コラム/温故知新
日本の盛り場―浅草の争議を巡って
下町の労働運動史を探訪する(8)
現代の労働研究会代表 小畑 精武
1.人力車の“車会党”
自由民権運動と鉄道馬車反対同盟
2.“桃色争議”松竹少女歌劇部ガールの不満爆発
トイレ改善、定期昇給を嘆願 松竹は水の江瀧子を解雇 ターキーは一人でも
交渉、全員の職場復帰を勝ち取る 日本特有なカツベン、楽士のたたかい
3.関東大震災で浅草から移転した私娼窟 玉の井
住込みで休日も取れない 暴利をむさぼる搾取構造 「女性向上会」を設立
「浅草」は新型コロナウイルスで一時観光客は激減したものの、緊急事態宣言が解除され、観光客は徐々に戻りつつある。銀座に対抗する昔も今も変わらぬ東京随一の観光地であることに変わりはない。銀座はショッピング、浅草は「祭りと市」、そして芸能の街として江戸時代から栄えてきた。
1.人力車の“車会党”
明治になり、浅草寺門前の仲見世と田んぼが残っていた浅草は行楽の地へと発展し、6区には20軒の活動写真館が立ち並び、休日には「新東京の店員諸君、職工諸君」が集った。明治15年(1882年)4月には隅田川に蒸気船が、9月には鉄道馬車が新橋京橋間に開通、間もなく浅草に延長された。浅草名物になっている人力車は明治3年(1870年)に発明され、時代の先端を行く乗り物だった。
「日本の下層社会」の著者横山源之助は「今日都市の労働社会に在りては、交通労働者として、交通機関の上に欠くべからざる勢力者なり」と、船舶、鉄道労働者と並んで人力車夫を評価している。人力車は今でいえば気軽なタクシー。市内交通の主役は人力車だった。隅田川の向こう側、本所区には600台の貸車を有する営業者がいた。人力車夫は最盛時数万人、1903年(明治36年)には37,205人。そのうち旧15区のなかで今日の下町(東部)にあたる下谷区、浅草区、本所区、深川区には14,282人と38.4%が集中していた。
自由民権運動と鉄道馬車反対同盟
おかかえ車夫の賃金は比較的高かったが、貸車営業者のもとの車夫賃金は個人差はあるが1日約50銭ほどだった。米価が10キログラム1円12銭(現在は約4000円)ほどなので米に比べて賃金がいかに安かったかがわかる。
人力車夫たちは「馬車をつくるのは勝手だが、天下の公道に線路をつけて、一定の場所を独占するとは不都合である、われわれは同盟して会社に向かって線路を廃止させねばならぬ」と1882年(明治15年)10月、自由民権運動を進める当時23歳の自由党の青年党員奥宮健之と人力車夫のまとめ役の三浦亀吉が中心になって、植木枝盛らの支援を得て鉄道馬車反対同盟を結成した。車会党規則の総則第一条に「本会は車夫営業のために親和、親睦を旨とし、名づけて車会党と称す」になった。
浅草寺の伝法院や麹町平川天神でくり返し集会を持ち、神田明神山に集まって柄杓で酒を飲み演説をした。そして結成されたのが「車会党」(社会党ではない!)。労働組合の名前こそないが、人力車夫の団結組織が結成され、会員は数千人に達した。
しかし、同年11月24日両国の井生村楼で大会を開き気勢を上げたところ、会員の「腕力論」の演説中に中止・解散が命ぜられ2000人余の聴衆は騒乱状態に陥り、さらにその4日後、奥宮と三浦らが吉原遊郭にくり込んでの帰りに高歌放吟をとがめた巡査と喧嘩して監獄に入れられ、もろくも車会党は瓦解してしまった。1903年(明治36年)には市内路面電車が品川-新橋間に開通する。この年をピークに人力車は市内に張り巡らされた市電にとって代わられていった。
同じ頃、隅田川河口の石川島造船所では鉄工労働者の組合結成の動きも始まっている。1887年(明治20年)に、車会党と同じ会場、両国井生村楼で鉄工懇話会を開き新聞記者が演説をした。途中からバクチが始まり組合の話はご破算に。自らの酒やバクチでせっかくできた団結組織をつぶしてしまったことは、なんともったいないことか! 酒や賭け事による会社の懐柔や組合つぶしの不当労働行為がその後もまかり通ってきた。
その後、浅草の対岸隅田村鐘ヶ淵に紡績工場(後の鐘紡)、深川に官営セメント工場(後の浅野セメント)などの工場が続々とつくられていった。1891年(明治24年)に東京の石工1300人が日給引き上げを親方に要求し同盟罷工(ストライキ)に入り勝利している。
2.“桃色争議”松竹少女歌劇部ガールの不満爆発
「あたし達の部屋は南京虫としらみとのみの巣だヮ」
「鮭と沢あんばっかりの弁当じゃ栄養カロリーが不足だヮ」
「月給と舞台手当を合わせてもおしろい代はおろか電車賃にだって足りないのよ」
1933年(昭和8年)6月、華やかな舞台でレビューを踊る若い女性たちが待遇の悪さに不満の声をあげた。
松竹座は浅草国際劇場があった所、今は浅草ビューホテルになっている。太平洋戦争中には風船爆弾の製造工場となり、東京大空襲時には米軍爆弾が投下され、戦後解体時にはグニャと曲がった鉄骨が屋根裏に残っていた。「再び許すな東京大空襲!下町反戦平和の集い実行委員会」は被爆鉄骨の保存を求め、現在両国の江戸東京博物館に展示されている。
決起した争議団の委員長は「男装の麗人」といわれた若干18歳の水ノ江瀧子。戦後白黒時代のNHKテレビで「ジェスチャー」の番組で人気を博し年配の人には懐かしい、あの“ターキー”なのだ。プロデューサーとして昭和30年代の石原裕次郎、長門博之、岡田真澄、浅丘るり子、赤木圭一郎ら多数を発掘し戦後日活の黄金時代を築いた人物でもある。
トイレ改善、定期昇給を嘆願
ことの発端は、松竹座の音楽部員(楽士)30名が「不当解雇反対」「減給反対」を叫んでの争議であった。楽士たちは「会社にウンといわせるには、ストライキしかない」ところまできてしまい、水の江たちに「いっしょにやってくれないか」と頼んできた。大いに同情した水の江は「ウン、いいよ」と二つ返事。ちょうど楽屋の女子トイレの数を増やしてほしいという、切実な要求もあったので、「同情スト」としてスタートとしたのだった。
水ノ江瀧子、吉川、小倉のスター以外にも当時の踊り子230人(音楽部と楽劇部)が参加。二つしかないトイレや低賃金改善を含め以下の要求を嘆願書にまとめた。
*退職金の支給(最低6カ月・勤続1年に1ヵ月増)
*本人の意思によらない転勤をしない
*最低賃金制の制定
*定期昇給の実施
*公傷治療費の会社負担
*公傷及び疾病の欠勤は給料を全額支給
*運動手当支給(公演2回以上は1回ごとに3円、松竹少女歌劇団、松竹主催以外の仕事は1日5円以上等)
*衛生設備、休憩室の改善、楽屋清潔(女生徒専用寝具設備、便所増設等)
*公休日、月給日制定
*兵役、軍事招集中の給料全額支給
*中間搾取をやめよ(山下女性監督を馘首、加藤裏方更迭)
*不法馘首された女性たちの復職
*医務室の設置
*生理休暇設定
などの要求を嘆願書にまとめて音楽部員と共に6月14日に松竹本社に提出した。現在からみても画期的な要求であった.
この頃、関東大震災の後に世界大恐慌、そしてエログロナンセンスの時代が到来し、女性の足を見せるレビューの人気が高まっていた。しかし、水の江、吉川、小倉のようなスターでさえ、月給80円から100円、一般の踊り子(女生徒、レビューガール)はわずか10円~20円程度。研究生になっても半年は無給だった。当時の巡査の初任給は45円、お話にならない低賃金だった。
しかし、会社は一部を認めたものの音楽部と楽劇部との分断をはかり、16日からはロックアウトに。これに対して争議団は籠城型のストライキで対抗した。松竹劇団の大阪組も争議に参加し高野山に籠城した。
“桃色争議”といわれ、スターが先頭に立った争議への支援は全国に広がっていく。争議団の演説会にはファンが大挙押しかけ、資金カンパや激励の手紙もあいつぎ、楽劇部の父兄会、後援会も応援した。
同時期の東洋モスリン争議(1930年9月)と同じ全国労働組合同盟系の労組も支援している。浅草界隈の映画演劇関係や全国的な映画劇場従業員組合が、関東地方映画従業員闘争組合を結成し支援を決定、すでに争議になっている組合を含めた共闘体制がつくられていった。当時売り出していたエノケンにもターキー(水ノ江)は支援要請にまわったが、「僕は座員をかかえているから、給料を払わなければなんない・・自分一人としては応援したいけど・・」と断られてしまった。
松竹は水の江瀧子を解雇
争議は長期化し、松竹は水の江を含む数人を解雇。さらに、歌劇部を解散して会社直属の少女歌劇団の設立をはかる。松竹座をロックアウト、レビュ-の看板を外し稽古場も閉鎖、歌劇団の切り崩しをはかった。水の江は争議本部を松竹座近くに設け、本格的なスト態勢に入っていった。プロレタリア作家・中野重治の妻原泉さんたちや築地小劇場の左翼の人たちが応援に駆けつけた。浅草の侠客もお寿司を100人分ぐらい差し入れしてくれたという。
さらに会社は紡績工場の闘いに有効だった女性組合員への説得・帰郷を展開。「思想的にも歌劇の良風に反する傾向を示すは言語道断なり」と水の江を首謀者として解雇、30人ほどが会社へ復帰していった。残った130人を引き連れて、水の江たちは7月1日から湯河原温泉に貸別荘を数軒借りて立てこもる籠城戦となった。ここにもファンがお菓子やうどんを差し入れに。これまで休暇が取れなかった団員はつかの間のピクニック気分を楽しんだという。
ターキーは一人でも交渉、全員の職場復帰を勝ちとる
しかし、水の江は女優の原泉とともに7月12日に思想犯として特高に検挙され警察署に留置される。ここでも水の江は抵抗し一日で釈放を勝ちとった。会社との交渉を再開し16日には覚書が交わされた。会社は水の江含む10数人を2か月間の謹慎処分にするに留まり、争議団は「最低賃金の制定、衛生設備の完備、公休日の制定」を獲得し覚書を交わし“勝利”した。闘争開始から30日が経過していた。
この間に、水の江は日比谷公会堂でワンマンショーを開き多数の観客が押し寄せた。他方、松竹の新生歌劇団は不振が続く。会社は水の江を戻すしかなくなり、水の江は残った8人全員を戻すならば、との条件を付けて解雇撤回・復帰を勝ちとった。復帰後第一作「タンゴ・ローザ」はこれまでにない松竹レビュー最大の傑作となり、熱狂的な拍手で迎えられた。
他方、共に闘った映画の世界は大きく変わっていく。無声映画から音が出る映画(トーキー)に時代は変り、活動弁士や楽士は次々と解雇されていく。無声映画の時代が終わり、弁士の解雇が続いた時代だった。
日本特有なカツベン、楽士のたたかい
2019年暮れに周防監督の映画「カツベン」が上映開始された。映画が活動写真といわれた無声映画時代だった時代に活躍した活動弁士が日本特有の映画説明スタイルを生み出し活躍していた姿を追う。映画は19世紀の末に発明され、1903年(明治36年)には浅草に日本最初の常設映画館が開業。1913年(大正2年)日活撮影所が浅草の対岸・向島白髭橋のそばに作られた。撮影所は敷地7900㎡、現像所、俳優部屋、事務所、社宅もあった。しかし関東大震災で壊滅的打撃を受け、撮影拠点は京都に移る。
当時の映画は音声がない無声映画だった。無声映画に状況説明や会話を加えるのが活弁士で、音楽を分担する楽士とともに無声映画にはなくてはならない役だった。とくに日本では字幕を使わず弁士が自分流の活弁台本を書いていた。
しかしトーキーの普及により弁士は段々と失職していく。
解雇に反対した弁士はストライキに入っていった。1932年(昭和7年)には常設映画館の争議は、4月18日の浅草松竹系映画館でトーキー化による解雇に反対するストライキ他111件に及んでいる。5月1日にはメーデーに合わせ日活直営24館がゼネスト(統一スト)に入った。神田神保町界隈は大騒ぎとなる。同時に総理大臣犬養毅が殺害された5・15事件が間もなく勃発し騒ぎの拡大をおそれた警視庁は強制調停に入り、めずらしく組合側の要求が全面的に実現した。
深川扇橋にあった映画館の争議は解雇予告手当と半年分の解雇手当を要求。館主は同意したが、顧問弁護士が同意せず、ストは2ヵ月以上長引き、組合は当時流行していた“糞投げ”で弁護士宅を攻め、要求が認められたという。
水の江瀧子は解雇されたが客の支援を得て撤回させた。しかしカツベン士や楽士たちの争議は時代に勝てず終わった。
大辻司郎など一部の弁士は俳優や司会者、漫談などに転身していった。徳川夢声は戦後、俳優たちの出演条件の整備にむけて中小企業等協同組合法による団体協約の締結に取り組み、今日の日本俳優連合につながる日本放送芸能家協会の初代会長になった。現会長は西田敏行で、現在も俳優たちの労働環境整備に取り組み、雇用関係があいまいなフリーランスへの「労災」認定の具体化実現へ前進している。
3.関東大震災で浅草から移転した私娼窟 玉の井
「玉の井」という駅が1988年まで東武線にあった。今は東向島駅。古い蒸気機関車や日光特急電車を展示している東武博物館がある。
玉の井は1923年(大正12年)の関東大震災で被災した浅草の銘酒屋(銘酒を看板に実際は私娼を売っている)が移ってきた地域で、1945年(昭和20年)の東京大空襲でも大きな被害を受けた。永井荷風の有名な小説墨東綺譚(ぼくとうきだん、1937年)の舞台となった私娼窟玉の井は「抜けられます」と書かれた陋巷迷路(ろうこうめいろ)の街、荷風は執筆のためか、連日のように通っている。
玉の井が栄えたのは関東大震災後から売春防止法が完全施行された1958年(昭和33年)までのわずか30余年。売春防止法によって街はがらりと変わり、今はその面影はほとんどなくなっている。ここには主に東北の貧しい農家出身の女性たちが前借金で売られ、連れてこられた。あるいは、女工として東京に就職した後に企業閉鎖、解雇となって来た例も少なくはなかった。1935年(昭和10年)の警視庁調査では総数917人のうち、東北出身者は404人(44%)を占めていた。
住込みで休日も取れない
迷路となった狭い道に娼家が並び、30㎝四方の小窓から「ちょっと、ちょっと、お兄さん」「ねえ、ちょっと、旦那」「ちょっとここまで来てよ、お話があるの」と言ってお客さんを店に引き込んでいったという。客室は2階に3部屋ほどあり、間取りは三畳に四畳半か六畳程度。小窓に座る女性は各娼家二人の規約があった。しかし、実際には守られなかった。時間はショートタイム(ちょんの間)が15分程度、ロング(時間決め)、泊まりの三つ。多くの女性は前借金があり、拘束されていた。借金を返した後でも、毎日家主や地主あるいは抱え主に毎日揚銭を払わなければならなかった。休んでいても払わなければならないという厳しいもので、住み込みで休日もない状態だった。
暴利をむさぼる搾取構造
地主、家主が得る権利金は膨大で玉の井御殿を建てた者が15~16名もいた。他方、娼婦たちは性病になる危険が高く、定期的な検診があった。半病人になっている娼婦に足袋もはかせず着物も薄物で、雇主は客を取ることを強制していた。
金銭的な対立、中間搾取、年数契約の不履行、業者と結託して着物を高く売りつけるなどの搾取に対して挑戦したのが南葛労働会出身の南喜一だ。
彼は弟・吉村光治をみじめにも亀戸事件で殺され、それに激怒した南はみずから南葛労働会組合員となって活躍し、1928年の3・15共産党弾圧で検挙された共産党活動家であった。その後1929年には共産党脱党を表明、獄中で再生紙の研究を始め、30年に保釈出獄。32年に東武線玉ノ井駅前に江東工連(江東地方工場連絡委員会)事務所を設け小工場従業員の組織化に努めた。
「女性向上会」を設立
南喜一は当初墨田寺島地域の労働者を組織するために活動した。しかし目の前で起こっているあまりにひどい女性たちの環境に憤る。女性たちの救援に33年(昭和8年)7月、松竹少女歌劇団の争議が始まって間もなく南は「女性向上会」を設立し、「玉の井戦線ニュース」を発行する。一時は半数の娼婦を組織化した。
南は話を聞くと女性たちの娼家にのり込んで直談判、金を渡して証文を取るやその場で破り捨てた。女性向上会を銘酒屋組合に認知させるのに成功する。女性たちは非人間的な魔窟から解放され、経済的利益の拡大が可能となった。しかし、解決後玉の井から抜け出させ田舎に帰郷させても、女性たちは一カ月もするとまた玉の井に戻ってきた。1933年810人、34年136人が抜け出て解決をしているが、親元に戻って働いている女性はたったの2人しかいなかった。理想を求めすぎた運動は徐々に後退していった。玉の井の生活は東北地方の飢餓状態よりはましだったのだ。
南の目は「売られてからでは遅い、売られる前に救おう」と飢餓状態から落ちていく「子女売買問題」へと移っていく。自らの事務所で「東北子女売買問題座談会」を開き、無産政党、婦人同盟、労働組合、東北各県代表が集まった。
しかし、南が玉の井の闘争に熱中している間に、日本の労働組合は大きく右傾化し、37年(昭和12年)の日中戦争が「労働運動を従来の闘争主義から協力主義へ」と転換する。そして、38年(昭和13年)の「産業報国連盟」の設立と拡大により、わずか1年で39年(昭和14年)の517組合(365,804人、労働組合の組織率5.3%)は40年には49組合(9,456人、0.1%)へと激減させてしまうのであった。
1940年7月には社会大衆党と日本労働総同盟が解散し、11月には「大日本産業報国会」が結成され、日本の労働組合は戦争体制へ完全に組み込まれていく。それでも現場の労働者の争議はなくならなかった。1941年(昭和16年)の労働争議総件数は334件、総参加人員17,285人、1件あたり参加人員52人を示している(労働省「昭和23年労働統計調査」)。
産業報国会の下でも示された労働者の「抵抗の魂」は第2次大戦後に「労働組合の権利確立」となって雨後の竹の子のように広がっていく。
【参考文献】
横山源之助『日本の下層社会』(岩波文庫)
横山源之助、立花雄一編『下層社会探訪集』(現代教養文庫)
大河内一男、松尾洋『日本労働組合物語・明治』(筑摩書房)
神山圭介『浅草の百年―神谷バーと浅草の人々』踏青社、1989
中山千夏『タアキイ水の江瀧子伝‐』新潮社、1993
南 喜一『ガマの闘争』蒼洋社
前田豊『玉の井という街があった』ちくま文庫、2015
日比恆明『玉の井-色街の社会と暮らし』自由国民社、2010
朝日新聞社『100年の記事にみる③ 東京百歳』朝日新聞社、1998
おばた・よしたけ
1945年生まれ。東京教育大学卒。69年江戸川地区労オルグ、84年江戸川ユニオン結成、同書記長。90年コミュニティユニオン全国ネットワーク初代事務局長。92年自治労本部オルグ公共サービス民間労組協議会事務局長。現在、現代の労働研究会代表。現代の理論編集委員。著書に「コミュニティユニオン宣言」(共著、第一書林)、「社会運動ユニオニズム」(共著、緑風出版)、「公契約条例入門」(旬報社)、「アメリカの労働社会を読む事典」(共著、明石書店)
コラム
- 沖縄発/コロナ禍 追悼のあり方に影響沖縄タイムス学芸部/内間 健
- 深層/朝鮮戦争勃発70年―秘められた日本「参戦」の事実が明らかにジャーナリスト/西村 秀樹
- 百葉箱/小日向白朗の謎(第3回)ジャーナリスト/池田 知隆
- 温故知新/日本の盛り場―浅草の争議を巡って現代の労働研究会代表/小畑 精武
- 若者と希望/どんなに小さな言葉でも歴史知研究会会員/川島 祐一
- 若者と希望/息苦しい今の世をぶちぬきたい舞台役者・肢体不自由児支援事業職員/笠井 幽夏子