コラム/沖縄発
コロナ禍 追悼のあり方に影響
戦後75年 沖縄戦の本質問い平和思想見つめる
沖縄タイムス学芸部 内間 健
沖縄では梅雨がすでに開けていた2020年6月末の日曜日。私は糸満市の県平和祈念公園へと向かった。気温は30度を超え、すでに真夏と言っていい強い日差しが容赦なく降り注ぐ。湿度も高く、着ていたシャツはすぐに汗でびしょ濡れになった。
県民、日米軍人ら合わせて20万人超が亡くなった沖縄戦から75年の節目の年を迎えていた。日本軍の組織的戦闘が終了したとされ、沖縄中が喪に服す6月23日の「慰霊の日」には、例年なら県平和祈念公園で参列者5000人規模の県主催の沖縄全戦没者追悼式が執り行われる。しかし、今年は新型コロナウイルスの感染拡大防止を理由に、追悼式を200人程度の規模に縮小するなど、追悼の状況にも影響が及んでいた。そのため、同公園内にある、国の別なく沖縄戦で亡くなった人々の名前を刻銘した「平和の礎(いしじ)」には、すでに「慰霊の日」を過ぎていたこの日も、密を避け、日をずらしたとみられるマスク姿の多くの遺族らが足を運んでいた。
杖をついたり、車いすに乗った高齢者が、刻銘された親族の名前を指でなぞる。一緒に来た孫らしき子どもたちには戦争を語って聞かせ、目をつぶって全員で手を合わせる。いつもの慰霊の光景が、「礎」のあちらこちらで見られた。それぞれの死を悼んだであろういくつもの花が「礎」に立てかけられていた。
「平和の礎」を離れ、糸満市米須の「魂魄(こんぱく)の塔」に向かう。沖縄戦の最後の激戦地に立つ沖縄最大の慰霊の塔は、一時、最大で約35000柱もの遺骨が収容され、どこで親族が亡くなったかわからない遺族をはじめ、今も広く県民にとって追悼の場となっている。ここにも同様に「慰霊の日」をさけて参拝に訪れた人々が多数訪れ、花々が数多く供えられていた。世界的なコロナ禍で、一斉に数多くの人々が集うことはできない中も、県民は静かに亡くなった人の死を悼み、平和を希求した。
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今年の「慰霊の日」の6月23日は、沖縄全戦没者追悼式が規模を縮小し(実際の出席者は161人)行われた。会場は例年と同じく「平和の礎」近くの同公園の式典広場に落ち着いた。しかし、ここに至るまで紆余曲折があった。県は5月にウイルスの感染拡大防止のため、追悼式の縮小を発表し、参列者を知事や県議会議長ら16人に絞り、場所を同公園内の国立沖縄戦没者墓苑に移す、とした。同墓苑での開催は前例がなく、これが改めて沖縄戦の認識を問う議論に発展することとなった。
沖縄戦が終結した直後から、住民が遺骨収集を行って各地の納骨堂などに納められた遺骨を、日本政府の意向を受けた琉球政府が集めて収骨していく形で、同墓苑は1979年に創建された。「魂魄の塔」のほとんどの骨が移されるなどし、現在、約18万柱が収骨されているという。
同公園を委託管理する沖縄県平和記念財団のホームページでは、「国難に殉じた戦没者の遺骨を永遠におまつりするのにふさわしい墓苑を新たに造るべきとの要望が沖縄県をはじめ関係遺族等から寄せられ、厚生省(現厚生労働省)の配慮により、昭和54年に本墓苑が創建され」たと説明していた。
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この国の施設での追悼式開催に対し、沖縄戦研究者や識者らを中心に、凄惨な沖縄戦体験が「殉国死の追認になりかねない」「殉国死にからめとられてしまう」との問題提起する声が上がった。会場を例年通りの式典広場に戻すことを求めて、「沖縄戦全戦没者追悼式のあり方を考える会」が結成され、玉城デニー沖縄県知事への要請を行った。ネットなどを通じて一般県民にも賛同する声が広がった。
同会は知事への要請文で、追悼式は1952年から琉球政府・沖縄県主催で行われ、1965年からは現在の平和祈念公園の式典広場で開催されていることを指摘。同広場を「半世紀以上にわたり、県民が集い、祈り、追悼と平和発信を積み重ねてきた歴史的な場所」と位置付けた。
同墓苑については、ホームページで犠牲を美化するような「国難に殉じた戦没者」という表現も見られることを指摘。「沖縄戦は本土防衛と国体護持の『捨て石』作戦」「国家の施設である国立墓苑で、沖縄戦犠牲者の追悼式をするということは、国家が引き起こした戦争に巻き込まれて肉親を亡くした県民の感情とは相いれない」と問いかけ、「遺骨も見つからない方も含めて、個人の名前を敵味方なく刻んだ『平和の礎』のそばの、従来の広場が適切」と訴えた。
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沖縄戦研究者であり、同会の共同代表を務めた沖縄国際大学の石原昌家名誉教授は、沖縄タイムスの取材に「魂魄の塔や平和の礎がある中、国立墓苑でやることには強い違和感がある」と指摘(5月23日掲載)。また連載企画「慰霊の日 追悼のあり方を考える」でのインタビュー(6月12日掲載)で、沖縄戦の特徴である住民に多数の犠牲がでた原因について、降伏を許さず、司令部があった首里から南部へ撤退することで、結果的に南部へ避難していた住民を「人間の盾」とした形で大勢を巻き込むことになった日本軍の戦闘方針によるものだとし、改めて軍の責任の所在を明確にした。
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遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表として活動を続ける具志堅隆松さんは、同じ連載企画での寄稿(6月9日掲載)で、終戦直後、米軍の収容所から解放されて戻った住民らが最初に行ったことは遺骨収集だったと記した。誰の遺骨なのか特定は困難の中、各地で散らばっていた遺骨を納骨し、簡素ながら慰霊祭を行うなど、遺族や住民が積み上げてきた手作りの弔いのあり方を報告。それら遺骨が日本復帰前後に国立墓苑に集約されていることに「死んだ後は、家族の元に帰すべきである。ましてや沖縄住民であれば、国家に管理される必要はない」と説き、同墓苑を「県管理の国際平和墓苑」とするよう提唱した。さらに戦争のための兵士として国民を戦地に送った国家の加害性を指摘。追悼式・慰霊祭が、遺族・地元主導から国主導へと変節するのではないかと危惧し、「戦没者に死を強いた国家は、真に遺族とともに悲しむことができるのだろうか」と問いかけた。
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むぬかちゃー(ライター)の知念ウシさんは、同連載企画の寄稿(6月10日掲載)で、国立沖縄戦没者墓苑の設計者は東宮御所や千鳥ヶ淵戦没者墓苑なども設計した人物と指摘。先の財団のホームページで、国立墓苑の納骨堂は「琉球王家の墓を模したもの」との説明があることを明らかにした。また、同地一帯の摩文仁ヶ丘が、地元住民にとって拝所などがある「聖地」であったのにも関わらず、各県の慰霊の塔の建設などでほぼ破壊されてしまったことを報告。また1950年代に日本本土から移転、強化するための沖縄の米軍基地建設で来沖した業者の中に、日本陸軍第32軍で沖縄戦を指揮した牛島満司令官の元部下がおり、彼らを中心に自決した牛島司令官らを祀る「黎明の塔」が1952年に建てられたと指摘。「沖縄の米軍基地化と日本殉国英霊の顕彰地化は同時進行だった」と記した。
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すると知念さんの寄稿の掲載翌日の11日夕方、動きがあった。同財団のホームページから、「国難に殉じた戦没者の遺骨を永遠におまつりするのにふさわしい墓苑」などの殉国を想起される文章が削除・修正されたのだ。また、知念さんが指摘した、「琉球王家の墓を模したもの」などの表現も削除・修正されていた。この動き報じた沖縄タイムスの取材(6月13日掲載)に同財団の責任者は「言葉が重い。誤解を招きかねないので変更した」と説明した。知念さんは「ホームページから殉国思想が削除されたことは評価したい」とした上で「国立墓苑は国が造り、周囲に戦争を肯定し戦死を顕彰する各県の慰霊の塔があり、さらに設計のコンセプトは変わらない以上、常に取り込まれる可能性がある。これからも気を付けなくてはならない」とくぎをさした。
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結局、玉城知事は6月12日、追悼式を従来の式典広場で開催すると正式に発表した。当初16人に絞り込んでいた参列者の人数を200人規模まで戻したため、会場が「国立墓苑では狭い」と説明したが、沖縄戦の研究者らが場所の変更を求めたことについては「どこでお祈りしても思いは御霊に届くと思うが、多くの方々が希望されるということを踏まえ、従来の場所に戻した」と述べた。(沖縄タイムス6月13日)。
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「慰霊の日」に際し思うことは、親族を含む多くの犠牲になった先人を悼み、戦争の非人間性を反芻することの必要性である。と同時に思い浮かぶことは、今も国土面積の約0.6%に過ぎない沖縄に全国の米軍専用施設の約70.3%が集中し、基地被害が続き、加えて辺野古では新基地建設が強行されている事実だ。国立墓苑での追悼式への異議申し立ては、今日的課題を含めたあらゆる意味で、やはり国家が県民に多くの犠牲を強いた沖縄戦は終わっていないと、広く肌感覚で実感されている証左とも言えるのではないか。
「命どぅ宝」(命こそ宝)という、苛烈な沖縄戦を通じて県民がたどり着いた平和思想を見つめ、現代の中で問い続ける―。図らずもコロナ時代があぶりだしたのは、今も昔も変わらぬその重みであり、一連の出来事は追悼のあり方を問い直し、沖縄戦の本質を改めて再認識する機会となったと言えるだろう。
うちま・けん
沖縄県生まれ。大学を卒業後、1993年に沖縄タイムス入社。社会部、与那原支局、北部支社などを経て、現在、学芸部副部長待遇(デスク)。
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