特集●"働かせ方改革"を撃つ
記録を残し、公開することの意味
安倍総理よ、先人吉田松陰の嘆きを聞け
神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長 橘川 俊忠
吉田松陰の慨歎
幕末の思想家吉田松陰は、彼の主著『講孟余話』(以下、引用は山口県教育委員会編「吉田松陰全集」第三巻による)の中で、「之れを名づけて幽厲と曰ふ。孝子慈孫と雖も百世改むる能はざるなり。」 という『孟子』の言葉について次のように解説している。すなわち、周公は、「今より後死葬の事あらば、子、父に私することなく、臣、君に私することなく、公義を明かにし諡号を論ずべし。三王及び吾が身に於て少しも忌諱することなく、天下後世の模範とすべし。」といって諡法を定めた。これによって、「公道初めて天下に行はる」ようになった、と。
これを現代のわれわれにも分かるように解説すると、幽厲というのは、中国古代周王朝の悪逆非道とされた二人の王で、彼等はその死後に幽王・厲王と諡(おくりな=死後に付けられる名)を付けられた。そのような悪い名前を与えるのは、子供あるいは臣下としてどうなのかという議論がある。しかし、王の生前の言行を調べそれにふさわしい名を与えるのは、子や臣下が私情に左右されることなく、「公義」を明らかにし、後世に教訓を残すためであって、周王朝の確立につくした周公旦(孔子や孟子によって聖人とされる)が定めた制度によるのである。だからそれは政治を「公道」に基づくものにする大事な制度なのだ、ということである。
そして、松陰はさらに、「周公猶ほ以て足らずとす。故に左史事を記し、右史言を記するの法を立て、君臣の挙動言語逐一其の実を記して毫も回避することなし。是に於て公道益々行はる。」と、周公が、君主の左右に「史官」(記録係)を置き、君臣の言行を細大漏らさず正確に記録させる制度を作ったことを、「周公の後世を憂患すること至れり尽くせりと云うべし。」と称賛する。というのも、王の言行が事実に基づいて正確に記録されていなければ、その評価も正しく行われないからである。
ところが、松陰によれば、この周公の制作した制度も次第に失われてしまった。現在は「而して後世公道日々廃し、事々私意に出づ。諡法先づ廃し史法又廃す。有志の士をして慨然堪へざらしむ。」という状態だという。これは、中国について言っているのか、日本について言っているのか分からないところがあるが、別のところでは、明白に日本について次のように述べている。「本邦にても古より史官あり。近世幕府列藩皆記録あり。然れども本邦古より通習として事を秘密にする故、外人(外部の人)妄りに其の記を見ることを得ず。是れ大いに惜しむべきことなり。」という。つまり、日本では、昔からせっかく記録があってもそれを外部者に見せない習慣がある。それは実に惜しいことだと言っているのである。
松陰が、「惜しむべきこと」と言うのには二つの理由があった。一つは、事実を少しも忌み憚ることなしに正直に記録することによって、官吏はそれを恐れて悪をなさず、努めて善を行うようになるということであり、二つには、「学者(学ぶ者一般)」がその記録を見ることによって「時事の得失、措置の善悪」をよく理解し、後に官職につく時の助けになるということであった。この二つの利点が失われていることを、松陰は惜しんでいるのである。
ここで松陰が言おうとしていることは何か。それは、為政者の行為は、私情を越えた客観的かつ厳しい目にさらされなければならないこと、そしてそれを可能にするのは為政者の言動をできるだけ詳細かつ正確に記録し、その記録を他者に対して公開することの二点であり、それによって正しい善なる道が実現するということであった。この松陰の主張は、彼が幕末の政治状況において過激な尊王攘夷論者として発した主張よりもはるかに普遍性を持つ。松陰の慨歎から、後世のわれわれが学ぶべき点は、そこにあるのである。
記録と公開の現状
ところで、吉田松陰を郷土の英雄として崇敬しているであろう安倍総理大臣の下で、記録と公開の現状はどうなっているであろうか。
事は、去年から始まっていた。まず、防衛省。スーダンに派遣された自衛隊の活動を現地で日々記録した「日報」の問題。当時、防衛大臣は「日報」の存在を否定していた。ところが、今になってその「日報」の存在が明らかになった。その上、存在が明らかになったのは、実は去年の三月であったにもかかわらず、大臣には報告もされていなかったという。それどころか、イラク派遣の際の「日報」の一部も「発見」され、その後もぼろぼろと「発見」されつづけている。
次は、これも去年から問題になっていた森友学園への国有地売却問題。この国有地の売却をめぐる森友学園側と近畿財務局との交渉経過の記録文書については、決裁書の改ざんまで行われ、交渉経過を示す重要部分が削除されていたことが明らかになった。決裁文書の改ざんという前代未聞の不正が行われ、それに財務省本局のそれも局長の指示があったのではないかという深刻な疑惑と、首相ないし首相夫人の森友学園問題への関与をうかがわせる内容が削除された、松陰流に言えば、為政者ないしその周辺の「私意」の隠ぺいが画策されたという重大な問題があった。
さらに、森友問題とならんで首相の「私意」に関連する加計学園の獣医学部新設問題も、愛媛県による内閣府などとの折衝に関する記録の公表によって、新しい展開を見せることになった。公表された記録によれば、愛媛県・今治市の担当職員、加計学園の関係者が首相補佐官に会い、獣医学部新設の申請についてアドバイスを受け、その際この件は「首相案件」だと告げられたというのである。当の首相補佐官は、アドバイスはもちろん面会すら記憶にないと否定していた。しかし、同様の記録が文部科学省や厚生労働省、農林水産省からも見つかるか、送付されていたことが明らかになった。森友学園問題の財務局長同様、首相補佐官も国会で虚偽答弁をしていたことが明白になりつつある。
こうした、政府・省庁の公文書をめぐる改ざんや隠ぺいの事実が次々と明らかになってきたのはなぜであろうか。一年前にはしらを切って済まされていたことが、紙文書やデジタル情報として表に出てきたことをどう見たらよいのか。内部告発があったのか、検察が動き出し隠しきれないと覚悟をきめたのか、内部調査の結果なのか、今更問題にならないとたかをくくっていたのか、暴露したマスコミも、取材源を秘匿しているし、省庁も公表に至った経過を十分に明らかにしていないので、今のところ分からないとしておくしかない。
しかし、ここで忘れてならないことがひとつある。遅ればせながらではあるが、とにかく記録や情報が出てきたことの背後には、公文書管理に関する法律と情報公開制度が、その制度的未成熟・欠陥があるにしても、とにかく存在しているということである。公文書は国民の財産であり、きちんと整理・保存され、基本的にすべて公開されるべきであるという考え方を基本とする制度があるということ、そしてそうした考え方が国民に共有されるようになってきたこと、それが中央から地方にいたる全行政機構に確実に圧力になっていることを否定することはできない。たとえ、墨塗で重要部分が隠されていたとしても、該当する文書が存在すること自体を隠すことはできないし、次の追究を誘発する。その意味で、不祥事を防止する役割は果たせなかったかもしれないが、それを暴露する点ではそれなりの効果があったのである。
考えてみれば、安倍政権は、特定秘密保護法を通し、安保法制を強行した政権である。自民党の長期政権独占体制がくずれ、いわゆる保革伯仲という政治状況で成立した公文書管理法や情報公開制度にまったく逆行する悪法を通したことと、ずさんな公文書管理・隠ぺいの不祥事が頻発している事実とは、決して無縁ではない。この政権が、行政に関する記録の簡略化や秘密化あるいは情報提供者の摘発のようなことを始めたら極めて危険である。今しなければならないことは、公文書管理の厳密化とより徹底した情報公開制度の確立であることを銘記しなければならない。
蔓延する国家優先風潮の危険性
先に述べてきたような公文書をめぐる不正事件にとどまらず、行政省庁の関係するあきれるほど低レベルの事件・問題行動も続発している。厚生労働省による裁量労働制導入の根拠として提出された労働時間調査のでたらめさ、前川前文部科学省事務次官の講演への文部科学省の不当な介入、現役幹部自衛官による野党国会議員への暴言、財務省事務次官の女性記者へのセクシュアルハラスメント、それらの問題を擁護するかのような大臣・国会議員の発言などなど、問題はとめどもなく出てくる。
こうした問題は、それぞれ個別に原因があることはいうまでもないが、その目に余る集中ぶりは、何か共通の背景があることを推測させずにはおかない。それについて、安倍一強体制の驕りであるとか、政治あるいは官邸優位の公務員人事制度の歪みであるとか、政治家・官僚の劣化であるとかいろいろなことが言われているが、どれも「中らずと雖も遠からず」の感が否めない。もっと広範囲にわたる時代の雰囲気のようなものが作用しているのではないかと思われてならない。というのも、指示を受けて改ざんせざるをえなかった公務員の中には自殺に追い込まれた者も出ているというのに、高級官僚やそれを擁護する政治家達には、一向に反省する姿勢が見えないからである。
どうやら彼らは、悪いことをしているという自覚が無いか、多少の「失敗」も許されるという自己正当化の論理を内心に持っているらしい。その自己正当化の論理とは、おそらく、自分は国家のために尽くしているのだという思い込みではなかろうか。
考えてみれば、この間の一連の問題は、森友学園問題から始まったが、その根っこは、「お国のために尽くす人材を育成する」ために、幼児にすら教育勅語の暗唱を強要するという時代錯誤の教育方針に政治家達が賛同し、称賛しているという事実があった。そういう「教育者」に政治家も財務省も不当な便宜を図ったというところに本質的問題があるである。あるいは、前川前事務次官の講演に違法な介入を行った文部化科学省は、大学から幼稚園まで国家管理の下に置き、歴史を歪曲した教科書作りに精を出してきたのであった。自民党の反動的教育族議員の指示がなくとも不当な介入をしないとも限らなかった。野党議員に暴言を吐いた自衛官は、戦前旧軍の体質を払しょくしきれない自衛隊の中で国家主義的教育を施されてきたにちがいない。財務省や厚生労働省の官僚達にも、自分たちが「国家を担っている」という誤った自負を抱いているものも少なくないはずである。ことは、人事権を握られた官僚の忖度や安倍一強体制の弊害というレベルでは済まないところまできている。
今年は、「明治維新百五十年」。非西洋世界で近代化を成し遂げた明治国家への称賛や幕末維新期の先人たちの顕彰が叫ばれるであろう。そのなかで、吉田松陰も偉大な先駆者として祭り上げられることになるかもしれない。たしかに、松陰は、尊皇攘夷をかかげ、海外への雄飛を説いた民族主義者・国家主義者であった。そのことを彼が生きた時代状況の中でどう評価するかという問題は、今は問わない。しかし、政治の公共性を自覚し、為政者に高い倫理性を要求する思想家でもあった。彼は、政治が、私意・私利で歪められることをもっとも忌み嫌った。私意・私利を「国のため」という名目の下に忍び込ませ、政権の延命を図る現在の政治を見た時、松陰が何をいうか、もはや語らずとも明白であろう。
きつかわ・としただ
1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任。現在名誉教授。本誌前編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)、『丸山真男「日本政治思想史研究」を読む』(日本評論社)など。
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