特集 ● 内外の政情は”複雑怪奇”

福田村事件は大正デモクラシーに対する反撃

「疑似国民国家」による朝鮮人虐殺

筑波大学名誉教授・本誌代表編集委員 千本 秀樹

1.「誤認説」こそが差別

映画『福田村事件』上映後も、この作品に関する議論が続けられている。なかでもわたしが重要だと思ったのは、金ヨンロンの指摘である。日本社会文学会2023年春季大会に森達也監督が招かれたインタビューの後の質疑応答で、金ヨンロンが「朝鮮人虐殺そのものではなく、朝鮮人と、朝鮮人に殺された人々を描くことについてです。……そこはどのようなご意図だったのでしょうか。……もしこれが朝鮮人虐殺であったら、そもそも映画化されたのかというのがちょっと気になります」と質問した。森監督は「おっしゃるとおり、彼らは日本人なのに朝鮮人と間違われて殺されましたって、駄目ですよね、これ。駄目でしょう。朝鮮人も殺しちゃ駄目なんですよ。だから、そこは考えました。映画を見てください。ラストで答えを出しています。」(『社会文学』第59号、2014年3月、傍点原文)

記録された質疑応答は以上であるが、金ヨンロンの質問の意図は、「間違われて殺されたのが日本人であったということが主題ではないのなら、なぜ福田村事件を取り上げたのか、ほかの朝鮮人虐殺事件の方が、集団心理による朝鮮人虐殺という森監督のテーマが、誤解なく観客に伝わったのではないか」というものだったはずである。

『社会文学』第59号に「映画『福田村事件』批評集」が掲載されており、金ヨンロンが「映画『福田村事件』と<誤認説>」を寄稿している。金ヨンロンは福田村事件が「朝鮮人と間違われて日本人が殺された」という表現が繰りかえされてきたことに疑問を表しながら、次のように書いた。

福田村事件の映画化に際して、私が憂慮したのは、<誤認説>の浮上、すなわち、死者たちが再び見分けられ、哀悼すべき「日本人」=非「朝鮮人」へ回収される事態であった。しかし、私の問いに対して森監督は「映画のラストで答えを出している」とはっきり応答しており、三カ月後の映画館で私はその「答え」を確かに聞き取ることができた。……

つまり、「朝鮮人なら、殺してええんか」という新助の言葉は、「なら」の前に来る条件によって、殺す/殺さないという究極の行動が決定されることを是認する人々に対する抗議にほかならない。さらに、行商人たちに同一化しながら、早く朝鮮人という誤解が解かれ、暴力が中断されることを祈るような気持ちで見ていた観客たちに突き付けた問いにほかならない。「朝鮮人なら、殺してええんか」。見事に<誤認説>を拒否するこの言葉こそ森監督の答えであったのだ。

「朝鮮人なら殺してええんか」という、森監督が創作したのであろう、この映画のなかでもっとも重要なセリフが、誤認説に対する批判となっていることは間違いない。金ヨンロンのこの文章が、誤認説の持つ差別性を批判し、森監督が誤認説に対して批判的な視点を持って製作していることを評価していることについて、わたしはほぼ全面的に同意する。しかし森監督の製作目的は集団心理による暴力性と差別性であって、誤認説を批判したかったという発言は見られない。誤認説こそが関東大震災の朝鮮人虐殺と福田村事件の差別性を表現しており、「朝鮮人なら殺してええんか」というセリフはこの映画のなかでもっとも重要なセリフなのだが、映画の誤認説批判は、果たして観客に通じたのか。

上映が一段落した後の福田村事件関係の言説を見ていても、誤認説の勢いに陰りは見えず、反誤認説は相変わらず圧倒的少数派である。事件に隣接する守谷市で、誤認説を最初に批判した市川正廣福田村事件追悼慰霊碑保存会代表を招いて、人権推進課が8月2日に開催する「人権教育講演会」でも、「朝鮮人と間違われ、地元の自警団に9人が殺された事件」と紹介されている始末である(『広報もりや』721号)。

朝鮮人虐殺の差別性を表現するのであれば、他の事件をテーマとした方がよいはずだ、差別的誤認説の紹介と誤解されかねない福田村事件を取り上げるのならば誤認説を正面から批判の対象としなければならなかったはずだ、なぜ福田村事件なのかというのが、金ヨンロンの質問の意図だったとわたしは理解している。その回答としては、最後に「朝鮮人だったら殺してええんか」というセリフを用意したというだけでは不充分なのだ。現実の加害者たちは、「朝鮮人ではないかもしれない、朝鮮人ではなさそうだ」と疑いながら決行したのである。誤認したのではないことが福田村事件の本質であり、にもかかわらず決行した原因を探らなければならないのである。

2.国民国家は戦死者を賛美する

本誌第36号にわたしは「福田村事件はなぜ起こったのか 朝鮮人だということにすればお国のため」を執筆した。朝鮮人でなくてもよい、大震災という国家の危機のなかで、各地で「不逞鮮人」を殺す事件が頻発しており、田中村では地元出身の兵士が満州で朝鮮独立運動を掃討中に反撃されて戦死するという事態もあって、「朝鮮人を殺すことがお国のためである」という意識が高まっていた。朝鮮人でなくても胡散臭い奴らならかまわないという集団心理である。事件直後から、誤認説による酌量意見はもちろん、お国のためにと思ってやったことだから軽い罪でという検察官の意見があったことを紹介した。

拙稿について、集団心理に対して個の意見はどのように闘えるのか、「お国のために」という意識はどのように形成されたのかという感想などが寄せられた。金ヨンロンの「なぜ福田村事件を取り上げたのか」という質問に対しては、「朝鮮人ではないかもしれないが、殺すことがお国のためであるという『お国のため』意識、その過去と未来についての考察の素材にできるから」というのがわたしの答えとなる。

「お国のために」という意識は1920年代以前から存在していたが、「お国のために死ねるか」という迫り方は、関東大震災当時にはさほど見られることはなく、1930年代になって頻発されるようになったというわたしのイメージは、詳細な調査はしていないが、間違ってはいないだろう。

もう20年も前になるだろうか、留学生と日本人学生とのあいだで、テーマを設定して議論を交わすという授業を展開したことがあった。ある日本人学生が、彼は決して政治に関心が強い方ではなかったが「国のために死ぬのは嫌だ」と発言すると、韓国とベトナムの留学生が色をなして「国のために死ぬのは素晴らしいことじゃないですか」と反論した。日本人学生たちは戸惑い、しらけて議論は続かなかった。

欧米でもアジアでも、国のために死んだ者を顕彰し、追悼する施設や墓地があるのは当然である。特に欧米では、それらは「国民国家」に分類されるのだろうが、植民地侵略や先住民虐殺の先頭に立った者を賛美する。戦後日本が国立の戦死者顕彰施設を持たないのは、戦争での敗北の仕方が徹底的であったこと、侵略の対象であった朝鮮や中国が地理的にも近く、政治経済面で密接な関係があることなどが原因なのだろうが、「国のために死ぬことを拒否する」ということを戦後に国民が論理的に共有したわけではなく、気分的な、感覚的なものでしかなかった。

政府は天皇を先頭に立てて毎年「戦没者追悼式」を開催し、「追悼」の名に隠れて「顕彰」を進め、戦争のできる国づくりに励んではいるが、国民の気分を変える有効な手段を講じることはできていない。今のところ、「国のために死ね」といわれても、若者は「いやだ」と断るだろうとわたしは期待しているが、ある中学校の教員は「国のために戦争に行けといわれて断れる子どもはほとんどいない、そのような教育が功を奏している」と語る。はたしてどうだろうか。

3.戦国期に始まる国民国家

一時期、「近代国民国家論」が流行した時期があった。わたしは、明治維新で成立した国家は「天皇制臣民国家」であって、近代国民国家ではないとの立場から流行には乗らなかったが、不勉強なわたしは、「国民国家」という概念が戦国期に成立したとい考え方があることを最近になってようやく知ることとなった。戦国期研究のリーダーの一人である勝俣鎮夫は、内藤湖南の15世紀から17世紀半ばまでをひとつの転換期と捉え、そこから始まった時代、すなわち現代が現在おおきく変化して新しい時代に入ろうとしているという指摘を受けて(内藤湖南「応仁の乱について」1921年)、この時代の研究の意義は大きいとする。

(1) この時代は、民衆が歴史を動かす主体勢力として、日本の歴史上はじめて、はっきりとその姿をあらわした時代であった。……一三世紀ころよりすでに形成されていた貴族・武士などの「イエ」と同じような、祖先をまつり、家の存続・繁栄を最大の価値規範とする家族共同体としての家が、しだいに百姓の家として形成されてきた。そして、この永続する家の維持のため、百姓自身がつくりだした非常に強固な共同体が、農村では惣村・郷村などと称される村であり、都市では町であった。一五世紀、天下一同の徳政を要求し、旧来の政治体制に大きな衝撃を与えた徳政一揆は。この惣村を基礎単位としてひろく結集した運動体の実力行使を象徴するものであった。戦国時代は、百姓たちがみずからつくりだした、自律的・自治的性格の強い村や町を基礎とする社会体制、すなわち村町制の体制的成立期であった……。

(2) つぎにこの時代は、……そして、このような技術革新の時代とされる戦国時代は貨幣経済の発達、村や町にまでおよんだ文字の普及によって一種の近代的合理主義の観念を社会的に定着させた。さらにこの観念のもとに、それ以前よりはるかにシステマチックな統一的国家組織・社会組織を成立させていった。

(3) 最後に、この時代は、日本列島に居住するさまざまな民族が国民として掌握され、この国民を構成員としてつくられた国民国家的性格の強い国家の形成期であった。……

「さまざまな民族が国民として掌握され」とあるが、アイヌや琉球の人びとを「国民」として掌握していたとはいいがたく、蝦夷地や南西諸島を「日本列島」に含めないのであれば、「さまざまな民族」とは何を指すのだろうか。同じ論文の別の場所で、勝俣鎮夫は続けている。

多くの戦国大名は軍役体制としての貫高制と、国民にたいする国役体制という役の体制をつくりあげていた。この国役体制のもとで国民は国民の義務として、それぞれの職能に応じた負担とは別に、段銭・棟別銭・普請役などの国家の役としての国役をつとめていた。しかし、政治的運命共同体的性格をもつものとして形成されたこの国家の役は、国家のためという目的で、国民としての義務を、定められた役の枠をこえて強制することが可能であった。戦国大名は、敵軍の侵入による国家存亡の危機のさい国民に総動員令を発し、防衛の後方支援のための徴発を行なった。役の体制のもとで制度的に非戦闘員とされていた国民に対する大名の動員の論理は、「御国のため」に、「国にこれ有る者の役」としてこの動員に応じなくてはならないというものであった。そして、これに応じない場合は国内からの退去を命じている。ここに、以後の日本国家における国家と国民の関係の体質的原型ともいうべき国家の形成を読みとることが可能であろう。(勝俣鎮夫「一五-一六世紀の日本──戦国の争乱」)

引用の最後の部分は、明治維新以降の日本を語っているのかと思うほどである。また勝俣鎮夫は別の論文で、国家ということばは古代から存在するが、戦国大名が領国内の寺社に国家安全の祈祷を命令する場合、国家とは日本国ではなく大名の政治的支配領域であり、「国」と「家」は別の概念で、「御国のため」と「御家のため」は書きわけられていると述べている(勝俣鎮夫「戦国法の展開」1978、永原慶二編『戦国大名の研究』吉川弘文館、1983所収)。

4.「お国のために」の根深さ

江戸時代の『忠臣蔵』のストーリーで浪士たちが引き裂かれるのは、赤穂浅野家の支配する「国」に対する「忠」と、親、すなわち「家」に対する「孝」のはざまであった。明治政府は水戸学派の「忠孝一本」の考え方を採用し、国家に対して忠義を果たすことが親に対する孝行であるとした。国のために死ぬことで親が国によって賛美され、親のためになるという論理である。さらに大日本帝国憲法第1条によって天皇と国家を一体化させた。

戦国時代以来、御国と御家は区別されていた。それは大日本帝国と天皇を区別するということである。たしかに『忠臣蔵』においては、忠義の対象が赤穂浅野家が支配する「国」なのか、それとも浅野内匠頭なのかをはっきり区別することは難しいが、それでも討ち入りは、浅野家再興、すなわち国の再興が不可能と確定してから決行されたところに、浪士たちの忠義は「国」に対して向けられていたことは明らかである。

国としての大日本帝国と、天皇が家長である「家」である皇室はあきらかに位相が異なる。だから、大日本帝国憲法で、天皇と国家を一体化させることは、論理的に必要であったのだ。

「お国のために」、「国のために死ぬ」ということばが、戦前期、あるいは戦時下に乱用されていたことについて、「ひどい時代だったよね」という程度ですませてはいなかっただろうか。その発想がどのように生まれ、根づいてきたかを検証しなければ、民衆が朝鮮人を虐殺したことについても、人びとが戦争動員に応じたことについても、理由が解明できない。「国民国家」というシステム、そして「御国のために」という論理が戦国時代までさかのぼるということは、問題の根深さを示している。

戦国大名は、徳政令などで民衆を統合したが、農民が侵略から村を守る動機は、自治的な惣村を、自分たちが作った村落共同体を守ることであった。村落共同体も国民国家も草創期にある場合、それは観念的なものではないだろう。家族を守ることが村を守ることであり、それが「御国」を守ることであった。家族を守ることと国を守ることのあいだに、さほどの落差はなかったはずである。

明治国家もこの論理構造をそのまま利用しようとした。しかし最大の障壁は、民衆が明治維新で成立した国家を自分たちの国家として承認しなかったことである。政府が民衆を国民としてではなく、臣民に貶めていたからである。

政府は民衆に日本人としての自覚を持たせる内面的戦略と、外部に敵をつくる外圧的戦略によって、疑似国民国家を創りだそうとした。内面的戦略とは、ひとつは全国統一話し言葉を新しく作って、国定教科書を使用する教育などで普及すること、もうひとつは江戸時代の武士の家制度を、1898年の民法相続篇によって全臣民に強制し、家のあり方を封建的家父長制で統一する、このふたつを軸に天皇制「日本文化」で全国を染め上げようとした。これはすでに本誌で繰りかえしてきたことである。

外圧的戦略とは、民衆が社会の主人公となろうとする運動を、外国思想の悪しき影響によるものだと警戒し、民主主義、社会主義思想を敵視するとともに、植民地独立運動を国家の存立を脅かすものだと弾圧の対象とした。共産主義を弾圧するための治安維持法では、「国体の変革」に天皇制の廃止だけではなく、植民地の独立も含まれている。

米騒動後、様々な社会運動がまきおこり、関東大震災当時はアナキズム運動が盛んで、労働争議もピークに達しようとしていた。前年、政府は過激社会運動取締法案を帝国議会に提出していた。大震災の直前にはソ連のヨッフェが来日し、共産主義思想の大量流入も予測されていた。

1910年に日本は朝鮮を併合したが、1919年には大規模な非暴力独立運動が発生し、鎮圧後も満州などを拠点に武装独立運動が続いて、日本軍は掃討に手を焼いていた。田中村出身の兵士が戦死したことは、36号に書いたとおりである。新聞では「不逞鮮人」の抵抗を許されないこととして、連日報じていた。

映画「福田村事件」で、創作として織り込まれている人物も興味深い。元教員澤田は、3・1独立運動の提岩里事件の虐殺にかかわってしまい、性的不能となるほどの衝撃を受けて、教員をやめて郷里で帰農しようとする。村長から教壇への復帰を進められるが決して受けようとしないのは、臣民を育てること、すなわち疑似「国民国家」への参加・協力を拒否しているのである。その妻静子は、存在そのものが天皇制日本文化の外にあるように、福田村の人びとには見える。また、実際にも野田醤油(キッコーマン)の労働組合活動は当時盛んであったが、事件とのかかわりは不明であるし、映画でも風景としてしか描かれていない。

反体制的社会運動に対抗するものとして、江戸時代以来の自治的な若者組が解体されて、官製青年団が設立され、またさまざまな退役軍人会を統合して1910年に在郷軍人会が全国組織として結成されていたが、活躍の場といえるものはなかった。そこへ現れたのが見慣れない15人の売薬行商人集団である。新聞報道によれば、東京近辺では暴動を起こしたり、井戸に毒薬を投げ込んだりしている朝鮮人と自警団が戦っているという。田中村でも出身兵士が朝鮮人に殺された。その報復のためにも、怪しい奴らは殺してしまうのがお国のためだ。殺人現場を主導した人びとの意識はこのようなものではなかったか。

映画で描かれた澤田夫妻や村長のようなリベラル派が現場にいたとの証言はない。仮にいたとしても、そのような大正デモクラシー、外国からの流入思想にかぶれた人物は「疑似国民国家」=天皇制臣民国家の敵であるから、聞く耳を持つ必要はない。

関東大震災で殺された朝鮮人・中国人・琉球人、そして少数の日本人は、疑似国民国家の敵として、殺すことがお国のためだとして殺された。前稿でわたしは、大震災当時の朝鮮人差別は1930年代や戦後ほど強くはないと書いた。特に1950年に朝鮮戦争が始まった前後、朝鮮戦争反対運動の最大拠点となった朝鮮人部落は、酒の密造の疑いを口実に、警官隊に周辺を包囲された。実際の標的は、反戦運動の実働部隊の中心を担った朝鮮人共産主義者であった。共産党の実力闘争とあいまって、「朝鮮人はこわい」という差別的イメージがもっとも強化された時代であった。

それとくらべれば震災当時の虐殺は、差別的側面よりは政治的動機が強いように思える。もちろん、数千人の朝鮮人が殺された事件は、日本列島内では他にはないから、「最大の差別事件」という表現に異議を唱えるつもりはない。ただ、福田村事件を「朝鮮人と間違われて日本人が殺された事件」という誤認説をはずして本質を考えたとき、福田村の犠牲者を含めて関東大震災の被害者全体が、大正デモクラシーの民衆運動への疑似国民国家からの反撃の被害者であったという政治的側面に行きつくのである。

ちもと・ひでき

1949年生まれ。京都大学大学院文学研究科現代史学専攻修了。筑波大学人文社会科学系教授を経て名誉教授。本誌代表編集委員。著書に『天皇制の侵略責任と戦後責任』(青木書店)、『「伝統・文化」のタネあかし』(共著・アドバンテージ・サーバー)など。

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