連載●池明観日記─第4回

韓国の現代史とは何か―終末に向けての政治ノート

池 明観 (チ・ミョンクヮン)

2010年つづき
知識人なき民主主義

今日の現実における知識人問題ということについて考えることが多い。今は知識人という特別な部類の人間など存在しないといえよう。それで日本でも“知的なことにたずさわる人びと”などといってみるのであろう。

リーズマンは、知識人は“理念によって”(by ideas)生きて行く人ではなく“理念のために”(for ideas)生きて行く人であるといった。今日においてはこのことをもっと歴史的に考えてみる必要があろうかと思われる。危機的時代には“理念によって”生きる人と“理念のために”生きる人とは区別されるかもしれない。しかし今日のような自由の時代となれば、このような二つを区別しえないのではなかろうか。“理念のために”生きるというのが何ら犠牲とか危険をともなうことではなく、誰でも自分なりの“理念のために”生きるということになる。それでわれわれは、今は知識人が消滅した時代であり、みんなが高等教育を受けて社会的関心を持って発言する時代であるといって、総知識人化した時代であるというのではなかろうかと思われる。

危機にひんしている時代においてのみ、リーズマンのことばに従って“理念によって”生きるというか、それを職業とする人をアカデミシャン(academician)と呼び、これと“理念のために”生きる人びとである“知識人”(intellectual)を区別するようになる。そして今日のいわゆる民主主義社会においては、総体的知識人化したとか知識人階層の消滅を語ったりするのである。

そのような政治的現実において過去に知識人といわれたある部類の人びとの中には、ある種の自己疎外感を抱いてこの現実を唾棄すべきものとみなす人もいるかもしれない。しかしこのようなことは非歴史的であるといわねばなるまい。今日においては知識人も別に自己犠牲を求められることなく、ややもすれば現実においてただ政治的利害関係に転落するものだといわねばならないのかもしれない。知識人は自己消滅とでもいおうか、その社会的役割の終焉を認めながら、いわゆる民主主義的社会における多数の決定に従い、自らもその多数の一人であることを認めねばならないであろう。それが実は今まで彼らが追求してきた現実であることを認めてこれに従わねばなるまい。そしてある意味では彼らは彼らの“犠牲”とでもいおうか、そういったものを求めない現実に感謝すべきなのかもしれない。これまで彼らに要求されてきたこととは実はそのような彼ら知識人消滅の社会に向けての働きであったといえるであろう。

このような時に過ぎ去った日々を思い起こして我執に陥るとすれば、それは過ぎ去った日の虚像を追う自己疎外の笑うべき姿であるといえようか。それだけではない。歴史においてとりわけ革命において勝利した勢力がしばしば民衆を抑圧する反革命勢力に転化しがちであった悲しい人間の歴史を思い起こさざるをえない。歴史に勝利した反体制的知識人はそのアイデンティティを守ろうとすれば、革命が成功したその日に、革命というものから退かねばならない。そのような意味において知識人の役割とは実に自己滅却を求めざるをえない悲劇的な存在である。

特異な愛国者のような存在を求めない時代になれば、愛国者は無名の市民に帰らねばならない。特に愛国者など求めない時代になったことを喜びながら平凡な人生をまっとうするのである。このような諦念に到達しなければ、いうにいわれない悲劇が始まるといおうか。われわれは解放後辛酸をなめる愛国者の背反に直面していかに当惑したことか。ロシア革命の痛みというものを改めて思い起こさざるをえないという気がする。(2010年6月20日)

 

北東アジアにおける民主主義について特に考えざるをえない。日本が先進国であるといえようか。歴史には例外など許されない。“静かな民主主義の国”になるためには多くの陣痛をへなければなるまい。われわれ韓国人はまだおたがい対話をすることは知らずに自己主張のみをくり返しているようである。李明博政府がどうにか民主主義下で成立したにもかかわらず、機会があれば“退陣、李明博政府”とピケットが立ち並ぶ世の中ではないか。終戦後の日本がこのような状況を抜け出したのはいつ頃であろうか。中国はまだこれまでにはほど遠いのではないか。中国は民主主義以前の民主化を求めている時代といおうか。北東アジアの民主主義的成長の歴史においてわれわれは日本、韓国、中国と順序付けをしなければならないのであろう。

しかしあの巨大な中国がそのような民主社会へと進むことができるのだろうか。真の民主社会であるとその位置が措定される前に、まず中国は連邦制でもへなければならないのではなかろうか。ソ連が崩壊して行く時に離れて行った国々がいまどのように悩み苦しんでいるのか。それを見てもチベットや新疆省などのことが思い出されてならない。

今日は韓国における6・25(朝鮮戦争)60周年の日である。いかに悲惨な戦争であったことか。放浪の日々が目の前に浮んでくる。しかし過去は正当化され美化されるものといおうか。北側は北がなした南侵ではなく南がなした北侵であると、今日も主張しているという。懺悔はなく自己正当化のみを残すのが歴史だというのであろうか。

日本の仏教界ではどうしてそれほど人生無常を強調しながら嘆き、“厭離穢土・欣求浄土”を教えこもうとしたのであろうか。日本におけるように夭逝を賛美し、若くして、からだが美しい時に誉まれある死をなすことを渇望するということは、古代のギリシャ社会にもあったではないか。これは戦士社会、武士社会の思想であったし、その時代その社会のイデオロギーの現れであったと思われる。朝鮮は戦争を嫌悪し、長寿をたたえて求める文官社会であり儒教社会であったといわねばならない。だから朝鮮の仏教は死を讃える日本の仏教とは異なっていた。

朝鮮では仏の前でも長寿、治病をひたすら求めなければならなかった。父母に悲しみを与える親に先立つ死を最大の親不孝といってきた。戦士社会、武士社会では長寿とは軽蔑すべきことであり、父母に先立つ死はかえって讃えられた。このようにその文化その社会の特性によって外からの文化も受け入れたし、その社会のイデオロギーに従って仏教も異なる形で伝えたといえよう。

このような意味において日本と韓国は伝統的に儒教も異なった形で受け入れたといわねばなるまい。朝鮮では儒教は何よりも家族倫理に基盤をおいたものであった。日本においては儒教は幕藩体制の統治思想であったし、仏教は武士社会を生きて行く彼らの死生観と深く関連づけられざるをえなかった。そこで彼らは死ねばすぐ仏になると考えたのではないか。それは死に対する最高の讃辞といえるのであろうか。(2010年6月27日)

政治勢力と動揺する国民

日本には野口米次郎(1888年―1948年)という詩人がいた。彼は若くして渡米し13年間もいてアメリカの詩壇にも知られた。日本に帰ってきては慶応大学の英文学教授となった。彼は英語の詩を詠みながらも日本のために生きたわけであった。かつて韓国のアメリカ留学生たちはアメリカに留学してもたいてい政治的でなければならなかった。朝鮮が日本の支配下にあったがために祖国の独立が何よりも優先すると考えざるをえなかった。アメリカ留学も祖国の独立のためと思ったし、国内にいても話も文学も祖国のためと、祖国の独立のことを離れては、文化のことを考えることができなかったといわざるをえない。支配者日本の場合は西洋諸国の覇権を超えることを考えたであろう。このことは日韓両国の近代文化に現れたあまりにも明白な差異であるといわざるをえない。

もちろん戦後は韓国の場合は民主化と南北の統一を忘れることができなかったといわねばなるまい。このような政治優先の立場から解放というのは、韓国の文化における長い間の課題であったといえよう。しかし今なお南北分断の状態にとどまっていても、この頃は文化が全般的に脱民族的な方向へ向かっているといえるかもしれない。南北分断問題を離れて韓国の文化が世界へと開放的姿勢を示そうとしているといえるのではなかろうか。もちろん一方では分断された南北のことを思う民族主義的文化への根づよい圧力を受けながらである。

1947年に私が北から南へと越南してきた頃を思い出さざるをえない。北には文化的将来性はないと思ったから南への道を選んだのではないか。北では執権勢力が変ることなくこれまで半世紀も歩んできた。それは一人独裁へと悪化一路の道であった。いわゆる“唯一体制”といわれる道である。それはますます強固な体制を目ざし、多くの人びとを追い出し血を流してきた。残された人びとはいっそう無力になったであろう。いまは南へと逃れてきた人びとの反共的姿勢を打ち砕くのだと声をはり上げているといわれる。

47年に私が越南してきた頃、南は米軍政下で、それこそかつての親日派が大手を振っている時期であった。そのためにそこにはアメリカの軍政を批判し、北の体制を民族的であると支持する風土があったといえよう。良心的であればこれに同調しなければならないと思うような政治風土があった。良心的であれば北でも南でも現実の政治権力を否定しなければならないという空気があった。今はこのような時代における南北の政治状況に対する冷静な批判が求められる。韓国の国民がその政治権力を支援するという政治風土は終戦後南北どこにもなかったといえるかもしれない。いや、朝鮮の歴史上そのような空気はかつてなかったとさえいえるかもしれない。そのために長いこと公正な選挙をすれば常に野党が勝利するのだといわれてきた。政治勢力と国民の批判意識の間で健全な市民的良識が成長すればと私も長いこと願ってきた。

私が越南してきたとき、南における当時の反共勢力というものは、かつての親日勢力が装いを変えたものに過ぎないように思えてならなかった。北を否定して南下してきたというのでそれを支持し、それに加担するというわけにはいかなかった。それで南においてはそのどちらにも加担しないという非参与の道など許されていることをいかに幸いに思ったことであろうか。そのうちに 1961年から軍部支配の時代にでくわさねばならなかった。そこではそのような非参与の道が許されず現実に生きるということは彼らの政治的支配に服従することであり、政治的理想主義など可能ではなかった。その後ついにこの軍部支配に抵抗する民主化勢力が登場するのであるが、政治的理想など虚構であるに過ぎないと私は痛みをもって心に刻みこんだ。

いまはほんとうにより少ない悪“レッサー・イヴル”(lesser evil)の選択があるのみと考えているといおうか。しかし韓国の政治風土は野党の時は支持、与党の時は批判という伝統をまだ続けているのではなかろうか。いつまでそのような風土を保って行くのであろうか。細かに分析してみるべきではないかと思う。常に日本では国民多数は権力側を支持すると思っていたのに、この前の選挙の時には与党の側が敗北した。いまはそのような決定に国民はだいぶ懐疑的になったように見えるのであるが。政治勢力と国民というだいぶ流動的な事態を、民主的社会であれば、どこでも回避することができない。革命に対する幻想はわれわれのあいだから遠ざかったように見えるのであるが。この非革命的な時代に与えられる政治風土をいかに生きて行くべきか。このように複雑多端な時代をどう生きて行くというのか。革命不可能な時代を生きて行くべき政治的知恵とはどんなものであるのか。現代の政治学または政治哲学はこのような深刻な問題に出くわしているのではないかと考える。

1970年代の終りに私は『韓国文化史』を書いた。しかしいまは文化史という題でその後の文化史の流れをたどることは不可能であると考える。文学、教育、芸術などと個別の文化史を書くということも難しいのに、どうしてその後の文化の複雑な流れを総合的に文化史としてまとめ上げることができようか。そこで私は文化史としての総合的なものは1960年で終りにしなければならないと考えるようになった。軍事政権に対しては批判的な著述は出しにくいという出版社の配慮で1960年までになっていたのだが、今はその後すべての文化領域があまりにも大きくなったので文化史として総合的に論ずることができなくなったと思うのである。遥か後日その多くのことからが歴史によってふるいにかけられるまで待たねばならないといおうか。(2010年7月3日)

革命なき時代に対する回想

野口米次郎の詩を読みながら多くのことを考えざるをえない。彼は英米の詩、そしてその文化を愛しながらもそれに対立し、批判的であろうとした。私もアメリカに対してそうであったし、日本に対してもそうであったといえよう。

いま齢80代なかばを過ぎてこう思うのである。独立したアメリカの歴史は230年あまりではないか。1960年代後半にアメリカに行った時、私もアメリカ文明の黄昏(たそがれ)によく言及した。しかしその歴史はあの頃のような混乱を超えて新しい段階へと進むのではないか。民主主義的というのであれば、新しい歴史を吸収することで新しい段階へと進む。アメリカのテレビに登場するあの多くの黒人たち。あのような変化は世界のほかのところでは見られない情景ではなかろうか。それは時代の変化が要請するものであり、それが新しい文明を創造して行くものであろう。

どこに初めから曇りなき善なる文明などありえようか。どこでもあのように発展して行くものであろう。今という時代はいつも過渡期であるに過ぎない。常に新しい文明が芽吹いてくるのではなかろうか。韓国でも民族主義第一の時代が過ぎ去ろうとしているようにである。1970年代に私も日本に行ってそのような枠組から抜け出そうとして北東アジアの文化を語り始めた。その時はそれは日本においても韓国においてもそれほど耳に慣れたことばではなかった。野口の詩は日本的といえるかもしれないが、日本の伝統から見るとやはり、異国的、米国的と見られるのではなかろうか。しかし彼の詩も日本的に“間”を重視したように思える。彼は沈黙について語りながら、日本の詩は官能と情緒の美を求め、西欧では“インテレクチュアルな美”を求めるといったのではなかったか。

いつも東洋においては発展史観が欠如していたというべきではなかろうか。直線的なはるか遠くますます発展する時間ではなく、せいぜい興亡盛衰の円環的時間を考えた。日本ではそのような時間も消去して時間を空間に還元させようとしたように思われる。日本も韓国も歴史以前の神話の世界に民族の理念なるものをさがし求めようとした。申采浩(シンチェホ)と崔南善(チェナムスン)はこのような日本と関連があったのであろう。これはヨーロッパの近世思想の中で中世を暗黒期と規定しようとしたことと関係があるといわねばなるまい。近代化の過程ではどこでもそのような傾向を免れることができなかった。しかしやはり発展史観と結末論は北東アジアにはなかった。それはヘブライ思想にもとづくものであると考えられる。危機には終末思想、平時には発展史観が登場してきたであろう。しかし今日においては経済危機となっても発展史観的な考えを抱き続けるのだといえるのではなかろうか。危機は政策の誤りからきたものであると考える発展史観の時代である。このような状況においてキリスト教界で危機神学などといわれたバルト神学なども遠ざけられている。神学の歴史的限界を考えざるをえない。(2010年7月5日)

 

後進国のナショナリズムは反権力と結びついていると吉本隆明は明治時代の文学を論じながらいった。私は今日の韓国について後進的民主主義ということばをつけ加えるべきであると考える。民主主義という名において選挙や国会におけるあのような騒乱を保障されているのだ。今日の民主主義は世界どこにおいても人間悪または人間の限界をあらわにしているが、韓国の場合は確かに後進的民主主義の姿であるといわざるをえない。

韓国の場合はアメリカからの牛肉輸入に反対する灯火でも掲げて、選挙で選ばれてようやく始まったばかりの李明博政府の退陣を叫ぶという民主主義である。そして今日は天安(チョナム)艦事件をめぐって、これは北が仕出かした事件であるという根拠は希薄だという論理をくり広げようと力を集中している。そして灯火デモで政権を打倒することができるかのような発言をくり広げる知識人を擁しているといわれるほどの民主主義である。

このような状況は戦後における日本の民主主義発展の歴史に比べればどのような時期に当たるといえるのであろうか。1960年代のいわゆる安保闘争の時に比較できるのではなかろうか。巨大な大衆動員によって政権を打倒しうるという幻想に燃えていた時代といおうか。その頃は日本が戦後になって民主主義を指向し始めて15年という年ではなかったか。韓国の場合は灯火デモというのが2008年のことであるから、民主主義政治を始めて20年とでもいおうか。年幼き民主主義の陣痛が今日も続いている。日本の社会では“敗北宣言”をなすように明確な終焉または後退の線を引くのであるが、これは武士社会からのせいであろうか。韓国の場合は敗北か後退の時期がはっきりしない。その線がはっきりしないまま余韻が長く続くのかもしれない。

韓国では政権に対する抗拒に動員される国民の力は、1960年の日本の場合に比べて大きいといえるかもしれない。これからこの国にどのような政局が訪れることか。このような韓国の場合に比べていまタイでくり広げられている状況はどのように位置づけることができようか。それは民主化の初期段階にあるといえようか。それは韓国における2000年前後の情況に比べられるものかもしれない。あるいは1987年の民衆革命前後の情況であろうか。タイでは韓国の場合のようにアメリカの介入がないために民衆のデモがあのように悲惨な様相を帯びるのかもしれない。このような歴史的経験が彼らの民主的発展にどのような意味を与えてくれるのだろうか。現代において民主主義を戦い取って発展して行く過程について、クレイン・ブリントンが『革命の解剖』において試みたように比較検討してみるべきではなかろうかと思っている。

韓国においける後退的民主主義といえば、金泳三(キムヨンサム)執権年代(1993-1998年)、金大中(キムデジュン、1998-2003年)の息子たちの不正、廬武鉱(ノムヒョン、2003-08年)の40億ウォン騒動と国会における野党の尽きざる抵抗、それから李明博(イミョンパク、2008-13年)政府下の野党のいわゆる実力阻止、そして朴槿恵(パククネ、2013-)系列の与党内における抵抗など、このすべてが民主主義の名における後進的政治闘争といえるのではなかろうか。いつになったらこのような荒れた姿が消えて、国民の目が少しでも政治から離れる余裕をもつことができるだろうか。

全斗煥(チョンドゥファン)、盧泰愚(ノテウ)が莫大な選挙資金を私物化した時代(全は1980―88年、盧は1988-93年)、そして国会議員選挙で敗北しながらも莫大な選挙資金をばらまいた金泳三、金大中の時代も思い起こさざるをえない。全斗煥、盧泰愚はそのようにばらまいていた選挙資金の残りを大統領職を終えると私物化して持ち出した。このような黒い色に染まった歴史を振り返りながらも、今日は過ぎ去った日々よりは発展したものであるとしながら明日に期待するとわれわれはいうのであろうか。(2010年7月21日)

池明観(チ・ミョンクワン)

1924年平安北道定州(現北朝鮮)生まれ。ソウル大学で宗教哲学を専攻。朴正煕政権下で言論面から独裁に抵抗した月刊誌『思想界』編集主幹をつとめた。1972年来日。74年から東京女子大客員教授、その後同大現代文化学部教授をつとめるかたわら、『韓国からの通信』を執筆。93年に韓国に帰国し、翰林大学日本学研究所所長をつとめる。98年から金大中政権の下で韓日文化交流の礎を築く。主要著作『TK生の時代と「いま」―東アジアの平和と共存への道』(一葉社)、『韓国と韓国人―哲学者の歴史文化ノート』(アドニス書房)、『池明観自伝―境界線を超える旅』(岩波書店)、『韓国現代史―1905年から現代まで』『韓国文化史』(いずれも明石書店)、『「韓国からの通信」の時代―「危機の15年」を日韓のジャーナリズムはいかに戦ったか』(影書房)

池明観さん日記連載にあたって 現代の理論編集委員会

この連載「韓国の現代史とは何か―終末に向けての政治ノート」は、池明観さんが2008年から2014年にかけて綴ったものです。TK生の筆名で池明観さんが1970年代~80年年代に書いた『韓国からの通信』は雑誌『世界』(岩波書店)に長期連載され、日本社会に大きな衝撃と影響を与えました。このノートは、折々の政治・社会情勢を片方に見ながら、他方でその時々、読みついだ文学作品、あるいは政治・歴史にかかわる書籍・論文を参照しながら、韓国の歴史や民主化、北朝鮮問題、東アジア共同体の可能性などを欧米の歴史・政治と比較しながら考察を加えています。

今回縁あって、本誌『現代の理論』は、著者・池明観さんからこの原稿の公表・出版についての依頼を受けました。前号から連載記事として公開しております。同時に出版の可能性を追求しています。この原稿の出版について関心のある出版社は、編集委員会までご連絡ください。

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