、横這い状態ながら、現在まで健闘しているのは見逃せない一つの実績であろう。
日本共産党はどこに向かうのか―著者の苦言および提言
先の宮本顕治が引退し、不破哲三委員長・志位和夫書記局長が就任した後、2000年の第22回大会で志位和夫氏が委員長となる。その後、2016年第26回大会まで、日本共産党の綱領の修正は続けられている。
だが、偶々のホットニュースが新聞に掲載された。
いま現在、党員でもある松竹伸幸氏が、志位和夫委員長が、「20年以上にわたって在任していること」に異を唱え、「党首公選」を要求している(「朝日新聞」2023.1.20 及び松竹伸幸著『シン・日本共産党宣言』文芸新書、参照)。内部での異論、批判がこのような形で表に出てくるのは、日本共産党の歴史の中でも稀有な事ではないだろうか。
ただし、問題点、批判点としては当然なのであろう。本書の著者もまた、最後に次のような問題点を指摘している。
「共産党の人事は事実上の任命制であり、党員ですら委員長選挙の直接的な投票権を持たない。天安門事件や東欧革命が起きた翌年の第19回党大会の際には、民主集中制を見直して党内民主主義を活性化すべき、最高幹部は全党員の直接選挙で選出すべきといった投稿が党員から寄せられたが、いまだ実現をみていない。共産党は民主集中制を近代政党として当然の組織原理と主張するが、かくも厳格に分派を禁止し、強力な党内統制を加えている政党は例外的である」(p.398)。
「ソ連の解体から30年あまりを経てもなお、日本共産党は民主集中制の組織原則を維持しているだけでなく、科学的社会主義と称する共産主義のイデオロギーについても見直しの兆しをみせていない。/日本共産党が自主独立路線を確立して以降、ソ連や中国の大国主義・覇権主義と戦ってきたことは確かだとしても、革命を成功させた各国共産党がことごとく人権の抑圧など共産主義の理想に反したのはなぜなのか、日本共産党は本当に兄弟党の失敗から無縁でありうるのか、ロシア革命に始まる共産主義(マルクス・レーニン主義)そのものに欠陥があるのではないか、こうした疑問に対して科学的な反論を十分に行っていない。そうである限り、共産党は多くの若者を惹きつけた過去の輝きを取り戻すことができないであろう」(p.398‐399)。
以上の問題点の指摘はもっともである。
日本共産党は、すぐにでも返答すべきではないのか。
さらに、著者は、「機関紙『しんぶん赤旗』の取材力には定評があるが、一般紙と同じく購読者の減少はかなりの程度、不可避である。民青同盟の衰退に示されるように若者の入党が少なくなり、党員数が低迷するとともに高齢化が著しい。そうしたなか、常任活動家の多さなど、堅固な党機関が重荷になりつつある。/大国主義・覇権主義や人権問題を理由に中国を社会主義と無縁の国と批判しながら、依然として同じ共産党を名乗っている」(p.400‐401)と、党の現状を心配しつつ苦情をも呈している。
その上さらに親切に!というか、日本共産党の、今後の行く道(路線転換・選択肢)を次の二つに絞って提示している。
① イタリア共産党のような社会民主主義への移行
② 民主的社会主義への移行
その上で、後者の②「民主的社会主義」について、「マルクス主義を含む多様な社会主義イデオロギーに立脚し、反資本主義や反新自由主義など旧来の階級闘争的な政策に加え、エコロジー、ジェンダー、草の根民主主義などニューレフト的な課題を重視する」と説明を加えている。そして、最後に、日本共産党が今後、この②の路線を選択するよう、次のように述べている。
「近年、日本共産党は共産主義を維持しつつも、かつての社会党と同様に護憲や非武装中立を唱え、脱原発、ジェンダー平等、国際的な人権保障などを重視している。その意味で、社会民主主義化よりも障害が少ない路線転換の方向であり、若者などからの支持の拡大に寄与するであろう」(p.402)。
日本共産党の100年にも及ぶ歴史に丁寧に付き合った著者からの、丁寧かつ穏当な提言だと思う。
最後に、評者からひとこと
私は、一つの政党やイデオロギーが「歴史的な終焉」を迎えることは、ある時にはやむを得ない、と思っている。したがって、いま現在、日本共産党がやるべきことは、党員をあの手この手で増やすことでも、自分たちの主張を差し控えながらの「民主連合政府」の樹立を目指すことでもないと思う。
自分自身でもやれていないことを口にするのは面映ゆいが、しかし、少なくとも日本の政治・歴史に関わって来た政党として、次のことは是非、当面の課題にしてほしい。
1.「マルクス主義」そのものの再検討。および「科学的社会主義」とは何か?
それが「教条化」されてきたのはなぜか?
2.「資本主義」批判の掘り下げ
3.「労働者階級」とは?
4.日本共産党が、戦後の運動を結果として「分裂」させてきたことの総括。
原水爆禁止運動、労働組合運動、教育労働者運動、60年安保闘争、60年代後半の
「全共闘運動」、部落差別反対運動など
5.「国家:幻想と権力」「民族」「社会と個人」「イデオロギーと理性と感情」
「社会主義革命という近代の幻想」これらの概念を丁寧に考え直すこと。
いけだ・さちこ
1943年、北九州小倉生まれ。お茶の水女子大学から東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。元こども教育宝仙大学学長。本誌編集委員。主要なテーマは保育・教育制度論、家族論。著書『〈女〉〈母〉それぞれの神話』(明石書店)、共著『働く/働かない/フェミニズム』(小倉利丸・大橋由香子編、青弓社)、編著『「生理」――性差を考える』(ロゴス社)、『歌集 三匹の羊』(稲妻社)、『歌集 続三匹の羊』(現代短歌社、2015年10月)など。