論壇

ILO設立100周年と問われる日本

中核的労働基準の完全批准・適用が急務

元ILO理事(労働側) 中嶋 滋

課題の所在

周知のようにILOは第1次世界大戦の戦後処理の中で1919年に誕生した。2年後の2019年に設立100周年を迎える。それに向けてILO本部はもとより世界各地で様々な記念事業が企画・準備されており、日本も同様である。これを機会に、特徴的な歴史的経緯を含めILOと日本の関係について考えてみることは、労使関係にとどまらず社会対話を基礎とする社会正義/恒久平和実現に向けた今後のILO活動のあり方を追求していく上で有意義だと思う。

1世紀に及ばんとするILOの歴史の中で、日本の例が「初めて」という事例が3つある。あまり名誉なことではないが、その1は第1回総会の労働代表が資格審査で問題となり正式参加できなかったことであり、その2は「結社の自由に関する実情調査調停委員会」の発動(1965 年)であり、その3はILO/UNESCOの「教員の地位に関する勧告」の不適用に関する「勧告適用専門家委員会(CEART)」による実情調査の実施(2008年)である。これらの事例は、残念ながら、ILOの設立当初から結社の自由をはじめとする基本的諸原則が、日本において尊重遵守されてこなかったことを示すものである。

そして現在、グローバル化された経済の下で市場原理があまねく浸透し、アメリカンスタンダードの実質的強制による投機的「株主資本主義」が跋扈し、4半期毎の業績評価(長期的な視点を欠いたコストパフォーマンス上昇を殊更に重視)によって、労働者のディーセントな働き方/生き方は破壊され企業の公正運営・社会貢献もないがしろになり、ILOが設立当初に掲げその実現を追求してきた社会正義の実現とそれを基礎とする恒久平和の達成に逆行する事態に立ち至っている。

加えて近年、IoTやAI、インターネットによるネットワーク化を活用したプラットフォーム型企業の出現など「第4次産業革命」がもたらすドラスティックな社会的変化の到来が声高に叫ばれている。事実、一定分野に雇用と働き方に大きな変化が生まれている。その中であらゆる位相で格差拡大/2極化が進行している。将来展望が見出せない不安や絶望から「今だけ、金だけ、自分だけ」という社会的繋がりを遮断してしまう自己中心の個人的利益防衛に走る傾向も顕著になっている。社会正義・公正は危機に瀕している。

一方、グローバル企業間の熾烈な競争に勝ち抜き最大限の利潤を確保しようと血道をあげる企業活動への規制の強化を図ろうとする動向も顕著なものとなってきた。アナン国連事務総長(当時)によるUNGC(グローバルコンパクト)の提唱(2000年)、国連ミレニアムサミットでのMDGs(ミレニアム開発目標)の設定(2000年)、国際標準化機構によるISO26000(社会的責任の手引き)発行(2010年)、国連人権理事会による「ビジネスと人権に関する国連指導基準」の制定(2011年)、国連総会でのSDGs(持続可能な開発目標、2015年)設定など近年加速した一連の動向はその具体的現れであった。そして注目すべきはそれらの内容がILO中核的労働基準をそのまま適用すべき原則としていることだ。

ILO憲章と「フィラデルフィア宣言」に示された崇高な理念の実現に向けて意義を再確認し取り組みの強化を宣言したのが、「労働における基本原則及び権利に関するILO宣言(新宣言)」(1998年)であった。「新宣言」は「グローバル化の挑戦に応える」として「フォローアップ」を含めて採択され、その中で中核的労働基準は全てのILO加盟国が尊重遵守すべき最重要原則として位置付けられた。その中核的労働基準を軸に「全ての人にディーセント・ワーク(働きがいのある人間らしい仕事)を確保すること」がILOの21世紀の活動目標であると提起された(1999年)。

「公正なグローバル化のための社会正義に関するILO宣言(社会正義宣言)」(2008年)は、「グローバル化の社会的側面に関する世界委員会」報告(2004年)で提言された公正なグローバル化を促進するためのディーセントワーク確保に向けた57の方策を推進していくことをILOと加盟国が政労使の協力のもとで一体となって取り組むことを明らかにした。

グローバル化がもたらし更に負の影響が極限化しようとしている今こそ、中核的労働基準を実現しディーセントワークを確保する取り組みの強化がサプライチェーンの全てを含めて求められる。この点に関して日本の現状はどうか。政労使ともに理事をつとめる数少ない国の一つである日本が果たすべき役割は大きいが、期待に応え得る活動ができているかどうか、考えてみたい。

1. ILOの設立/創生期と日本

ILO設立はベルサイユ講和条約の13編「労働」(第387〜427条)に基礎をおく。この「労働」は、後にILO憲章と位置づけられるが、講和会議の下におかれた国際労働立法委員会の35回にわたる審議の報告書が基になったものである。この委員会は、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本、ベルギー、キューバ、ポーランド、チェコスロバキアの9ヵ国の代表により構成され、委員長は、アメリカ政府代表の一員として講和会議に参加したサミュエル・ゴムパースAFL会長が務めた。日本からは、落合謙太郎(駐オランダ公使)と岡実(前農商務省商工局長)の2氏が参加した。

第1回ILO総会は、1919年10〜11月にワシントンで開催された。その準備は、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本、ベルギー、スイスの7ヵ国の代表で構成された国際準備委員会によってなされた。委員会は、8時間労働制、失業予防・救済、女性(当時は婦人と表現)労働、児童労働などを議題とする決定を行なった。日本は第1回総会に、総勢60名近い大代表団で臨んだが、構成は政労使の3者構成とはほど遠いものであった。労働代表に関して資格審査委員会で真の代表と見なし難いとされ資格を付与されなかったという問題を起こしている。政府が一方的に選んで派遣していたからである。ちなみに日本の労働代表が正式に認められたのは24年の第6回総会に全日本労働総同盟(総同盟)の鈴木文治会長が出席してからである。

ILO設立に関する国際労働立法委員会も第1回総会に向けた国際準備委員会も、日本以外はほとんど全て欧米諸国に占められていた。アジアやアフリカの大多数の国々が欧米諸国の植民地とされていた当時の状況下で、第1次世界大戦の「戦勝国」の一員であった日本が占めた位置は特別であったといえる。

日本は、22年の第4回ILO総会で8大産業国の一員として常任理事国になった。翌23年には東京支局が開設され、出版活動などを通じたILO活動の周知・啓蒙を主な役割とした。日本のILO条約批准は、1922年に失業に関する第2号条約と海員紹介に関する第9号条約を批准したのが最初である。

日本のILOへの参画は、その設立の意義を理解し掲げられた崇高な理念の実現に向け活動していくというものから程遠いものであった。

2. ILO脱退ともたらした影響

1928年11月にトーマILO事務局長が来日し財界の重鎮・渋沢栄一氏をはじめ各界要人と会談し大きな影響を与えるなど、日本とILOとの関係は概ね良好に保たれていたが、1930年代に入ると日本の中国大陸への侵略拡大に伴い国際的孤立が進み、1933年の国際連盟脱退に続き1938年11月ILOに脱退通告がなされた(2年後に発効)。ILO脱退に伴い1939年5月に東京支局も閉鎖された。これらは、1938年の国家総動員法の制定、産業報国連盟の結成、1940年の労働組合解体と全日本産業報国会への糾合と軌を一にする動向であった。

ILO脱退は当時の日本の政治社会情勢からして避けられなかったであろうが、それが後世にまで与えた影響は余りにも大きかった。国際労働基準の日本への適用の面においても、基準設定における欧米の価値基準のみが絶対視される傾向の克服の面においても、あるいは比重をますます増している途上国への技術協力の提供の仕方においても、である。

3. フィラデルフィア宣言採択と戦後のILO活動強化

第2次世界大戦後のILO活動は、戦前に比べ飛躍的に強化された。1944年にフィラデルフィアで開催された第26回ILO総会で採択された「ILOの目的に関する宣言(フィラデルフィア宣言)」は、ILO憲章前文に掲げられた「世界の永続する平和は、社会正義を基礎としてのみ確立することができる」という崇高な理念が創立20年で崩れた現実を踏まえ、悲劇を再び起こさないようにILOの設立の目的を再確認し活動の強化を誓ったのである。再確認されたILOの基礎をなす根本原則は、次の4項目である。①労働は商品ではない。②表現と結社の自由は、不断の進歩のために欠くことができない。③世界の何処の片隅にでも貧困があれば、それは全体の繁栄を脅かす。④欠乏に対する闘いは、–----(中略)----- 労働者及び使用者の代表が、政府の代表と同等の地位において遂行する。この根本原則に立ち「宣言」は、追求すべき基本目標として次の3点を確認した。①全ての人間は、人種、信条または性にかかわりなく、自由と尊厳、経済的保障と機会均等の条件において、物質的福祉と精神的発展を追求する権利をもつ。②このことを可能にする状態の実現は、国家及び国際の政策の中心目的でなければならない。③この基本目的に照らして、経済的・財政的な国際の政策と措置をすべて検討し審議することは、ILOの責任である。

こうした重要な再確認・決定がなされた時および引き続く活動強化の具体的な措置が計画・実施された時期に、日本は脱退中でILOの動きとは全く無関係な位置におかれていた。国際連合は45年10月に成立したが、ILOは同年10月〜11月に開催した第27回総会で国連との協力に関する決議を採択し協定を結んだ。翌46年のILO第29回総会および国連第1回後期総会で、ILOは国連傘下の専門機関として連携して活動することが決定された。日本は国連憲章の中で敵国条項の対象とされ未加盟で、ILOにも復帰できないままの状態にあった。

現在までに採択された189におよぶ条約の中で最重要と位置づけられている第87号条約および第98号条約は、この期間の48年及び49年に採択された。この2条約に関しては適用違反があった場合、批准していなくとも結社の自由委員会(以下、「結社の自由委」)に訴える(complaint)ことができるが、この特別な監視機構が設置されたのは51年で、この期間のことである。この委員会が、ILOの基本である結社の自由の原則の全世界的な適用実施に関して非常に重要な役割を今日もなお果たし続けていることは周知の通りである。

また現在のILO活動のうち非常に大きな比重を占めている技術協力に関しても、46年の第29回総会での憲章改正によって飛躍的な拡大を遂げたものである。「総会の決定に基づいて行なう法律及び規則の立案並びに行政上の慣行及び監督制度の改善に関して、政府の要請があった時に、可能な全ての適当な援助をこれに与える」という文言を、憲章中のILO事務局の活動範囲に加えたことによってであった。この分野の活動が後年重点化され、民主化支援、貧困削減と雇用創出、労働者保護などを優先課題として取り上げ、ILOの存在意義を国際社会に大きくアピールしている。

こうした大改革に何ら参画できなかったことは、その後の日本のILO活動に少なからぬ影響を与えたといえる。政労使それぞれのILO活動への参画のあり方にも影を落とした。戦後改革の意義を主体的に問い現実化していく立場におかれなかったことがもたらした負の影響である。国際労働基準の設定をはじめ適用実施や技術協力のあらゆる面で、主導的な役割を果たすことができなかった主な要因と考えられる。

4. 高まるILOへの期待と矛盾

日本は1951年ILO再加盟、54年常任理事国に復帰、55年ILO東京支局再設がなされた。当初の東京支局の主な役割は、ILO活動や海外労働事情の紹介など啓発に重点が置かれた。再設後初の支局長には戦前の大日本帝国在ジュネーブ事務所に勤務経験があった桜井安右衛門氏が就いたが、氏が68年1月に退任して以降2012年4月に上岡恵子氏が就任するまでの44年以上に亘って、支局長ポストには労働省(現厚労省)の官僚人事枠内での「天下り」配置が続いた。しかも次長ポストも1998年以降は常に労働省からの出向組によって占められてきた。この東京支局トップの人事のあり方は、その役割を充分に果たすことを時として削ぐことに繋がった。政労使3者に対して公正平等な立場から調整などの役割を果たすことが事実上なしえなかったからである。特に、日本政府を相手として結社の自由委への訴えや憲章24条に基づく申立などを行なう場合、東京支局はILOの公正な窓口たる信頼を得られないことが多かった。

こうした政労使3者のバランスを欠いた政府による独占的人事の弊害が生じたのは、ILOの戦後改革の意義を共有する機会に恵まれなかったが故に、現実対応の中でその意義を活かしていくことが困難であったためといえる。ILOの設立目的を第2次世界大戦という人類史上未曾有の悲惨な体験を経て再確認し、それを達成するために活動強化を具体的に果たしていくべくどのような改革が必要かを具体的に検討した加盟各国の政労使と異なり、日本の政労使の場合、3者とも例えば87号条約、98号条約、100号条約そして結社の自由委が採択・設置される意義を主体的に受け止めて討議した経験はない。戦前戦中の経験から3者構成の意義すら理解していたとはいえず、活動の中で活かす術もあったとはいえない。であるから、ILO再加盟を目指して結成されその目的を果たすのに大きな役割を果たした日本ILO協会が、ILO活動を日本に定着・拡大していくために引き続き組織を維持し活動を推進しようとした時、経営者側は再加盟という所期の目的は達したので継続する組織も活動も必要なしとして協会から脱退するという事態が生じたのだ。

一方、労働側にはILOへの期待が大いに高まった。58年4月に行なわれた当時最も影響力あった労働組合ナショナルセンターの日本労働組合総評議会(総評)と機関車労組(後の動労)が行なった結社の自由委への訴えとそれに引き続いた相次ぐ官公労組の訴えであった。55年からの総評による「春闘」方針の提起と実践は、当時の公共企業体等労働組合協議会(公労協)を闘争推進の主役に押し上げた。国有鉄道労働組合(国労)、全逓信労働組合(全逓)、全国電気通信労働組合(全電通)、国鉄機関車労働組合などを主力組合とする公労協は、組織率も高く交渉力・闘争力も強く政治的社会的影響力も大きかった。しかし、当時の公共企業体等労働関係法(公労法)は、組合員の範囲を企業体職員に限定し(第4条3項)、争議行為を一律全面禁止する(第17条1項)など、結社の自由の原則を侵害するものであった。具体的に問題は、春闘時の争議行為に対する組合指導者への解雇を含む懲戒処分に関連して起きた。解雇処分された労組指導者が引き続き委員長など要職を務め団体交渉に臨もうとすると、使用者側が公労法4条を楯にして組合員たり得ないものが要職に就いている「違法組合」であるから交渉に応ずる立場にないとして団体交渉を拒否する事例が相次いで起ったのである。これを結社の自由に対する重大な侵害として結社の自由委に訴えたのである。これに続いて、同様の問題をもった国家公務員法、地方公務員法、地方公営企業等労働関係法の下にあった全日本自治団体労働組合(自治労)などの公務員関係各組合も、次々にいわゆる「ILO提訴闘争」に加わった。ILOへの期待の大きさは、「ILOは駆け込み寺ではない」という批判や「ジュネーブから青い鳥が飛んでくるのか」という疑問が出る状況をも生み出した。

5. ドライヤー委員会来日と第87号条約批准

「ILO提訴」の取り組みは、結社の自由と団結権に関する第87号条約の批准を求める運動に直結した。結社の自由と団結権に関する多くの日本案件が訴えられたことを受け、1964年3月、ILO理事会は「結社の自由に関する実情調査調停委員会」の発動を決定した。これは制度発足後最初の事例であった。事務局長の推薦する委員を理事会が任命して委員会が構成されるが、委員会の発動は、第87号条約を批准していない政府が対象である場合、当該国政府の受け入れ同意が必要とされるので、この発動には日本政府による同意が前提とされていた。日本政府は第87号条約を批准する決断を事実上した上で、委員会受入れに同意したのである。

65年1月、E・ドライヤー氏を委員長としその名を取って「ドライヤー委員会」と称された実情調査調停委員会は来日し詳細な調査活動を行い、後に膨大な報告書を提出するが、来日調査終了時に、委員会は日本政府に第87号条約の早期批准を強く促すなどの勧告を行なった。これを受けて同年6月、日本政府は、公労法、地公労法など関係法律の改正と第87号条約の批准を国会に提起し、国会はそれらを議決・承認した。

それは、58年の「提訴」から実に7年以上の歳月を要してのことであった。総評・官公労組による「ILO提訴」は、当時のICFTU(国際自由労連)をはじめ国際労働組合の共同提訴などの支持を得て、結社の自由委での最重要案件の一つとなっていて、63年までの5年余りの間に実に15回に及ぶ委員会報告が理事会に提出されていた。にもかかわらず解決に至らなかったことから、同年11月の理事会に「結社の自由及び団結権保護に関する条約(第87号)批准の提案に関して、日本政府が最初の保証を与えて以来、現在までに5年の歳月が経過し、これらの保証が12回にわたって与えられ、かつ同条約批准案件がこれまで5会期にわたって国会に提出されたが満足な結果に達しなかった事実をも考慮し」、日本案件を一括して結社の自由に関する実情調査調停委員会に付託するよう勧告がなされた。これを受けて理事会は、翌64年3月、日本政府の同意を得た上で、E・ドライヤー氏ら3名の委員を任命し委員会の発動を決定したのである。

この経過に明らかなように、結社の自由及び団結権保障という最も基本的にして重要な原則すら日本社会では理解されておらず、これもまた戦後改革への主体的な参画がなし得なかった「後遺症」の一つといえるのではないか。しかも、国家公務員、地方公務員への第87号条約の適用問題については、批准手続きに連動する形で設置された公務員制度審議会(学識、労、使の3者構成)で審議されることとなったが、消防職員の団結権や公務員の団体交渉権などいくつかの重要課題が、50年以上経過した今日にいたるまで解決されていない。「後遺症」の深刻さを示して余りある事例といえる。

6. ILO活動参加の拡大

1969年はILO設立50周年で、それを記念してILOにノーベル平和賞が授与された。日本国内でも各種の記念行事が開催されたが、人権・労働組合権尊重遵守を通じた社会正義の実現と恒久平和追求というILOの活動が評価された意義を、日本社会がどれだけ共有し得たか甚だ疑問だといわざるを得ない。ILO条約の批准においても、既批准条約の適用実施においても、常任理事国の立場を考えればなおさら決して充分とはいえない状況のままであった。 

しかし、この時期、「高度経済成長」を遂げ「経済大国」といわれる途を歩み始めた日本への注目と期待は、次第に大きなものになりつつあった。74年に日本政府のILOへの任意拠出による初めての事業としてアジア地域婦人(当時の表現)労働行政セミナーが東京で開催された。これはILO/日本マルチ・バイ技術協力と呼ばれる事業計画で、年々拡大し現在は3億円規模に達している。この方式は、「任意」といいながら「紐付き」で、具体的な事業実施の内容は日本政府によって決定され管理されている。対象地域もアジアに限定されていて、任意拠出のあり方としてILO全体での評価は必ずしも高くない。

75年の第60回ILO総会での理事選挙で、使用者側理事に日本経営者団体連盟(日経連)の吉村常任理事、労働者側理事に原口総評顧問が選出され、常任理事国である政府理事に加え、日本人が政労使ともに理事を務めることとなった。英、米、独などほんの数カ国に過ぎないこの状況は現在まで続いている。

日本への期待を一気に高めたのは、77年のアメリカのILO脱退に伴う深刻な財政危機の到来であった。当時、アメリカの財政負担割合は25%を占めており、脱退のILO財政に与えた影響は甚大で、大幅な事業削減と230人もの人員整理が余儀なくされた。日本政府は、ILOからの要請を受け翌78年4月に100万ドルの任意拠出を決定した。アメリカの脱退は、80年2月までの2年3月間続いたが、その間のみならずその後も続いた財政危機への対応の中で財政分野での日本の存在感は増した。しかし、ILO活動全般にわたる影響力の拡大にまで及ばなかった。ILO活動の要は、国際労働基準の設定にどれだけ貢献しているか、国際労働基準を示すILO条約・勧告をどれだけ尊重遵守しているか、にあることは疑いのないところである。この点に関する日本の貢献度と実施状況は、他の先進工業国と比較して優っているとはとてもいえない。新たな基準設定に否定的な立場を取ったりその水準を低めようとする役割を果たしたりしたことは度々あり、実施の面でも批准条約数は少なく違反状態を指摘され改善勧告を受けたことも多い。こうしたことでは、財政的な貢献が如何に高くとも国際機関の中で尊敬を集め影響力を増すことにはならないのである。

7. グローバル化の進展と「新宣言」

1970年代から顕著になった多国籍企業の活動に関し、ILOは72年に「多国籍企業と社会政策の関係に関する三者構成専門家会議」を開催し研究を進め、77年11月の理事会で「多国籍企業及び社会政策に関する原則の三者宣言」を採択した。これは前年に設定されたOECDの「多国籍企業行動指針」と「双子」といわれ相互補完的な関係にあるもので、多国籍企業の活動に対して国際社会が求める規制を意味した。ILO加盟国政府、関係労使団体およびILO加盟国において活動している多国籍企業に対し、「宣言」に示されている諸原則を遵守するよう要請したのである。

多国籍企業活動の拡大は世界市場の拡大・統一化を促しグローバル化に拍車をかけた。それを決定づけたのが東西冷戦構造の終焉であった。単一市場化した世界市場で、「市場原理主義」を標榜する新保守主義勢力が跋扈し「弱肉強食」が蔓延る中で、著しい労働の劣化がもたらされ、格差の拡大が顕著となった。取り残された地域の「社会的弱者」の多くは生存すら脅かされる状況となった。この動向に対してILOは、「フィラデルフィア宣言」に匹敵する重要な意義を持つ「新宣言」として、98年第86回総会で「労働における基本的原則及び権利に関するILO宣言」を採択した。フォローアップ手続きを伴ったこの「新宣言」は、全ての加盟国に対して中核的労働基準と位置づけられる次の4分野8条約の尊重遵守を義務づけた。①結社の自由と団体交渉権:第87号および第98号条約、②強制労働の禁止:第29号および第105号条約、③児童労働廃絶:第138号および第182号条約、④平等・反差別:第100号および第111号条約、である。それを通してグローバル化の負の側面の克服を追求したのである。加盟国の大多数が8条約を批准している中で、日本は残念ながら第105号と第111号の2条約を未だ批准していない。両条約とも人権保障に深く関わる内容を伴うもので、日本への国際的評価にも関わることから政府内特に厚労省に早期批准をすべきとの意見があるようだが、経済団体に根強い反対論もあり実現に至っていない。ちなみに日本のILO条約の批准数は189条約(2016年12月)のうち48であるが、OECD加盟国の平均批准数は73で、この面でも日本は大きく立ち後れている。

8. ディーセント・ワークの推進

「新宣言」に引き続いて、1999年ILO総会での事務局長報告で、21世紀のILOの目標として「全ての人にディーセント・ワーク(働きがいのある人間らしい仕事)を確保すること」を提案した。次の4つを戦略的目標に設定し、その実現をILO活動の柱としたのである。①基準ならびに労働における基本的原則および権利の推進、②男女が共に人並みの雇用と収入を確保できる機会の拡大、③全ての人に対する社会的保護の拡大とその実効性の向上、④政労使三者構成主義と社会対話の強化、である。

2002年、ILOは「グローバル化の社会的側面に関する世界委員会」を設け、ノーベル経済学賞受賞のスティグリッツ教授をはじめ各界から26人の「賢人」をメンバーにしてグローバル化の負の側面を如何に克服するか研究・提言を行った。このメンバーに使用者代表の1人として西室氏(当時東芝会長)が加わり、多くの示唆に富む報告書作成に貢献した。氏の貢献に示された内容が日本の経済団体のILO活動への理解と実践に結びつけば、日本の3者構成主義の実際は大きく変わったであろう。というのは、1949年の創立以来60年以上にわたってILO理念の普及などの活動を展開してきた日本ILO協会が解散し、2011年4月に政労使のILO理事経験者らが呼びかけILO活動推進日本協議会が新たに誕生したが、厚労省の支持・協力や連合など労働団体の参加があったものの日本経団連への参加要請は拒絶された。西室氏をはじめILO活動に理解を示す何人かの使用者側の人々の参加がありながらである。すでに見たようにCSR(企業の社会的責任)を求める声は全世界的に高まり国連レベルでの取り組みが進んでいる。それらに中核的労働基準はそのまま守られるべき基準として包含されている。にもかかわらず、軽視あるいは無視する姿勢が経済団体によって取られ続けられれば、社会対話を通じてディーセント・ワークの実現を追求する途は、日本においては閉ざされてしまうことになる。

むすび

アジア太平洋のように民族、言語、宗教、歴史などあらゆる面で複雑多様な地域においては、国際労働基準もそこに規定されている普遍的な価値を共有し実施を追求するにしても、その実現に至る道筋は一律同様にはいかない。多様なアプローチがあり得るし、むしろあらねばならない。ILOでは、よくいわれるように欧米的価値観と手法が絶対視され、それ以外は異端あるいは「後進」であるかのごとく扱われる傾向がある。時として独善とも思われるこの傾向は正されねばならないが、それは普遍的価値の共有を拒絶したり否定したりするものではない。画一的ではなく多様なアプローチを認め合うことが、普遍的価値実現をあまねくする近道でもあるのだ。日本にはそうした声のリーダーとしての役割が期待されているが、その役割を果たし得ていない。日本的な価値観と手法の押しつけと思われる場合がままあるといわれる。それも基本的な原則の核にある普遍的価値に対する理解が未成熟であるからだ。

日本がILO条約不実施などの審査・議論で問題とされたのは、とりわけ男女の賃金格差に現れたジェンダー差別問題と、公務部門労働者の労働基本権問題、そして長時間労働問題である。日本は労働時間に関する条約は、第一号条約(1日8時間労働制)を含め一つも批准していない希有な国である。だから条約不実施で審査がされるわけではないが、労働時間に関する討議がなされる時に「悪しき例」として登場する。「過労死(Karoshi)」が国際語となる不名誉がつきまとう。他の2つの問題も、問題が指摘され再三再四にわたり改善勧告がなされても一向に改善されない「札付き」になっている。環境に関連したグリーン・ジョブの議論にしても、労働安全衛生にしても、日本の取り組みはそれ自体としては高い評価を受けている。しかし、環境も労働安全衛生もジェンダー平等と基本権保障は前提であるから、議論がそこに至ると評価は崩れることになる。

ILO設立100周年を迎え、日本が最低限なさねばならないことは、中核的労働基準の完全批准・適用で、特に先に触れたジェンダー差別、公務部門の基本権そして長時間労働の解決である。これを抜きに「働き方改革」などありえず、ごく一部のエリートを除いて大多数の労働者は不安定雇用と際限のない長時間労働と低賃金・劣悪労働条件を強いられることになる

なかじま・しげる

早稲田大学法学部卒業。1969年に全日本自治団体労働組合(自治労)に入る。自治労中央執行委員・国際局長を経て1999年より連合常任中央執行委員・総合国際局長。2004年~2010年ILO労働側理事。2012年月より2015年までITUC(国際労働組合総連合会)ミャンマー事務所長。2016年よりソーシァルアジア研究会代表幹事、2017年より日本ILO協議会理事を務める。

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