コラム/温故知新
品川・御殿山にみる温故知新
現代の労働研究会代表 小畑 精武
私が「品川・御殿山で育った」というと多くの人はびっくりする。「御殿山といえば、高級住宅地だよね(どうしてそんな所に“金持ち”でもない小畑さんが住んでいたの?)」と括弧の中は言わないが不思議がる。
御殿山は独立した山ではない。東、南、西は崖だが北は高輪に通じている。古くは南の大井から目黒川を渡り御殿山の崖を登り、高輪の尾根伝いを芝に抜ける古道があった。
江戸時代の東海道は歌川広重の絵(写真)を見ると御殿山のふもとの波打ち際を南に抜け宿場町品川を通り抜けていた。1872年日本で最初に開通した品川―横浜間の鉄道も今を走る新幹線も同じ御殿山の切り通しを走り抜けている。開通時は複線、今は10本のレールが御殿山の切り通しを所狭しに、ひっきりなしに走っている。今も、昔も品川・御殿山は東京(江戸)の喉頸、その温故知新をさぐってみよう。
品川・御殿山の歴史
品川区立歴史館には品川地域の古代からの歴史が展示されている。そこには古代遺跡が御殿山にあったことが記されている。有名な大森貝塚は東海道線でわずか二駅、大森駅から品川区大井の方に歩いて15分ほどのところにある。名前は大森貝塚でも所在地は品川区。品川駅が港区で北品川より北にあり、目黒駅が品川区にあるこの地域の事情は奇妙であり、関心が湧く。
鎌倉時代、品川湊は鎌倉の後背地となり東西交易の拠点として繁栄した。物だけではない。当然人々が各地から集まる。武士や商人だけではない。宗教者や職人、海運、漁業の従事者が集まり、鎌倉の新宗教の寺院が建てられ、御殿山は霊山となってお墓が造られていった。(幕末の台場築造の折に板碑や五輪塔が発掘されている)室町時代にはいると紀伊半島熊野出身者が活躍をしている記録がある。戦国時代には太田道灌が城を築いたいわれもある。
江戸庶民の桜の名所御殿山
御殿山の語源は江戸に移った徳川家康が秀吉側の人質を住まわせるために御殿を造ったところから始まる。3代将軍徳川家光は風光明媚な御殿山を気に入り鷹狩の御殿を造った。品川区立歴史館には立派な御殿山の見取り図と家光の御殿の間取りが見られる。秀忠の時に幕府を批判して出羽の国に流罪となっていた沢庵和尚を迎い入れ、家光は御殿山の南の一角に東海禅寺(臨済宗)を1639年に開山した。今もある。
御殿は1709年に焼失しその後は因幡鳥取藩の下屋敷となった。8代将軍吉宗は隅田川の花火を始めるが、御殿山にも桜を植え花見の名所となる。ここの桜は開花が早く、はるか遠くに房総の山々、眼の下には白帆が行きかう景色に江戸庶民は、芝生に毛氈を敷き幕を張って、酒を飲みながらの花見を楽しんだ。
高杉晋作のイギリス公使館焼き討ち事件
歌川広重の「品川御殿山」(写真)には満開の桜が描かれている。同時に山が削られた崖も描かれている。広重自身「幕府が黒船を防ぐために、御殿山を削った土で、品川沖にお台場を築いた。そのため山の形が変わってしまったので、参考のためもう一度この絵を描いた」と語っている。
1853年のペリー来航で眠りを覚まされた幕府は、ただちに江戸湾防衛の検討に入り、品川洲崎から深川洲崎にかけて11基のお台場(砲台)を計画した。世界遺産となった伊豆韮山の反射炉をつくった江川太郎左衛門が幕府に進言したものだ。同年8月末に着工、昼夜兼行の突貫工事で木材は関東から、石才は相模、伊豆、駿河から運ばれ、土砂は御殿山、高輪、泉岳寺などから切り崩して、毎日5000人が土取りとなった。翌54年7月に第1、第2、第3台場が完成、御殿山下の台場は12月に完成、第4、第7、8番以降は未着工に終わっている。
1862年12月11日幕府の遣欧使節団が品川に帰国。開市・開港延期など一定の成果をあげてきたが、生麦事件の発生、横浜大火など国内情勢は悪化し、品川帰港後の12月12日未明、完成間近の御殿山イギリス公使館が長州藩の攘夷派高杉晋作や伊藤俊輔(博文)らによって焼き討ちされてしまう。お台場の土取り跡の窪地にイギリス、フランス、アメリカ、オランダの公使館が建設される予定だった。偶然だが坂本竜馬が出入りしていた土佐藩の下屋敷も品川(立会川)にあった。江戸を守るはずだった東海寺は皮肉にも倒幕軍の前線基地になった。
明治の御殿山・鉄道発祥の地
御殿山はお台場造りに続いて新橋-横浜間の鉄道建設でも山が削られ今日見られる切り通しがつくられ、他方その土は高輪の海の鉄道用埋め立てに使われた(写真明治時代の品川駅)。鉄道を描いた浮世絵に出てくる八つ山橋は鉄道建設まではなかった。日本の鉄道は新橋―横浜間が開業した1872年(明治5年)10月14日(新暦)が開通日といわれているが、実際には同年5月7日(旧暦)に品川-横浜間が仮開業している。当時は1日2往復、片道35分間(今とあまり変わらない速さ)かかった。この鉄道建設をなしとげ鉄道の父といわれる井上勝は長州出身で英国に留学し、鉄道建設を推進し鉄道局長になる。1910年に没し、御殿山東海寺の墓地に今も眠っている。
品川駅は戦時中は軍事兵員輸送の出発駅として使われた。戦後は海外からの引揚列車の終着駅として使われ、同時に東京、横浜、横須賀をつなぐ青い帯の占領軍専用電車が発着していた。父は品川から山手線に乗り、秋葉原で総武線に乗り換え勤め先がある亀戸まで省線電車を使っていた。どういう内容か全くわからなかったが、品川駅で外人(たぶんアメリカ兵)相手に「口論」をしていた記憶がある。
祖父は1945年生まれの私をおんぶして八つ山橋あたりまで、父を出迎えに行ったという。私が鉄道好きなのは「品川御殿山」という交通の要衝で、毎日のように電車を祖父の肩越しに見ていたからだろう。御殿山の切り通しには新幹線が開通した1964年以前から東海道線、山手線、京浜東北線、貨物線が走り文字通り頸動脈となっていた。
品川駅は、JR上野・東京ラインの開通により常磐線特急、常磐・宇都宮線快速の発着駅にもなって在来線18面、新幹線4面のプラットホームがフルに使われるようになった。さらに品川操車場の再編による品川・田町間新駅建設、JR東海によるリニア新幹線の発着駅として期待されている。リニア新幹線は深い地下を通るのだろう。御殿山の地上にはリニア新幹線が通る余裕はない。それでも150年に亘って地味だが日本の鉄道の喉頸となってきた品川は「鉄道の未来」を担い続けことができるだろうか。
原現代美術館
原美術館も幕末・維新と関係がある。現在の美術館(写真)をつくった原邦造は1938年建造の私邸を1979年に改装、私立現代美術館として開館した。原邦造は東京ガス会長、日本航空会長、初代営団(現メトロ)総裁を歴任してきた。
原邦造の養父原六郎は1842年(天保13年)に兵庫県で生まれ、幕末の志士として高杉晋作や坂本竜馬とも交流があった。維新後1871年にアメリカに官費留学、官費が打ち切られた後もアメリカに残って経済学・金融学を学び、さらにイギリスに渡って社会学、銀行学を学んで77年に帰国。帰国後第百銀行など銀行設立、経営に携わり、経営危機に陥っていた横浜正金銀行の第4代頭取となって経営建て直しをはかった。
1892年(明治25年)ごろに原六郎は御殿山の現在地を三菱から取得した。後に品川教会となる土地も含まれていた。三菱は国道をはさんだ高輪側にある洋館建築の三菱開東閣を今も所有し、三菱の俱楽部になっている。戦後開東閣は占領軍に接収され、私が品川教会幼稚園に通っている頃にはMPがゲートを守っていた。
原邸は著名な建築家渡辺仁の設計によるもので、昭和初期のモダニズムデザインにより柔らかいカーブと鋭い直線が特徴だ。渡辺仁は銀座4丁目の和光、上野の東京国立博物館や有楽町にあった丸いつくりの旧日劇も手掛けている。
原美術館の近所には1953年~57年に作家吉川英治が居住した洋風建築の邸宅がある。 吉川は疎開先の青梅から子供たちの進学・通学のために引っ越してきた。ここで「新・平家物語」を完成させ、円熟期を過ごした。
ミャンマー大使館
御殿山は大使館の街でもある。戦後美術館で有名になった原邸の先、御殿山通りに面してミャンマー(ビルマ)大使館がある。ミャンマー入国にはビザが必要なので、ミャンマー政府発行ビザを得るために行った人も必ずいるはずだ。原邸の土地が明治の銀行家原六郎の所有であったように、ミャンマー大使館が建っている土地は元々は三井財閥の総支配人益田孝が所有していた。大使館用地以外は現在はマンションが建っている。
小さいころはミャンマーではなくビルマ大使館と言われていた。名前の変遷にビルマ、ミャンマーの歴史が刻みこまれている。1948年にビルマ連邦共和国として独立、1989年6月に軍事政権が国名をミャンマーに変更し7月にはNLD(国民民主連盟)のアウサンスーチー書記長を逮捕し3年間の懲役を科し、その後も2010年まで長期にわたる自宅軟禁状態が続けられた。
自国民が自国大使館へ抗議に行くデモはあまり見受けられないが、ミャンマー大使館にはアウンサンスーチーさんの自由を求め在日ビルマ人デモが行われている。最近では立場が逆になった政権側のスーチーさんに対して、在日ビルマロヒンギャ協会がミャンマー治安当局によるロヒンギャ殺戮400人、数万人に及ぶ武力を使った強制的追い出しに抗議をしている。17年9月8日には大使館前でロヒンギャの武力衝突に反対するデモが行われている。ミャンマー政権による政治的迫害によって日本への難民が増えているが、日本政府による難民認定は極めて少ない。今年2月時点で認定がわずか18人、78人は人道的理由による在留特別許可、14人は就労の権利がない仮放免、2人は収容所にいる。
旧ユーゴスラビア大使館は今はセルビア・モンテネグロ大使館となり、アフリカのモーリタニア・イスラム共和国大使館も御殿山にある。
こうして品川・御殿山をふりかえってみると、古代から現代にいたるまでの永い歴史が刻みこまれ、同時に歴史の最先端を行く、不思議な空間であり続けたことが感じられる。首都東京の秘められたパワースポットといえよう。戦後ソニーが焼け跡となった御殿山から生まれ急成長したことはパワースポットの証明にほかならない。
おばた・よしたけ
1945年生まれ。69年江戸川地区労オルグ、84年江戸川ユニオン結成、同書記長。90年コミュニティ・ユニオン全国ネットワーク初代事務局長。92年自治労本部オルグ、公共サービス民間労組協議会事務局長。現在、現代の労動研究会代表。現代の理論編集委員。著書に「コミュニティ・ユニオン宣言」(共著、第一書林)、「社会運動ユニオニズム」(共著、緑風出版)、「公契約条例入門」(旬報社)、「アメリカの労働社会を読む事典」(共著、明石書店)
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