コラム/深層

朝鮮戦争の反戦デモ「吹田事件」の裁判資料が博物館に寄贈される

ジャーナリスト 西村 秀樹

日本が朝鮮戦争の兵站基地

朝鮮戦争(1950年〜53年)の反戦デモへの弾圧「吹田事件」発生から今年2022年はちょうど70年の節目にあたる。朝鮮戦争に反対する労働者や学生約900人が国鉄吹田操車場の構内に進入、デモ行進を敢行した。警察と検察は騒擾罪の適用を決め、デモ参加者約300人を逮捕、うち111人を起訴した。吹田事件という。主任弁護人がその裁判関連の資料374点をこのほど吹田市立博物館に寄贈、10月16日、講演会が開かれた。

講演する石川元也・元主任弁護人(2022.6.14)

吹田事件(1952年6月24日~25日)は、日本がアジア・太平洋戦争に敗北し連合国に7年間占領され、サンフランシスコ講和条約で主権を回復した後に起きた。東京の「血のメーデー事件」(5月)、名古屋の「大須事件」(7月)と並ぶ三大騒擾事件の一つだ。東京と名古屋では警察官が発砲しデモ参加者1人ずつが死亡したが、吹田事件では警察官の発砲でデモ参加者4人が重傷を負った。騒擾罪はデモ参加者なら誰でも逮捕することを可能にし、自由民権運動など大衆運動への弾圧に利用されてきた(現在は、騒乱罪に名称変更)。

10月16日、吹田市立博物館で「朝鮮戦争と吹田事件〜吹田市立博物館所蔵資料の特色」というテーマで講演したのは二代目の主任弁護人だった石川元也弁護士で、今年91歳。杖をもって会場に登場したが「こっちの方が慣れているから」と90分間ずっと立ったまま、裁判のデティールを証言した。演壇横のテーブルには石川弁護士から寄贈された裁判関連資料の一部が展示され、聴衆は興味深げに資料を手にとっていた。

なぜ朝鮮戦争への反戦デモのターゲットに国鉄吹田操車場(現在のJR吹田貨物ターミナル駅)構内が選ばれたのか。それは日本とりわけ大阪周辺が朝鮮戦争の兵站基地だったからだ。

アジア・太平洋戦争当時、アジア最大規模の武器製造工場は大阪城近くの大阪砲兵工廠だった。大阪市の北東、枚方市内には帝国陸海軍の砲弾の7割を製造する枚方分工場が所在した。日本の敗戦後、静かだった武器製造は朝鮮戦争で復活し、大阪府下の町工場で武器の部品が作られた。こうした米軍用の武器弾薬は国鉄貨物で吹田操車場に集約され、吹田から神戸港に向かい、朝鮮戦争の戦場に船出された。「国鉄の軍需列車を1時間止めれば、祖国の同胞千人の命が助かる」。これは吹田事件のデモ行進で指導的役割を果たした在日朝鮮人の詩人金時鐘(キム・シジョン)の証言である。吹田事件の騒擾罪で起訴された被告のうち、在日朝鮮人が47人と半数だった。

朝鮮戦争勃発から二年目

朝鮮戦争の勃発(50年6月25日)から2年目、「朝鮮動乱二周年記念前夜祭」として大阪府学連が主催して大阪大学北校(現在の豊中キャンパス)校庭で集会が開かれた。52年6月24日夜からの前夜祭は「伊丹基地粉砕、反戦・独立の夕」と題され、警察は米軍伊丹基地(現在の大阪国際空港)や豊中市刀根山の米軍将校住宅を警備対象に厳戒態勢を敷いた。米軍伊丹基地からは米空軍の戦闘機や爆撃機が朝鮮に向け出撃、大阪大学は刀根山住宅の近くに所在していた。

国鉄吹田操車場構内を行進するデモ隊

約1000人が参加した集会は深夜まで開かれた。終了後、すでに終電は出てしまい、デモ参加者は阪急石橋駅(現在の石橋阪大前駅)に押しかけ、大阪・梅田駅まで臨時電車を編成するように要求した。阪急電車は強訴を受け入れ、深夜23時30分ごろ、臨時電車は出発した。警察は阪急梅田駅に機動隊を配置し、デモ参加者を一網打尽にする用意を整えた。しかし、臨時電車は乗客からの要求で梅田駅の手前の服部駅(現在の服部天神駅)で停止、この駅で臨時電車の乗客は全員が降りた。一行は服部駅から東へ行進し、梅田駅での逮捕をまぬかれた。

一方、この電車部隊(「人民電車部隊」とネイミングされた)の他に、別ルートのデモ隊があった。「山越え部隊」という。集会の会場が待兼山という三角点の所在地で、大阪平野から標高が少し高い場所にあったからで、「山越え部隊」は西国街道(現在の国道171号線)を東に向かった。途中、右翼の笹川良一の自宅が襲撃された。

山越え部隊は、大阪大学の吹田キャンパス近くでトイレ休憩と朝食のおにぎりを食べ時間調整、午前5時30分ごろ、山田村(現在の吹田市山田)で人民電車部隊とロータリー方式で合流した。

夏至の時期、朝は早い。合流したデモ参加者約900人は須佐之男(すさのおのみこと)神社付近の産業道路で警察官130人と対峙した。のちに警察と検察は、このデモ隊が警察官と対峙した場所を、騒擾罪のスタート地点と認定する。デモ参加者は国鉄千里駅西側のガードをくぐり抜け、やがて千里駅から一つ西側の国鉄岸辺駅の東南側から、吹田操車場に進入した。デモ参加者はおよそ20分間にわたって構内を行進した後、国鉄吹田駅に到着した。午前8時、米原発大阪行きの列車にデモ参加者が乗り込んだところで、警察官が追いつき、列車の機関士に停止を命じた。吹田駅では、デモ参加者は自衛用の火炎ビンを投げた。警察官は列車の窓から車内に向け発砲、座席にいた大阪大学の医学部学生ら4人が太腿を撃たれ重傷を負った。

警察は検察と相談、騒擾罪を適用することを決定し、デモ参加者を一網打尽にする方針を打ち出した。約300人を逮捕、うち111人を起訴した。

騒擾罪裁判の裏話

吹田市立博物館に寄贈された吹田事件の裁判関連資料

吹田市立博物館の講演会で石川弁護士は裁判の裏話を披露した。一審公判の途中、検察側の内部総括を東京・神田の古本街で入手したという。「相手の手のうちがよく判って、弁護団で対応を考えた」という。その資料『吹田・枚方事件について(検察研究特別資料・第13号)』(法務研修所、1954年)を手に取り「今では(国会図書館をはじめ)各地の図書館で読むことができる」と聴衆の笑いを誘った。

吹田事件は20年間の裁判の結果、騒擾罪について日本国憲法21条「集会、結社の自由」を根拠に、最高裁で無罪が確定した。

石川が吹田事件の弁護人を担当したのは1957年からで、初代の主任弁護人山本治雄弁護士はのち吹田市長に当選する。吹田市民は反戦デモの被告を擁護する主任弁護人山本治雄を市長に選んだ。吹田市立博物館での講演会で、現場近くに住む当時15歳だった高齢者の聴衆が証言した。「デモ隊員を追いかけてきた警官が真っ青な顔をして(トイレを借りに)やって来た。警官がしゃがんでいる間、警官がベルトごと外した拳銃を私はずっと触っていました。大きな拳銃でした」と。吹田事件は今なお、生きていることを実感させた。

吹田市立博物館は裁判資料の目録を作成中で、閲覧は目録作成後になる。

来年2023年は朝鮮戦争の休戦協定締結から70年。改めて日本と朝鮮戦争の関係を考える年になる。

にしむら・ひでき

1951年名古屋生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業後、毎日放送に入社し放送記者、主にニュースや報道番組を制作。近畿大学人権問題研究所客員教授、同志社大学と立命館大学で嘱託講師を勤めた。元日本ペンクラブ理事。

著作に『北朝鮮抑留〜第十八富士山丸事件の真相』(岩波現代文庫、2004)、『大阪で闘った朝鮮戦争〜吹田枚方事件の青春群像』(岩波書店、2004)、『朝鮮戦争に「参戦」した日本』(三一書房、2019.6。韓国で翻訳出版、2020)、共編著作『テレビ・ドキュメンタリーの真髄』(藤原書店、2021)ほか。

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