コラム/温故知新
革命運動に生きた渡辺政之輔と丹野セツ
下町の労働運動史を探訪する(6)
現代の労働研究会代表 小畑 精武
わずか4年半の夫婦
丹野セツは渡辺政之輔の妻として知られている。だが夫婦であった期間はわずか4年半、1924年(大正13年)3月15日の結婚から28年(昭和3年)10月6日の台湾・基隆(キールーン)での渡政客死で終わった。さらに実際の夫婦であった時間は、渡政のモスクワ会議出席(9カ月)や地下活動、獄中の期間もあり実際にはもっと短かった。
わずかな時間ではあったが、渡政は労働者共産党員第一号として南葛の舞台から東京下町を超え、浜松の日本楽器の大争議、さらに日本を超えモスクワへと飛び、コミンテルンと日本労働運動の戦略論議に、また総同盟分裂後の評議会の活動と休む暇もなく活動を続けた。下獄が唯一の休憩だった。
評議会の婦人部長となった丹野は下町から日本労働運動の飛躍へ下町の精工舎、日清紡、東京モスリンなどへ潜り込み、組織化をはかった。1925~26年は評議会が総同盟から分裂し、組織拡大へともっとも飛躍した黄金時代だった。革命への夢を抱いていた二人の人生にとっても最も充実していた時であろう。
日立時代の丹野と川合
丹野セツは1902年(明治35年)11月3日に福島県の小名浜港で大工の子として誕生。父の机の上に聖徳太子の掛け軸(太子講)、正月には曲尺、墨壺、お供えが置かれ、1日と15日には赤いご飯を食べた。大工だが入れ墨嫌い、偶然だが後に丹野の夫となる渡辺政之輔は「こうの命」という入れ墨を彫っていた。母は裁縫が得意、9人の子どものうち8人を育てた。父が日立鉱山で働くことになり9歳の時に日立へ転居した。「小学校5年から高等科までを日立鉱山の坑夫長屋で暮らしたことが私の思想形成には大きな意味をもっている」と丹野は語っている。
後に同志となる川合義虎、相馬一郎、北島吉蔵も日立鉱山の坑夫の子だった。3人自らも日立鉱山で働き、1919年の日立友愛会発会式に参加していた。丹野も参加している。川合は日立鉱山が労働者を解雇し、家財道具を放り出し布団まではがす会社の非人道的弾圧に憤り、東京に出る決意を固めた。20年12月の社会主義同盟設立大会時に検挙され入獄していた川合を丹野は訪ねる。21年1月にはじめて上京し、川合に面会し、その後川合から送られてきた「労働新聞」(大杉栄)を購読し、相馬や北島と読み合わせをして思想を深めていった。当時は暁民会(高津正道)、ML会(堺利彦)、水曜会(山川均)など様々な社会主義グループが併存していた。川合は暁民会に加入した。
丹野は1917年に故郷の日立製作所給仕となりさらに日立本山病院看護師。1919年4月には茨木県看護婦試験に合格している。この頃「婦人公論」を読み婦人参政権に熱中し、11月には日立友愛会発会式に参加した。丹野も川合たちの跡を追いかけるように上京しては家族から連れ戻されることを繰り返している。相馬一家は城東電車の亀戸の水神森(今もバス停あり)近くに大きな家を1920年に求め、下宿屋を始めた。
おしるこで結婚式
渡政には「こう命」と入れ墨を彫った「能村こう」という恋人が永峰セルロイド工場時代からいた。こうは関東大震災を機に渡政を捨てた。彼女は渡政の恋人ではあったが同志ではなかった。このこともあったのか、渡政は結婚にあたって妻たるべき丹野に「まず妻であるよりも、同志であることを自覚すべきである」とおごそかに申渡した。
結婚の前に、黒田寿男(帝大新人会、弁護士、戦後労農党委員長)が小名浜の丹野の両親の家に行き、結婚の許可を得ようとしたが、父親から「乞食にやっても、社会主義者には絶対やらない」と断られた。そのため丹野の籍は抜けず一生丹野姓で終わっている。
結婚式は渡辺の家に南葛の仲間が20人ほど集まり、おしるこで祝っている。渡政は酒飲みで呑めば3升ほど飲めたが、酒での失敗があってから飲まなくなっていた。彼にとって丹野セツは自分を震災後市ヶ谷刑務所に訪ね、また差入れをし、留守宅に母を慰問してくれた唯一の女性であった。
当初は同棲もできなかった。亀戸の日清紡に移ってから同棲が始まった。震災救援のためにドイツの労働者国際救援委員会から8000円が贈られ、東部合同労組と総同盟職業紹介所を併設した事務所が本平町2-21番地に出来上がる。精工舎(現在は錦糸町オリナス)のすぐそばだ。6月にそこへ丹野、渡政の母の渡政一家は階下の6畳、3畳に移り住んだ。他にも日暮里に日本労働学校分校、大井と大島に会議室兼宿泊所がつくられている。
丹野の工場もぐり込みと活動
丹野セツがはじめて上京して就職したのは1921年、18歳の春から夏にかけての頃。職は順天堂看護婦であった。しかし長くは続かなかった。夏ごろには小名浜の家に連れ戻されたからだ。翌年再び家出して実費診療所(中下層労働者のため実費で運営される診療所)の看護婦となって、社会主義団体の曉民会や赤潤会(山川菊枝、伊藤野枝による日本で最初の女性社会主義団体)に参加。夏ごろに本所の精工舎の女工となった。新たに結成された南葛労働会に川合に勧められ加入し、そこで渡辺政之輔と知り合う。23年の関東大震災に乗じた亀戸事件(9月)で川合義虎は虐殺される。渡政は6月の第一次共産党弾圧で市谷監獄に下獄中で偶然にも助かった。
関東大震災で精工舎は焼け落ち、仕事がなくなって会社から十何円かの「解散手当」をもらい、丹野は“これで当分食べられる”とほっとしている。
震災後に東京モスリン(亀戸工場)女工となった。すでに組合はなくなっていて何もできなかった。渡政と結婚した時(24年3月15日)には東京モスリンにいたが「工場の中では組織活動はほとんどできませんでした」(「丹野セツ 革命運動に生きる」)
その後東京モスリンに近い亀戸の日清紡に就職、25年6月に三田土ゴムの柳島工場(現墨田区)に入るが8月にクビになっている。その後、働きながら総同盟の婦人部の仕事をしていた。総同盟の分裂後、丹野は沖電気の消費組合の仕事をし、帰りに評議会に寄って評議会の仕事をしていた。
「野坂竜(野坂参三の妻)さんに来ていただいて編み物の講習の名目で婦人の集まりをもち、組合づくりの話をしました。野田醤油の組合へ泊りがけで、婦人の方々との話し合いによくいきました。工場の出入りにはずいぶん気をつけていたのですが、ある日、工場の仕事を終えて出るところを運悪く亀戸署の特高に見つけられ、『ここで働いているのか』というのです。翌日、工場へ出たら、たちまちクビです」。日清紡には、相馬の妹の名を借りて入ったが、すぐにバレてクビになっている。
その後、日清紡では26年6月15日に当時の東京合同労組の豊原五郎(帝大セツルメント労働学校第1期卒業生。亀戸署の拷問で健康を害した)の指導のもとに争議に入り、豊原含め30名が検挙された。外からの働きかけでは工場内の2~3人の指導者はすぐに途絶えてしまう。そこで中の人たちの意気を上げるために女工を入れることになり、丹野と古川婦人部長が入ることになった。
「朝の六時の交代時間に入っていく女工さんの列に紛れて門を入るのです。スト中の門には特高と抜身の日本刀をぶらさげた暴力団もずらり並んでいます。ピカピカに光る抜身の間をぶるぶる震えながらくぐりぬけ、女工さんたちの食堂に入り、ビラを撒き、アジ演説を始めましたが、たちまちつかまり、がんじがらめにされて亀戸署に連れてゆかれました。『文書偽造(にせの出勤簿のことですかね)、家宅侵入罪』で市谷刑務所に送られましたが、不起訴になり、裁判所で釈放されました」(『丹野セツ 革命運動に生きる』勁草書房、1970)
当時のビラの一つに争議への暴力団介入が記されている。
こうした暴力団からの弾圧もあって、もぐり込みによる職場組織化はほとんど成功していない。
婦人部組織をめぐって
渡政は前年25年11月に関東地方評議会の「婦人部および婦人部協議会について」の草案を書いている。その中で「労働組合の組織の中において男女の区別はない、男も女もともに同一な権利と義務とを持っているのである。女だからというて種々なる運動から除外されるようなことはない。・・・無産婦人運動の目的は、男子労働者とともに協力して、この資本主義と戦い隷属からの解放を計ることである。他面においては封建的な残存物、因襲およびその他に対しても戦わねばならぬのである。
さらに婦人の要求は―産前、産後の休養等に関し、男子の協力のもとに戦わねばならぬ。組合婦人部の任務は、以上述べた仕事をするわけである。
第1―婦人労働者の思想水準を高めて、男子労働者と同一戦線に立たせるための教育。
第2-婦人労働者の特殊要求のために組合内部における婦人の結束と、男子労働者と協力を計ること」をあげている。
翌年「労働組合婦人部は何故必要か―婦人部不必要論に反駁す―」を渡政は執筆し、26年4月の評議会第2回大会で「総本部婦人部設置並びに婦人部活動に関する決議案」を丹野が東京合同労組として提案している。大会では賛成×反対の大激論となった。
渡政は、「婦人オルガナイザーがいればよい」という不要論に対して、「婦人部があればこそ、婦人の特殊な利害、要求、事情、たとえば、組織、連絡、調査、教育等すべてを、正しく組合の運動と合体せしめ、男子と婦人がともに協力的に資本家階級に対抗しうるような方向へ導くことができるのではないか」と反論している。さらに、「婦人組合」を作った方がよいという不要論の方向は男子と婦人が協力して資本家と戦っていくことことに反すると批判している。
丹野は、こうした渡政の「婦人部方針」に沿って活動し、25年5月に評議会婦人部長となった。「26年に共産党に入党、婦人部長をつとめ、また27年関東婦人同盟に加入し、常任委員となった」と日本社会運動人名辞典(編集代表、塩田庄兵衛、青木書店、1979)にあるが、「丹野セツ 革命運動に生きる」(勁草書房、1970)では入党についてはふれているが、党婦人部長就任についてはふれられていない。また、「婦人同盟」について、渡政はモスクワから帰国後「婦人の組織はつくるべきじゃないとあれほどいっておいたのに」(同)と丹野をたしなめ、あらためて反対の立場を示している。丹野も「私は反対でした」(同)と同調している。
27テーゼと渡政の客死
このころ共産党には「結合のまえの分離」を説く「福本イズム」が浸透し、26年には協同戦線的党論を説いて理論的指導者とされていた山川均を批判した。12月に雪の五色温泉(山形県)で開かれた大会で福本イズムを受け入れた。こうした動きに対しコミンテルンは福本、渡政、徳田、佐野文夫(後に転向)と山川、堺、荒畑寒村たち両派を呼んだ。だが山川、荒畑などは反発し“労農派”を名のり行かなかった。
渡政はモスクワに行く途中、27年2月ウラジオストクで鍋山貞親(労働者出身の共産党中央委員、33年6月転向)からモスクワでは福本イズムが批判されているとの情報をえて、渡政は福本反対派になってモスクワに着いた(「丹野セツ 革命運動に生きる」)。これに対し「渡辺政之輔とその時代」の著者加藤文三は「渡辺政之輔や中尾勝男は、1ケ月もかけて、連日いろいろな人を交えての討論で、福本主義の誤謬をようやく認めた・・」としている。
モスクワでの日本問題委員会は4月下旬に始まり7月15日に「日本問題に関する決議(27テーゼ)」として、コミンテルン執行委員会で採択された。渡政は11月に帰国。12月には日本共産党の最初の綱領的文書として、日本共産党拡大中央委員会で全員一致確認された。
「27テーゼ」を具体化する党の大衆化、機関紙の確立活動に渡政は取り組み、「赤旗」創刊の辞を執筆。第一回普通選挙を戦う。28年の3・15共産党弾圧を運よく逃れ潜伏、9月に鍋山貞親と上海へ党務でむかった。10月、さらに台湾の共産党支援に向かった。6日台湾の基隆港で警察から不審者と見られ銃撃戦となって、客死。自殺か、他殺か?結論は不明のままだ。他殺説をとる丹野セツは渡政が客死するたった2日前に3・15弾圧の「中間検挙」で逮捕された。渡政も丹野もお互いの事件を知る由もなかった。
やがて日本は満州事変(1931年)から15年戦争に突入し、共産党は壊滅していった。
短かった二人一緒の時間
渡政は第一次共産党事件の刑で26年4月下獄、8月に出獄するも、ただちに日本楽器争議支援のため浜松に潜入、10月ごろから本所太平町の東京合同労組本部に母てふと妻丹野セツを残して行方をくらまし「私生活のない地下に潜って」行った。
28年の3・15弾圧後、6月治安維持法が改悪され、死刑、無期懲役が導入された。丹野は渡政に「『無期懲役になるくらいなら、いっそ死刑の方がいいわね』と言うと渡政は『馬鹿いえ!死刑になったら絶対だめだ!殺されるより無期の方がいい、一生監獄にいても、つねに大衆は監獄の中にいるってことをちゃんと知っているんだから』といって『おれは自殺は絶対しない!』ともいいました。渡辺の死を『自殺』という敵の発表なんて、絶対信じられません」
だが、28年10月6日、渡政は台湾基隆で虐殺され、その2日前10月4日には丹野セツが「中間検挙(3・15事件で逮捕を逃れた人をねらった逮捕)」され市ヶ谷刑務所へ。わずか4年半の短い夫婦生活だった。労働者革命家としての渡政の南葛魂は下町労働者の闘魂として今も生きている。非転向を貫いた丹野は宮城遥拝を拒み続け、革命への情熱を燃やし続けて敗戦による「民主日本」を迎えることになる。
【参考文献】
『丹野セツ 革命運動に生きる』(山代 巴、牧瀬菊枝 勁草書房 1970)
『日本共産党と渡辺政之輔』(恒川信之 三一書房 1971)
『左翼労働組合の組織と政策』(渡辺政之輔 而立書房 1972)
『渡辺政之輔とその時代』(加藤文三 学習の友社 2010)
おばた・よしたけ
1945年生まれ。東京教育大学卒。69年江戸川地区労オルグ、84年江戸川ユニオン結成、同書記長。90年コミュニティユニオン全国ネットワーク初代事務局長。92年自治労本部オルグ公共サービス民間労組協議会事務局長。現在、現代の労働研究会代表。現代の理論編集委員。著書に「コミュニティユニオン宣言」(共著、第一書林)、「社会運動ユニオニズム」(共著、緑風出版)、「公契約条例入門」(旬報社)、「アメリカの労働社会を読む事典」(共著、明石書店)
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