特集●総選挙 戦い済んで

歴史を刻む―10・8羽田闘争から50年

ホーチミン市で日本のベトナム反戦闘争展

ジャーナリスト 池田 知隆

山﨑博昭、その名がベトナムの歴史に刻まれた――2017年8月20日からベトナム・ホーチミン市にある戦争証跡博物館で「日本のベトナム反戦闘争とその時代展」(11月15日まで)が開かれた。主催したのは「10・8山﨑博昭プロジェクト」。1967年10月8日、佐藤栄作首相(当時)の南ベトナム訪問を阻止するため、羽田空港近くで亡くなった京都大学1回生、山﨑博昭(当時18歳)の意思を受け継ごうという人たちだ。ちょうど50年前の「羽田闘争」とはいったい何だったのか。山﨑の死をいま、どう受け止めていけばいいのか。同プロジェクトに加わっている私もまた、そのオープニングセレモニーに参加しながら、そのことについて考え続けた。

1 一学生の死の衝撃

ホーチミン市戦争証跡博物館に展示された山﨑博昭のコーナー

山﨑博昭とは直接、顔を合わせたわけでもない。だが、私にとってその名を忘れることができないでいる。「戦争反対の意思を」を示し、18歳の若さで奪われた命。いまも、あなたは社会にどんな意思表示をしているのか、とそう問われ続けている。

ベトナム戦争は、世界最強の軍事大国、アメリカに対して貧しいアジアの人々が一歩もひかずに戦って勝利した、20世紀後半の世界史的な出来事だった。日本政府がその戦争に加担していくことに対して、国内の大学生、サラリーマンから高校生や家庭の主婦にいたるまでの広範な反対運動が展開された。

山﨑建夫さん

山﨑博昭はその日、デモに加わり、羽田空港に通じる弁天橋の上で機動隊と衝突し、亡くなった。生前、「侵略戦争の銃は持たない。反戦の闘いには命をかける」との言葉を残しており、その死は、社会に大きな衝撃を与えた。

それから半世紀が経った。日本が、戦争できる国へと大きく舵を切っていくなかで、この「山﨑プロジェクト」は、山﨑の死の教訓を受け止め、戦争の悲惨さと平和行動の重要性を考えていこうという試みだ。

この活動の中心になっているのは、山﨑の3歳上の兄、山﨑建夫さん、元東大全共闘議長の山本義隆さん、山﨑と大阪府立大手前高校時代の同級生で詩人の佐々木幹郎さんたちだ。3年前から具体的な目標として次の事業を掲げて取り組んできた。

山本義隆氏(右)と佐々木幹郎氏

山崎博昭の記念碑

1、10・8羽田闘争と山﨑博昭の死を記録し、反戦の志を引き継ぐための「モニュメント」建立。
2、50周年記念誌発刊。
3、ベトナム・ホーチミン市「戦争証跡博物館」で「日本の 1960年代・70年代反戦闘争」の展示会の開催。

山﨑の記念碑は今年6月、亡くなった現場近くの福泉寺(萩中公園向かい側)の境内にできた。モニュメントとして「山﨑博昭」の名を刻んだ墓石と、第一次羽田闘争と反戦平和を祈念する文章を刻んだ墓誌「反戦の碑」が並んでいる。50周年記念誌も『かつて10・8羽田闘争があった――山﨑博昭追悼50周年記念[寄稿篇]』も刊行にこぎつけた。そして残されていたのが、ベトナムでのこの展示会だった。

2 青春を組織する

この展示会に合わせて現地ツアーが組まれ、私も参加した。10年前にキューバを訪ねて以来の海外の旅だった。このツアーは東京組と関西組の2つが組まれ、合わせて60人以上が集まった。当時の20歳の若者はいまでは70歳になっている。まわりを見回すと、平均年齢は70代前半くらいになるだろうか。市民活動家、弁護士、ジャーナリストから専業主婦まで実に多彩な顔ぶれだ。「よくもまぁ、たくさん集まってきたものだ」と驚嘆させられたが、それぞれが人生の経路を振り返りながら、熱く血をたぎらせた青春時代に思いをはせているかのようだった。

オープニングセレモニーに集まった人たち

私もまた「10・8ショック」「山﨑ショック」を受けた一人である。当時、山﨑と同じ18歳。九州の片田舎にある国立工業高等専門学校(5年制)の4年生だった。サイクリングが好きな普通の学生で、自転車のべダルを踏み、日本各地をひたすら旅していた。ただ創設まもない高専をめぐっては、「理想的な教育の場どころか、産業界の要請による人間ロボットの生産工場ではないか」と高専制度や社会への疑問が膨らみ始めていた。

週刊朝日に掲載された「山﨑博昭の日記」

そんなとき、「10・8羽田闘争」のニュースを知った。国語の教師が、「山﨑博昭さんの日記」を掲載した週刊朝日の記事から抜き書きしたガリ版刷りのプリントを配布した。

「羽田で亡くなった山﨑はこんなにたくさんの本を読んでいる。君たちも、もっと世界の動きを知らなくてならない」と。

そのときの衝撃は忘れられない。

少したって革命家、チェ・ゲバラがボリビアの山中で戦死したことも知った。世界の若者たちは社会に異議を唱え、激しく活動をしていた。

山﨑の死から私は変わりだした。そう言い切ってもいい。あのときの、居ても立ってもいられない、やりどころのない「焦り」は何だったのだろうか。その年の冬、パスポートをとり、沖縄を一人で旅して回った。いつしか技術者の道から外れ、結果的に新聞記者になった。

学校で配布されたプリント

古稀も間近になってくると、しみじみと考えさせられる詩の一節がある。

年をとるそれは青春を
歳月のなかで組織すること
(ポール・エリュアール/大岡信訳)

青春を「総括する」のではない。人生を通して、青春の思いを見つめ、組み上げていくこと。「組織する」とは、いささか硬い言葉だが、ちょっと新鮮で、心に響いてくる。青春期にはさまざまな想念に惑わされ、さまよい、こんがらがってしまいがちだ。その時の思考の糸をときほぐし、それを組み立て直して織り上げていくのが人生なのかもしれない。経験を重ねることで縒り合わされた縦糸に、日々の思いを横糸としてタンタンと織り込んでいく。やがて1枚のタペストリ―(壁掛け)ができあがる。そこに描き上げられた個性的な絵柄のようなものが人間の生涯ともいえる。

ツアーに参加した人たちは、若いころの反戦の意思を確かめながら、これからの人生の過ごし方を考えていたようでもある。私にはいまだに、山﨑の死の重みを十分に担いきれていない。そんな思いが心のどこかにある。

3 戦争証跡博物館にて

ホーチミン市戦争証跡博物館

日本の若者たちが世界史的な出来事だったベトナム戦争にどのようにかかわったのか。その反戦の意思を世界史の中に刻み込みたい。青春期の熱い情熱をかけて、戦争に反対したことをたんなる追憶にとどまらせず、ベトナムの若者たちにも伝えたい。「山﨑プロジェクト」のそんな思いを、ベトナム・ホーチミン市(旧サイゴン)の戦争証跡博物館側に伝えると、期待以上の好意的な反応だった。

いまのベトナムの若者たちがまず、そのベトナム戦争の歴史を知らない、というのだった。日本の若者たちが果敢に闘った反戦闘争の現実を、現在のベトナムの若者たちに知らせて欲しい、という館長の言葉が返ってきた。さらには、当時の日本の若者たち(いまや高齢者になっている反戦運動経験者たち)と、現在のベトナムの若者たちとの討論する機会をもったり、全国の大学で巡回展をしたりしてほしい、とまで依頼されたのだ。

この博物館では、日本共産党とベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の活動は紹介されていた。しかし、いわゆるラディカルな学生運動や反戦青年委員会、労働者の運動、沖縄での反戦・反基地の運動などはベトナムの人々に知られていなかった。まして、山﨑博昭のように「死を賭して」までの反対活動があったことを知り、博物館の館員たちは新たな感銘を受けていた。

そこで山本義隆さんを中心に、ベトナム反戦活動の写真や資料、遺品など約100点を持ち込み、博物館1階のメイン会場で展示会を開催。開幕式の様子は現地の新聞など11紙で報道され、大きな反響を呼んだ。

この博物館には、毎年70万人以上とベトナム国内最多の参観者が訪れ、うち半数以上が海外から来ている。最も多いのがアメリカ人で、リピーターも多い。いま、戦争に反対するということとはなにか。これらの展示を通してと国境を越えてその反戦の思想を見つめなおす機会になればいい。そのことに未来へのささやかな一筋の光をみる思いがした。

4 ”戦争”が続く「平和村」

そしてゲリラ戦の根拠地だった「クチ・トンネル」を訪ねた。ホーチミン市街から約70キロ離れたところにある戦争史跡公園だ。当時、全長200kmにわたる地下トンネル・ネットワークが張り巡らされ、カンボジアとの国境付近まで続いている。地上の森には数々の罠があり、ベトナムの兵士たちは、様々な工夫をして狭いトンネル内に身を潜め、暮らしていた姿がありありとわかる。

クチの戦争史跡に公開されている罠

アメリカ側が使用したナパーム弾約100万トン、派兵された兵士約57万人。膨大な物量作戦を展開する富める国、アメリカに対して、ベトナム側は米軍から奪ったタイヤで作ったサンダルを履き、地中に潜んで闘った。民族の誇りと知恵と忍耐で抗した。私も自ら腰をかがめ、「蟻の城」のようなトンネル内をくぐって歩くと、土中に兵士たちの血と汗がにじんでいるかのような気がした。

その後、ツーズー病院に併設された「平和村」を訪ね、さらに大きな衝撃を受けた。米軍によって撒かれた「枯葉剤」(化学兵器)の後遺症で苦しむ人たちの保護・リハビリを行っている施設だ。結合性双生児ドクちゃんベトちゃんの分離手術が行われたことでも知られ、現在、36歳のドクさんはここで事務職員として働いていた。訪ねた時、ドクさんはほかの病院で検査・入院中で会うことができなかったが、「枯葉剤」によって異形な姿となったホルマリン漬けの胎児たちは、正視に耐えなかった。

枯葉剤の被害を受けた子どもたち(「山﨑プロジェクト」制作の絵葉書から)

枯葉剤による後遺症で悩み、ここにいるのは約60人。被害者の2世、3世の子や2015年に生まれた子もいる。ここでは戦争は終わってはいなかった。

「枯葉剤」との闘いはいま現在も続いているのだ。「枯葉剤」の大量散布が引き起こした環境破壊や健康被害や遺伝子損傷に関して、米国は本格的な大規模調査や損害賠償を拒否したままだ。「枯葉剤は南ベトナム政府軍に提供して行ったもので、米軍には責任がない、と言い逃れをしている」と現地ガイドは怒っていた。猛毒ダイオキシンで先天性欠損症をもって生まれた後の世代の苦しみはどう癒せばよいのか。「枯葉剤」作戦に象徴される戦争犯罪もまた米国の原罪といえる。しかし、「枯葉剤」のその後についてはあまりにも知られてはいない。

5 ベトナムから遠く離れて

このベトナム戦争においてジャーナリズムが勝利したといわれる。確かに日本のメディアも含めて戦争終結に向けてジャーナリズムが大きな役割を果たしたことには間違いない。

戦争証跡博物館にも、ベトナム戦争中に命を落とした戦場カメラマン、報道写真家を紹介する階がある。ロバート・キャパなど世界中のカメラマンについての紀行文と写真が飾られ、日本の写真家、石川文洋さんのコーナーもあった。このほかベトナム戦争の報道で、日本人のジャーナリストが14人も亡くなり、そのことも銘板に刻み、顕彰している。ベトナムの民衆に寄り添うように戦争の惨状を世界に知らせた日本人は、世界中で戦争反対運動を広げていく一因となったのだ。

ベトナム戦争を描いた映画に『ベトナムから遠く離れて』という作品がある。1967年、映画監督のクリス・マルケルが製作したフランスのオムニバスドキュメンタリー映画だ。参加した監督はフランスのアラン・レネ、クロード・ルルーシュ、ジャン=リュック・ゴダールたちだ。

それぞれ異なる作風を持つ監督たちだが、ベトナム戦争に対する「怒り」、戦争を続行するアメリカ人の「傲慢さ」への非難という点で一致していた。タイトルが示しているように、ほとんどの監督がベトナムにカメラを持ち込んだわけではない。だが、戦争という対象を、突き放して捉えずに、同時代の身近なこととして映像をつくりあげていた。「怒り」の感情をもち、だれもそのことを隠そうとしていない。そのことに改めて感動させられる。

同時代のことに「怒り」をもち、表現すること。ベトナム戦争から「時間」的に遠く離れてしまったが、私は同時代への「怒り」をどこまで持ち続けているだろうか。

6 いま、反戦とは

ベトナム戦争の後、湾岸戦争やイラク戦争、そして現在における中東の混乱・・など多くの戦争が繰り広げられてきた。しかし、メディアは、政治権力の管理下に置かれ、必ずしも戦争の抑止力になりえていない。そしていま、東アジアは核戦争をひきおこしかねない北朝鮮情勢の問題に直面している。

山﨑博昭追悼50周年記念[寄稿篇]が刊行される

冷戦の産物として経済発展にとりのこされた北朝鮮は、「貧者の兵器」としての核の開発に国力を注ぎ、核保有国として生き残ろうとしている。国際社会は足並みをそろえながら「圧力」を加えるが、プーチン・ロシア大統領が「雑草を食ってでも核・ミサイル開発を続けるだろう」というように北朝鮮は動じようとしない。

トランプ米大統領と北朝鮮の金正恩・朝鮮労働党委員長。最高責任者が恫喝合戦を繰り広げるのを聞いていると、いまにも米朝戦争が勃発するのではないか、不安をかきたてられる。そして日本の防衛費は、第2次安倍政権下で毎年度拡大を続け、2015年度からは3年連続で過去最大を更新。2018年度の概算要求は今年度より更に2.5%増の5兆2551億円と、過去最大になろうとしている。

北朝鮮のミサイル基地への先制攻撃への議論もなされているいま、「反戦」を叫ぶことは周囲に「北朝鮮に与するのか」という誤解を招きかねない。しかし、米朝双方が核兵器を持っている現状では、いったん戦火が放たれれば、広島、長崎の惨事の数百倍もの「生き地獄」が生じることはいうまでもない。いかなることがあろうと、「戦争を起こさせない」という大前提で、すべての思考は始めなくてはならないのは確かだ。

「山﨑プロジェクト」の目標は、ひとまず達成することができた。「羽田闘争」から50周年に当たる10月8日に東京で開かれた集会には220人が参加して盛況だった。プロジェクトの賛同人(賛同金を寄せ、名前を公表している人)も630人に達し、匿名の人を含めると、800人を超える(11月2日現在)。11月12日には大阪でも50周年記念集会が開かれ、これからも反戦を語り続けることの意義はなくならない。山﨑博昭の意思をどのように受け継いでいくのか。大義名分を掲げるのではなく、自分のなかで真摯に純粋に守るべきものを守るという確固たる信念だけは忘れないでいたい。ベトナムの旅を通してそのことを胸に刻んだ。

いけだ・ともたか

一般社団法人大阪自由大学理事長 1949年熊本県生まれ。早稲田大学政経学部卒。毎日新聞入社。阪神支局、大阪社会部、学芸部副部長、社会部編集委員などを経て論説委員(大阪在勤、余録など担当)。2008年~10年大阪市教育委員長。著書に『ほんの昨日のこと─余録抄 2001~2009』(みずのわ出版)、『団塊の<青い鳥>』(現代書館)、「日本人の死に方・考」(実業之日本社)など。本誌6号に「辺境から歴史見つめてー沖浦和光追想」の長大論考を寄稿。

参考
「10・8山﨑プロジェクト」ホームページ
http://yamazakiproject.com/

「10・8山﨑博昭プロジェクト関西運営委員会」のページ
https://www.facebook.com/10.8yamazakiproject/

特集・総選挙 戦い済んで

ページの
トップへ