論壇

知識の詰め込みの何が悪いのか

大学入試改革を考える

河合塾講師 川本 和彦

***予備校の講師室における会話***

日本史科講師「この時期から、日中関係は泥沼化していったんだ」
生徒A「泥沼化って、どういう意味ですか」
講師「なかなか抜け出せない状況になったということだ」
生徒A「じゃあ、最初からそう言ってください」

 

世界史科講師「アダム・スミスは産業革命前夜の思想家だね」
生徒B「産業革命は何年何月何日に起きたんですか」
講師「いやいや、前夜というのは前の日の夜という意味じゃない」
生徒B「だって『前』の『夜』じゃないですか」

 

地理科講師「この地図でイ ・ロ・ハ3点のうち、傾斜が最も急な箇所はどこか」
生徒C「けいしゃって何ですか」
講師「傾きのことだ」
生徒C「傾きどういう漢字書きますか」

 

公民科講師「日本の穀物自給率は、30%弱だな」
生徒D「じゃあ32%とか33%くらいですか」
講師「それだと30%強だろう」
生徒D「30%強なら37%とか38%でしょう。川本さんの日本語、変ですよ」

 

‥‥これ以上書いていると仕事をするのが嫌になるので止めるが、上述のような生徒は決して、少しも、全然珍しくない(ちなみにA・B・C・Dは全員、国立クラスの生徒。Dは翌年、一橋大学に合格した)。しかも予備校であるから、翌年は大学に入る生徒たちである。人格は無関係だが、高校卒業後に就職したり専門学校へ入ったりする生徒の日本語能力は、平均すればこれよりも低いということだろう。

これを踏まえて、入試改革について考えたい。

中教審は何を目指すのか

センター試験を引き継いだ大学共通テストを作成するのは、文部科学省の所轄下にある独立行政法人・大学入試センターである。個々の大学入試は各大学に任されているが、文部科学省の方針と完全に無縁ではありえない。補助金の増減という「飴と鞭」もありますからな。高校教科書・指導要領から逸脱した設問はあるが、完全に外れることはない。

これまで文部科学省の方針を規定してきた中央教育審議会は、高校教育の指針として、以下の答申を出している。

①これからの時代に社会で生き抜いていくために必要な、主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度(主体性・多様性・協働性)を養うこと。

②その基礎となる「知識・技能を活用して自らの課題を発見して、その解決に向けて探究し、成果を実現するために必要な思考力・判断力・表現力等の能力」を育むこと。

③さらに、その基礎となる「知識・技能」を習得させること。

複数の審議会メンバーが「従来は③の知識詰め込みで終わっていたが、それではグローバル化という時代の変化に対応できない、②の思考力、さらに①のコミュニケーション能力を身につける必要がある」と述べている。

入試問題作成者は当然、これらを意識することになる。そして入試のあり方は、高校の授業に少なからぬ影響を与える。

コミュニケーション能力とは何か

内田樹氏は「対話が成り立たない場で対話を成り立たせるのが、コミュニケーション能力である」と述べている。その例として幕末、幕府の使者であった山岡鉄舟が、行手をさえぎる官軍を対話で突破したケースを示した。だが中教審の言うコミュニケーション能力とは、そこまでハイレベルの能力を求めているわけではあるまい。自分の意図を正しく伝え、相手の意図を正しく理解する、という程度であろう。

これが怪しくなっていることは、冒頭の会話で明らかである。コミュニケーション能力というより、日本語の問題である。従って小学校以降の教科書と授業を工夫すれば、状況はいくらか改善すると思われる。

だが問題は、その先にある。コミュニケーション能力が養成されたとして、それをどう使うかが大事なのではないか。

2015年に群馬大学医学部附属病院で、1人の医師が18人の患者を手術後に死亡させたことがあった。18人という数字は、もはや単純ミスや特定患者の状態による不可抗力な事故ではなく、手術そのものが間違っていたと考えるべきだ。

患者18人のうち17人までは、医師の事前説明に納得していた。つまりこの医師は医療技術に欠陥があったが、コミュニケーション能力は高かったということになる。旧統一教会に入っていれば、優秀な「壺販売員」になったかもしれない。

イギリス映画「英国王のスピーチ」なども好例だ。国王が吃音を克服する努力は感動的だが、克服した後のスピーチは、国民を戦争に動員するものであった。[ファシズムとの戦い]という大義はあるにせよ、その内容まで無批判に感動してはいけないのではないか。

知識は不要なのか

まず強調しておくが、知識と思考力は矛盾・対立するものではない。知識はあるのに思考力がない者はいる。確かにいる。だが知識はゼロなのに思考力があるという者は、灰谷健次郎氏が書いた小説の中にしかいない。

英語の入試に際して、辞書持ち込みを許可している大学がある。だからといって、単語の暗記が不要ということではない。膨大な長文の中に、知らない単語が100あれば、電子辞書の画面を100回眺めることになる。知らない単語が2つしかなければすらすら読めて、次の設問に取り掛かることができるのだ。単語という知識量が多い受験生は、当然ながら有利である。

以前のセンター試験に比べると、確かに共通テストではグラフや図表など資料の読み取りを踏まえた設問が増加した。だがこれらの多くは、よく言えば情報処理能力を問うものに過ぎない。あからさまに言えば、資料をじっくり読む忍耐力がものをいう内容である。思考力を問うとは言い難い。

一部の私大や国立大学の2次試験には、知識の羅列だけでは解けない出題がある。しかしながら、これらも知識から類推する要領が求められている。知識というものは、やはり必要である。思考力だけでは得点できない。

思考力とは何か

思考の第一歩は、疑問である。なぜという問いの答えを求める作業が、考えるということだ。

問いには正解がある場合と、ない場合がある。例えば「いかに生きるべきか」という問いは、後者である。

この場合、ある時点で正解が見つかったと思っても、ファイナル・アンサーになるかどうかはわからない。ある体験を経て正解と思っていたものが、これからの自分には当てはまらないことに気づくことがある。かくして思考は一生続く。これは個々人がそれぞれの人生の場面で、過去を参照しながら考えるしかない。教科書や入試問題で、画一的に教えて養成できるものではないのだ。

一方、入試問題は基本的に前者である。正解がなければ採点できない。

世界史論述や小論文のように、正解が1つではない出題はある。それでも「こういう内容をおさえていれば合格」という、一定の基準はある。基準さえわかれば合格点を取るのは不可能ではない。過去の出題をじっくり研究することで、基準をある程度は想定できる。

結局は出題傾向が頭に入っていることが求められるので、知識と無縁ではない。長い文章を書くために必要な語彙も、やはり知識として得られるものである。

知識詰め込みを否定するのであれば、思考力を問う入試問題を作成すること自体が不可能になる。

思考力養成に落とし穴はないか

各方面の反発を承知で申し上げるが、人生において学校しか知らない教員が、生徒の「社会で生きる力」を養成するなどというのは、おこがましいのではないか。教員にできることは、自分が仕入れた知識をわかりやすく加工して伝授するだけではないかと思う。

もっとも、思考力を養成することはできなくても、生徒自身が思考力を形成していく過程を側面から応援することはできるかもしれない。

そこに落とし穴があるのではないか。個々の応援自体は良いことだとして、それが合成の誤謬をもたらす恐れはないだろうか。

 

山梨県北杜市立甲陵高校は文部科学省のスーパーサイエンスハイスクール指定を受けている。そのため学習指導要領によらない、先進的な理数教育を受けることができる。

公立だから授業料は私立ほど高くない。高校周辺には、塾や予備校もない。だが、この高校から東京大学の学校推薦入試や京都大学の特色入試、つまり知識詰め込み型ではないとされる入試に合格した生徒のほとんどは、首都圏からの移住者である。東京との2拠点生活の家庭もある。

同校教員の入山実氏は「合格した生徒の家庭は週末に東京の博物館に行ったり、親御さんが大学教授など専門家を見つけてアポイントを取って連れて行ったりするなど、子どもの関心に合わせて学びを深める支援をされていました」と語っている。

もうおわかりだろうが、そういう親は相対的に高学歴・高所得である可能性が高い。自身が博物館や美術館へ行ったことが一度もない親が、子どもを連れていくだろうか。大学教授の知人がいるだろうか。いなければ知人になろう、アポをとろうという発想が、そもそもないだろう(繰り返すが、人格の優劣とは無関係である)。

福沢諭吉は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」とのたもうたが、一方で学問の有無による格差は正当であるとした。かつては確かに、学問という本人の努力で、生まれた家庭による格差を乗り越えることができたのかもしれない。

現在の日本では、それは相当に困難である。思考力を問うような入試、それに対応できるような授業を受けるためには、ある種の価値観と一定以上の所得を持った親の支援が必要なのだ。

そういう家庭に生まれてこなかった子が唯一逆転できるとすれば、知識をひたすら詰め込む努力だけではないだろうか。それさえ否定されてしまえば、格差拡大に拍車をかけるだけである。

家庭間の格差に加えて、地域間の格差も問題になる。書店や大学、映画館、劇場、美術館・博物館の数において、東京と地方とでは圧倒的な格差がある。秋田県ではTBSを見ることができない。おそらく日本最良の報道番組の一つ「報道特集」も、半沢直樹も知らないというのは、無視できぬハンディキャップである。

高校までの教育意義は何か

三田紀房氏は漫画『ドラゴン桜』で、主人公の桜木にこう言わせている。

「優秀な子供は放っておけばいいんだ。一人で勉強して勝手に伸びて行く。手をかけるほうが、かえって成長を阻害する」
「それよりも、中程度の成績の子供を増やすことを目指すべきなのだ」
「宅配便が翌日に届くのは、ドライバーが優秀だからだ。チェーン店が円滑な業務を行えるのは、優秀なアルバイトのおかげ」
「教育が力を注ぐべきは、下位の子供を作らないこと。真ん中を厚くすること」
「トップエリートを育てて国を引っ張るなんて発想は、全くの本末転倒。それでは下位の子供は一生取り残される」
「さらに大きな教育格差を生み、経済格差を助長させる。貧困層が増えれば、国力は衰退する」

国力なんてものはどうでもいい気がするが、これらの発言には概ね賛成する。

入試問題をいじくることで、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブスが育つのだろうか。プラットフォーム創業者の多くは、大学で歴史や哲学などを専攻している。学校教育の成果がないとは言わないが、入試を変えて、それに応じて授業が変わればうまくいくという発想は、あまりに安直であろう。

グローバル化という言葉が一人歩きしているが、高校生が皆IT企業に就職して、グーグルやテンセントと戦うわけではない。それこそ宅配便などのエッセンシャルワーカーに就く者も多数いる。

グローバル戦士が必要なら、企業が自ら育成すればいいのだ。軍事技術の開発にいしそむ産学合同には賛成できないが、未来の技術者養成と考えて、大学に寄付をする、無償奨学金を提供するなどは、もっと進めるべきではないか。

企業家の多くは何かといえば「アメリカでは‥‥」と口にするが、アメリカの大学と企業は良くも悪くも距離が近い。

企業にとって必要な人材を、まるまる公費で育成してもらい、その成果だけをいただくなんてのは、厚かましいにもほどがある。

企業の皆さんに問いたい。ビール20本弱を注文して、23本持ってこられたら、困るのではないですか

詰め込みとか「読み・書き・算盤」などと言うと前世紀の遺物のように思われるかもしれない。だがそれらは、思考力の前提として不可欠である。前提が崩壊しつつある現実を、まずは知ってほしいものである。

かわもと・かずひこ

1964年生まれ。日本経済新聞社記者を経て河合塾公民科講師。日本ブラインドマラソン協会会員。

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