追想-原寿雄さん

ジャーナリズム界の巨星墜つ

ジャーナリスト 西村 秀樹

言論界のご意見番、原寿雄さん逝去

ジャーナリストという肩書きがこの人ほどフィットする人も珍しい。原寿雄さんのことだ。

テレビのキャスターを務めたわけでも新聞の署名コラムを連載したわけではないので、一般の人びとの間でポピュラーではないかもしれない。が、日本の良心的なジャーナリストの間で、言論界のご意見番を長くつとめた共同通信の元編集主幹原寿雄さんを知らない人はいない。そう断言していいほど、現場のジャーナリストたちからの尊敬を集めていた。

在りし日の原寿雄さん、右は筆者(昨年4月 原さんの自宅で)

その原寿雄さんが、日課の散歩の途中、自宅近くで倒れたのは昨年11月30日のこと。通行人の通報ですぐに救急車が駆けつけ病院に運ばれたが、まもなく息を引き取った。92歳だった。ご遺族にはたいへん失礼な言い方になって申し訳ないが、多くの人びとが望む「ぽっくり」そのものだ。寝たきり生活を永く送ったわけではまったくない。階段をのぼるときは二段おきにふとももの筋肉を晩年まで鍛えていた原さんらしい最期だった。

葬儀を家族だけでひっそりと済ませたあと、原さんの死亡を共同通信が伝え、多くの新聞が大きなスペースを割き、多くのテレビが長い時間をとってニュースでその死を報じた。

西山太吉さんがスクープした沖縄密約の情報公開請求訴訟の原告団一同で、原さんの枕元に花を届けた。はじめご遺族は辞退されたが、沖縄密約情報公開訴訟原告団は特別だからと配慮を受けていただいた。花屋さんには菊は辞めて、できるだけ雰囲気の明るい花をお願いしたら、胡蝶蘭を届けてくれた。胡蝶蘭は原さんにふさわしい花だと思った。

澤地久枝さんらが出席して偲ぶ会

原寿雄さんを偲ぶ会でのシンポジウム(3月10日 東京日比谷の日本プレスセンタービルで 筆者撮影)

多くの関係者が原さんを偲ぶ会を計画し調整の結果、年が明けた3月10日、偲ぶ会が開催され、わたしも大阪から駆けつけた。緑がまぶしい日比谷公園に面した日本プレスセンタービルで開かれた会は二部構成。10階ホールでの第一部はシンポジウムの形式。300人を越す参加者。司会進行は、原さんの自宅で開催された私的な勉強会・原塾の一番弟子藤森研・元朝日新聞記者。パネラーは、共同通信の後輩にあたる青木理。ロイター通信OGの林香里・東京大学情報学環教授、菅生事件についての著述がある小俣一平・元NHK記者。

ちょうど朝日新聞がいわゆる森友学園への国有地払い下げ問題で財務省が公文書改ざんのスクープを報道した直後にあたった。原さんの「メディアは権力と市民に挟撃されている」という警告をうけ、偲ぶ会のシンポでは、安倍政権のもとマスコミが権力の前に萎縮しているのではないかと、現在のジャーナリズムに対する激励を含め厳しい言葉がならんだ。シンポの最後に、会場にいた作家の澤地久枝さんがマスコミ九条の会呼びかけ人の突然の死を悼んだ。

西山太吉さんが二次会で叱咤激励

偲ぶ会第二部は、プレスセンター同フロアのレストランに会場を移し200人が参加した。マスコミ業界に顔の広い原寿雄さんらしく幅広い業界人の別れの言葉が続いたが、とりわけ参加者の耳目をあつめたのが九州から駆けつけた西山太吉(元毎日新聞)さんのあいさつだった。

1972年沖縄の施政権返還の際、日本政府が本来アメリカ政府の支払うはずの費用を肩代わりしたいわゆる「沖縄密約」の外務省文書を入手した西山さんは、国家公務員法機密漏洩そそのかしの罪で逮捕起訴された。その西山さんに対し、原寿雄さんが「ジャーナリストが権力に逮捕されたとき、充分なサポートができなくて申し訳ありませんでした」と深々と頭をさげて謝罪したエピソードを披露した。西山さんは原さんの謝罪を心の底からありがたいと思ったという。

偲ぶ会で追悼のあいさつをする西山太吉さん(左)と澤地久枝さん(筆者撮影)

さらに、これだけ安倍政権でモリカケ(森友・加計学園スキャンダル)、公文書改ざん問題、自衛隊日報問題など不祥事が山積みにも関わらず、相変わらず安倍内閣や自民党への支持率が劇的に下落しないことについて、西山さんは「いまの国民の間にマスメディアを読み解く力が落ちているのではないか」と国民のリテラシー能力欠如を指摘した。ジャーナリストはなかなかそうした発言を口に出さないというか、天に唾するような行為だから口にしない。それだけに、西山さんの現状に対する危機感がにじみ出た発言であった。

菅生事件のスクープ

改めて、原寿雄さんの生涯を振り返る。ポイントは四つ。一番目は、父親は田畑を所有しない貧しい小作農。決してエリートの出身ではない。二番目は皇国少年だったこと。大正デモクラシーと昭和の天皇制ファシズムが勃興する時期の1925年に生まれ、学問を付けろという父親の支えで、難関の旧帝国海軍主計士官養成の経理学校に進学し天皇のために命を捧げようとした。第三は、敗戦後、旧制一高から東京大学に進学し、リンカーン大統領の「人民の、人民による、人民のための政治」という言葉に衝撃を受けた。皇国少年から民主主義への転向だ。第四は、スクープ記者だったことだ。菅生(すごう)事件という権力犯罪を暴いた。

日本のジャーナリズムの歴史から大記者とされるのは、例えば、桐生悠々があげられる。アジア太平洋戦争の最中、軍部が計画した演習に対し「関東防空大演習を嗤う」という論説を信濃毎日新聞に掲載した。ほかにも長谷川如是閑など、大正デモクラシー時期の大記者はスクープ記者というよりは、論説活動がメインであった。歴史観、大局観を背景に、軍部や政治家、官僚の度量の狭い施策を批判した。しかし、原さんは生涯一社会部記者であったのでないか。

菅生事件というのは、1952年6月、日本が連合国による占領から主権を回復した時期に頻発した公安事件の一つ。西日本最大の自衛隊(当時は警察予備隊)・アメリカ軍共用の日出生台(ひじゅうだい)演習場に近い大分県菅生(すごう)村で、警察官の駐在所がダイナマイトで爆破され、日本共産党員5人が逮捕起訴された。その後、犯行は大分県警公安警察官の自作自演だと、原さんをキャップに共同通信や大分合同新聞の記者たちがつきとめ、ついには東京の警察に匿われていた警察官のアジトを割り出し、共産党員の無罪を勝ち取った事件だ。

原さんは共同通信社会部記者の一方で、労働組合の専従、さらに新聞労連の幹部を経験しているし、編集局長を経て、専務理事・編集主幹をつとめた。だから党派に関係なく、労働組合からも経営者側からも等しく高い評価を得ていた。

「絶望するな、ペンを取れ!」

原さんの活躍は一通信社の最高幹部に留まらず、現場記者からデスクという現場責任者になると、小和田次郎というペンネームで雑誌「みすず」に連載した「デスク日記」に結実したような、ジャーナリズム全般への大きな貢献があげられる。原さんの著作を調べてみると、1965年から毎年『デスク日記』を全5巻出版した(これは後に再編集されて、『原寿雄自選デスク日記』2013年)。岩波新書からの二冊(『ジャーナリズムの思想』1997年、『ジャーナリズムの可能性』2009年)に原さんの考え方がまとまっている。

こうして原さんの生涯を振り返ると、成功したビジネスマンと言うより、生まれついてのジャーナリストとの思いを強くする。

インターネットの台頭に伴い、新聞の部数減少、地上波テレビの視聴率低下など、マスコミはマスゴミ、あるいはマスコミは絶滅危惧種といった悲観的な声が大きくなる中、原さんは真っ向から反論していた。

ジャーナリズムは民主主義に不可欠だ。取材力、調査力、分析力など新聞ジャーナリズムはインターネットのメディアにあらゆる点で勝っているといい続け、若手の記者たちを激励し続けた。

アメリカのトランプ大統領誕生に象徴されるようなフェイク発信やポスト・トゥルースという真偽の定かでないニュースがネット上を跋扈する昨今、改めて、原寿雄さんの言葉をかみしめ、権力に対するファイティングスピリットをさらに燃やし続けたい。

ジャーナリズムの仕事は権力監視。「絶望するな、ペンを取れ!」と。書きつづけねば。

にしむら・ひでき

1975年慶應義塾大学経済学部卒業後、毎日放送入社。主にニュース番組、ドキュメンタリー番組制作を担当、北朝鮮を6回訪問するなど南北朝鮮を取材。主な著書に『北朝鮮抑留〜第十八富士山丸事件の真実』(岩波現代文庫)、『大阪で闘った朝鮮戦争』(岩波書店)ほか。現在、近畿大学人権問題研究所客員教授、同志社大学・立命館大学非常勤講師。日本ペンクラブ理事・平和委員会副委員長。

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