論壇

[連載]君は日本を知っているか ⑨
放浪する知識人の役割

地域文化を変えた余所者達の話

神奈川大学名誉教授 橘川 俊忠

このところ世界はどうなっているのか、どこへ行こうとしているのか、まるで見当もつかないような状況が続いている。地球上のあらゆるところでテロが横行し、多くの国で内戦が戦われ、ついには国家間の戦争が始まるかもしれない緊迫感が漂い始めてもいる。特に極東アジアにおいては、何をやるかわからない独裁者に対して、これも何を考えているかわからない超大国の大統領が、互いに挑発をエスカレートさせ、何時不測の事態が発生してもおかしくない状態が続く。EU各国の選挙においても、極右・排外主義勢力の台頭によって政治的に不安定な状況に陥りつつある。

こんな地球規模の混迷が不安を醸成している時期に、小さな過去の話を持ち出しても何だという反応しか期待できないかもしれない。しかし、こんな時だからこそ足元をしっかり見つめ、物事を冷静に判断できる基礎を固める必要がある。現代の世界を見るにあたっても、歴史を振り返るにしても、ありふれたイメージに依存している限りは迷霧を振り払うことはできない。自分たちの判断が、いかにありふれたイメージに左右されているかを自覚すること、それが混迷の先を見据える基礎となる。そういう目を養うこと、それがこの連載の狙いでもあることを銘記して本題に入りたい。

地方に学問を根付かせた人々

筆者は、神奈川大学に奉職している当時、神奈川大学日本常民文化研究所の一員として近世を中心とした古文書・古書籍の調査に二十数年にわたって従事していた。その調査・研究の過程で印象深かったのは、地方の文化・思想・学術の水準がけっして低くはなかったということであった。このことは、すでに塚本学が注目し、近世の学者・思想家は地方にこそ多かったと指摘しているが(『地方文人』教育社)、それは筆者も同感するところであった。

筆者が調査をした岩手県東磐井郡大東町渋民(現一関市)でも、そういう地方思想家の一人に出会った。それは、芦東山という人物であった。芦東山は、近世中期に活動した儒学者で、百姓身分の出であったが、その学識が評価され仙台藩の儒者に取り立てられた人物で、『無刑録』という大著で世に知られることになったが、同著が刊行されたのは明治に入ってからで、それまでは同じ東北の安藤昌益ほどではないが「忘れられた思想家」の一人であった(現在は東山の御子孫の故芦文八郎氏の努力によって、資料の発掘・収集が進められ、渋民の故地に立派な記念館が建てられている)。東山は、藩儒に取り立てられても権力におもねることをせず、何度も「上書」を提出し、藩政批判に及んだため、藩主の不興を買い、二十数年間も幽閉され、幽閉を解かれて以後も仙台藩領をでることは許されなかった。それでも東山は、めげることなく領内各地の有力百姓達に学問を教授して止まなかった。こうした東山の活動は、まさに地方に学問を根付かせる重要な役割を果たしたといってよいであろう。

東山のことは別に取り上げたいと思っているのでそれに譲るとして、筆者が注意をひかれたのは、今でも交通がとても便利とは言えない北上山地の一隅の村に、それほどの学識を持つ人物が生まれたのかという点であった。芦文八郎氏の『蘆東山先生傳』によれば、東山の祖父作左衛門白栄は、村の肝煎を務め、自身も学問を好み、特に孫の教育に熱心であったという。白栄は、孫の教育のために、曹洞宗奥の総本山といわれた正法寺の住職定山良光に弟子入りさせ、また桃井素忠という人物を家庭教師につけたという。

僧侶が村の教育者として大きな役割を持っていたことは、「寺子屋」の名称があることからもよく知られていることであり、東山の場合は、定山良光が正法寺の住職であり相当な高僧であることを除けば、それほど特殊なことではないかもしれない。不思議なのは桃井素忠という人物である。素忠は、白栄の援助を受け、その屋敷地の一隅に掬水庵という小屋を建ててもらい、そこで東山の教育にあたっていた。亡くなったのもその地で、そこには現在も墓碑が残っている。ところが、この人物の来歴がはっきりしないのである。残された漢詩文や所持していたと思われる書籍からするとそれなりの教養を持った人物であったことはまちがいない。また、白栄が見込み、大事な孫の教育を任せ、東山も生涯師として敬慕し続けた事実からしても、相当な人物であったといってよいであろう。

そういう人物が、どうやら元は兵庫県明石にあった松平藩の家臣であったことぐらいしか分かっていないのである。その人物がどういう経緯で東北の山中の村にたどりついたのか、まったく不明である。隣藩の赤穂に流されていた山鹿素行に教授を受けたとか、有名な赤穂事件に関係があったとか、諸説はあるがどれも確証すべき資料はない。とにかく、相当の学識がある人物が、何かの理由で故郷を出て、東北の一隅までたどり着き、そこで生涯を終えたということしか分かっていない。ただ、そういう人物が、学識を評価され、東山のような思想家を育て、その地方の文教の興隆に功績があったということは注目してよい。また、来歴も定かではない人物を受け入れ、庇護した村の指導層がいたということも同様に評価されるべきであろう。

ところで、そういういわば流浪する知識人が、どこかの村に定着し、その地域の文教上に足跡を残したというようなことについて、まったく別のところでも耳にすることがあった。そこは、佐渡島の中央に位置する畑野というところである。そこには、文化から天保というから近世の後期になるが、新井精斎という人物が学塾を開いていたという。この精斎についても素忠ほどではないが不明な点少なくないが、『畑野町史』によれば、精斎は旗本遠山家(遠山の金さんで有名な旗本)に仕えた武士で、故あって遠山家を致仕し、関東近辺で浪人していた時に畑野の有力な百姓中村重左衛門と知り合い、その招聘によって畑野に定着し、学塾を開くことになった。そして、その門下からは畑野の文人達を輩出したという。ここでも、村の外部から知識人が呼ばれ、その人物が地方文化の興隆に貢献したという事例がみられる。

筆者が調査の過程で知り得たのは、わずかな例にすぎないが、こういう事例は、その気になって探せば、もっと出てくるであろう。少なくとも近世の村を閉鎖的な共同体とする見方では村の実態から目を背けることにしかならないのは確かなことであろう。

余所者が開いた郷土の歴史

村の外から知識人が入ってきて、その地域の文化に影響を与えるという現象は近世に限ったことではない。近代に入っても同じようなことが起こっている。これも、前記の芦東山の調査で教えられたことであるが、東山の育った社会的背景を知るために、当地方の郷土史を調べていたら、また不思議な人物に出会った。

東山の育った渋民村は、古くは東山と呼ばれた地域で、明治以後は東磐井郡に属していた。その地域の郷土史の基礎資料に『東磐井郡誌』という大正期に作られた書物がある。不思議な人物というのは、その『東磐井郡誌』の作成に力を尽した大野清太郎という人物である。大野は、地元で「乞食のような」と形容されるような風体で、東磐井郡の各地を資料探しで歩き回っていたという。その大野の日記が残されており、御子孫が一関市にお住まいであることを芦文八郎氏から教えられ、芦氏の案内で御子孫の御宅に伺ったことがあった。

御子孫の御宅では、大切に保管されていた日記を拝見させていただき、清太郎に関する話を伺うことが出来た。その時のメモを紛失してしまったので記憶に頼るしかない上に、御宅に伺ったのが二十年以上も前のことなので、若干不正確の恐れがないわけではないが、御子孫の話では、清太郎は千葉県の出身で、若いころ自由民権運動に参加し、出版条例違反事件で司直に追われることになり、故郷を出てとにかく一関の地にたどり着き、そこに定着したという。そこで貧窮にあえぎながらも地方史の研究に情熱を傾け、資料探索のために村々を歩き回ったということであった。

そこで、清太郎が故郷を出ることになった事件を調べてみようと思って、自由民権運動関係の文献を調べてみたら、なんと『自由党史』にその名前を見出すことができたのである。『自由党史』第四章「三大事件の建白」の「秘密出版の発覚」の項に、明治二十年山県内閣による弾圧政策の一環で出版条例違反の一斉検挙が行われ、数十名の民権家が検挙されたという記述があり、それに「入獄者人名」が列記されており、そこに貫籍不明者の一人として大野清太郎の名があげられていたのである。これがかの大野清太郎と同一人物であるかどうかは、確証されたとまでは言えないにしてもその可能性は相当高いと考えてよいであろう。残念ながら、筆者の調査はそこまでで、より深い調査は後進に委ねざるをえないが、それにしても自由民権運動の闘士が、自分の故地を離れたところで地方史研究の種をまいていたという事実は、興味をそそられることではある。

地方史研究の種をまいたといえば、佐渡にも外からやって来て佐渡の郷土史に一大変化をもたらした人物がいた。その名を橘法老という。法老は、さすがに昭和期に活動した人物だけに、本名正隆、1892(明治25)年に生まれ、1964(昭和39)年に亡くなっていることをはじめ、佐渡での事績は大体分かっている。しかし、佐渡にやって来た1936(昭和11)年以前の経歴は、ほとんど分かっていない。一説には、新潟県新発田の出身で、東京で大学を出たが、関東大震災で妻子を失い、尊敬する日蓮の事跡調査の目的で渡島し、そのまま佐渡に居つき、佐渡の郷土史従事するようになったといわれる。しかし、本人が過去を語りたがらなかったこともあって、確たるところは不明というのが実情である。

その法老の佐渡での暮らしぶりは、伝えられるところによると、郷土史の執筆を引き受けた河崎村(両津湾に面した小さな村で、戦後は両津市の一部になっていた)の公民館に部屋を与えられ、郷土史執筆のためのわずかな謝礼と村民が提供する食糧でかろうじて生活を維持するという状態であったらしい。そういう暮らしぶりそうだが、その執筆した『河崎村史料編年志上』というのも、ある意味では破天荒なもので、佐渡中から集めた中世古文書の集成であって、通例の郷土史とはまったく異なっている。しかし、その資料的価値は確かなもので、現在でも佐渡の中世史研究上不可欠の文献としての価値を認められている。

とにかく法老は相当数の佐渡郷土史に関する著作を残したが、それらの著作は方法的には徹底した実証主義に貫かれており、郷土顕彰型の史実と伝承との区別も明確ではない郷土史とはまったく異なるものであった。法老がどこでそういう歴史学方法論を身につけたかは前述のようにはっきりしないが、佐渡の地方史研究が、法老の活動によって一変したこと確かである。もちろん、そうした法老に対して反感を示す者も少なくなかったといわれるが、彼の影響を受けた優秀な地方史研究者が佐渡に輩出したことも事実である。

それにしても、一風変わった余所者が、ここでも文化の革新をもたらしたことに驚かされる。また、そういう変わり者を受け入れた村の懐の深さにも興味をひかれる。

地域を変える余所者の役割

以上、筆者の調査活動の中で出会った地域の文化に影響を与えた余所者の事例を紹介してきたが、事例が少ないのを承知の上で敢えて大胆に一般化すれば、地域の文化は余所者からの刺激によって発展するということであり、地域もそういう余所者を寛容に受け入れてきたということである。また、余所者を寛容に受け入れられるかどうかは、その地域の活力のバロメーターでもあるということである。

実際、現一関市大東町渋民も佐渡も、過疎と高齢化に苦しむ衰退する地方の典型のようなところになってしまっている。しかし、先に述べてきたように余所者を受け入れていた当時は、それなりの活力があった地域であった。渋民は、近世においては三陸海岸と内陸の一関とを結ぶ街道の中継ぎの宿場であり、遊郭すらあったといわれるようにそれなりに繁栄していたという。佐渡は、金山の生産性は落ちてきたとはいうものの、現在の倍以上人口を有し、廻船の拠点の一つとしてまだまだ活力がある島であった。だから、余所者からすれば入りやすく、地域からすれば新しいものをもって刺激を与えてくれる存在として受け入れる余裕があったということであろう。

もちろん、余所者が常に新しいものを持ち込み、地域に活力を与える役割を担ってきたとはいえないが、余所者を受け入れられなくなった時は、その地域の衰退が始まる時であるということはいえそうである。それが歴史の教訓というべきであろう。

世界中で、もちろん日本でも、余所者を排除しようとする排外主義が台頭してきている現状を見て、この歴史の教訓に思いを致すのもけして無駄ではないと思われてならない。過去の繁栄を取り戻そうという主張が排外主義を伴って主張されるが、そういう主張は過去の繁栄が余所者を受け入れることによって実現できたという事実を忘れている。その意味で、そんな主張は、幻想でしかないのである。そして、その幻想から醒めるためには、足元の事実をしっかりと見据えることが必要なのである。その事実が、どんなに小さく思われたとしても、そこには人間の理性を目覚めさせる何かがこもっているからである。

きつかわ・としただ

1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任、昨年4月より名誉教授。前現代の理論編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)、『丸山真男「日本政治思想史研究」を読む』(日本評論社)など。

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