コラム/百葉箱
「洪庵のたいまつ」を掲げて──大阪自由大学
の10年
“大阪的なものとは何か”を求め、無縁社会の「学びの場」としても
ジャーナリスト 池田 知隆
ゆるやかな交流とアジール
「時を超えた斬新なデザインや」「大阪に長いこといて、こんなん知らんかったわ」──さわやかな秋空が広がった2022年10月29日、「まちあるき・北船場(淀屋橋~北浜)を歩く」の参加者たちから歓声があがった。コロナの感染拡大が一時的にやわらぎ、街の今昔を見て回ろうと大阪自由大学が久しぶりに開いた催しでのことだ。
「ひゃあ、鰻の定食が6000円以上するで」「そんなもんやろ」と、鰻屋の店先のメニューをめぐって談笑の輪が広がっていた。八代将軍・徳川吉宗の勧めから大阪城付近で開業した老舗で、創業者は鰻の美味しい食べ方を研究し、「大阪まむし」を考案したという。ご飯とご飯の間にうなぎを挟んで蒸し、「ご飯の間(ま)で蒸す」ということから「まぶす(混ぜる)」、いつの間にか「まむし」となったそうだ。たまたまこの日、「生きた建築ミュージアムフェスティバル大阪」(イケフェス大阪)のイベントも開かれ、北船場、中之島界隈には若いカップルも目立ち、大阪という都市の魅力を再確認していた。
「予想していたより10倍はよかった」「建物の選択はもちろん、それに関わる人物、物語のエピソードがおもしろかった」。大阪の建築を考える連続講座「モダン大阪の面影」を受けた形での交流イベントでもあり、参加者から望外の好評が得られた。コロナ禍によって約3年近く、活動休止を余儀なくされ、9月に活動を再開したばかり。スタッフもまた、心地よい充実感を久々に味わっていた。
大阪自由大学の講座やイベントは、原則として1回1000円で、いつでも自由に参加できる。講座の再開を待っていた高齢者たちの熱い思いを肌身に感じながら、私は常連さんの何人かの顔を見かけないのが気になった。
いつもリュックを背に「元気しているよ」とにこやかに笑顔をふりまいていた80過ぎの女性Ⅰさんもその一人。大阪城に近い住宅地の民家で一人暮らししていたが、夏の間、息を引き取っていた。身寄りもなく、亡くなって2日後に見つかったという。あちこちの文化講座を聴講して回るのがいきがいのようだったIさんにとって大阪自由大学は、大阪という無縁社会のなかで一種のアジール(避難所、自由領域)だったのかもしれない。
「知的交配」と自由な精神
経済が低迷し、貧富の格差が拡大している日本。「失われた30年」が繰り返し叫ばれ、明るい兆しはいっこうに見えてこない。しかし、そのはるか以前から大阪では「地盤沈下」が嘆かれ、大阪はある意味で日本の「先端」であり、「縮図」でもあった。
なぜ日本の大都市の中で大阪の落ち込みが激しいのか?
なぜこの十数年で大阪が突出して高齢化が進んでいるのか?
大阪をめぐるそんな疑問がずっと私の頭にこびりついていた。その大阪の謎をどのように解いていけばいいのだろうか。まず、ささやかな市民の学びと交流の場をつくりたい、と2012年7月、大阪自由大学を旗揚げした。初代学長には雑誌『上方芸能』発行人の木津川計さんになっていただいた。
大阪自由大学は、大学と名乗ってはいても、いわゆる学校教育法でいう教育機関ではない。各地域には街の活性化を掲げたご当地大学が続出し、高齢者大学、健康大学なども挙げれば、大学と名のつくものは数えきれず、大阪自由大学もまた、それらの一つといえなくもない。ただ、学びとは、文化を単に「消費」するものではなく、「創造」していくものでありたい、と思ってきた。
「リベラル」には、「自由主義的」というより先に、「気前がいい」とか「ケチケチしない」「寛容」という意味がある――。大学設立準備の講演会で、哲学者の鷲田清一さんからそんな話をうかがった。なるほど辞書をひらくと、そう書かれていた。大阪という都市の地層にそのような大らかな「リベラル」な精神が息づいているのかもしれない。そのころ、そんな期待も抱いていた。
大学の起源は11世紀のイタリア・ボローニャまでさかのぼる。学問を目指して集まった人たちによる自治組織(ギルド)で、そこには学ぶ楽しさと考える面白さを求め、人生を豊かにしようという人たちの意欲にあふれていた。大阪にも古くから中央権力とは一線を画した自由な文化が育っていた。
江戸期の大坂で、町人たちによる学問所「懐徳堂」が生まれている。元禄バブルが崩壊した後に大坂の豪商たちが出資して設立した学びの場だ。地方の各藩の財政状況が厳しい現実を見ながら、当時の大坂町人たちは「子孫に残せる財産は教育でしかない」と考えていたという。しかも今の財団法人のように元手の利子で運営する斬新な方法をとっていた。そこから富永仲基、山片蟠桃ら偉大な町人学者が育っていった。
「大坂は、自治都市であるとともに寄付に積極的な気前のいい市民文化があった。真の意味で『リベラル』な都市でしたよ」
懐徳堂の流れをくむ大阪大学の元総長でもある鷲田さんはそう語っていた。大坂文化の特徴は「大事なことは民間でやれ」という「私立の思想」だった。その思想は教育だけでなく、橋や公共施設の建設などにも及び、「大事なことはお上に任せない」という気風が明治まで引き継がれたという。
学ぶことへの喜び
大阪の歴史をたどると、そんな自治的な風土をめぐる話題は尽きない。作家、司馬遼太郎さんは、「大阪の原形―日本におけるもっとも市民的な都市」(『十六の話』中公文庫)の中でこう述べている。
「五世紀の当時、いまの大阪市が所在する場所のほとんどは浅い海で、一部はひくい丘陵(現在の上町台地)だった。この丘陵には水流がなく、水田もなかった。従って、農民はほとんど住んでおらず、むしろ漁民の住む浜だった。この上町台地という変形的な小半島のまわりは、古代の港だったのである」
宗教人類学者、中沢新一さんもまた、『大阪アースダイバー』というユニークな大阪論を展開している。大阪には、中ノ島、堂島、福島、網島、出来島、姫島など、島のつく地名がやたら多く、文字通り砂州から成長していった。この砂州に渡来民や海民が活躍して「商人」となり、「町場(まちば)」、そして都市が形成されていく。その異質な人々が無縁社会を律する規範として「信用」を大事にし、仲間を作り、自分たちの社会をつくろうとした、というのである。
「東京のように皇居(江戸城)を中心とした権力思想の都市」でもなく、京都のように中国から輸入された観念論的に設計された都市でもない。大阪は太陽が動く東西の軸を基に設計する「自然思想」が都市の土台になっており「古代人のような自然なおおらかさと、人間の野生が都市の構造に組み込まれている」という中沢さんの指摘はおもしろい。
大阪・北船場にある適塾。幕末、緒方洪庵が開いたその建物は、二階建てのただの商家風の民家だ。門もない。その適塾について司馬さんはこう書いている。
「すばらしい学校だった。
入学試験などはない。
どのわか者も、勉強したくて、遠い地方から、はるばるとやってくるのである。
江戸時代は身分差別の社会だった。しかしこの学校は、いっさい平等だった。さむらいの子もいれば町医者の子もおり、また農民の子もいた。ここでは、『学問をする』というただ一つの目的と心で結ばれていた。」(洪庵のたいまつ)
大学とはそもそも、校舎も黒板もないところで、学びたい人が集い、自ら探してきた教授に問い、学ぶことから始まった。与えられたことを学ぶのではない。だれもがやっていないことを学ぶ。自ら課題を見つけ、挑み続けることの喜びがある。
「維新」政治と<大阪的なもの>
そんな司馬さんがいう「洪庵のたいまつ」はどうなっているのだろうか。すでに絶え、消えてしまったのかもしれない。いまの大阪からは「自治の精神」や「学び」の気風はあまり感じられない。できれば、その「洪庵のたいまつ」を再点火し、灯りをともすことができないだろうか。
大阪自由大学では、大阪の風土、歴史、文化を考える連続歴史講座「大阪精神の系譜」(14期、計43回)などを開講。2018年からは「新・大阪学事始」と題した講座を開いている。
設立当初は、さまざまな試みに挑戦した。博士号を取得しながら就職できない若い研究者や表現者、大学院生たちに発表の場を与え、引退しているシニア層が彼らを支えていくことができないだろうか。社会的経験を積んだ高齢者と若者との交流を重ねることで「知的交配」を図りたい。だが、若い研究者に対する積極的な経済支援を抜きには、それは最初から無理な話だった。キャリアを重ねることが求められ、生活資金に事欠いている若い人に参加を求めることには限界があった。
この10年の歩みはまた、大阪で展開されていった「維新」政治を見つめることでもあった。行財政コストを削減するために多くの文化施設の廃止論議が表面化した。そのたびに市民による施設見学会を開き、討論会を行う「移動大学」も実施した。だが、あえて政治的な論議とは一定の距離をおいた。もっぱら歴史や文化を中心にすえながら、「大阪的」なものとはなにか、考えながら活動を続けた。
2020年春、コロナの感染対策として全国の学校で一斉に休校措置がとられた。大阪自由大学も活動中止を迫られたが、そのときの講座のテーマは「<大阪的>ってな~に!?」だった。講師は、国際日本文化研究センターの井上章一教授(現所長)。あいにく井上さんの「大阪論」を聞くことができなかったが、その後のコロナ禍を通して<大阪的なもの>が再び、鮮やかに浮かび上がった。
なぜ大阪が突出して医療崩壊してしまったのか?
なぜ大阪のテレビではヨシモト(吉本興業)の芸人が知事や市長を賞賛しまくっているのか?
いったい大阪はどうなっているのだろうか。よく「普通でないことが大阪の個性」といわれ、ともすれば、「東京の基準(常識)から外れているほど『大阪的』」ともいわれた。本当にそうなのか。
「新自由主義」を掲げ、市民の間に競争意識を高める「維新」による政治が大阪を席捲した。そのことによって、市民の暮らしはどのように変わったのか。少子高齢化と人口減に少しは歯止めが効いているのだろうか。逆に、大阪の空洞化をさらに加速しようとしていないのだろうか。次々と疑問が広がっている。
大阪都構想が消えた後、大阪・関西万博の開催によって弾みをつけ、カジノの誘致が進められている。大阪をカジノビジネスの実験場にするなかで、長い歴史をかけて培ってきた大阪の都市格、ブランド力が失われることにはならないのか。見せかけが大きいほど、人はだまされる。都市における豊かな生活文化とはなにか。考えなくてならないテーマは尽きることがない。
「フリマ」的運営の限界も
いま、長きにわたるコロナ禍を通して、私たちは暮らしのありようを見る目が根底から揺さぶられている。人が集まり、語り合うことの楽しさも再認識させられた。だが、この間、市民の交流を主とした私たちの活動はお手上げ状態だった。読書カフェや短歌塾などでは常連の仲間とオンラインでつながることができても、一般向けの公開講座、交流活動は開けなかった。
これからどのように活動を続けていけるのか。大阪自由大学は岐路に立たされている。理想を高らかに掲げても、財政的な基盤がなければ、継続が困難になるのは当然のこと。どこからも助成金を得ず、毎回、1000円の参加費をいただく、いわゆる「投げ銭」システムという運営方式も行き詰まってきた。
自分が学びたいことを他の人と一緒に学び、ゆるやかにつながっていければいい。一枚の布のうえに物を並べることで、それに関心を持ち、共鳴してくれる人を待つ。いわばフリーマーケットの延長のような運営でもあった。そんな「フリマ」的運営だったから、どうしても事業を拡大していかなくてはならない、という野心もなかった。「ほどほど」に楽しみながら、紆余曲折をたどってなんとか10年が過ぎた、というのが実情だ。
もとより運営にあたってきたスタッフは、新聞、放送などマスコミの現場で働いてきた団塊世代の定年退職者が中心だ。お金はなくても、豊かな人脈を頼りにしたボランティア活動だった。そのスタッフのだれもがもう後期高齢者となる。
これからも、大阪という豊かな歴史と文化的土壌のもとで、「自治の精神」で「学び」と「出会い」の場を保ち続けたい。「洪庵のたいまつ」をだれに、どのようにバトンタッチできるのか。次の時代に引き継いでくれる人を探している。だれかいないだろうか。
大阪自由大学
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いけだ・ともたか
大阪自由大学主宰 1949年熊本県生まれ。早稲田大学政経学部卒。毎日新聞入社。阪神支局、大阪社会部、学芸部副部長、社会部編集委員などを経て論説委員(大阪在勤、余録など担当)。2008~10年大阪市教育委員長。著書に『謀略の影法師-日中国交正常化の黒幕・小日向白朗の生涯』(宝島社)、『読書と教育―戦中派ライブラリアン棚町知彌の軌跡』(現代書館)、『ほんの昨日のこと─余録抄2001~2009』(みずのわ出版)、『団塊の<青い鳥>』(現代書館)、「日本人の死に方・考」(実業之日本社)など。本誌6号に「辺境から歴史見つめてー沖浦和光追想」の長大論考を寄稿。
コラム
- 百葉箱/「洪庵のたいまつ」を掲げて—大阪自由大学の10年ジャーナリスト・池田 知隆
- 沖縄発/小さな声に寄り添う琉球新報記者・宮城 隆尋
- 若者と希望/複数の〈わたし〉を生きるということ大学非常勤講師・米田 祐介
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