コラム/深層

朝鮮戦争勃発70年―秘められた日本「参戦」の事実が明らかに

ジャーナリスト 西村 秀樹

1.毎日新聞のスクープ

ネットニュースに驚く

長く放送記者をつとめた習慣からか、根っから好きだからか、一日に何度も手元のスマホでインターネットの新聞社や通信社の記事をチェックする。しかし、こんなにびっくりしたことはそうそうない。6月21日(日曜日)18時00分にデジタル毎日に、その記事が載った。1行目「埋もれた記憶・朝鮮戦争70年」と小さな文字でサブタイトル。続いて、もっと大きな活字で「朝鮮戦争 日本の民間人・少年も戦闘参加 勃発70年、米軍極秘文書で明らかに」と見出しが並ぶ。

ここまで読んだだけでも、わたしの心臓の鼓動が少し高鳴った。

リードを紹介する。「1950年に勃発した朝鮮戦争に、少なくとも日本の民間人男性60人を米軍が帯同し、うち18人が戦闘に加わっていたことが、毎日新聞が入手した米国立公文書館所蔵の米軍作成の極秘文書で判明した」。これで概要がわかる。さらに記事が続く。「60人のうち20歳未満の少年が18人おり、うち4人が戦闘に参加していた。前線で殺害された日本人の死亡証明書1通と行方不明者1人の報告書もあった。6月25日で朝鮮戦争勃発から70年となる」

この記事を読んで、あっ、この死亡した日本人に心当たりがあると、20年前の記憶がよみがえった。死亡者「ネオ平塚」の物語をこれからお話します。

2.20年前の単行本出版

虫の目から見る朝鮮半島ウォッチャー

わたしの元勤務先は、大阪の放送局。報道局には報道部(社会部)だけで政治部や国際部はない。鳥の目と虫の目の例えから言えば、地べたで這いずり回る虫の目で世の中を見ることを厳しく教わった。野武士集団毎日放送の先輩から、在日コリアンへの取材を通して朝鮮半島や中国などアジアを見ることを躾けられた。

そうした習いを二十年続け、各社の大阪社会部を通した記者ネットワークができあがり、ミレニアムの年(2000年)吹田事件研究会が誕生し、わたしは『大阪で闘った朝鮮戦争~吹田・枚方事件の青春群像』(岩波書店、2004年)にまとめ出版した。

国際関係のジャーナリストの中には、外務省の記者クラブ、ワシントンやモスクワの特派員になって世界情勢を俯瞰する人もいれば、大阪社会部で虫の目から記事を書き、在日コリアンを通して朝鮮半島ウォッチャーしている記者もいる。

この岩波本を出版するにあたって、朝鮮戦争と日本の関係を詳しく調べた。導き手は、社長兼編集者の一人出版社・新幹社の社長・高二三(コ・イサミ)。会社の名前は、1920年代、日本帝国主義統治下の朝鮮で朝鮮総督府に対して抗日運動をつづけた民族団体の名前新幹会に由来。高は長く在日一世中心の雑誌『季刊三千里』の編集にたずさわり、済州島四・三運動の真相究明を進めてきたしっかり者だ。その高から、大沼久夫を紹介された。大沼は、共愛学園前橋国際大学教授をつとめるかたわら『朝鮮分断の歴史:1945年~1950年』(1993年)、『朝鮮戦争と日本』(2006年)を新幹社から出版している。

高や大沼の導きと並行して、大阪で朝鮮戦争勃発二年目に起きた吹田事件(1952年6月24日から25日、日本三大騒乱事件の一つ)の調査を進め、済州島四・三事件で政治亡命した在日の詩人・金時鐘らを取材、その両者をミックスして出版に至った。

青山学院大学の西門近く

朝鮮戦争と日本を調べるうち、冒頭に書いた日本人が玄界灘をわたって韓国で「戦死」した事実を、50年前の新聞スクラップを調べるうちに知る(朝日新聞、1950年11月13日付け)。記事はこうだ。「朝鮮動乱(ママ)が起った直後の25年(註:昭和。1950年)8月、米軍部隊に連れられて朝鮮に渡った一日本人青年が、京城(ママ、註:ソウル)付近で戦死してしまった」とある。さらに「この青年の名前は、東京都港区赤坂北町、ペンキ業平塚元治さん(56)の長男、重治君(29)。アメリカ軍兵士がネオ平塚というニックネームをつけた」という。

本を執筆する2000年ごろ、平塚家を探した。地名は表示がかわり、ペンキ業を営む平塚家はすでに引っ越していたことが判明。が、なんとか伝をたどって平塚家の引っ越し先に行きついた。そこは、青山学院大学の青山キャンパス西門近く。四階建てのビルの最上階に平塚という表札があった。これを20年近く経過した今でもはっきり記憶している。

ネオ平塚の顛末

「ピンポーン」とチャイムを鳴らすと、品のいい小柄な女性がドアを開けてくれた。「あのネオ平塚さんのお宅でしょうか」とぶしつけな質問をすると、案外あっけなく「そうです」と肯定する答えが返ってきた。彼女は5人兄弟でただ一人の女性。そこへたまたま、彼女を病院に連れに、ネオ平塚のすぐ下の弟が迎えに来た。

「偶然、大阪から取材に来て、妹弟にいっぺんに会えるなんて、アニキのお導きとしか思えないねぇ」と、二人はわたしを歓迎してリビングに上げてくれた。

そのリビングで言われるまま、わたしが顔を上げると、そこにはネオ平塚の写真が大切に飾ってあった。ネオ平塚は家族のこころの中に生きているんだと、胸にじーんと来た。

当時の取材メモに基づいて要点だけを書く。朝鮮戦争が始まる年(1950年)1月20日ごろ、旧麻布歩兵第三連隊(現在の東京・六本木の国立新美術館と政策研究大学の所在地)跡に進駐したアメリカ第一騎兵師団E8中隊に、ペンキ塗りの仕事があるからと呼ばれ、重治はそのまま帰宅しなかった。

3月下旬、中隊は神奈川県座間に移動、重治は事務仕事を担当したという。6月になって心配した母親が座間を訪ねるも面会はできず、なんでも富士山麓の演習に連れて行かれたと漠たる説明を受けた。

朝鮮戦争が勃発(1950年6月25日)、重治の両親はいよいよ心配がつのり、重治の同僚を探して事情を聴くと、7月16日重治はアメリカ軍の制服を着て中隊と共に、玄界灘を超え韓国に渡ったとのことだった。

10月10日事態は急変する。「重治、戦死」の報を伝える米軍からの手紙が届いた。

「ネオ平塚は、8月30日、南朝鮮の基地付近の戦闘で相当数の敵を倒して戦死した」と。

差し出し人は、E8中隊のウィリアム・マックレーン大尉。ところが、そのマックレーン大尉自身が、11月2日、戦線で行方不明になり、やがて死亡が確認されたという。

重治の父親は、すぐに、息子の戦死確認を求める上申書を提出した。

翌年(1951年)少し詳しい報告が届く。それによると「重治君が(1950年)9月4日南朝鮮での死者に含まれていることは確認した。しかし、重治君は日本占領当局(註;GHQ)がまったく知らない間に、当局の承認なしに国連軍兵士に変装して密航したものである。埋葬地、所持品は判らない」という、家族は失意のどん底に突き落とされた。

父親の奮闘

父親は黙っていなかった。すぐに釈明を求める。報告から返信までわずか5日のことだ。よほど腹に据えかねていたのであろう。が、GHQからは梨のつぶて。すがる思いで日本政府の外務省にかけあい、ようやく日米合同委員会でネオ平塚の問題が議題にあがった。アメリカ極東軍司令部参謀バーンズ准将から覚え書きが届いた。その内容は、中隊のマックレーン大尉が勝手に連れ出したという。つまり、国連軍(というか、米軍)の関与を全面的に否定した内容だ。曰く「詳細は不明。なぜならマックレーン大尉が戦死したから。ただし、重治君は国連軍兵士になることはできない。重治君はマックレーン大尉の個人的な使用人であった以上、家族に補償を行う根拠も権限もないとの結論に達した」とけんもほろろの回答だった。

さらに日本政府の調達庁(のちの防衛施設庁)からも追加報告があって、「彼は軍属でも調達庁が雇用した労務者でもない。今回のケースは、1946年に閣議決定した『進駐軍による事故被害者への見舞金の取り扱い』規定にもあてはまらない」とつれない返事。

憤懣やるかたない父親は、当時の新聞記者に「ひとの息子を勝手に連れて行っておいて、密航したとはひどい」とうっぷんをぶちまけた。「息子を帰せ」とプラカードをもって、父親は毎日、アメリカ大使館前でデモンストレーションで歩いたという。父親の気持ちはいかばかりであったろう。痛々しいほどわかる。

3.米朝首脳会談の年に

それから15年後の2019年

岩波の本は3刷りを重ね3000部を刷ったが、売れ行き不振との理由で絶版になった。しかし、わたしの永年のヒューマンネットワークが、わたしの追加出版を手助けしてくれた。岩波版から15年後の2019年6月、『オシムの言葉』で知られるジャーナリストの木村元彦の紹介で、わたしは追加取材を加えた『朝鮮戦争に「参戦」した日本』を三一書房が出版してくれた。

出版の時期、『週刊金曜日』が特集を組む(2019年6月21日号)。見開き6ページ、見出しは「日本と朝鮮戦争 8000人の日本人が『参戦』した国際内戦」で、津田塾大学名誉教授の林哲(リム・チョル)、ピアニストの崔善愛(チェ・ソンエ)とわたしの鼎談。崔善愛とは1980年代初頭、彼女の妹が14歳で当時、在日外国人に義務づけられた指紋押捺を拒否し、わたしが『JNN報道特集』でドキュメンタリー番組として制作して以来だ。

その2か月後、衝撃的な番組が放送された。NHKBSスペシャル『隠された“戦争協力” 朝鮮戦争と日本』(2019年8月19日、110分)。何が衝撃かというと、アメリカの国立公文書館に国連軍に「参戦」した日本人への尋問調書が残っていたという、そこにNHKがたどり着いた。

番組のホームページによると「アメリカが公開した公文書の中にある1033ページの尋問調書。これを発掘したのはオーストラリア国立大学名誉教授テッサ・モーリス・スズキ。スズキ教授は朝鮮戦争に武器を供給していた日本企業について調査している最中、この資料を発見。NHKはスズキ教授と協力し朝鮮戦争に従軍させられた日本人の足跡を追う」

番組の後編では、「ネオ平塚」の弟を探し出し、兄が「戦死」した韓国の戦闘地へ連れていった。そうあの青山学院大学の青山キャンパス西門近くで、妹といっしょに話を聴いたネオ平塚の弟だ。弟は東京郊外・町田市の公団住宅らしい集合住宅に住んでいた。

これには後日談がある。三一書房が所在する神田神保町近くの大手出版社の新書編集長に、わたしが三一書房の本を献本に行ったときのこと。実は5年ほど前、テッサ・モーリス・スズキから朝鮮戦争の尋問調書を発見したことを教えられたというのだ。ただ、彼女は当時、別のジャンルに関心があり、尋問調書の発表は遅れたという。「もっと早く教えてくれたらよかったのに」とわたしが愚痴めいたことを編集長にこぼすと、「そりゃ、編集者にも守秘義務がありますから」と苦笑いされた。それが2019年秋のことだ。

2020年6月、毎日新聞のスクープ

1年明けた2020年6月、二つの電話がかかってきた。1本は、仙台在住の大巾博幸からだった。大巾は「いま朝日新聞の記者が訪ねてきたのだが、西村さん、同じ時期に北朝鮮側から朝鮮戦争に参戦した〇〇君の連絡先を知らないか」という全国紙の取材の手掛かりを求めるものだった。大巾は、戦争中、長野県の貧しい山村で育ち、教師にそそのかされるまま、満蒙開拓団に入団。やがて日本の敗戦後、中国で八路軍(中国共産党の人民解放軍)に誘われ、中国側から北朝鮮に入り、朝鮮戦争に「参戦」した経歴をもつ。

一年前、仙台にある大巾の自宅でインタビューし、三一書房版にそのオーラルヒストリを載せた 肝心の〇〇君は、目黒のマンション管理人事務所までたどり着いたものの、すでに引っ越し、追跡ルートは途絶えた。もう1本の電話は、これまた旧知の全国紙の記者からで、在日韓国人の義勇軍の生き残りに心当たりはないかという。わたしは知り合いの義勇軍の親族を紹介したが、そのソウルで弁護士をしていたという元民団からの義勇兵はすでに鬼籍に入ったことが判明した。

6月下旬になって、冒頭に書いた毎日新聞のスクープだ。記事を読むと、尋問調書の中の死亡証明書に該当する日本人に関する記述がない。さっそく、お節介かもしれないとも考えたが、ネオ平塚のことに違いないと、旧知の毎日新聞大阪本社の社会部長に電話した。執筆記者に「戦死者」に関する情報をもっている、と。まもなく、折り返しのメールが届き、執筆した記者からもメールが届いた。

その特ダネ記者は、福岡報道部の記者飯田憲。わたしはすぐに、彼の携帯に電話した。つながると、若々しい声だった。ネオ平塚のことを伝えたかったと切り出すと、意外にも飯田からは「西村さんの本は読みました」と返事がきた。逆に飯田から質問がきた。朝鮮戦争当時、福岡市の対岸、志賀村に国連軍がつくった第141兵站病院があった。その病院に日本赤十字からの赤紙で召集された日本人看護婦が居るのをを知らないかと、日本赤十字に問い合わせても、資料がないと断れた由。わたしはすぐに、その件は日本赤十字の労働組合にいろいろ教えてもらったことを伝えた。

今年2020年は朝鮮戦争勃発から70年。南北朝鮮、米朝関係、少しは緊張緩和につながる動きが出てくるのではないかと、期待半分、失望半分。

でも戦争があると、まっさきに最前線に送り出されるのは、医療関係者、港湾労働者や船員。改めて日赤の労働組合、全港湾や海員組合の記録を真摯に読み解く必要性を痛感した。

わたしの三一書房版は韓国での翻訳出版が決まり、7月下旬に出版された。朝鮮戦争と日本。その繋がりは、ようやく見えてきたばかり、実態解明はこれからだ、との思いを強くした70年目の夏だった。                          (文中・敬称略)

【編集部註】このコラムは、今から70年前に勃発した朝鮮戦争に日本人が「参戦」した事実をめぐって、複数の報道機関が真実に迫った記録のスケッチです。ジャーナリスト間の競争と協力によって、日本とアメリカ政府が70年間ひた隠しにしてきた真実が少しずつ明らかになりました。

にしむら・ひでき

1951年名古屋生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業後、毎日放送で放送記者。近畿大学人権問題研究所客員教授を経て、現在、同志社大学嘱託講師、立命館大学嘱託講師。著作に『北朝鮮抑留』(岩波現代文庫)、『大阪で闘った朝鮮戦争』(岩波書店)、『朝鮮戦争に「参戦」した日本』(三一書房、2019.6)ほか。

 『朝鮮戦争に「参戦」した日本 』(西村秀樹著、三一書房刊、2019.6)が、このほど韓国の出版社「論
衡」より『日本で戦った韓国戦争の日々 – 在日朝鮮人と吹田事件』として出版された。ハングル原題は『일본’에서 싸운 한국전쟁의 날들 - 재일조선인과 스이타사건』。(写真は本の帯)

コラム

第23号 記事一覧

ページの
トップへ