論壇
他者の声への応答
『なぜ生命倫理なのか―生と死をめぐる現代社会の見取り図』を読む
歴史知研究会 川島 祐一
はじめに
権威は他者に心理的服従を要求する。ひとたび法律として成立すれば、本来の問題はスキップされ、問題化されなくなる。従来から法を権威と関連付けて説明する試みはしばしばなされてきた。この種の理解は総じて、権威がそのようなものとされる以上、人びとの同意や受容といった契機による権威の確立がなされている。もちろん問題が解決されたわけではない。
現代社会では様々なパッケージ化がなされるが、知識もパッケージ化される。一を知るだけでその他の問題を考えなくてもよいものとする現象である。様々な領域で思考停止、あるいはある程度以上考えなくてもよいとする現象がみられるように思う。パッケージ化が進む現代社会のなかで生命倫理の問題もブラックボックス化し、よく考えられないまま決定されてしまうことがあり得る。そこに考える訓練の必要を感じる。「生と死をめぐる現代社会の見取り図」の副題を付した本書は、その訓練の格好の素材にもなるので、論者の関心にそって「宗教にたちかえって」簡単に論じてみたい。その後、本書の構成を記し、論稿にそった紹介をいくつか試みたいと思う。
死の危機を切り抜けて生き延びることは自己意識中心か
本書の第4章「脳死と臓器移植」で取り上げられているが、日本の心臓移植一例目は1968年に札幌で行なわれた。当時、移植者について解明できない問題が残っており、国内では移植そのものに反対する意見も多かった。97年に施行された「臓器の移植に関する法律」が2010年に改正され、ドナー(臓器提供者)本人の意思が不明な場合にも、家族の承諾があれば脳死状態での臓器提供ができることになった。以来、年間移植症例が増えたように、臓器移植の機会を増やしたといえる。
臓器移植とその成果は、社会的にも広く認識されてきているが、キリスト教プロテスタントの一部にも反対意見が残る。神学者の東方敬信は1999年に「脳死と臓器移植」を題目とする論文(『講座現代キリスト教倫理1―生と死』日本基督教団出版局、1999年)において、臓器提供はキリスト教の「愛」とは異質なもので、臓器移植は神の意図に反し「高貴なカニバリズム(a noble from of cannibalism)」(133頁)になる危険があるとする。また「いわゆる生命倫理でのパーソン論があまりに個人主義的で抽象的なもの」(同前)とし、「どうしても移植手術をしなければならないというような社会的圧力」(125頁)がかけられることを示唆する。そして先端医療技術の発達に対して「丁重にお断りする勇気と神への信頼があってよい」(140頁)と断じた。
心臓疾患を抱えた患者もできる限り長く生きたいと考えるのは「当然」のことであると思うが、移植でしか治療できない状況下で、それを望むのは果たして自己意識中心(個人主義的)と言えるだろうかとの疑問を論者はもつ。ここで、押さえておきたいのはこの見解の是非ではなく、生命倫理は深い所で宗教と結びついているということだ。
神学者の土井健司は2003年、互いに相手を「見て」状況を理解し合った上での臓器移植は許されるが、脳死による心臓移植には異論を唱えている(「脳死・臓器移植とキリスト教―隣人愛としての臓器提供の問題性と脳死の是非」『宗教法』2003年22号、宗教法学会 )。生体間移植として、健康なドナーが顔見知りのレシピエント(臓器希望者)に肺、肝臓、腎臓など臓器の一部を移植することは認めるが、脳死状態のドナーとレシピエントとの間には「隣人愛」が成り立たないので、移植すべきではないという。そもそも「移植医療において必要な物が愛ではなく、健康で、名前のない部品としての臓器であることを率直に認めるべきである」(175頁)と断じている。「本来目的であるはずの愛が臓器を集める手段にされており、その限りで脳死・臓器提供において何か『愛』という言葉を使うのは本末転倒」(174頁)というのもうなづける。
それでも、としたい。たとえば血液は臓器ではないが、人体にとって生命を維持するためには極めて大切な成分であり、輸血は他者からの「移植」とも言える。しかし、これに反対するプロテスタントの神学者はほとんどいないだろう。献血は、必要とする患者に血液が投与されることを望む「隣人愛」の精神に基づいて行なわれるが、輸血を受ける患者は同型の血液の投与について、当然の行為と考え、提供する個人に直接感謝を伝えない。
土井は、「信頼に満ちた他者との生き生きとした応答的関係」(178頁)がないと「隣人愛」は成り立たないと否定する脳死の場合でも、ドナーとレシピエントが精神的に助け合うことはあり得るのではないか。
ドナーは天国から臓器を提供され幸せに生きるレシピエントのことを思い続けるかもしれないし、レシピエントもドナーへの感謝を抱き続けるだろう。「隣人愛」とは、わたしの隣にいる人びとを大切にすることだが、それはわたしと直接面識のある家族・友人・恋人つまり知り合いだけを大切にすればよいということではない。土井と意見を異にするのだが、世界のどこかで生きている人びとはもちろんのこと、生きた人びともまたわたしの隣人なのだと考えたい。そうであれば、精神的な連携はあり得るのではないだろうか。すくなくとも、隣人の範囲を決めて隣人愛の掟を守ることに縛られてはならないだろう。それでは、聖書に登場する律法学者にぐんとよってしまうのだから。
もし、脳死の心臓移植を自己意識中心として反対するなら、同様に通常の輸血も自己意識中心となり、また互いの状況を知らない者同士の「移植」となるので、やはり反対しなければならなくなる。
これが心臓死の状況であれば、身体の一部を今まで交流のなかった人に提供することに関して、反対意見はないのではないか。現在、脳死が法律的にも死亡とみなされ、心臓死とほとんど変わらない状況では、角膜移植が認められるのと同様に心臓移植も認められるべきではないか、との言説にも議論の余地が残る。
きわめて個人的な人間としての生
先述したように、輸血に反対するプロテスタントの神学者はいないだろうが、本書第10章「自己決定と合意形成」で取り上げられるように、2000年の「エホバの証人無断輸血事件」のような例もみられる。ここで、輸血に関するエホバの証人の信条を確認しておこう。聖書に「すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります」(使徒言行録15章29節)とあるように、血は命を表していて神聖なものであり、また「血を避ける」ようにと、命じられていることから、エホバの証人は全血及び成分輸血を受け入れることは神の意志に反することとみなす。最高裁判決は、輸血をともなう医療行為を拒否するのは患者の人格権として尊重されなければならない、つまり、医師は患者の意思に反した治療をしてはならないことを明らかにした。
この判決は、医師によるパターナリズムから脱却し、医師と患者が十分なコミュニケーションをもつべきこと、最終的な決定は患者に委ねられることを示した。そして、患者の意思にしたがって可能な限りの治療を行なった以上は、仮に患者が死亡したとしても医師は法的責任を問われないことが明白になった。
すると、ただちに「患者の意思」にしたがえない場合の問題があらわれる。たとえば、第2章「人工妊娠中絶と赤ちゃんポスト」である。人工妊娠中絶が法律により認められているし、妊婦は胎児の保育器ではないので、妊婦自身の自己決定を無視して人格を損なうことがあってはならない。同時に、胎児の生命も、人と同程度の他者として生命権を享受する主体として認めるべきではないかという議論も成り立つだろう。
安楽死・尊厳死の問題(第5章)、脳死・臓器移植の問題等、今日の生命をめぐる倫理論争は、まさに「人間としての生」がクローズアップされていることを明白に示している。人間にとって、ただ生物として生きていくことに意味があるのではなく、人間らしく生きること、つまり生命の質こそが大切なのである。すなわち人間の尊厳をともなうということは、それぞれの個人の人生観・宗教観といったきわめて個人的な事柄についての選択が許され、尊重されるということである。『なぜ生命倫理なのか』という表題が切実さをもつのは、そのためだろう。
本書では、生命倫理の基本的な問題から最新の状況までを、ひじょうに分かりやすく説明しているが、それぞれの論稿を遺漏なく論じることはできないので、本書で大きく取り上げられることのなかった宗教観に関する点から論じてきた(第二章の一部分で妊娠中絶に関するローマカトリックの見解に触れられてはいる)。そのため、本書の構成をまとめて記し、知識のパッケージ化のブラックボックスに投げこまれないための提起や課題になり得ると思われるものを抜き書きしておきたい。
序 章 なぜ生命倫理なのか
現代における生命倫理とは、「医療技術や生命科学技術によって生じるだけでなく、環境問題も含む諸問題を研究・予見・解決するために倫理的な分析を行う広くかつ学際的な学問分野」とまとめられよう。(2-3頁)
第Ⅰ部 生命倫理の現実的問題
生殖補助医療技術
代理出産を引き受けることで被る身体的リスクもさることながら、代理母たちの精神的リスクがこれまで看過されてきたのではないだろうか。・・・代理母たちの語られ始めた経験から新しい議論が始まるだろう。(25頁)
人工妊娠中絶と赤ちゃんポスト
生きる権利をもつパーソンであるとは、どのような性質を備えていなければならないのかという議論になる。・・・道徳とは関係のないどのような性質を持てば、パーソンとみなされるのかという議論では、そのような性質と道徳上のつながりを論じなければならない。(38頁)
先端医療
「異常(abnormal)」なものは、正常ではないものとして排除され、「異常」な状態は「正常」な状態へ戻すべきであると考えられがちである。(53頁)
脳死と臓器移植
私は、人が生死のはざまに置かれ、旅立っていく瞬間を看取ったのはこれがはじめてでした。ぬくもりのある体から、徐々に冷たくなっていく体の変化を見た時、これがまさに「人の死」なのだと実感しました。そしてもうひとつ私の中で確実になったのは、脳死と宣告されてからの一年九か月間、娘は確かに生きていた、という事実です。(67頁)
安楽死と尊厳死
自殺ツーリズムと呼ばれる自殺目的の渡航者が問題となっている。(96頁)
第6章 人生の最終段階
死において終わるのは、単なる病気に留まるのではない。そこでは人間そのものが終わるのである。したがって、病気に対する処置はもちろん重要であるが、それ以上に人間に対するケアが重要になってくる。(105頁)
第Ⅱ部 生命倫理の成立
第7章 「医の倫理」から「生命倫理」へ
生と死をめぐる医療問題を人間の倫理的考察の対象とせざるをえなくなったことにより、かつてのパターナリズムは医療者と患者の関係を規定するものとしては限界を迎えることになった。・・・その判断はもはや医療者が下せるものではなく、それを判断し答えを出せるのは、当事者である患者しかいないからである。(126頁)
第8章 生命倫理四原則
「脆弱性」概念について、人間を身体的・精神的に弱くあるものという視点から考えると、ヨーロッパ型生命倫理の根底にある人間観は、完結したパーフェクトな自己決定ができる自己ではなく、その身体性に由来する弱さを本来的に有しながら他者との働きかけによる関係性的自己であるといえる。(144頁)
第9章 医療と正義
国民に医療保険加入を義務づけることは、個人の自由の侵害となるだろうか。(158頁)
第10章 自己決定権と合意形成
「患者・被験者の自己決定権」が医療現場に持ち込まれることは権利擁護という観点からは大きな前進だったが、専門家の下す判断と自己決定権に基づく患者・被験者の意思の不一致は、理念的にも実践的にも深刻な葛藤を生み出した。(170頁)
第Ⅲ部 生命倫理と社会
第11章 生命の倫理としての環境倫理
地球温暖化、気候変動、大気・水質・土壌汚染、生態系の破壊、有害物質問題など、地球規模で早急に対策が迫られている環境問題が、私たちの目の前に山積みである。これらは私たちの生存を脅かすものであるが、その種をまいたのもまた私たちに他ならない。(173頁)
第12章 生産性という時代、優生思想という課題―フクシマとサガミハラが投げかけるもの
〈生〉そのもの―「ただ、あなたが『在る/居る』ということ」―の肯定はいかにして可能だろうか。例えば、「どんなに重度の障がい者の生にも価値がある」といったような言説では、意味/無意味、善い生/悪い生という差別的な二分法が温存され、“価値”という観点を介在させた途端に“属性”に基づく線引き/序列が生まれてしまう。これとは違った形で、生そのものの肯定のありようを構築することは可能なのだろうか。(202頁)
第13章 奪ってはいけない―デイヴィッド・ベネターの反出生主義に向き合う
この時代に生まれてきてしまったということ。たとえそこに“痛み”があったとしても、それでも人生にイエスと言えるならば、あなたはとりもなおさず、産むことと生まれることとの間にある溝をそっと照らしている。あなたは光になれる。(218頁)
終章 生命倫理のゆくえ
一人の人間がこの世に生まれてくるということは、世界に一つの新しい始まりが持ち込まれることであり、また、世界は、この新しい始まりを迎え入れなければ老朽化してしまうという危機感のあらわれでもある。(226頁)
弱い個人の社会的連帯のために
ここまで、本書の序章から終章まで、論者の感性に触れたものを数行程度で抜き出してきた。あくまで、知識のパッケージ化のブラックボックスに投げこまれないための提起や課題になり得ると思われるものを抜き書きしたもので、各章の核の部分ばかりではないし、その言説に必ずしも肯定的であるのでもない。ただ、抜き出してみたことで、改めて本書の「なぜ」からはじめる「生命倫理」が不可欠だと思わされた。
法と倫理の区別が必要であり、そのため、法を倫理的に問い直すことのできる倫理観が求められる。弱い個人が依存しあう関係のなかで社会は回るのであり、他者の声に応答しながら、その苦労をみんなで肯定しあうなかに、社会的連帯がうまれると思う。社会的弱者が少しでも救われるためにも、一人でも多くの人が、 “こちら側”と“あちら側”という線引きの「当然」さに目を向け直すきっかけに本書がなればと願う。
*朝倉輝一[編著]『なぜ生命倫理なのか―生と死をめぐる現代社会の見取り図』大学教育出版、2024年
かわしま・ゆういち
1982年生まれ。2021年に小さな学びの教室「学びのこっころ」を開室。『季刊・現代の理論』では、[若者と希望]「安心して絶望できる社会」デジタル第2号(2014.夏)「どんなに小さな言葉でも」デジタル第23号(2020.夏)「共苦≠同苦―『苦難の共同体』の成立のために」デジタル第26号(2021.春)等、執筆。
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