コラム/深層

いわゆる「左翼思想」が根底から問われている

映画『ゲバルトの杜(もり)ー彼は早稲田で死んだ』(代島治彦監督)をみて想う

本誌編集委員 池田 祥子

1.映画『ゲバルトの杜―彼は早稲田で死んだ』の歴史的背景

1960年の「安保闘争」(日米安保条約改定反対闘争)においても、「全学連」の主導する学生運動は、樺美智子の死とともに社会的な注目を浴びた。

その後の1964年の東京オリンピック後、戦後世代「ベビーブーマー」の大学進学が目立ち始める。そして60年代半ば以降から70年にかけて、世界的にも「スチューデントパワー」が弾けた時代であり、日本でも日大、東大を中心とした全国的な「学園闘争」が展開された。

ただ、これらの学生運動の核となり、運動を主導した主体としての「社会主義を目指す」政治党派の存在を無視することはできない。60年安保闘争時の「共産主義者同盟」(通称ブント、1958年結成)、その後「革命的共産主義者同盟全国委員会」(1961年)、それが二つに分かれて、「革共同革マル派」「革共同中核派」(1963年)。またその他、日本社会党内の「社会主義青年同盟」や、日本共産党から新たに除名され結党された「構造改革派(諸派)」etc.がある。もちろん、戦前から続く日本共産党とその青年部隊の「民青(民主主義青年同盟)」も、無視できない一方での大きな存在である。

さらに、1969年1月18-19日の東大安田講堂の攻防戦以降、学園闘争が権力的に終結させられて後、「暴力(銃・爆弾)」による国家権力打倒、「世界革命」遂行、あるいは歴史的な犯罪を反省することのない資本・財閥への攻撃を断行する政治党派・グループの実力行使、も目に付いた。連合赤軍、日本赤軍、東アジア反日武装戦線(狼・大地の牙・さそり)など。

しかし、この「暴力的実力行使」が、仲間内の「思想強化」(「総括」)にも用いられ、次々と「同志」を死に追いやった連合赤軍、および、同じく「社会主義革命」を目指すはずの党派が、互いに相手を「反革命=敵!」と規定し、木材・鉄パイプなどで相手方の「命」を狙う(歴史的には「内ゲバ」と称されている)「殺し合い」の事実と歴史。

ただし、「連合赤軍」の場合は、「あさま山荘」での銃撃戦が、テレビを通して全国民が注視することになり、その後の「同志殺し」も赤裸々に放映された。

だが一方の「内ゲバ」に関しては、時折、一般の新聞でも小さくニュースとして取り上げられることはあっても、また、当事者たちの恐怖に塗れた戦々恐々とした日々に耐えきれなくて「脱落する者」も少なくはなかっただろうが、詳細は知られぬまま、歴史の中に埋没した感は否めない。

とはいえ、この「内ゲバ」の事実が、良心的に「社会変革」を志し、運動に参加していた学生、青年労働者、およびシンパシーを寄せていたであろう市民の多くを、「社会変革運動」あるいは「社会運動」の場から遠ざけてしまったことは、あまりにも悲痛な事実ではないだろうか。

2.映画『ゲバルトの杜―彼は早稲田で死んだ』の紹介

ここで取り上げられた「リンチ殺人事件」は、1972年11月8日、早稲田大学自治会を支配していた革マル派が、「中核派のスパイ」と疑った川口大三郎(早稲田大文学部2年)を自治会室に拉致し、結果として「リンチ殺人・死体遺棄事件」に至ったものである。

監督は代島治彦(66)、劇中劇の演出は鴻上尚史(65)、元になったのは、川口君の一年後輩で、ジャーナリストの樋口毅の著書『彼は早稲田で死んだー大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文芸春秋)、2022年大宅壮一ノンフィクション賞受賞)である。この樋口毅氏は、実際にも川口君リンチ殺人事件の直後から、「革マル派追放・新自治会」創立の中心メンバーとなるが、「武装/非武装」の対立の中、最後まで非武装を貫くも、結果として革マル派の復権を許してしまい、その上、当人も革マル派の襲撃に会い重症を負ってしまう。ただ、樋口毅氏のこの後年の著書は、彼が生きながらえた幸運の結果としての歴史的記録であり、今回の映画製作につながった貴重な一冊である。

監督代島治彦は、1977年4月、早稲田の政治経済学部へ入学。本人によると、「中学時代に連合赤軍リンチ殺人事件、高校時代に内ゲバ殺人事件を見聞きした」結果、「政治的な運動には関わらない方がいいな」と思っていたとか。また、「高校生になるまでは、心情的には学生運動をやっているかっこいいお兄さんやお姉さんに憧れていたぼくでさえ、内ゲバには怖気づいていたのです。しかし同時に、なぜ仲間どうしで殺し合いをやるんだという疑問が湧いてきたのを覚えています」(「映画パンフレット」)。

これまでに撮った映画の中で、『三里塚に生きる』(2014年)、『三里塚のイカロス』(2017年)、そして『きみが死んだ後で』(2021年)と、60~70年代の政治闘争のドキュメンタリー映画の製作が続くが、本作はその系列での4作目である。

最初の『三里塚に生きる』は、小川紳介監督の『日本解放戦線・三里塚の夏』(1968年)でカメラを回し続けた大津幸四郎氏と出会い、彼と共同で製作した映画だという。

大津幸四郎氏が知っている「青年行動隊」のリーダーだった島寛征・柳川秀夫の両氏に会って話を聞こうにも、「いまさらしゃべることはない。もしあったとしても、墓場までもっていくんだな」とケンモホロロ。それでも、「ときどき、農作業だけでも撮らせてよ」と大津氏が強引に頼み込み、辛うじて接触の糸は繋がった。

ただ撮影は大津氏。話を聞き出すのは代島氏。運動・闘争経験のない代島氏は、さて何を聞き出すか・・・?何回も、何十回も通って、ついに一人の若者の名前に行き当たる。三ノ宮文男!・・・青年行動隊リーダーの一人だった彼は、機動隊員3人を結果として殺してしまったことで、1972年10月1日、村の産土神社で首を吊って死んだ。その彼の話になると、素っ気ない爺さんたちが涙を流すのだと・・・。

この享年22だった三ノ宮文男との出会いによって、監督代島氏の、『三里塚に生きる』が初めて形を為し、それが60年代、70年代の政治闘争のドキュメンタリー制作へと続き、それが今回の川口大三郎リンチ殺害事件へと繋がることになった。

3.代島治彦監督、挿入ドラマ担当・鴻上尚史、それぞれの思い

代島治彦監督の世界---代島治彦が1作目の『三里塚に生きる』の撮影中に遭遇した葬儀。それがそのまま2作目と繋がる。その葬儀の死者は、反対農家へ嫁いだ元新左翼党派(中核派)のリーダーでもあった女性。ただし、2006年に、元青年行動隊員の夫とともに、空港公団に土地を売って移転していたのだった。かなり高額の売買だったのだろう。

闘争から「降りた」こと、高額のお金を手にしての移転と「立派な屋敷」・・・その元活動家の女性の煩悶。それをテーマにしたのが2作目『三里塚のイカロス』である。

3作目は、1967年10月8日、佐藤首相南ベトナム訪問阻止闘争(いわゆる「ジッパチハネダ」)の最中に、機動隊との攻防の末に撲殺された山崎博昭(京大生、20歳)の死に焦点が当てられた。山崎博昭の死の後で、友達はどう生きたのか、その語りを収録したのが『きみが死んだあとで』である。

そして、今回の4作目の『ゲバルトの杜―彼は早稲田で死んだ』である。前作『きみが死んだあとで』の製作中に、中核派・革マル派の当事者や関係者にアプローチするものの、彼らの「記憶」なるものは「セメントで完全に蓋をされていることを実感し」「内ゲバについてのドキュメンタリー映画は絶対に作れないだろうと思いました」と代島。そう断念していた所で出会ったのが樋田毅の『彼は早稲田で死んだー大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文芸春秋社)だったという訳である。

ただ、樋田毅の記録としての著書を元にして制作された今回の代島の4作目に対しても、代島監督自身は次のように語っている。

「60年代から70年代の闘争で死んだ若い死者たちに、ぼくはなぜかとても愛着を感じるんです。その理由は、もしもあの時代が僕の青春だったら、ぼくは若い死者の仲間たちになっていたかもしれないと思うからかもしれません」(「映画パンフレット」)。

ただ、一方で、代島監督は、「内ゲバによる死はあまりにも〝ほんとうに無意味な死”」ということを認めている。だとしたら、「少し遅れてきた人間」として、その「ほんとうに無意味な死」に、もっと本気でつき合い、暴き、多くの人と「その無意味さ」を徹底的に共有することが大事なのではないだろうか、と評者(池田)は思うのだが・・・。

 

鴻上尚志の挿入ドラマ――今回の映画『ゲバルトの杜』の挿入ドラマを担当した鴻上尚志は、監督代島治彦と同年生まれ(1958年)である。

今から52年も昔の出来事を、今の若者たちにも理解してもらおうと、代島監督はこの「挿入ドラマ」を鴻上尚志に持ちかけ、即座に意気投合したという。そして、20歳前後の学生のオーデションを行い、「真面目」な男女を採用した。彼ら彼女らは、川口大三郎を拉致し、長時間に渡って角材で殴りながら、「中核派」の仲間の名前を吐かせようとした。

革マル派の学生役を演じた現代の学生たちの発言から、以下に少し引用しておこう。

香川(川口君の友人役)・・・殴ってくる時の相手の眼ですね、一番怖いのは。自分は正しいことをしているんだって大義名分を背負った優越感の眼差し。

峰岸(革マル派活動家役)・・「殴ることで世界は変わるんだ」と思い込んで殴るところまで、僕はそこまでの役作りはできなかった。

黒川(革マル派現場リーダー役)・・・「お前、ブクロだろう」っていう台詞のときに、鴻上さんに「まだチンピラみたいだ」と何度か注意されて、そうかと。「彼らには正義があって、品のようなものがほしいんだ」と言われて、そこでハッとさせられて、これからのやっていく演技の軸が自分のなかにひとつできたなっていう感覚がありましたね。

以上の学生の発言にも伺えるように、挿入ドラマを担当した鴻上尚志は、「革マル派は決してそんなふうに狂乱的に怒鳴り散らしたりはしない。彼らはみんな賢くて、真面目で、誠実で、世界平和のためにまっすぐに闘っている、革命戦士なんだ。・・・・野獣じゃないんだ、革マル派は」・・・と言い続けている。

また、次のようにも言っている。

「革マル派はとんでもない連中だ」で物語が終わったら、また憎しみの連鎖が続くわけだから、どこかで鎮魂歌にしないといけない」。

さらに、次のようにも述べている。

「どうして内ゲバが始まったのか。どうして世界史の中でも例を見ない死者100人、負傷者5千人以上という「残酷な学生・政治運動」になったのか。/内ゲバの原因を分析する人は、「レーニン主義」の問題とか「党派組織」とか、政治的なアプローチをする人が多いと思います。/もちろん、それもあるでしょう。僕は否定しません。/でも、「内ゲバ」が凄惨な事態に陥ったのは「日本人の心性」がとても大きいと僕は思っています」。

こうして、代島・鴻上両氏の手によって、今回の映画の最終場面は、血だらけになって引き下ろされた川口大三郎が息をしていないことに気づいた革マル派の現場リーダーが、「本当に死んだことに動転して」、「おい、川口、おい、おい、川口、おい、川口、おい、川口、おい、川口・・・」と延々と揺さぶり呼びかける場面で終わる。

しかし、「内ゲバ」は現在は「終了」宣言?の下、現実には行われてはいない。しかし、「内ゲバ」の中心だった「革マル派」も「中核派」も、組織として解体されてはいないし、むしろ健在である。しかも、「内ゲバ」を導き出す、それぞれの「革命」「党(前衛党)」理論も以前のままである。鴻上尚志の意見とは逆に、私は、日本共産党も含めた、「左翼」党派の「革命=前衛党」理論そのものの根底的な再検討こそ必要なのではないか、と思っている。今回の映画を見て、一層その想いを強くした。

いけだ・さちこ

1943年、北九州小倉生まれ。お茶の水女子大学から東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。元こども教育宝仙大学学長。本誌編集委員。主要なテーマは保育・教育制度論、家族論。著書『〈女〉〈母〉それぞれの神話』(明石書店)、共著『働く/働かない/フェミニズム』(小倉利丸・大橋由香子編、青弓社)、編著『「生理」――性差を考える』(ロゴス社)、『歌集 三匹の羊』(稲妻社)、『歌集 続三匹の羊』(現代短歌社、2015年10月)など。

 

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