論壇
参加民主主義と討議民主主義を提唱
追想 ― 篠原一と「市民の政治学」
成蹊大学名誉教授 富田 武
はじめに
篠原一先生は2015年10月31日に亡くなられた。1925年8月生まれだから90歳になられたところだった。普通なら「天寿を全うした」ということになるが、学生、助手のころ二度も結核に罹り、1973年にはがんに倒れているので、「病と闘ってきた(付き合ってきた)人生」である。こうしたハンディキャップにもかかわらず、先生はドイツ・ヨーロッパ政治史で多くの学問的業績を残し、「歴史政治学」という新分野を切り拓かれた。しかも、1960年代末から地元練馬区の市民運動、市民運動の一つの形としての市民大学(世田谷、川崎)をリードし、市民運動と学問研究をつなぐ「市民の政治学」をうち立てられた。
12月7日にアルカディア市ヶ谷(私学会館)で開かれた「篠原先生 お別れの会」には200人を超える関係者が集まり、先生を偲んだ。直弟子、孫弟子、私のような外弟子といった研究者、東京大学と成蹊大学、世田谷市民大学とかわさき市民アカデミーの教え子、練馬ほか市民運動関係者(先生を師と仰ぐ菅直人元首相ら)、先生のがん治療薬「丸山ワクチン」の関係者などであった。この席で先生の学問研究と市民運動がこもごも語られ、私も成蹊大学における先生(1986−94年)につき一言述べた。ただ、篠原先生が1960年代に社会党にコミットし、70年代に連合政権論を唱えられた点は誰も言及しなかった。この点に留意しながら、先生の足跡を社会運動と学問研究の連関に即して辿りたい(以下、敬称・敬語を外す)。
1950-60年代の篠原と社会党改革
まず篠原が1925年生まれだったことにつき一言。この年の生まれは「わりを食った」大正世代の中でも、最も「損をした」年代である。兵役にとられ、学徒兵として出征し、亡くなったり、シベリアに抑留されたりした。同年生まれで後に東大の同僚となる寺沢一(国際法)、藤田勇(社会主義法)はシベリアに抑留され、篠原と一高から同級の増島宏(法政大学教授、社会学)も「シベリア組」だった。篠原も兵役にとられたが、外地に出ないうちに敗戦になり、結核を発症した。
もう一つ、この年代は多数が戦後草創期の学生運動にコミットしたが、篠原は結核のため参加せず、日本共産党分裂のころ1950年3月に卒業し、4月に助手になっている。当時は若手「進歩的知識人」の旗手、助教授の丸山眞男が結核で臥していたときに共産党の所感、国際両派からのビラが届けられたが(丸山文庫で確認)、篠原はまだオルグの対象とは見られなかったのであろう。
篠原は助手時代の大半をベッドで過ごし、書見器でドイツ語の資料を読んで助手論文を執筆した(1954年)。それは2年後に『ドイツ革命史序説―革命におけるエリートと大衆』(岩波書店)として公刊された。なぜテーマがドイツ革命かは、同著「あとがき」に「ワイマール共和国の解体の歴史をしると同時に、併せて現代デモクラシーの力学(ダイナミクス)の全貌をも把握せんがため」とあるだけで、眼前の社会運動との関連には言及していない。
しかし、ナチズムによるワイマール民主主義の破壊は僅か二十数年前の出来事であり、南原繁や丸山の主宰する「平和問題懇談会」メンバーとなり、日本の平和と民主主義に対する強い関心を維持した研究者としては言わずもがなのことだったのであろう(60年安保闘争にも大学教員として参加している)。ちなみに、4歳若いが、1956年に大衆社会論で論壇にデヴューした松下圭一は、『現代の理論』に戦後天皇制論を書いており(1959年8月号)、共産党反主流派(構造改革派)へのコミットが明らかだった。
篠原は、安保闘争後の1961年1月23日の『日本女子大学生新聞』に「時評」として「社会党の新しい道 構造改革論をめぐって」を書いている。構造改革論は、イタリア共産党に由来するもので、資本主義が高度に発達した先進諸国では、ロシア革命のような暴力革命ではなく、議会多数派の力で独占資本を制限しながら社会主義に平和的に移行できるとする革命路線であった。この革命路線は日本共産党の中で一定の勢力を持ったばかりではなく、日本社会党にも強い影響を与え、3月の第20回大会では江田三郎書記長のもとで党の公式路線となった。この「時評」はその直前に書かれ、大会結果を予見するものとなった。ただ、篠原は構造改革論を「現代の資本主義社会を全体としてねじ曲げていこうとするもの」と、分かりやすいが卑俗に表現している。
資本主義論につき「現在の理論的提唱者には若干欠けたものがある」という見立ては、江田ブレーンの加藤宣幸、貴島正道、森永栄悦だけしか念頭になく、佐藤昇を媒介として連携していた共産党構造改革派、とくに国家独占資本主義分析を深めていた井汲卓一や今井則義の議論は十分知らなかったものと思われる。他面、構造改革論が地方自治体改革、労働計画などの具体的政策を欠いていて、「やや総花的で、とりとめがないところがある」という指摘は当っている。総じて、篠原は江田の立場に好意的で、社会党を改革できるチャンスだと見たのである。
篠原は『現代の政治力学―比較現代史的考察』(みすず書房、1962年4月)で、①「革新政党のリーダーシップ」、②「現代における革新的諸路線」を論じている。①は、安保闘争直後に書かれた「革新政治家の類型」を、1962年1月の社会党第21回大会の傍聴記で補足したもので、大会を傍聴するほど篠原は構造改革論をめぐる論争に関心があった。②は、20世紀の社会主義政党の歴史を概観しながら、構造改革論が社会民主主義ではなく、共産主義の潮流から反ファシズム人民戦線の経験を経てイタリア共産党によって生み出されたことを指摘している。
それは当時の常識だが、日本社会党の構造改革論は、安保闘争後の池田内閣の「所得倍増」政策への対抗であり、党内に「労働プラン」(ベルギー労働党の混合経済論に立つ社会改良路線)支持者がいることに鑑みると、「構造改革と労働プランの中間」だと位置づけた点に篠原の分析の特徴がある。この論文ではまた、グラムシ(イタリア共産党創立者)がロシアと西欧では「国家―市民社会」関係が異なり、西欧では機動戦ではなく、陣地戦によってしか社会主義に到達できず、この意味で統一戦線が重要だとしたことに正当にも注意を払っている。
構造改革論は結局、1962年11月の社会党第22回党大会で否定され(これに先立つ8月の共産党第8回大会でも構造改革派は排除され)、篠原の期待は実現されなかった。この党の労農派マルクス主義の伝統、反独占改革政策よりは反独占抵抗運動(三井三池闘争)を重視する体質が「江田ビジョン」を改良主義として退けてしまった。「江田ビジョン」とは62年7月に提唱された目ざすべき社会主義像のことで、「米国の高い生活水準」「ソ連の徹底した社会保障」「英国の議会制民主主義」そして「日本の平和憲法」である。それはたしかに、構造改革論より著しく社会改良的ではあったが、当時の誰もが、篠原も含めて発想しなかった連合政権の政策理念としては十分に成り立ち得たものである。
70-80年代の連合政治論と「生活政治」論
篠原はその後、社会党改革に対する期待が薄れ、しだいに地域の市民運動に関心を移していったように思われる。それでも1970年代半ばを過ぎて自民党の長期低落傾向が明らかになり、保革伯仲に近い状況が生まれると、政治学者の中でいち早く連合政権論を提唱した。『連合時代の政治理論』(現代の理論社、1977年)は、時局に対する評論だけではなく、それを裏付ける西ヨーロッパ政治の研究成果も収めている。多党連立政権の方がむしろノーマルであり、「二大政党神話」から脱却すべきこと、多党連立政権の成立にはイデオロギー距離(サルトーリの政党システム論)の近さや「かなめ党」(フランス第三共和制の急進党やワイマール共和国の中央党など)の存在が重要であること、中小諸国では、たんなる政党の組み合わせを超えた宗教的・言語的・文化的な社会の亀裂を統合する「多極共存型民主主義」(レイプハルト)となっていることが示されている。
江田は、社会党の教条マルクス主義と労働組合依存を批判し、「市民社会主義」を掲げ、社共連合ではなく社公民路線を提唱し続けたものの、ついに内部改革を断念して1977年離党し、「社会市民連合」を立ち上げた。その江田を支援する旧共産党構造改革派の安東仁兵衛が主宰する『現代の理論』に、篠原は座談で登場し、上記著作も同社から刊行した。『現代の理論』1983年6月号には、篠原が「ライブリー・ポリティックスとは何か」を書き、「社会民主連合」(社市連改名)の菅直人が「『市民派』政治宣言」を寄せている。篠原は地域の市民運動に籠ってしまったのではなく、国政レベルの改革を断念していなかったのである。
ところで、篠原は60年安保闘争直後より「声なき声の会」をはじめとする政党・労組系列から独立した市民運動の登場に着目し、「無党派活動家と大衆運動」を書いた(『思想』1960年9月、前出『現代の政治力学』所収)。本人はのちに、市民という言葉が普及していなかったので、わざと「無党派活動家」というタイトルを使ったように記憶していると述懐している(『現代の理論』1987年12月号)。
その内容を「市民運動の原理」として押し出したのが1968年である(『現代の政治力学』岩波新書)。市民が成熟し、党派への対抗としての「無党派」ではなく、積極的・自律的な運動の主体となったことを意味し、具体例として「ベトナムに平和を 市民連合」(小田実代表、1965年結成)や各地の公害反対運動が挙げられた。市民運動はたんに政党を補完する運動以上の役割を果たし、「政党および議会制と不満層との間をむすぶもっともつよい紐帯」、間接民主主義が機能するためにも必要な直接民主主義の形態と位置づけている。
そして第三の例として、他ならぬ篠原が中心となった練馬区の区長公選運動(1967年スタート)が挙げられている。当時はまだ、左翼政党は住民運動という言葉を用い、区長公選運動は住民の具体的な利益と直接的なかかわりがないから住民運動ではないと否定的だったのに対し、市民による「地域民主主義」の運動の先駆けとなったのである。
篠原は、練馬の区長公選運動から行政の在り方にも関心を広げ、岩波講座『現代都市政策』(1972‐73年)にも加わった。先述の松下圭一と市民運動の理論化で協力するのもこの頃からである(松下は篠原より半年早く死去した)。この頃また、不幸にしてがんに冒され、数年間の闘病を余儀なくされたが、1977年には『現代都市政策叢書 市民参加』を著している。これは、上記講座で執筆した論文と書き下ろしからなる著作である。この書き下ろし「市民参加の歴史的位相」中の「歴史的展開」部分では、ダールの「ポリアーキー」論が参照されている。市民運動を「市民参加」と政治学的に位置づけ直し、政治史の大きな流れの中で捉え返したものである。
ダールの「ポリアーキー」論(冷戦下で政治的な言語と化した「民主主義」に代わる記述的概念)は、政治体制の類型論であり、かつ発展論である。「閉鎖的ヘゲモニー体制」(A)が「自由」度を増せば「競争的寡頭制」(B)に、「参加」度のみを増せば「包絡的ヘゲモニー体制」(C)に、双方を備えたときに「ポリアーキー」(D)になる。歴史的には、イギリスは17世紀の二つの革命を経てAからBに、1830年代から約1世紀の選挙法改正を経てDに移行し、ドイツは統一後「自由」度も「参加」度もある程度増し、ワイマール体制でDに達したかに見えたが、ナチ革命でCに後退し(自由の欠如と形式的参加=動員)、ナチ体制崩壊後ボン体制でDに到達したというわけである。
篠原の真骨頂は、1960年代末の先進諸国の学生運動に示される「参加民主主義」を「新ポリアーキー」と呼び、ダール理論を超える道を探ろうとした点にある。「ポリアーキー」が到達すべきゴールではなく、エリート民主主義に堕しやすいこと、資本主義の高度化に伴う「管理社会」化に対する批判が高次の「参加民主主義」を生み出すことを主張したのである。シュンペーター的競争民主主義に対して高く評価する「多極共存型民主主義」についても、多元的な社会を政治エリートの妥協、協調で統合する点では「参加」が抑制されがちだと指摘するのは、「市民参加」「分権と自治」の民主主義を追求する立場からである。やがて、この追求は「討議民主主義」論となって結実する。
篠原は市民運動、市民参加を別の視点からも政治学的に位置づける。先に触れた「ライブリー・ポリティクスとは何か」である(『現代の理論』論文は一部改稿、篠原編『ライブリー・ポリティクス―生活主体の新しい政治スタイルを求めて―』総合労働研究所、1985年に所収)。1960年代末のローマ・クラブ提言に触発されたエコロジー危機に対する認識、脱物質主義的な価値観を志向する「新しい社会運動」の登場によって、政治の変化が求められた。「ハイ・ポリティクス」(職業政治家の政治)や「インタレスト・ポリティクス」(利益配分をめぐる政治)から、「生活の質」を充実する(会社中心の、大量消費のライフ・スタイルを見直す)政治へ、である。
篠原の巧みな整理によれば「ライブリー・ポリティクス」は、第一に「生活」に関連した政治、第二に「生」に関連する政治、第三に「いきいき」した政治のスタイルである。第二のカテゴリーには、①薬害や老人医療、末期がん患者などの問題、②身体・精神障害者の人間らしい生き方、③戦争と平和の問題が含まれる。この時点ではフェミニズムや高齢化社会の進行は十分に自覚されてはいないが、篠原は運動の経験から「ウーマン・デモクラシー」「シルバー・デモクラシー」をいち早く提唱している。ついでながら、篠原は市民運動を政治学的に位置づける点においてばかりではなく、そのキャッチ・フレーズにも秀でている。主婦、高齢者を名付けた「全日制市民」然り、「ライブリー・ポリティクス」然りである。
到達点としての『市民の政治学』
1980年代に入ると篠原は、『ドイツ革命史序説』以来のヨーロッパ政治史研究を集大成し、事件史としての政治史を超える『ヨーロッパの政治 [歴史政治学試論]』(東京大学出版会、1986年)を著した。さらに80年代後半、篠原はソ連・東欧革命を観察し、とくにハーバーマスの「市民社会」論に刺激されて、自己の理論に磨きをかけ、『市民の政治学』(岩波新書、2004年)を著した。それは、第一章「近代社会はどう変わりつつあるか」から始まるように、実はかなり理論的な著作である。「近代」を資本主義、産業主義、近代国家、個人主義、科学主義のセットで捉え、さらに「第一の近代」から「第二の近代」への転換点にあって(ベック)、参加民主主義を捉え返そうというのである。そのさい、ベックの歴史社会学的知見に加えて重要なのがハーバーマスの「公共性」論であった。
従来の社会科学の「国家」と「社会/市民社会」の二分法ではなく、権力を媒介とする「政治社会」、貨幣を媒介とする「産業社会」に対して、コミュニケーションを媒介とする「生活世界」を対置し、「生活世界」から「政治社会」への働きかけとしての「協議デモクラシー」(deliberative democracy)を構想したものである。篠原は、タームとしては「政治社会」の補完物ではない自立性を強調するために、ハーバーマスの批判的継承者ドライゼクの「討議デモクラシー」(discursive democracy)を採用する。議会制民主主義と並ぶ、もう一つのデモクラシーの提唱である。
第五章は「討議デモクラシー」の制度的構想、すでに試験済みのものも含めて、その実現方法・手段を検討したものである。説明された制度としては「討議制意見調査」、「コンセンサス会議」、「計画細胞」、「市民陪審制」、「多段式対話手続き」等がある。これらの制度については、その後の篠原編『討議デモクラシーの挑戦 ミニ・パブリクスが拓く新しい政治』(岩波書店、2012年)が詳しく、そこには今日関心が高い「eデモクラシー」に関する論文も含まれている。
結局のところ篠原は、1960年代末のエコロジー危機や「新しい社会運動」に触発されて近代産業社会、近代政治システムを根本的に捉え返し、既存の政治システムの限界を見極めた上で「参加民主主義」を拡充し、「討議民主主義」を実現する他にデモクラシーの将来はないという認識に至った。前者が既存の政治システムへの「参加」であるのに対し、後者は自立した「生活世界」からの働きかけ、「もう一つの参加」であり、その制度化と理論化こそが篠原の最後の仕事だったのである。
かつて丸山眞男は「永久革命としての民主主義」を語り、筆者も大いに共鳴しながらも「不断の運動による刷新」程度の理解だったが、篠原は「参加民主主義」と「討議民主主義」の提唱によって、これに理論的・制度的な回答を与えたと言ってよい。
とみた・たけし
1945年生まれ。東京大学法学部卒。1988年成蹊大学法学部助教授、法学部長などを経て2014年名誉教授。シベリア抑留研究会代表世話人。本誌編集委員。著書に、『スターリニズムの統治構造』(岩波書店)、『戦間期の日ソ関係』(同)、『シベリア抑留者たちの戦後』(人文書院)など。
論壇
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